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​第八話:運命の子

・参・

 夕刻。

 久々の梅雨の晴れ間だ。春野宮(はるのみや)は、昇(のぼり)麾下(きか)と南の稽古場へ足を運んでいた。一人一人の構えの癖を見ながら手元を修正し、背中に手を当て芯を通す。

 基本は大事だ。

 繰り返し身体に叩き込むことで、覚えていくしかない。

 残念ながら昇麾下に、自分と同じ空の呼吸を使える者はいなかった。

『でも、十分だ…皆、それぞれ技を会得してる。誰に教わらなくても、自分たちで進んでいける』

 剣技なら、同じ呼吸であれば、柱達から技を直接習うこともできる。

 特に炎や水は、面倒見のいい柱達が率先的に手を添えてもくれる。

 だが弓は、そうはいかない。

 鬼狩りでは圧倒的に少数の武器だ。扱いだって、刀のように鞘から抜いて鞘へ戻せばいいという物でもない。猩々(しょうじょう)緋鉱石(ひこうせき)で作られた鏃(やじり)は数が限られている。矢は、戦闘が終われば拾わなければならないのだ。戦場を片すのと何ら変わらなかった。

 呼吸も、それぞれだ。

 市松(いちまつ)と藤吉(とうきち)は水で、一(はじめ)は風だ。

 三人とも、暇ができれば必ずと言っていいほど、雪之丞(ゆきのじょう)と義政(よしまさ)の所に足を運んでもいた。呼吸法の基礎をしっかり叩き込むためだ。そうして剣での技を見聞きして、それを弓に活かしている。

 頼もしいことだと思った。

『後を頼むね。皆。僕がいなくなっても…大丈夫だね』

 いつからだったろう、彼らが鍛錬に励む姿を見ては、そう、思うようになった。ここで独り、弓を撓(しな)らせていた頃とは大違いだ。今ではもう、剣士が弓士を馬鹿にすることもない。

「春野宮様!」

 藤吉が駆け寄って来、新技の軌道を見て欲しいという。

 もちろん、と笑顔で頷いて、射場の一角へ足を向けたときだった。

「!」

 銅鑼(どら)の音が低く野太く、四方から轟いた。

「火急の銅鑼だ…!」

「それも、四方が鳴ってる!」

 これまでにない緊張が走った。

 里の銅鑼が鳴る理由は一つだ。

 里が、鬼に、襲われたとき――――。

『来た…! 巌勝(みちかつ)だ』

 春野宮は、本陣のある方へ鋭い視線を向けた。

「皆、行こう! 昇麾下は本陣周囲の櫓(やぐら)が担当だ。気を抜くな!」

「「「は!」」」

 一斉に走り出す。隣の稽古場からも、鹿威(ししおど)しから水が一気に吹き出るように、隊士達が飛び出してきた。それぞれの担当区域へ散っていく。

 方向がばらばらなため無秩序のようにも見えたが、そこは心配なかった。皆、冷静だった。

『どこから…入ってきたんだろう』

 あの夢では、巌勝を本陣へ入らせたら最期だ。

 なんとしてでもその前に彼を見つけ、止めなくてはならない。

 騒然となる里の中央を駆け抜けて、屋敷通りをそろそろ後にする頃、日ノ卯(ひのう)が飛来した。複数の鴉を従えているところを見ると、昇麾下の鴉たちが一斉に飛んできたのだろう。

「日ノ卯! 状況は!」

 春野宮が足を止めると、皆その場に留まり彼を囲んで円陣を組んだ。

『里の西の森奥に鬼の群れが出現。岩柱と岩柱麾下が交戦中!』

 聞いて、春野宮は得心した。

『神々廻(ししば)さんの事だ、万が一を考えて、四方の鐘の音を鳴らさせたんだ!』

「巌勝…巌勝は!?」

 春野宮の問いに、皆がはっとした。

 何故? という表情で見つめてくる。

 だが春野宮がそれに応えることはない、一刻の猶予もないのだ。

 日ノ卯が言った。

『はる! はるは本陣へ! 御館様の元へ! 宵柱(よいばしら)は依然行方不明だ!』

「え…!」

 どきりとした。

『ここで、別れか……』

 心臓が早鐘を打ったように鳴り響いた。血液が目まぐるしく体内を流れていく。呼吸が速くなるのを努めて押さえるが、四方の銅鑼に感化されて、まるで歯止めが利かなくなるようだ。

 体温が上昇し、自然と痣(あざ)が浮き出てしまった。

 皆が悲壮な表情になる。どれだけ大変な事態であるかが、春野宮の痣一つで証明されたようなものだった。

「分かった」

 だが、こんな時、笑顔になってしまうのが、春野宮だった。

 皆に見向き、一人一人の顔をしっかりと見た。瞳がかち合い、彼らも、何となく察しているように思える。だが、歯を食いしばって、全員が、感情を耐えた。

「僕は本陣へ行くことになった。後は…任せたよ」

「春野宮様…」

「楽しかった。皆と一緒に過ごせた日々、僕は忘れない。僕の想いは全部、君たちに託した。悔いはない」

「! 春野宮様…!」

「何事もないことを祈ろう。終わったら、皆の元へ戻る。日ノ卯から話を聞く限り、」

 言って、空を仰いだ。

 まだ、夕刻だ。

 そろそろ日が沈みかけているとは言え、鬼はまだ、森から出ては来られない。岩柱の判断は、流石だと思った。

「本陣はまだ十分安全だ。きっと四方の森で戦闘が始まってるんだろう。皆は、義政の…東の里の門へ急いでくれ。義政を援護するんだ」

「「「はい!」」」

「…皆」

 最期に、春野宮は深々と一礼した。

 驚いた皆の口元から、嗚咽が漏れ出た。

「ありがとう」

「春野宮様…!」

 そうして面を上げた春野宮の表情は、清々しかった。

 真っ直ぐ皆を見つめ、涙に濡れる皆の顔を受け止めた。

「その技だけじゃない。生き延びたら。一人でも多くこの戦いを生きて明日を迎えられたら。その時は、きっと、未来へ――想いを繋いでいって欲しい」

「っ…!」

「人は、人として生き、人として死ぬことを矜持としている。たとえ僕たちが悲願を達成することができなくても、その想いさえ繋いでいけば、必ず、誰かが後に続く。どんなに苦しくても。辛くても。それを、忘れないで欲しい」

「「「はい!」」」

「さ…。行って! 頼んだよ!」

 春野宮の笑顔に、皆が東へと散った。

 市松、藤吉、一の三人だけがまだ残り、一歩、二歩、近付いてくる。

「…」

 春野宮は諸手を広げて、彼らを迎えた。

 激しい慟哭と共に駆け寄った三人を強く抱き締めて、もう一度、

「ありがとう。…元気で」

 伝えた。

「春野宮様!」

「春野宮様、ありがとうございました!」

「ありがとうございました…!」

「…うん。うん!」

 三人に、別れを告げた。

 春野宮は日ノ卯と共に、本陣へ。飛ぶように駆け抜けていった。



「雪!」

「…はる!」

 本陣へ着くと、雪之丞(ゆきのじょう)が先に辿り着いていたようだった。

 炎麾下の数名がその場にもおり、

「煉獄(れんごく)さんから二人への指令を預かっています。産屋敷(うぶやしき)一族を連れて、地下道を通り、空里へと」

「里の四方で鬼は食い止めているのだろう? そこまでする必要があるのか。俺たちも加勢した方が確実なのでは?」

 雪之丞の問いに、一人が答えた。

「私たちには、なんとも…」

 顔を見合わせて言葉を濁した彼らの後ろから、惣寿郎(そうじゅろう)の鴉がやってきた。入れ替わりに、日ノ卯が飛び立ち惣寿郎の元へ行く。

『伝令! 伝令! 嵯峨野(さがの)に鬼舞辻(きぶつじ)無惨(むざん)が現れた! 日柱(ひばしら)が出陣! 残る柱は本陣を死守せよ!』

「!」

 春野宮は雪之丞と顔を見合わせた。

『師匠…!!』

 一筋の光が見えた気がした。

「師匠が向かったなら大丈夫だ! 雪、」

 言いかけたが、別の鴉が飛来する。

『伝令! 伝令! 東より宵柱が襲来! 本陣は急ぎ地下道へ! 空里へ!』

「襲来!? 襲来って…!」

 辺りが騒然となった。

 戸惑いと困惑が俄に広がって、判断が鈍る。

 春野宮は、雪之丞の腕を引いた。

「雪! 前言撤回、鬼は今夜で片を着ける気なんだよ、本陣を残したままでは危険だ! 御館様を連れて空里へ向かおう!」

「え…待って、だって巌勝が」

「襲来。鴉はそう言ったんだ、襲ってきてるんだよ!」

「!」

 春野宮の言葉に息を飲んだのは、雪之丞だけではなかった。だが、繰り返し伝令を告げる鴉は一歩も引かない。

 とにかく、と、春野宮は先に陣を上がった。

「御館様! 昌輝(まさてる)様!」

 彼らがいる奥の間へ呼びながら駆けていく様は、『あの日』を思い起こさせた。まるで再現したかのような状況に、一層苦い思いがする。

 だが、感傷に浸る間などない。雪之丞達も続々と後に続き、一緒に一族がいる控えの間に行き着くと、武器を手に取り「一歩も引かぬ」と意志を顕わにしている昌輝達を見た。

「御館様、お願いします! 煉獄さんの意志なんです」

 雪之丞が声高に言った。彼も柱だ、状況判断は付いたのだろう。兎にも角にも、と思ったようだった。惣寿郎の判断が、違えたことは今までに一度もないからだ。

 だが、昌輝とは口論になった。

 雪之丞が必死で説得する横で、春野宮は、外を見る。

『日没…!』

 鬼が、より活発になる時間に突入する。普段徒党を組む事のない鬼が纏まって里を襲ってくるのでは、どれだけの被害が出るか想像も付かない。

『柱が指揮を執っているとは言え、希望が失われたらおしまいだ。この夜。この一晩。それさえ乗り切ればいいのだから…!』

 思ったとき、またも鴉が飛来した。

 今度は日ノ卯だった。

『伝令! 雪之丞、春野宮、本陣には決して残るな! 産屋敷一族と共に逃げることを最優先! 空里への移動が最優先! 最優先!!』

「「!」」

『もう、間違いないんだね…巌勝』

 昌輝が漸く一歩引いた。

「ならばこうしよう。燐寧丸(りんねいまる)をお願いする。私は絶対に、此処を動かない。どちらにしろ、もう死期は近いんだ」

「御館様…!」

「父上…!」

「こんな身体でも、鬼を引きつける役には立てる。そうだろう?」

「分かりました」

 春野宮は片膝を付き、恭しく頭を垂れた。

「燐寧丸様、よろしいですね?」

「………はい…!」

「耀匡(かがまさ)様」

 できれば兄をも。そう願い、面を上げた。

 彼は雪解けの頃、元服を済ませたばかりだ。髷を結い、帯刀し、凜とした姿は立派な若武者姿である。

『これからだ。この二人は、これからなのに…!』

 思うが、

「お二人は、弟をお願いします。私は、父上の傍にいます」

「はる。雪。私からも、重ねて頼むよ」

 昌輝の二度目の言に、

「…分かりました」

 雪之丞も折れた。

 良かった、と思いつつ、燐寧丸の手を取り立ち上がった春野宮は、

「ぎゃあ! ああああぁ!」

 渡殿(わたどの)から、複数の隊士の悲鳴を聞いた。

 矢のような目線で春野宮がそちらを向いたとき、

「何故!? 宵柱様!」

「宵柱様! おやめ下さい!」

 絶望の声色に、斬首の音と悲鳴が混ざる。疑問を紡いだ口は悉(ことごと)く閉ざされていき、理解した燐寧丸の掌が、強くこちらの手を掴むのに春野宮は気付いた。

「雪!」

 春野宮は一歩背を向けた。

 小さい次期当主を残して、巌勝に相見(あいまみ)えることはできない。

 状況はあの夢に繋がりうると思えたが、流れは少しずつ、違っているように思えた。何がどう違うのか…、漠然とした思いだ。ところが答えは、意外なところに出た。

「はる! 燐寧丸様を早く!」

『!』

 雪之丞が楯になった。

『僕が、燐寧丸様の、手を繋いだからだ…!』

 即座に理解した。

「でも!」

 理解するのと同時に、否定した。ここで雪之丞を残したら、未来は――――。

 その須臾の間に、すぅ…と、引き戸の後ろから、黒い影が現れる。

 巌勝だ。

 禍々しい気配に、春野宮の背筋は凍った。

 心の奥底まで冷え切った、絶海。静かな覇気は一層闇色を増して、滾る地獄の炎を押さえつけている。理性の箍(たが)が外れたら、一気に怨嗟と嫉妬の炎が辺りを焼き尽くすと思えた。

『これまで感じたどの殺気より、怖い…!』

 死が身近にある。忍び寄る足音まで聞こえるようだった。

『まさか、ここまで…!』

 深いとは、思ってもみなかった。

 縁壱への、想い。

 妬み。

 自身への、蔑み。

 絶望。

 巌勝が手にした日輪刀は、未だ輝きを失ってはいない。ただ、滴る血は仲間のものだ。

 果てのない渇望が、この先ずっと、血を啜り続けるのだと思った。

 鬼の強さは、人を喰った数だ。

『巌勝…!』

「はる! 行け!」

「雪…!」

 雪之丞の視線が、巌勝のそれと重なるのを見た。二人の眼中には、もう、自分らは入ってはいない。

 雪之丞が言った。

「鬼を引き入れたのは、お前か! 巌勝…!」

「ほう…。成長したな、雪…」

 含み笑いを見せた巌勝は、鬼狩りの姿そのままだ。

 あの、六つ目の鬼ではない。

『どういうこと…!? ただ、寝返っただけ?』

 それに、とちらりと外を見遣る。今はもう日が暮れているが、襲来を告げる鴉は確かに、日没前にやって来ていた。

『かつての隊士は苦しみながら鬼になった。巌勝は…』

 だが、思考は中断された。雪之丞が悲痛な声で、言ったからだ。

「はる…! 頼む…!」

「あ、あ…うん!」

 春野宮は「行きましょう」燐寧丸に声を掛け、一歩を踏み出した。

 その背中に、抜刀する雪之丞の気配を感じる。その背には、まだ、守るべき二人の人間が残っていた。

 巌勝の視線を一度、こちらに感じる。

 春野宮は鋭く応戦したが、雪之丞が刀を返し音を出した。注意を引きつけるためだとすぐに分かる。

 春野宮は視線に込めた意味合いを押さえて、燐寧丸に見向いた。雪之丞の思いを裏切る訳にも行かない。

 燐寧丸を先に室外にやって、控えていた炎麾下に渡す。行け、と小さく呟いて、振り返った。

「必ず戻るから!」

 叫ぶ。

「雪…!」

「分かってる! 頼りにしてるよ、はる!」

「うん…!」

 それは、夢で見た会話そのものだった。

 ただ、立場は、逆になっていた。

第八話・参・: テキスト
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