第九話:落日
・想いは一陣の矢となりて・
「では、惣寿郎(そうじゅろう)」
「ああ。気を付けてな、縁壱(よりいち)」
「はい」
笑顔で別れを告げた縁壱は、そのまま東国(とうごく)を後にした。
あれから三年。
本陣は、京(みやこ)から東国の武蔵(むさし)へと移動していたのだ。
今は昔。
もう、雪之丞(ゆきのじょう)も、義政(よしまさ)も。神々廻(ししば)も梗岢(きょうか)もいない。
皆、兄・巌勝(みちかつ)こと、黒死牟(こくしぼう)に討ち取られてしまった。
季節は春。もうすぐ、桜の咲き誇る時節になろうとしていた。恐らく目的の地へ着く頃には、満開も過ぎているはずだ。
縁壱は、時に呼吸を使い距離を縮め、その季節に間に合うべく、西へと急いだ。
かつての本陣は、瓦礫の山だった。
黒死牟と遭遇する恐れがあるため、ここを片そうとする隊士は誰一人、いなかったのだ。深山にあるため夜盗が入り込んだ様子はなかったが、各屋敷の傷みは激しく、すでに倒壊しているものもあった。
あの頃。
春野宮(はるのみや)と仲良く隣り合わせに屋敷を構えたのは、惣寿郎の気遣いだった。
里へ来たばかりの彼は、十三歳。
「『山城(やましろ)の弓張月(ゆみはりづき)』だろう? 恐らく一年も待たずに御館様を支える一人になり得ると思うが」
愛宕(あたご)の城の隠れ庵(あん)で、酒を酌み交わしながら、惣寿郎が言った。
「ですが、年端もいかぬ少年がいきなり重鎮では、古参もよくは思わないでしょう。おまけに弓です。彼にかかる重圧は、相当なものだと思われますが…」
「それは建前だな。実際どうなんだ。いや…お前はどう思う。縁壱」
「それは…申し分なく。一年と言わず、半年もかからないでしょうね」
「ほら見ろ」
快活に笑った惣寿郎に、何とも言えない表情を返したものだ。
結局、「影になり日向になり面倒を見てやれ」と、里へ戻ったすぐの頃は、半ば強引に押しつけられた。だが、予想通り、少年は、三月もすれば同じ位置に立った。そこまで昇ってきた。
そうして、彼は、自分の屋敷の隣に居を構えることを、御館様や惣寿郎から許された。
「はる…」
屋敷が傷むのも同じ頃合いである様子に、縁壱は、思わず名を呼んだ。
『最初は惣寿郎が、勝手に押しつけてきた面倒でしたが』
すぐに、貴方は。
踵を返し、一旦本陣へと向かう。
少年の墓標は、雪之丞と並んで建っていた。あの運命の日、梗岢が義政を説得し、市松(いちまつ)達と水麾下(きか)と、皆で埋めて建てたと後から…日ノ卯(ひのう)から、聞いた。
日が昇って後、本陣に集った柱達の中に、春野宮と雪之丞の姿がなかったことを、討死したからだとは想像だにしなかった。きっと、聞いても受け止められなかっただろうと思う。何しろ、兄が、鬼になったと聞かされた直後だ。
そうして、己は、追放処分になった。そのまま、里をすぐに離れなければならなかった。
春野宮の姿を確認もできないまま、兄を想う失意の中、惣寿郎とだけ、言葉を交わした。
「…」
縁壱は、二つの墓標に手を合わせた。
熱心に祈り、瞼を押し上げて、真っ二つに折れた弓を見る。もう弦(つる)は、殆ど土に還っていた。弓だけが、彼の面影を残すようだった。強い意志が、そこに遺るようだった。
そっと立ち上がり、里は西側の、山奥へと足を運ぶ。
歩き進める程に、桜並木が目に映るようになってきた。
風が吹く度桜が舞って、まるで吹雪くようだ。
「はる…」
桜の木々の合間を縫って、更に奥へと歩を進める。次第に香りが濃くなって、鼻腔を擽った。
ここまで来ると、獣の気配はない。小鳥たちの囀りが、聞こえるだけだ。
どこまでも続く空のように、広がる桜花の波を、視界に留める。
見上げた蒼穹を、白桃色の桜が縁取るように視界を塞ぐ。風で揺れると枝が時折見え隠れして、まるで踊るかのようだ。
見上げるままに、行き慣れた道を歩いた。戦(そよ)ぐ桜と通り過ぎていく香りに、春野宮の姿が少しずつ、色鮮やかに思い出されていく。
己と同じように、頭頂で髪を一つに束ねた少年。
彼のそれは、絹のように真っ直ぐでさらりと靡(なび)いていた。端整な顔立ちに決意の籠もった鋭い瞳。屈託なく笑うと少年の顔に戻る差が、たまらなく好きだった。
やがて、広い場所に出た。
よく春野宮が、桜を見上げていた場所だ。想いが添い遂げられるかと一瞬でも思ったのは、あの、最期の春だった。
『師匠!』
「!」
明るい彼の声が聞こえた気がして、縁壱は思わず駆けた。
空き地の中央まで進んだところで、
「はる!!」
身を折って叫んだ。八方を見渡した。
花霞が山びこを返すようだった。さらりさらりと桜が舞って、香りを散らす。
いる訳はない。
「はる…!」
胸元で拳を握って、身が捩れた。肩が震えたが、涙は堪えた。
「貴方は…気付かなかったのでしょうね…」
呟き、呼吸を整えて、面を上げた。潤む瞳に浮かんだ笑顔はなんとも言えないものになった。
そっと、桜に呼び掛けた。
「いつの間にか、私が貴方を…追いかけていたこと。はる…」
『そんな訳』
と、春野宮の声が間近に聞こえた。
『ある訳ないじゃん! また師匠はさ、そうやっておだてて、巧いこと僕を釣るんでしょ!』
「! はる…!」
隣にいる彼に、瞠目した。
少年は出逢った時の姿に戻っていた。大人びた、別れた最期の時のそれではない。
弓を袈裟に担ぎ、両手を後ろ手に組んでにっこりと笑ってこちらを見向く。片足の踵がとん。と大地を突いて、
「へへ。師匠! お疲れ様!」
首を傾けた。
「はる…」
ふふ。と、縁壱の顔が綻んだ。拍子に、目尻から一粒、こぼれ落ちた。
あの色鮮やかな日々が、脳裏を駆け巡っていく。
いつでも彼は、ここ(心)にあった。
「違いますよ、」
縁壱の表情が悪戯っぽくなった。
春野宮がしげしげとこちらを見上げて来、それがまたおかしくて笑うと、
「師匠!」
飛びついてきた。
笑い、抱き留めると、春野宮も笑う。
「貴方は…いつの間にか」
強く、腕に力を込めた。彼の頭頂に顔を埋め、涙を懸命に堪える。
この温もりを、手放したくなかった。
言葉を紡げば、彼が消えてしまうことが、分かっていた。
それでも、伝えねばならなかった。
「貴方はいつの間にか、並び、そうして…追い越していったんです。私を」
そうして身を離し、互いに見つめ合うと、春野宮の表情も真顔になった。
両肩を掴み、微かに首を傾ける。彼を前にすると、いつでも穏やかな心持ちになれた。
「貴方は、とても眩しかった。鬼狩りとしての誇りを、誰よりも強く、胸に抱いていた。私には…その真っ直ぐな瞳が、とても…」
愛しくて。
最後の言葉は飲み込んだ。彼の矢は、折れない。たとえ、この手であったとしても。
「師匠…!」
春野宮が嬉しそうに、にっこりと笑った。
この笑顔も、常に変わらなかった穢れの無いものだ。
途端、双眸から涙が溢れた。喉が一度鳴って、噎せ込みながら嗚咽だけは堪える。
「はる…ありがとう、ありがとう…ございました…! 貴方の苦しみ、理解できずに…! すみません…!」
「師匠……」
「今なら分かります。貴方が何故、生き急いでいたのか。何を懸命に、心に宿していたのか」
『貴方は知っていたのでは? 兄上が、鬼になること――――』
水埜宮(みずのみや)から聞いた、『空の力』。
「貴方はきっと…! 未来を…! 知っていて。分かっていて、それでも、なお…!」
そうしてもう一度、彼を強く抱き締めた。
『だから、私には何も告げずに。いえ…柱達にすら。貴方は兄上の名誉をも、最期の最後まで…守り抜いてくれた…!』
「はる」
耳元に、囁くように名を呼んだ。
春野宮の腕が応えるように、背中に回る。その温もりに激しく息をも乱しながら、想いを告げた。
「どうか未来を。信じていてください。きっと、きっと――――」
「もちろん! ……師匠!」
一層春野宮の腕が我が身を強く包み返して、同じように力を込めた時。
「!」
春野宮の姿が、腕の中で、桜となって散った。
縁壱は、瞼を押し上げた。
幾万もの花びらになり、空へと駆け昇っていく彼を、ただただ、見上げた。
「はる…!!」
桜の葬送に呟く。
「愛していました。貴方が、大好きでしたよ…。私を導く、気高く誇り高き、一陣の矢。山城の弓張月…」
『見ていて下さい』
無惨を討てなかったこと。
兄を鬼にしてしまったこと。
その責任の一端が己にあることを、今はもう、理解している。
「はる…」
受け止めねばならない。乗り越えねばならない。
道は、一つだ。
『今度こそ…!』
縁壱は、ゆっくりと踵を返した。
花霞に紛れ、里を抜けていく。
そして。
六十年後。
縁壱は。悲願であった、兄との再会を果たした。
「参る!」
――――縁壱の刃は、迷わなかった。
見事。
兄の頚をその手で。討ち取った。
山城の弓張月・完