第八話:運命の子
・弐・
里へ帰投する間、神々廻(ししば)は何も問わなかった。
『神々廻さんの事だ、巌勝(みちかつ)の気配に気付かなかった訳はない』
二人、無言で里への道を辿る。
宵闇に紛れて響く獣の声が、一層大きく聞こえるようだった。
山の端を辿り、奥へ奥へと歩を進める。獣が鳴いているのは辺りに人の気配がないからだ。安心して存在を主張できることが、何より、里の無事を現している。
深山の森を抜け、視界が開けた。
星灯りが瞬く盆地。今宵の巡回担当らと出入りのところですれ違い、
「ご無事で…!」
と、欣喜に震える声で出迎えを受けた。
一頻(ひとしき)り彼らの歓迎をその身に受けてから、春野宮達は本陣へと向かった。表情は、彼らの悦びを貰っても硬いままだった。
昌輝(まさてる)と謁見しては、萬福寺(まんぷくじ)でのことを詳(つまび)らかに報告する。
巌勝の話になったところで、昌輝が長い溜息を吐いた。
「そうか…」
ゆっくりと瞬きをして、
「では、二人にも…巌勝の行方は分からないんだね?」
「はい」
春野宮は、即座に平伏した。
ちらりと神々廻がこちらを見たのを感じたが、頭を下げたままでは表情は分からない。
すぐに、横に深々と彼も頭を下げたのを感じては、ほっとする自分がいた。
だが、まだ、昌輝から、納得の頷きは得られない。
開いた間も、頭を下げ続けた。鬼になったであろう事は、告げられなかった。
『今話したら、師匠に牙が向く。誰が一番傷つくかなんて、周りは考えたりしない』
それだけは、絶対に避けたかった。
『惣寿郎(そうじゅろう)だって、結局は、鬼殺隊全体のことを考えて動く。師匠個人より、今後の鬼殺隊の在り方を考えて処断を下すはずだ』
だが、と、一方で思った。
この里を、捨てさえすれば――――?
『惣寿郎は、そう考えるはずだ。巌勝が鬼になったなら、里が危険に晒される。師匠がどうこうより、まず、里を…』
そうしたら。
どうなる。
『師匠は責任を取らされる。巌勝とは二度と逢えぬまま…逢えたとしても、宵闇の戦闘でだけだ』
鬼と鬼狩り。
その関係でしか、もう二度と。
『もしかして。ここでの僕の判断が、未来を、変える――――?』
春野宮は息を飲んだ。
里のための未来を取るのか。…巌勝が、完全な鬼になってしまうとしても。
それとも。
巌勝のための未来を取るのか。…里が、あの夢の通りに、滅びることになったとしても。
「……」
冷や汗が吹き出た。
『ここで僕が巌勝のことを…夢見の話をすれば、里は、きっと、無事だ。僕も、きっと、…死なない』
だが、巌勝は?
縁壱(よりいち)は?
切腹、或いは良くて追放処分にされた後、兄の消息も何も分からぬまま、独り、夜を彷徨(さまよ)い歩くことになる――――。
鬼になった巌勝は、一層強さを増して、きっと誰も、手に負えなくなる――――。
『倒せるとしたなら、師匠だけだ』
それはきっと、間違いがない。そう思う。
『そうなる前に、殺さないといけないんだ。永(なが)い…罪の夜を永遠に、背負わせないために』
「分かった」
長い長い沈黙の後、昌輝が言葉を発した。
思考が中断され、春野宮は、神々廻と共に面を上げる。また、ほっとした。二度も感じた安堵に春野宮は気付き、思った。
『僕は、鬼狩りとしての判断を、今。ううん。さっきから。間違えてる…?』
あの双子を、思うばかりに。
『誰よりも。鬼狩りであることを誇りに思ってきた、この、僕が』
突如、水埜宮(みずのみや)の厳しい面が鮮明に思い出された。
「その胸に宿る誇りを見失わない限り、道は何処までも続くだろう」
『僕は…。僕は今…! 自分で自分の道をも、この手で断(た)った!?』
あの日。
水埜宮から言われたはずだ。
この手にあるモノを、見つめろと――――。
「今夜はゆっくりと休んで。任務は雪之丞(ゆきのじょう)と惣寿郎に任せるから、大丈夫だよ」
昌輝の柔らかな声が届いて、春野宮は咄嗟に、
「「は」」
神々廻と共に一層頭を低くして、声を揃えた。
当主が去るのを待って、面を上げる。
見つめてくる神々廻の視線に春野宮は応えることなく、その場を後にした。心臓が壊れるかと思うほどに、激しく波打った。ここから逃げ出したかった。
そうして、別のことを懸命に考えた。
『梗岢(きょうか)…! そうだ、彼に会えば、もしかしたら』
彼ならもっと、巌勝について何か分かるかも知れない。
誰でもいい、選び取った自分の道が「正しい」と、言って欲しかった。間違ってはいない、と――――。
本陣を後にし、門を出たところで、
「はる!」
縁壱の出迎えを受けた。
「…師匠」
予期していなかった再会に、心が大きく跳ねた。今、顔を合わせたくはなかった。
「はる、待って、どちらに…!」
背中に彼のまごついた声が届いた。心音が大きく聞こえる。また、速くなるようだった。
「…梗岢のとこ。無事を確かめようかなって」
「無事ですよ。彼ならちゃんと、里に戻ってきています」
言われても、見向けなかった。
気付いたのだ、はっきりと。
『僕は、師匠のために、里を犠牲にする方を選んだ。僕はこの手で、残った最後の誇りを手折ったんだ…!』
それは、絶対、縁壱は、望まないことだろうと思った。
「はる…! 待って! どうか、こちらを向いて下さい。何があったんですか」
駆け出そうとした腕を掴まれた。雨に濡れた弦(つる)が鈍い音を奏でて、一瞬、切れたかと思う。思わず手元を見ては安堵した拍子に、強く引かれて縁壱の方を向いた。
「…師匠」
見上げた瞳に、縁壱の真剣な眼差しが胸奥を貫いていく。
「はる。心配したんですよ」
「…ごめんなさい」
目を逸らした。
「市松(いちまつ)達も。帰りを待っていますよ。貴方が行くところは、まず、そちらでしょう」
「……ごめんなさい」
俯いてしまう。
「謝るばかりでは分かりません。何がありましたか? はる」
「………ごめんなさい…!」
痛切な声が、消え入りそうになった。
「はる」
強い語勢にびくんと跳ねて、春野宮は面を上げた。
弓を抱えて、空いた手で縁壱の頬に触れる。彼の戸惑いが大きく響き、
『いつからこんなに、僕は、この人のことを…』
自覚はあった。
愛おしく、大切な存在。今では、姉・昴(すばる)を想うより縁壱を想う。
「師匠…、分かった」
春野宮はにこりと微笑んだ。手を収め、仕方ないなあ、と呟く。
「だから、腕。離して。痛いよ」
「…あ……、すみません」
「何もないよ。ただ…巌勝。知ってるでしょ? 行方不明なの」
「…ええ」
「覚悟をするには、少し、辛くて」
「はる…」
春野宮は自由になった腕を態(わざ)と大袈裟に摩(さす)るようにして、また、微笑んで見せた。
「帰ろっか! 今日はゆっくり休んでいいって、御館様が仰って下さったんだ」
「それは…良かったです」
漸(ようや)く、縁壱の表情にも明るさが戻って、春野宮は軽く首を傾けた。隣に並んで、歩き出す。
縁壱が言った。
「梗岢は、昏睡状態なのです」
「…え?」
「彼から何か話を聞ければと、惣寿郎も帰投した彼にすぐに会いに行ったんですが」
「うん」
「帰投したのは、雷麾下(きか)が抱えてきたからで」
「え!!」
「大丈夫ですよ、怪我はありません」
縁壱が慌てて添えて言ったのに、小さく息を漏らす。
彼は続けた。
「彼らの話だと、兄上が…一人、その場に残ったと…梗岢を、無理矢理止めて…」
「そうだったんだ…そか。梗岢を、護って…!」
「ええ」
それきり、二人は、口を閉ざした。
屋敷通りに入り、少し明るさを増す。今日この日のことは里にも衝撃で、隊士達もそうそう寝付けないのだろう。そこかしこから暖かな、蜜柑色の光が漏れ出ていた。
『巌勝は、梗岢を、護ったのか…!』
鬼になった理由。
それが彼のためだったとしたなら。彼と引き替えに、仕方なく、鬼になったのだとしたなら。
それはそれで、梗岢にも負担ではあるだろう。
だが、春野宮は、心持ち、気が軽くなったような気がしていた。
「春野宮様!」
「春野宮様、ご無事で…!」
「春野宮様…!」
市松達三人ばかりでなく、屋敷では、昇(のぼり)麾下全員が寝ずに待ってくれていたようだ。震える声を聞きながら囲む姿に、
「大袈裟だなあ。言ったでしょ、大丈夫だって。なんてったって、神々廻さんが傍にいたんだからね!」
言うと、皆から心底無事を喜ぶ溜息と笑声が漏れ出た。再会を願った彼らの緊張が解けた様子に、春野宮も何とも言えない顔になる。
思わず、傍に控えてくれた縁壱を見上げては、二人、「良かった」というように、微笑みあった。
翌、昼前に、春野宮は鳴屋敷(なりやしき)へと足を運んだ。
「こんにちは! 昇柱、三条です」
開け放たれた門と玄関を跨いで声を掛ける。すぐさま、中から慌ただしく駆けてくる音が聞こえ、
『意識、取り戻したのかな』
少しほっとした。
だが、姿を現したのは、
「…はる!」
「義政(よしまさ)?」
「良かった…無事だとは鴉に聞いたけどさ。姿見られるとな、やっぱり違うよ」
「あ、うん。大丈夫…って、梗岢、まさか、まだ?」
とにかく上がれよ、と声を掛けられて、春野宮は問いを投げながら草履を脱いだ。
玄関脇の隣室に案内され、枕元に正座をする。
「梗岢…」
玉汗を滲ませて眉根を寄せた彼の表情が、とても苦しそうだ。
思わず、傍にあった水桶に手拭いを浸し絞ると、そっとそれを拭った。熱っぽい額に冷たいそれを少しずつ当ててやる。驚かせてもいけないと思った。
幾分か表情が和んで行く。
春野宮の険しい顔にも、僅かに綻びが見えた。
梗岢を挟んだ向こう側に座った義政が、口を開いた。
「巌勝の話。聞いてるか」
春野宮はもう一度手拭いを浸し絞り、彼の額に当ててから義政を見た。
「師匠から、梗岢を護ったとだけしか」
「そうか…」
義政は梗岢を見つめながら、
「梗岢が雷麾下に運ばれて戻った後、巌勝の鴉も戻ったんだ」
「え!」
「だけど、瀕死の状態だった。そのまま、何も告げずに死んだんだ」
「そうだったの…」
「梗岢は巌勝に腹を抉られて意識を失ったみたいだ。相当強く殴ったんだな…お互い、頑固だから」
春野宮も、梗岢を見つめた。
彼がどんな思いで巌勝と日々を過ごしてきたかは分からない。だが、あの巌勝が彼を殴ってでも止めて護りたかった相手だ、きっと、紡いできた日々は濃かったに違いない。
『僕が、師匠に懐いてるように…きっと、梗岢は巌勝に』
「義政」
「ん?」
「お粥でも作ろうか。きっと、そろそろ目が覚めるんじゃないかな」
義政の表情が明るくなった。
「それはいい」
と、嬉しそうに笑う。
「顔色もだいぶいいし、ん。匂いに釣られるかも知れんしな」
「義政じゃないんだから」
「あはは! こっからだと雪の屋敷が近いな。卵貰ってくるよ」
「あ、じゃあさ、師匠のとこも寄ってきて? 糠(ぬか)作ってるんだ、師匠」
「へえ! 分かった!」
義政は勢いよく立ち上がると、颯爽と屋敷を後にした。
「さて、と」
春野宮はもう一度手拭いの熱を取って、梗岢の額に乗せる。そうして水の入った桶を手にすると、お勝手の方へと歩を進めた。
「梗岢、ごめんね、邪魔するね」
何となく呟いて、竈に火を入れ始めた。
暫くして、炎の爆ぜる音と炊事の音が、軽快に混ざり合う。
『こんな風に火の番したり、野菜切ったりって、久しぶりかも…』
昇麾下ができてから、家事全般は市松達が交代で片してくれていた。お蔭で思う存分鍛錬に励むことができるようになったが、構えても番(つが)えても、道は果てしなく続く。
『結局、僕は、師匠から一本取れたことはなかった。巌勝からもだ。師匠が何を見て行動の先読みをするのかも、結局…分からずじまいだったなあ』
考えれば考えるほど、胸が軋む。
『だけど、やらなくちゃ。僕が。師匠の手は、汚させない』
「はる!」
戻ってきた義政には笑顔で出迎えて、一緒になって食事の用意をした。折角だからと、義政の分も作る。野菜の沢山入った味噌汁には、義政が思わず、
「うまそう!」
と声を上げたほどだった。
「義政家事してる? 独り身だから結構疎(おろそ)かになってるでしょ」
「それがさ」
「うん?」
「雪が構ってくれるんだよな~」
笑って言った義政に、
「呆れた! 雪んとこに相伴(しょうばん)に預かってたの!」
「人徳だよ、人徳」
「違うでしょ。押し掛けでしょ!」
「お前だって市松達にやらせてるんだろ? 同じじゃん」
「あ。そう言うこという? 僕、昇麾下にちゃんとお給金払ってるもん!」
「え! マジ?」
「惣寿郎に相談したんだよ、配下ができてから。そうしたら、御館様が払う分とは別に、皆、ちゃんと払ってるって。一国一城の主と変わんないよ?」
「知らなかった…!」
「雪なんて、相当大変なんじゃない? 一番多いでしょ、配下。ああいうのを人徳って言うんだよ、義政は知ってて育ててないのかと思った!」
「面倒臭がって?」
「そうそう」
「はる~~~!」
「あはは!」
「いや~~~、後で雪に酒樽持ってこ! 拙(まず)い拙い」
「樽!?」
「なんだ、お前気付いてない? あいつ、ザルだぞ」
「うそお!?」
「本当。龍洞(りゅうどう)とよく飲んでるよ、雪の相手ができるの、龍洞くらいだよ。いや、逆かな? 多分…巌勝も差しで飲んだらいけるとは思うけど」
「知らなかった…」
「ま、お前も随分若くからイケてたけどね。びっくりしたもん、俺。夏祭んとき」
「そう言えば、皆で飲んだのって、あれが最初で最後だったね…」
「そうだな…。巌勝が見つかったら。また、皆で飲もう。馬鹿なこと言い合ってさ」
「……うん」
義政の表情を見る限り、覚悟の決まっているそれだ。
だが、敢えてそう言った彼の気持ちを、春野宮は否定はしなかった。思うところは別にあったが、それも、飲み込んだ。
皹(ひび)の入った胸にはきっと、酒が良く染みる。
『今度皆で酒を飲むときは。多分…巌勝を解放したときだ』
時は、止まらない。
巻き戻りもしない。
突き進むしかない。
「義政。じゃ、後を頼むね」
「分かった。ありがとな、はる」
「うん。また明日!」
「そうだな。また明日!」
そうして春野宮は、鳴屋敷を後にした。
この時の会話が最後になろうとは、思いもしなかった。