第七話:痣
・肆・
夕刻、春野宮(はるのみや)は、神々廻(ししば)、一(はじめ)と共に帰投した。神々廻の両腕には、翁(おきな)の遺骨の入った壺が抱えられていた。
真っ直ぐ本陣へ向かう途中で、春野宮は、
「一。多分…すぐ柱合(ちゅうごう)会議に入ると思うから、君はいいよ」
「春野宮様…」
「何より、市松(いちまつ)達に、柱二人の無事だけでも直接伝えて欲しいんだ。できれば神々廻さんの岩麾下(きか)にも」
「はる…」
神々廻の感謝が伝わってきて、春野宮は見上げた。すっかり痩せこけた顔ながら、やんわりと微笑んで頷いて見せる。
「分かりました」
一が頷いた。
「今夜は春野宮様の好きな物、沢山作ってお待ちしております。ちゃんと…お戻りになって下さいね、昇(のぼり)屋敷に」
「一…うん。ありがとう」
はい。と頷いた彼に、春野宮は礼を言って、神々廻とまた本陣へ向かって歩き出した。
「はる」
不意に神々廻が言った。
本陣の大きな門を潜ったところだった。
「…ん」
「生前、翁が言っていたよ。お前は、誰より強いって」
「…」
「何かを背負った顔だって。とても…十四歳には見えないってな。褒めてた」
「…狡(ずる)いよね」
春野宮は神々廻を見上げて困ったように笑みを浮かべた。
神々廻がこちらを見、言葉を待っている。
「翁ってさ、誰にでも何でも、褒め言葉は自分で直接言わないでしょ」
「…そういや、そうだな。うん。そうだった」
「ね。ちゃんと言ってくれないとさ。困るじゃん? こういう時」
「そうだな…」
二人は小さな笑みを零して、本陣の敷居を跨いだ。
すぐに奥から駆けてくる足音がして、出迎えてくれた姿に二人、片膝を付き頭(こうべ)を垂れる。
「岩柱・神々廻主水(もんど)、昇柱・三条春野宮天晴(たかはる)、帰投いたしました」
「遅くなり、申し訳ありません」
「いいや、二人とも…良く無事で」
若く、張りのある声だ。輝王丸(きおうまる)だった。
父である御館様、昌輝(まさてる)は、既に謁見の間にいるのだろう。案の定、
「柱達が揃ってます。戻ったばかりで済みませんが、合流してくれますか」
「無論」
二人は立ち上がり、神々廻が骨壺を輝王丸に託した。
春野宮が一歩早く軒を上がり、神々廻が後に続く。
どんな責めをも受けるつもりで、二人は謁見の間へと歩みを進めた。
小姓(こしょう)二人が控える引き戸の前に立つと、帰投を告げる声が彼らから中へ伝えられ、昌輝の、
「待ってたよ。入ってもらって」
声が聞こえた。
小姓達が左右から引き戸を開く。真ん中を割って入った二人は、まず、昌輝の御前に胡座(あぐら)をかいて低頭した。神々廻が開口する。
「ただいま、戻りました」
「うん」
「比叡(ひえい)での戦果をお伝えいたします」
春野宮は口を開いたが、昌輝が、
「はる」
手で制し、二人は面を上げた。視線を向けると、
「席に着いて。きっと皆も聞きたいだろうと思うから。今日は謁見は気にしなくていい」
「…は」
春野宮達は一礼すると、いつもの定位置に移動した。
途中、巌勝(みちかつ)の義憤を感じたが、自分たちを責めても仕方が無いと思ったのだろう、座する前は控えたようだった。
『巌勝…』
ふと、部屋の片隅に、一人の若者の姿を見る。
『あれは…もしや。翁の。継子(つぐこ)…!』
歳は上のようだが、小柄で童顔だ。整った顔立ちが涙に濡れて、憔悴しきっている。彼こそが『波々伯部(ははかべ)梗岢(きょうか)』その人だと知るに、苦労はなかった。
『きっと誰かが、継子だからとこの場に呼んだんだね…やっぱり。惣寿郎(そうじゅろう)かな』
面を上げた彼と視線が合った。
目を伏せてゆっくりと一礼する。彼の悲しみが、一息に伝わってくる気がした。
神々廻に続いて席に着くと、
「何があった」
前触れもなく巌勝の声が響いた。
何故死んだのか、とにかく知りたいのだろう。だが、それが分かれば苦労はしない。
隣の神々廻が答えた。
「分からない…」
「は!? 舐めてんのか」
「巌勝」
斜め前から身を乗り出して咎めたのは、義政(よしまさ)だ。
巌勝の隣に座する惣寿郎も、彼の膝に手を優しく置いて、
「身罷(みまか)ったときの状況を教えてくれないか」
静かに言った。
春野宮は、呼吸が乱れるのを感じた。思い出せば未来と悔恨とが、まるで津波のように押し寄せてくる。
だが、悲しみは、ここにいる誰もが等しい。自分だけが知る辛さなど、彼らには関係がないのだ。
神々廻が意気を察してくれた。ちらりとこちらを見た顔に瞬きをして答えると、しっかりとした眼差しで巌勝らの方を向く。
春野宮は、息を整えた。そのままでは震えていたであろう声を、覚悟で心組み、普段の声色に戻す。
「身罷ったのは、朝日が昇ってすぐだった。翁が急に倒れて…僕が駆け寄ったんだ」
瞼を閉じて、その時のことを思い出す。できるだけ丁寧に、彼らに状況を話した。
啜り泣く声が辺りから漏れて、春野宮は口を閉ざした。俯いて、下唇をぐっと噛む。涙だけが音もなく零れた。仲間の鼻を啜る音が、一層大きく重なった。
「比叡は」
神々廻が後を継いだ。
「座主(ざしゅ)の霜珠(そうじゅ)殿と、その兄の瑠璃華院(るりはないん)との間に表向き確執があって、後者が鬼と手を組んでいた」
「何…!?」
「翁を送ったのは後者だが…比叡にも、事情はあったろう」
「事情だと…!?」
巌勝の声色が低く得体の知れないものになった。一同顔を上げて、それぞれを見遣る。
神々廻は真っ直ぐ巌勝の眼差しを受け止めながら、言った。
「俺も比叡の擁護をするつもりはない。ただ、鬼にとっても不都合があっただろうとは思う」
「それって、どういう…?」
雪之丞(ゆきのじょう)が静かに言った。
巌勝が歯軋りをしながら、水柱の疑問の答えを待つ。
「はるが気付いたんだ、小鬼に」
「小鬼?」
「比叡の鬼は、一方が一方を吸収する形で、強さを増した。翁とはるはその強さに対抗するかのように、紋様を発現させたんだ」
「紋様…」
「そしてその戦いを、恐らく、小鬼が観ていた。多分あれは…鬼舞辻(きぶつじ)の目だったたんじゃないかと思う」
皆が息を飲んだ。
咄嗟には掛ける問いも思いつかなかったのだろう、神々廻が続けた。
「鬼と通じていた雹犀(ひょうさい)は、翁だけでも。紋様を発現させた翁を焼けと、言われたのではないかと。或いは、翁の紋様にしか、目は行き届かなかったのかも知れん。はるは弓使いだ。鬼の側にはいなかったし、実際首を斬ったのは、翁だからな」
「紋様…それって、はるにも出たのか。今の神々廻の話だと」
龍洞(りゅうどう)が問いを投げてきた。
春野宮は頷いた。瞼を伏せ、あの時のように、深く呼吸を紡ぐ。一瞬でその場に爽やかな風が渡り、皆の視線を一気に集めた。
「空色の、覇気…!」
誰かの声が聞こえた気がするが、春野宮は更に呼吸を紡ぐ。全身が熱くなり、燃えるような吐息が口の端(は)から漏れた。自身では視ることは敵わなかったが、皆の顔にはよくよく表れていた。
きっと、己の顔に、痣(あざ)が出ているのであろうと。
「まるで縁壱(よりいち)じゃないか…!」
巌勝の言葉の後に、雪之丞も続いた。
「形は異なるけど、確かに痣だね…うん。何かの紋様みたいだ…」
「はるのそれは、虹のようですね…」
縁壱も言った。
「虹?」
思わず繰り返すと、
「ええ。両頬を結ぶように、鼻を通って七色の線が浮き出ていますよ。濃淡が美しい、虹のようです」
「そっか…」
春野宮は嘆息をついた。夢で見ていたのと、同じだと思った。
「翁は、首筋から頬に掛けて浮き出てた。まるで稲光のような、激しい紋様が」
「だけど」
と、雪之丞が顎に手をやりながら言う。
「同じように紋様…痣が出ていながら、翁は息を引き取って、はるは…」
「うん」
春野宮は声を絞り出した。
「僕は生きてる。だから、分からないんだ。翁の死は自然死のようにも思えた。だけど…変でしょ。それまでぴんぴんしていたのに」
「縁壱…」
不意に、巌勝が弟に視線を投げた。何か分かることでもあればと言った面持ちだ。
縁壱は兄と眼差しを交わしてから、
「私のこれは、生まれついてのものです。ただ…」
「ただ、何だ」
それまで黙っていた惣寿郎が鋭く見つめた。
「はい…、決まって、力ある異能の鬼と対峙すると、疼いたりします。それに伴い、気分が昂揚して技が尽きない状態になって…制御が利かなくなることがある。当然、疲労感は通常の比ではありません…」
最後は声が消え入りそうになったのを、皆が見つめた。
春野宮も発現したときのことを、詳細に話す。
「僕もそんな感じだったよ。呼吸を深く、血液をいつもより更に早く、全身に駆け巡らせて高鳴る心臓の音を聞くんだ。そうして身体が燃えるように熱くなって、それに耐えて技を放つと…いつもより威力も勢いも倍以上の技が出てきた。身体の底からまるで噴き出す溶岩のように…力が漲ってきて止まらなくなる」
「それが、痣発現の状況か…?」
「多分、そう。翁の最期の一撃も、それは見事だった。鬼の動きを技で封じて、瞬きするより早く間を詰めた。そうして振り翳したただの一閃で、頚を獲ったんだ。翁の…真骨頂だった…」
流れた空気と間に、神々廻が静かに話し始めた。
「あくまでこれは仮定なんだが」
皆が一斉に神々廻を見る。
「もしや…体力を。或いは、命そのものを削り、一時的にでも能力が飛躍的に上がるのだとしたら?」
「解はないけどね…」
春野宮の呟きに、柱はそれぞれに呻いた。
ただ、そうだとしたなら、齢七十を超えていた翁と、まだ十代前半の春野宮との違いに説明は付くとは思えた。
「御館様」
惣寿郎が身を昌輝の方へ向け、膝を一つ進めた。
皆も居住まいを正して、自然と惣寿郎に倣う。
「鬼殺隊内に触れを」
「惣寿郎…?」
縁壱の呟きに、惣寿郎は横目で一度彼を見た後で、
「痣が出た者は必ず報告されたし」
「!」
「諸刃の剣だろう、それは」
彼の視線が春野宮に向いた。きっと紋様を見ているのだろうと春野宮は感じる。
「戦力の上がる救いの神か、破滅をもたらす地獄の使いか…神々廻の推測を立証するには、統計を取るしかない」
『惣寿郎…』
春野宮の心の内が、大きく波打った。自身には、後者だとしか思えないのだ。
『あの夢に追いついているのだとしたら。きっと。巌勝に発現したときが、鬼殺隊の最期だ…』
思っている間に、龍洞が「確かに」と頷き、
「ただ、今後、痣が発現する者が出てくるかは分からないが…」
「そうだな」
惣寿郎もそれには首を縦に振った。
「だが、出てからでは遅い。はるの年齢では命までは奪われなかったとしてもだ。じゃあ、幾つから? と言うことになる」
そうして縁壱に今度は真っ直ぐ目線を送って、
「縁壱は…」
「私は今、二十三です」
惣寿郎はまた一つ頷き、
「二十代も大丈夫なのか? 三十代は? そもそも縁壱自身は生まれついてのものだからか? と言うことになってくる。痣者(あざもの)がこれ以上増えないなら、それはそれでいいんだ」
「分かった」
昌輝が応対した。
「隊内にすぐに触れを出そう。はるは今後、むやみに痣を発現させないように。いいね?」
「はい」
「御館様」
と、漸く落ち着いたらしい、巌勝が、畳に拳を突き言った。
「翁を大和(やまと)へ帰してあげたい。遺骨を届けても…構いませんか」
「! そうだね、うん。そうだ…すぐに使者を送ろう」
「いえ」
巌勝は目を閉じ首を横に振った。
「俺が運びます。翁には、随分よくして頂きました。宗矩(むねのり)殿にきちんと礼を尽くしたい。どうか…お赦し下さい」
巌勝は畳に付くかと言うほどに、深く身を折った。
「巌勝様…!」
それまで会議を隅で見ていた梗岢の呟きが、皆に存在を知らしめる。春野宮も、咄嗟にそちらをちらりと見やった。
「巌勝、面を」
昌輝の静かな声が響いた。
「では、お願いする。無事、宗厳(むねよし)を大和へ送り届けてくれ」
「は」
巌勝はもう一度、深く頭を下げた。
会議はそれでお開きとなり、思い思いに立ち上がる。
『巌勝……』
声を掛けたかったが、春野宮は黙って去った。義政と共に、縁壱が傍に寄ったことが、せめてもの救いだと思った。
巌勝が大和へ発って五日も経った頃、春野宮は、日ノ卯(ひのう)の伝令で本陣に呼ばれた。
間を置かず、神々廻も姿を現す。
等しく玄関で草履を脱ぎながら、
「何かあったのかな」
「いや…何も聞いていないが…」
神々廻の声も不安そうだ。
二人一緒に輝王丸の案内で同じ場所に通されて、
『任務かな?』
春野宮は小首を傾げた。
輝王丸が直々に、引き戸を引く。それにも驚いたが、中へ歩を進めれば、
「御館様」
既に上座にいる当主には困惑して、声が跳ね上がった。
急ぐ神々廻に春野宮も合わせて、二人横に並んで平伏する。
昌輝は、「ん」と小さく頷いたのみで、なかなか切り出そうとしなかった。
やがて、懐から文を取り出すのを見る。二人でじっと、動作を見守った。
「追い打ちを掛けるようで申し訳ないが…二人には、伝えておこうと思ってね」
言いながら、昌輝が畳に文をす…と手を添え前に流した。
「比叡の…瑠璃華院雹犀殿が、先日、自害なされた」
「え!?」
「それは、霜珠殿からの文だ」
「そんな…なんで!」
春野宮は勢いよく立ち上がって、昌輝から差し出された文を畳から毟るように手に取った。勢いよく左手で開いて、右手で添え送り目を通す。
立ち尽くした春野宮に、神々廻も立ち上がらざるを得ず、そのまま巨体を寄せてきた。自然と文は春野宮から神々廻の手へ渡ってき、
「そんな…!」
春野宮の悲痛な声が響いた。
「なんで! 僕たちが。僕たちがいるのに…!」
春野宮はその場に頽(くずおれ)れた。握りしめた文が神々廻の手から一方を千切り取り、深く皺が刻まれる。その墨の文字が、所々、滲んでいった。
「はる…」
神々廻の大きな手が、肩に乗った。
「神々廻さん…!」
慟哭しながら抱きつくと、岩の如き彼にはすっぽり包まれた。
「ひどい、ひどいよ…!」
「…鬼になってからでは、遅かったのだろう。霜珠殿を、護りたかったんだ」
「でも! どうなるかなんて、分からないじゃないか! 僕たちが、先に鬼舞辻を倒していたかも知れないのに!」
「それでも、比叡に鬼を招き入れた罪は免れぬ。全責任を、負ったんだよ」
「だけど、それは円來(えんらい)達がって。ここにも書いてあるじゃないか!」
「そんな彼らの師だったんだ、雹犀様は」
「!」
「はる…」
昌輝の囁くような呼び掛けに、春野宮はますます噎せ込み大粒の涙を零した。
「比叡の膿は、出切ったそうだよ。自分で最後だって、これで霜珠殿は…比叡は安泰だと、書いてある」
「分かってる! …分かってます…! だけど…!」
「君は二人に言ったそうだね。僕は、鬼狩りだ、と」
「! 御館様…!」
「それでいいんだ。雹犀殿は、ちゃんと鬼狩りの事を分かっていたんだよ。そして、鬼となった人間がどうなるかも」
「っく…!」
『兄の言葉を、以下、伝えておきます。
鬼舞辻との、盟約だった。
弟の手に比叡が渡った暁には、この身を差し出すこと。
比叡に潜んだ鬼を倒されたことは想定外だが、返って良かった。始祖にとっても、思いもよらなかっただろうからな。
これで漸く、比叡は一つに纏まる。もう何も、思い残すことはない。
私の役目は終わった。
世話になった。鬼殺隊の、柱達よ――――』
「あああああ…!」
春野宮は、神々廻の広い胸を何度も叩いた。
暫く感情を、抑えきれなかった。
第七話:痣・完・
第八話へ続く