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​第八話:運命の子

・壱・

 巌勝(みちかつ)が大和(やまと)から帰還し、痣(あざ)の発現に柱全員が驚愕した年の初め。春野宮(はるのみや)は、もう、驚かなかった。

『里へきて、四回目の春…』

 春野宮は、広場から山へ外れた里の奥へ、一人歩を進めていた。この辺りは山桜が美しく咲き誇る、気に入りの場所だ。

 手にした弓は昨年、少し大きめに作り直して貰った。合わせて弽(ゆがけ)も一回りほど大きめの物を用意し、漸く馴染んできたところだ。

 夢で見たあの日は、自身の身長や年の頃だけではよく分からない。

 だが、義政(よしまさ)や雪之丞(ゆきのじょう)をも思い出す限り、それほど遠い未来ではないと感じていた。

 何より、巌勝の頬に、額に、痣が浮き出たのだ。

 そして彼もまた、日を追う毎にますます口数が減っていって、何やら思い詰めているようだった。それはきっと、柱全員が感じていることに違いない。明日は我が身だと、皆が思ったのだろう。

「…はる」

 耳に優しい声が聞こえて、春野宮は振り返った。

「師匠」

 仄かな笑みがこぼれた。今年秋で、十七歳になる。もう、立派な大人だった。

「…春霞に消えてしまうかと。思いましたよ」

 縁壱(よりいち)は相変わらず、優しかった。

 歩み寄ってきたその手が頬に触れて、どきりとした。髪についた桜の花びらを取ってくれた。

 指から掌へ渡された桜の花びらが、二人の間を結ぶ。

 春野宮はくすりと微笑むと、舞い散る桜の木々を見上げた。

「ここはいつでも綺麗だね…師匠」

「ええ。はるはここがお気に入りですね。毎年…ここにいる姿を見かけていますよ」

 春野宮はまた微笑んだ。

 ふと。遠い記憶を思い出す。今になってどうしてこんなことをと、一方では思った。

「姉上がね、泣き叫んだんだって」

 一端を口にすると、縁壱はそっと、話に寄り添ってくれた。

「…何にですか?」

 もの柔らかな声色が、言葉を紡ぐ。

「僕の幼名。秋ノ宮はいやだ、春野宮がいいって」

「それはそれは…」

「いつだったかな…その理由を聞いたんだけど、姉上も覚えがないって笑ってさ」

「ふふ!」

 縁壱の微笑に、春野宮は彼を少し見上げた。視線も高さも、だいぶ近い。里へきた頃ほどの距離は、もう、なかった。

 春野宮は続けた。

「でも…って、姉上が笑ってね」

「はい」

「春野宮の方が温かい、貴方にはその方がいいって」

「納得です」

 縁壱がまた、微笑む。

「私もそう思いますよ。貴方は、春野宮がいい」

「そっか…」

 春野宮の面差しが、自然と嬉しそうになった。

 その頬に、一筋の涙が伝う。

「…はる?」

 縁壱が一歩傍に寄って、春野宮は困ったように笑った。

「来年も。再来年も」

「…」

「こうして、師匠と一緒に見上げていられたらいいのに。ずっと、ずっと…この花を、いつまでも。迎えられたらいいのに」

「…はる?」

 二度目の呼び掛けに、春野宮は涙を拭った。

「ありがとう、師匠」

「え…?」

「僕をこの里に、連れてきてくれて。僕をここまで導いてくれて。僕を…ううん、いつも僕の側にいてくれて、僕を包んで、護ってくれて」

「はる、何を」

「大好きだよ、師匠。…この里も。義政や神々廻(ししば)さん達も。…巌勝も」

 そうしてまた、桜を見上げた。

「僕は。もう。思い残すことはない。市松(いちまつ)達に、弓道は伝えた。鬼狩りとしての矜持も伝えた。きっと、大丈夫…未来は、きっと。遠い遠い、未来は、きっと…!」

「はる…!」

 突然、縁壱の両手が伸びてきて、背中から抱き締められた。

 驚いて目を丸くした後、首を傾けて思わず笑みを零す。

「師匠…ごめんね」

 呟き、精一杯の心を込めた。

『未来はもう、変えられない。巌勝を救えなくて、ごめん。たった一人の貴方の大切な人…せめて。僕が』

 春野宮はそっと、縁壱の手に手を重ねた。瞼を伏せて、桜の風音を聞いた。



 その日、春野宮は、市松達と京(みやこ)市街へ降り立っていた。朝から本陣は慌ただしく、柱が昨夜から順次出払い続けているからだ。

 深夜に鬼を狩り、帰投した縁壱や義政が少しでも長く休めるよう、神々廻、そして鳴柱(なりばしら)二代目となった梗岢(きょうか)は、昼間から京市街を巡回するようにした。

 後詰めには雪之丞、巌勝、惣寿郎(そうじゅろう)が控えている。

 龍洞(りゅうどう)はこの日、偶々、西国(さいごく)へと足を運んでいた。何でも鬼狩りとなったのは一族の了承が得られないままだったそうで、その覚悟を伝えに行ったのだそうだ。

 音羽山(おとはやま)の二つ目の坂を登り切ったところで、春野宮は立ち止まった。天を仰ぎながら、何となく、弓袋から弓を出す。無言で弦(つる)を備えた姿に、

「春野宮様?」

 と市松が声を掛けた。

 辺りに気を配る若い衆と違い、市松と藤吉(とうきち)、一(はじめ)は、春野宮を囲うように位置取った。

「遠雷が鳴りましたね」

 言ったのは一だ。

「うん。嫌な予感がする」

 春野宮が頷くと、市松が遙か下方を望んで、

「降りますか? 市街が気になるかと…」

 言った語尾が次第にゆっくりと、一言一言歯切れた。皆、天を仰いだのだ。

「雨…」

 藤吉の呟きに、春野宮は判断をした。

「急ぎ清水寺(きよみずでら)を回って、六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)に報告をして帰投しよう。何事もなければいいけど…弓も心配だしね。湿気が大敵だから、帰ったら皆、ちゃんと手入れするんだよ」

「「は!」」

 言うが、春野宮は畳まずに手にしたままだった。藤吉が先導する後を付いて走り、両脇を一と市松が固める。背後は六人ほどの、乙(きのと)以下が付いてきていた。

 雨脚がひどくなる。雷も、より近くなった。

 参の坂を登り、町屋が並ぶ通りの向こうに八坂(やさか)の塔を見る。雨に濡れた五重塔は何処か物悲しく、一瞬だけ、春野宮の歩幅が小さくなった。

 市松達がはっとして幅を揃えようとしたとき、

『はる! 春野宮!』

 ひどい雨の中を、日ノ卯(ひのう)が舞い降りた。漆黒の翼が濡れ羽色に染まっている。

 春野宮の足先から脳天まで、不安が突き抜けた。

「日ノ卯…!」

 どうした、と顔が物語り、一同の足が止まった。

 ひどく打ち付けてくる雨音に負けないように、日ノ卯が声を張り上げる。

『宇治(うじ)へ向かえ! はる!』

「宇治…! 梗岢のいるところ!?」

『鬼舞辻(きぶつじ)無惨(むざん)と思われる鬼が雨に乗じて現れた! 神々廻、はるは至急萬福寺(まんぷくじ)へ!!』

「! 無惨…!」

 春野宮の声が悦びに打ち震えた。

『先に、遭遇した! まさか、そんな! そんなことが…! 梗岢、どうか…お願い! 粘って!』

 逃げ回ってでも。

 そんな事を思った。これが最後の機会だと強く感じた。高鳴る鼓動に急く心持ちを何とか鎮め、

「僕は萬福寺へ行く。皆は一旦里へ帰投して!」

「ですが、春野宮様お一人で…!」

「大丈夫、」

 言いながら、深く呼吸を紡ぐ。気持ちを落ち着けるためでもあったが、

「!」

「春野宮様!」

 現れる紋様に、市松達が悲痛な声になる。もう、これが何を意味しているのか、鬼殺隊にいる者ならば、覚悟をして受け止めているからだ。

『全速力でそこへ行き、無惨を、討つ!』

 春野宮には、それしかなかった。

 それでも送り出してくれる方には笑顔を見せて、

「萬福寺で神々廻さんと合流できるから。大丈夫だよ。皆は状況整理! 頼んだからね!」

「…は!」

「どうか、どうかお気を付けて! 春野宮様…!」

「ん!」

 春野宮は町屋の屋根へ飛んだ。直線距離で宇治まで行けば、相当速く辿り着ける。

『きっと…きっと、間に合ってみせる。梗岢! 死なないで!』

 辺りはすっかり暗い。雨脚がひどいせいだと思っていた空には、あっという間に夜が訪れてきていた。

 宇治へ入る頃にはすっかり止んで、こちらの方から雨雲が移動してきていたのだと知る。空には満天の星だ。憎たらしいほどに、爽やかな空だった。

「! ……」

 萬福寺へ辿り着いた春野宮の気勢が削がれた。

「鬼の気配が…ない…!」

 残り香だけが、辺りに充満している。

 荊(いばら)の鞭のような、関わる者全てを絡め取り絞めつけるような香り。激しい痛みを伴い、深く呼吸をすればするほど肺が焼けるようだった。時間が経ってもなお残った香りがこれならば、対峙した梗岢は一溜まりもないであろうと思えた。

「梗岢…!」

 悲愴な声になった。

 叫んで、また、駆け出す。

 その背後から、

「はる!」

「神々廻さん!」

 岩柱が合流した。

 思ったことは同じだったようで、それきり二手に分かれた。

 春野宮は山門から右手に本殿を回り込む形、神々廻は左手からだ。中央は互いの感覚を通して、気配で網を張るようにした。

『いない…! そんな、梗岢…!』

 気ばかり焦る。

 それが梗岢の無事を願うものからきたのか、鬼舞辻無惨がいない事へのものだったのか、正直分かりかねた。そうして心の奥底を覗いたとき、梗岢より無惨を優先しようとしている己に気付いて、愕然とした。

『集中…! 集中しよう。痕跡を一つでも、拾うんだ!』

 戦闘があったなら、その痕が残る。

 激しさを増せば増すほど、周囲の建物とて無事では済まない。

 だが、

「神々廻さん…」

「はる…」

 境内で再び顔を合わせた僚友は、その場に立ち尽くした。

 だだ広い境内は、何事もなかったかのように、静まり返っている。

『ああ…! 神様…! 日の神様…!』

 春野宮は両膝から崩れ落ちた。

 神々廻が脇に片膝を突く。

「良かった、梗岢はきっと無事だ」

 心底ほっとしたような、声色だった。戦闘の痕跡もなければ仲間らの姿もないのだ。血の臭いもしない。

 だが、春野宮は、

「あ、あ…うん…!」

 己の浅ましさに打ちのめされた。

 仲間の無事の確認より、無惨との遭遇を願ったのだ。

「何があったか確認せねばならんな、立てるか? はる」

「神々廻さん…」

 はい、と小さく声を返して、膝に力を込めた。

 立ち上がりながら、彼の声を聞く。

「里へ帰投しよう。梗岢が戻っていれば、話を聞けるだろう」

 春野宮は辺りを見渡しながら、なお、諦めきれなかった。

「本当に…無惨が現れたのかな。ここに」

 梗岢には悪いと思う一方で、どうしても、ここから離れる気にはなれなかった。

「鴉が指令を誤ることはないからな…」

 神々廻も立ち上がり、隈無く一帯を見渡す。とは言え、もう、日は落ちて暫く経っている。視界だけでは得られるものも少ない。

「無惨が現れたなら、なんで梗岢は無事だったのかな」

 春野宮は何気なく呟いた。

「なんで戦闘の痕が、ないんだろう…」

 寂寞の風が吹いた。

 ここから離れてはいけない気がした。

 だが、その理由が分からない。ふと、

「月…」

「え?」

「あ、いや」

 春野宮は神々廻を見た。思わず苦笑った。

「本殿の向こうに、月が昇ったのが見えたから。…ほら」

 二重の櫓の両脇に、金の鯱(しゃちほこ)が高々と尾を上げる。豪奢な作りはこの寺の権威を物語っているようだ。

「…はる」

 神々廻が走り出した。

 突拍子もない行動に、呼ばれるがままに後に続く。

「屋根瓦が一部崩れてる。戦闘は…なかったわけじゃなさそうだぞ」

「さっきの雷風雨で崩れたんじゃなくて?」

「「っ!!」」

 二人の足が急に止まった。

 全身の毛が逆立つ。怖気で弓を持つ手が震えた。本殿の屋根に飛び移る直前だ。

「神々廻さん…!」

「ああ。いたんだ! 確かにここに、無惨が!」

 春野宮は身震いした。大きく息を吐いて、心を奮い立たせる。

「! はる!」

 神々廻の声を下に流し聞きながら、屋根に飛んだ。もう一段。鯱のある二重の櫓まで跳ねる。そうして、棟に降り立ったとき、

『巌勝…!?』

 気配がした。

 微かだが、確かに、彼の静かな闘志を感じる。

「あ、あ、あ…!!」

 感情が溢れ出した。

 慟哭を抑えきれない。

『今日。この日! この日だったんだ…!』


 巌勝が。

 鬼になる、日――――。


「巌勝…!!」

 弓が手から滑り落ちた。

 屋根の瓦から瓦へ、それを神々廻が慌てて拾ってくれたことなど気付きもせず。

 春野宮は、その場に泣き崩れた。

 何度も、巌勝の名を呼んでは嗚咽に噎び、ただただ、泣いた。

第八話・壱・: テキスト
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