第八話:運命の子
・肆・
暗い地下道を、燐寧丸(りんねいまる)の歩幅に合わせて進む。なるべく先を急ぎたかったが、手元の炎も少ない。幼子には足元が危ういことを思うと、走るという訳にも行かなかった。
突如、頭上で轟音が鳴り響いた。弓と幼子を握る手それぞれに、力が籠もる。
崩れた土砂が雨粒のように降ってくる。思わず春野宮は地下道を見上げて立ち止まった。
何が見える訳でもない。だが、音から何が起こったのかは想像が付いた。
「雪…!」
『本陣が崩れたんだ。あの夢を、雪が再現してる』
後に続いた燐寧丸達の歩みも、自然と止まった。地下道は恐らく、半分ほどは進んできたはずだ。
「春野宮(はるのみや)様?」
誰かが話しかけてきたが、春野宮は顎に手を当て俯いたままだった。目まぐるしく脳内を回転させていた。
『未来が、変わったんだ…僕だけの、未来が』
春野宮はきつく瞼を伏せた。自然と眉根が寄り、険しい顔になる。
『このまま燐寧丸様を外に連れ出して、安全なところまで連れて行ったとしたら。僕は…生き延びるのだろう』
だが、それでどうなる? その先は?
咄嗟に思った。
雪之丞(ゆきのじょう)のいない世界。
きっと、奮戦している惣寿郎(そうじゅろう)や神々廻(ししば)、義政(よしまさ)達だって無事では済まないはずだ。縁壱(よりいち)だって、今、死闘を繰り広げているはずだ。あの、無惨(むざん)を相手に。たった、独りで。
ふと、
「お~! 来たか、はる」
「惣寿郎!」
皆との出逢いの日を思い出した。
思わず炎柱の名を呼び捨ててしまって、中の面々の表情がどっと崩れたのを、まるで昨日のことのように覚えている。
『今なら分かるよ…。最初に口を開いたのは、夢柱(ゆめばしら)の美濃部(みのべ)さんだった』
「若いっていいなあ! 怖いもの知らずだよ」
それから、雪之丞。
「煉獄(れんごく)さんを呼び捨てるのって、彼だけじゃない?」
「山城(やましろ)の弓張月(ゆみはりづき)だろ?」
そう言ったのは神々廻だ。
「噂に違わぬ豪胆さだな」
雰囲気から、歓迎されていることが伝わってきた。
それから翁(おきな)、義政と出会い、
「俺は、風使いの義政だ。貴船(きふね)義政。宜しくな! はる」
にっこりと、爽やかな笑顔を貰った。
そうして知った。
それぞれの道をその足で、その手で切り開き、現在(今)を紡いできた、柱達。鬼を憎む気持ちは皆同じだと、居場所を与えてくれた。それからずっと、共に時代を駆け抜けてきた。
かけがえのない、仲間だ。
何度も、心を通わせた。
花火を見ても。
痣(あざ)が発現しても。
どんなに苦しくとも、彼らがいたから、この道を突き進んでこられた。決まった未来に臆することなく、結末に怯むことなく、弓を構えてこられたのだ。
『独り生き残っても、意味はない』
春野宮の身体が、元来た道の方を向いた。
『僕の居場所は、あそこだ。柱の皆がいる、あの、本陣だ。あそこが今の、僕の、家なんだ』
覚悟はしていた。
あの夢がいつ、襲ってきてもいいように。
鍛練を積んできた。
市松(いちまつ)達にも伝えてきた。
思いも技も、全て。
「春野宮様!」
弓を構えた姿に、誰かが叫んだ。
春野宮は我に返り、身を捩り彼らの方を見る。
「どちらにしろ」
剛弓(ごうきゅう)を強く握りしめた。
「巌勝(みちかつ)を何とかしないと、抜けた先を彼は知ってる」
「!」
炎柱麾下(きか)の者達と言えども、巌勝の名を聞くと軒並み青ざめていった。
柱にとっても脅威である『継国(つぎくに)巌勝』という一人の侍は、隊士達には鬼神そのものだ。とてもじゃないが、太刀打ちできないことは承知している。
「だから、皆はここで待機して」
そうしてまた、前――元来た道を、見た。
「僕は、里に戻る」
「春野宮様…!」
悲鳴のような声が上がった。複雑なそれだった。
正直、癪に障った。昇(のぼり)麾下なら怯みはしない。そう思ってしまった。だが、ここでそんな態度を詰っても仕方がない。こんな事態は、誰も予測し得なかっただろう。
まさか、柱に、裏切り者が出るなんて。
春野宮は努めて優しく諭した。
「いいかい、鬼達が動けるのはどのみちこの夜だけなんだ。ここは日が当たらないけど、鬼達は知らない。向け道を知るのは巌勝だけ…柱だけなんだ」
「!」
「だから、僕は、巌勝を止めに行く」
漸く、状況を飲み込んでもらえたようだった。
『決して、犠牲になりに行く訳じゃない。僕は、まだ、諦めていない…!』
「朝になったら里で合流。僕が絶対、巌勝をここへは来させない。それでももし、他の鬼が来るようなことがあっても、臆するな。ここの通路は狭いんだ。焦らず、一体ずつ確実に倒して、燐寧丸様を護るんだよ!」
「…はい…!」
事態を把握して、隊士達が何度も頷く。その様はまだ、自分に言い聞かせるように首を縦に振るだけだったが、幼い燐寧丸を見ては意を決したのだろう。徐々に、顔付きが変わっていった。
『…良かった』
「よし! 行ってくるから!」
春野宮は弓を強く握りしめ、駆け出した。
声援をどこか遠くに耳にしつつ、駆けながら、残してきた友を思う。
戦う仲間達を思う。
『巌勝…!』
鬼に身を売り渡した、大切な人の愛する人を想う。
「っ…」
地上に出たとき、想像していたとおり、本陣は倒壊していた。
瓦礫を押しのけながら広い場所に出ると、風が髪を攫い肌を撫でていった。血の臭いが後を辿った。
「雪…!」
気配を探り、それほど遠くはない場所に二人がいることを知る。
星灯りに目が慣れるまで、全神経を研ぎ澄ました。飛翔し戦場に天から身を躍らせて、眼下を見遣る。
巌勝が、座り込んだ雪之丞にゆっくりと歩み寄るのが見えた。
『生きてる…! 雪! 生きてる…!』
光が見えた気がした。
まだ、間に合う。
そう思った。
即座に矢筒から矢を引き抜き、肺に沢山の空気を送り込む。凜とした空気が火照った身体には心地よく、かつてないほど酸素を取り込んだ。
鏃(やじり)に向かって空色の帯が幾重にもなる。濃淡はまるで紙風船のように、麗しい弧を描いた。
「空(そら)の呼吸 参ノ型 飛天(ひてん)影縫(かげぬ)い!」
放つ。
目では追えない速さだ。
巌勝が気付き天を仰いだときには、鏃は黒い影を捕らえ、集めた大気をそこに浸透させていた。
黒い影が一度、空色に変化し見る間に澄んだ水たまりのようになる。それは夜空を映し、星々を投影して、また、ただの影に戻った。技が完璧に入った証拠だ。
「くっ…!」
巌勝が歯軋りしながら一度影を見、そうしてまた、こちらを見向く。
着地するほど距離が縮まる間に、見た。
『鬼の、形相…!』
その顔にはっきりと、新たな目が産まれ、こちらを凝視している。痣は浮き出たまま、怒りをそのまま顔に顕しているようだ。
声にならない。
『だけど、それでも! 鬼になってまだすぐなんだ、今なら。今ならまだ…!』
罪を重ねさせてはいけない。
ここから先、彼を、鬼として生かしてはならない。
『師匠のためにも…!』
微動だにできないところを、
「雪!」
義政が駆けつけ、巌勝の傍から奪っていった。
『役者が揃った…!』
どくんと心臓が大きく波打つ。
『動揺するな! 分かっていたことじゃないか!』
「巌勝…!」
「はる…!」
あの、甘く優しい声のままだ。深い闇に堕ちても、仲間は認識していることがその一言で分かる。どっと、胸の奥に込み上げるものがあった。目尻にそれが形となって現れるが、頭を振って千切り飛ばす。
「空の呼吸」
「月の呼吸」
互いに技を紡ぎ合う。
空色の覇気と闇色の覇気が、空中で激突した。
粉塵を旋毛(つむじ)のように巻き上げて、夜空へと技が飛散する。
巌勝が飛んで距離を詰めようとしたときだった。春野宮は既に次の矢を構えている。
「巌勝!」
義政が、自分たちの間に割って入ったからだ。
「くっ! 義政…!」
飛び上がるために切っ先が一旦下がった僅かな間を、義政は見逃さなかった。容赦なく上段から振り下ろし、構えられる前に刃を弾く。
瞠目した巌勝に、返す一撃で義政が腹を狙ったのが分かった。だがそれで、やられる宵柱(よいばしら)ではないと思う。
「空の呼吸 弐ノ型! 円天(えんてん)氷鎚(ひょうつい)!」
鏃に大気中の水分を集める。
見る間に氷柱(ひょうちゅう)が鏃から大気の水分を伝って軒に連なるように顕れた。一斉に放つ。
「貴様ら…!」
巌勝の怒号が痣を燃え上がらせた。
義政の切っ先を羽織一枚の犠牲で済ませた彼は、一旦後方へ下がる。更に距離を取らねば氷柱は身体を貫く中にあって、義政が間断なく技を放った。
「風の呼吸 壱ノ型 塵旋風(じんせんぷう)・削(そ)ぎ!」
風の渦が大地を抉りながら突進する。真後ろに避けるだけでは追いつかれる。
「見事な…!」
連携に舌を巻いた巌勝が、義政の技は大きく迂回する形で避けた。だが、その間に氷柱が眼前まで降って来、
「月の呼吸 伍ノ型 月魄(げっぱく)災渦(さいか)…!」
天に向かって振り無しで斬撃を繰り出した。氷柱があっという間に、砕け散る。
だが、またも間を詰めたのは義政だ。
春野宮は、瞬間遅れて着地する。斬撃を交わし合う二人の後ろ、自分との間に、負傷した雪之丞が刀を咥えて立ち上がる姿を見る。
「雪!」
矢を構えてその姿を視認したとき、彼の名を呼んだ。
彼が気付いて、頷く。左右どちらかへ避ければ春野宮の矢は真っ直ぐに、義政、巌勝の元へ届くのだ。
察した雪之丞が、まだ戦おうと意思表示する姿に、胸が熱くなった。同時に、巌勝への怒りも込み上げてくる。
春野宮は、叫んだ。
「師匠が泣くよ!? 巌勝!」
何気ない一言だった。
ただ、縁壱のことを、もう一度、思い出して欲しかっただけだ。
彼ら二人が今までどれだけ、肩を寄せ合ってきたのか…視線を交わしてきたのか、春野宮は知っていた。
『あの、凧揚げの日。あの日の二人が、あの形が、全てなんだ…巌勝…!』
思い出して欲しかった。
二人きりの、兄弟であることを。
「ぬおぉおおぉぉ…!」
だが、巌勝は逆上した。
「空の呼吸 壱ノ型 夜半(やは)の嵐・観世縒(かんぜよ)り!」
一陣の矢を放つ。全てを込めた。
真っ直ぐ、巌勝に向かって飛んでいく。
義政が気付き、つい、と、軌道を空ける。その様に驚いたような巌勝の表情を見た。
そのまま彼の心の臓へ…刺さるかと思われた矢は、
「はる…!」
そのまま遙か後方へと放たれたままだった。
巌勝が、すんでで飛んで避けたのだ。
『避けた!?』
それまで一度も、彼が、己の技を避けたことはなかった。いつでも受け止め、技で返し、互いに互いを讃えたものだ。
『義政がいるからだ…! 確実に、僕を、仕留める……為に』
その身はとても美しい、まるで夜空の三日月のような、弧を描いていた。そうして、
「!」
眼前に迫ってくる。
「巌勝…!」
「はる…!」
『ああ。そうか…』
春野宮は、防げるはずもない弓矢を刀のように構え、巌勝の斬撃を食らった。刀であれば、きっと、防げたであろう一撃だった。
巌勝の刃は弦(つる)を切り、弓を折り、我が身を裂いた。
「が、は…!」
激痛は一瞬のことだ。臓物がまろびでるまま頽れるまま、巌勝に抱き留められた。
「っ……」
巌勝の吐息が耳に聞こえた。
それが、後悔の念の混じっていたものだと感じたのは、己の勘違いか、否か。
「はるーーーーーー!!」
義政の叫びが虚空に響き、何とも言えず笑った。
未来は何一つ、変わってなどいなかったのだ。
『僕はこの結末に、悔いはない。でも、でも…』
「二人の…」
「!」
巌勝の身が一度、震えた。
「二人の力に…なれなかったこと、を…とても…悔やむよ…」
「……」
「悔しいよ…」
「はる…っ…」
「大好きだった、んだ…みんな…。巌勝。もちろん、君…も…」
そのために、何一つ、変えられなかったのだとしても。
僕のただの、甘さだったのだとしても。
『さよなら。…みんな。…師匠………ごめんね…!』
そのまま、地へ倒れた。
夜空が目に映る。
星が滲み、闇が溶けていく。視界が黒く、暗くなる。
全てが闇に呑まれていく寸前、巌勝の六つの瞳から流れた一粒のもの。
『ああ………、うん…』
それで、十分だった。
もし、剣の腕前が上達する前に、巌勝を殺していたなら、未来は――――。
僕は、未来を変えられていたのだろうか……。
だけど、そんな未来に何の意味がある?
巌勝だって必死だったんだ。
人として、精一杯、生きていたんだ。
それを奪う権利が、誰にあるというのか。
可能性に賭けるのは、当然じゃないか――――。
『巌勝。
いつか君が、人として生まれ変わることを僕は信じる。
最期に見た涙が、真実であることを、僕は…信じるよ』
第八話:運命(さだめ)の子・完・
シークレットへ続く。