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​第七話:痣

・参・

「春野宮(はるのみや)様!」

 円來(えんらい)及び瑠璃華院(るりはないん)麾下(きか)の僧兵たちを避難させ、一(はじめ)が矢筒(やづつ)を持って現れた。

「一! 助かる!」

「普通の矢です、僧兵たちから借りて集めてきました」

「うん、十分! 使い分けるよ!」

「流石です…春野宮様!」

「霜珠(そうじゅ)様は? 大丈夫?」

「はい、先程澄海(ちょうかい)様が早馬でお戻りになりました。東塔(とうどう)に控えた一派を纏めて文殊楼(もんじゅろう)を護ってらっしゃいます」

「良かった、じゃ、後はここだけだね」

「はい!」

「一は引き続き僧兵たちを安全なところに誘導して。続々と此処(ここ)に戻ってくるはずだから」

「分かりました、春野宮様、お気を付けて!」

「うん!」

 二人交差し、互いの戦場へと駆ける。

 翁(おきな)たちに追われては、間合いを取って攻撃をしかけてくる鬼に、戦いの場は目まぐるしく移動していた。

 鬼は歴とした人形(ひとがた)だ。肌は冬枯れた樹木の色をしており、体躯は縦にも横にも神々廻の倍以上はある。裸体に腰巻きを一枚という出で立ちで、異様に括(くび)れた腰が目を引いた。腕がまるで阿修羅(あしゅら)像のように、対になって六本生えているのもそれらしいが、面は二つしか無い。

 一目で、此処の僧を食べたのだろうと想像が付く。

 上二本に剣、中二本に弓と矢を持ち、下二本の腕だけが何も装備はしていない。変幻自在な立ち回りを披露してくる。

 ふと、

『血鬼術(けっきじゅつ)…』

 鬼の喉が震えた。銅鑼(どら)を叩いたような腹に響く大きな振動に、三人はっとなる。

「異能じゃったか!」

「それも翁たちがもう一方を倒したときに、一方(それ)を取り込んだんです!」

『千手(せんじゅ)曼珠沙華(まんじゅしゃげ)……!!』

 神々廻(ししば)の言をかき消すように、人形の鬼は技を紡いだ。

「下二つの腕は印だ! 術が飛んでくる!」

 春野宮が叫ぶのと、比叡(ひえい)に除夜の鐘のような音が一つ鳴り響いたのとが同時だった。

 次の瞬間、鬼の背後に日輪が現れた。三人は仰天した。辺りが一瞬で真昼のようになった。神々しい輝きの中を梵字(ぼんじ)が斜めに流れて行き、まるで反物が翻る様に、経の帯が鋭く迫る。

「やっ…ば!」

 鬼には違いが無いはずだが、背後に現れた日輪には焼かれない。それはそうだ、自身の技である。だが、まるで仏のようだと春野宮は思った。今の状況を理解するのに、間があった。

 蓮(はす)の花が開くように、経が間断なく襲ってくるのを、迎撃することもできず、春野宮達はとにかく回避する。

 頭で「あれは鬼だ」と理解して初めて、拘束が解けたような気がした。

 それは後の二人もそうであったようで、神々廻に至っては、複雑な心境なのだろう、苦虫を噛み潰したような顔になる。

 翁だけが、

「この、下郎が…!」

 歯軋りする音が聞こえるほどに怒り心頭で居合いに刀を構えた。やはり反応は、誰より早かった。

『じぃちゃん…!』

 春野宮も気を引き締める。

『そうだ、あんなにはっきりとした経が流れてくるって事は、それだけ此処の僧を食べてたって事なんだ。外見や技に惑わされるな!』

 深く呼吸し大量の空気を取り込む。翁の為に大技を放とうと集中したその身に、

『っつう…!』

 激痛が走った。

 が、それも、一瞬のことだ。すぐに体勢を立て直すと、体内を大量の血が駆け巡る感覚を覚えた。一息に体温が上がる。

「空の呼吸 伍ノ型 海嘯(かいしょう)雁渡(かりわた)し!」

 極限まで引いた弓に、これまでに無いほどの大気が集った。潮騒が耳に大きく聞こえ、真っ青な大気の帯が鏃(やじり)を中心に大海原を展開させていく。

 春野宮の目が見開き、視界の隅…鼻先に何か紋様が映り込んだ。が、気にするべくもない。放つほんの半髪前、

「雷の呼吸 陸ノ型 電轟(でんごう)雷轟(らいごう)!」

 翁が呼応した。

 海を渡る北風に、遠く雷の音が響く。

 矢を放った瞬間、雁が連なり大海を渡る声が比叡に響き渡った。雁行(がんこう)は風を縦に導き大津波を引き起こす。そのまま異能の鬼に襲いかかった。流れる血鬼術を巻き取って矢が過ぎると、翁の刃が無数の斬撃を繰り出し退路をも断つ。

 縦横無尽に駆け巡る雷霆(いかずち)の中を、翁が鬼めがけて駆けた。まるで落雷のようだ。

『速い!』

 誰が思ったか、分からない。

 春野宮もそう感じた。目を見張った次の瞬間、翁の刃は異能の鬼の頚を刎(は)ねた。高々と血飛沫を上げながら宙に舞う首が、「信じられん」と物を言う。

 柱三人、消えていく日輪に溶けるようにして、塵となる鬼を見つめた。

 ふと、

「!!」

 未だ神経を研ぎ澄ましていた春野宮が、地に降り立つと同時に日輪の矢を一本抜く。

「はる!?」

 すぐさま番(つが)えて放った先から、

「うぎゃあああ!」

 甲高い啼き声が聞こえた。

 即座に翁、神々廻が駆け寄る。春野宮も構えを解く一瞬だけ遅れて、後を追った。

「小鬼…!?」

「なんで、こんな小さな鬼が…」

 尋問しようと試みるが、人の言葉を介さない。知能が全く足りない様子だった。元は獣か何かなのかも知れないと、春野宮達は思う。

 それが無惨の目であり使い鬼だと春野宮達は知る由もなく、神々廻が斧を振り上げた。豪快に頚を刎ね、こちらもすぐに塵となる。

 東の空が明るんできた。

 暁に染まり始めた夜空は紫闇(しあん)の雲を棚引かせ、夜明けを迎える。春野宮達がその本物の太陽に目を奪われて目映そうに仰いだとき、

「春野宮様! 翁、神々廻様!」

 一の感涙に噎(むせ)ぶ声が聞こえた。

 三人肩を並べて、そちらに見向く。

 比叡の僧たちが、歓声を上げて駆け寄ってきていた。霜珠と雹犀(ひょうさい)の姿もある。その中心にいるのが、一だった。

「一…!」

「ご無事で! 春野宮様…! 凄い音ばかり、聞こえるから…!」

「うん、ん…!」

 側に駆け寄り膝に手を当てて涙を地に落とす彼に、春野宮は清々しい笑顔で何度も頷いた。「大丈夫だよ」と声を掛けて、肩に手をやる。

 一層一の顔が歪んで、腕で顔を覆って声を押し殺した。

 その様子に、三人、顔を見合わせる。

 その春野宮の顔が一瞬にして、真顔になった。

「痣…!!」

 愕然とした。

 翁の首筋から頬に掛けて、まるで稲妻のような痣が浮き出ていたのだ。

「何を言うか、主もじゃろう」

「え…!!」

『あの、夢…! 夢で見た、あの痣…! この時浮き出たものなのか…!』

「とにかく皆さん、総本堂(そうほんどう)へ」

 比叡の僧兵たちに囲まれ、澄海が傍に寄って来て言った。

「! あ、うん…」

 気も漫(そぞ)ろな返答になった。だが、澄海も、比叡の者達も、誰も気にも留めない。

「本当に! 本当に…ありがとうございます!」

 ただただ、一際大きな歓声が、比叡の山に轟いた。

 その声に応じるように、神々廻の鴉が比叡を飛び立つ。本陣に、討伐完了を知らせるためだ。

 神々廻も翁も、そして一も、勇壮に羽ばたいた鴉に笑顔になった。春野宮ただ一人が、何とも言えず青ざめて、見上げる。

 何も、誰にも、話せなかった。

 ただ、悪い方向に…あの夢の結末へと疾走しているのは確かだ。

『僕は、もうじき…死ぬ』

 それは、きっと、巌勝(みちかつ)が、鬼になったときだ。

『僕は選択を間違えたんだろうか?』

 霜珠、澄海の後に続きながら、総本堂への道を辿る。

『巌勝を、殺しておくべきだったんだろうか?』

 暁が、比叡の山の端から姿を現し始めた。

 あの戦いを遠巻きに見ていた僧たちの興奮気味な声も、日の出には鎮まる。皆、凜とした朝を迎えた。思わず歩が止まり、太陽を見つめた。

 その春野宮の視界が、滲む。

『僕は、柱達に、話すべきだったんだろうか。あの夢。あの顛末』

 だが、そうしたら、巌勝の立場は?

 縁壱の、気持ちは?


 ――――どうなる。


『どうにもできない。どうにもならない。僕が変えるしか無かった。傍にいて、支えて。僕が…もっと…!』

「くっ…」

「春野宮様?」

 一人目頭を押さえたときだった。一の声と、翁の、

「っ…!」

 その場に倒れ込む苦痛に歪んだ声が重なったのは。

「翁!?」

 春野宮ははっとして側に駆け寄った。

「はる…」

 突然片膝を突いた鳴柱(なりばしら)の背中が、一層小さく見えた。同じように傍らに膝を突き、神々廻が見守る中、手を背中に添える。

「大丈夫ですか! 少し休んで…」

「そうじゃの…」

 総本堂まではあと少しであったが、道の脇に移動する。何事かと集まり始めた僧兵たちを、澄海が払ってくれた。皆、こちらを一瞥はするが、総本堂へと波は続く。

 霜珠と雹犀はこちらに戻ってきた。

「柳生(やぎゅう)殿…大丈夫ですか」

 霜珠の腰が地に落ちた。心配そうに声を掛けてきたそれは、もう、今までとは声色が違う。とても穏やかな、安心しきった声だった。

 翁が「大丈夫じゃ」と言いながら面を上げるが、そのせいで均衡が失われたのだろう。大きく蹌踉(よろ)めいて、

「翁!」

 春野宮が咄嗟に抱き支えた。

『軽い…!』

 翁は全体重を預けてきていた。腕の中で「ほぅ…」と吐息を漏らした翁の身が、安堵しきってより小さく縮こまる。

『翁…嫌だ…!』

 たった今、自分の未来を覚悟したばかりだ。

 継国の双子を、大切に思ったばかりだ。

「やはり…」

 翁が嘆息をついた。

「歳には勝てんかのう。少し、疲れたわい」

「翁! そんなこと言わないで…!」

 春野宮の瞳から、大粒の涙が幾つもこぼれ落ちた。

『こんなところで。こんなところで、仲間を失うなんて…! 僕のせいだ! 僕の…!』

 だが、翁はいつもの「ふぉふぉふぉ」という笑みを零して優しい顔になる。

 遠く、暁の空を見上げた。

「鬼狩りの里へ、帰りたいのう…」

 瞼を伏せた。

「皆に、逢いたい…」

「翁…!」

「楽しかったぞ。幾つになっても、やりたいことをせねば人生は面白くはないの。お前さん達を遺して逝くのは…辛いが…、…後を。…頼んだ……」

「翁あ!」

「はる…。神々廻……済まぬの。先に、逝く……」

「翁……!!」

 ゆっくりと、翁の双眸から光が消えた。

 翁の訃報(ふほう)を告げる鴉が、…日ノ卯(ひのう)が、本陣へと発った。



『僕のせいだ』

 春野宮は、その後のことは良く覚えていなかった。

 神々廻と一が取り纏めてくれ、それを遠巻きに見ていただけだ。

 翁の遺体を巡っては口論になったようだが、耳に入れるのも辛い。心はとっくに飽和状態で、春野宮は、総本堂の壁に凭れたままずり落ちた。両膝を立て、頭を抱えた。股の間にこぼれ落ちていくものが、畳を黒く濡らし、染みを幾つも作っていった。

『頑張ってるのに。腕を磨くだけじゃ駄目だったのか。無惨(むざん)さえ倒せば。そう思って…弓道を磨いてきたのに』

 よりにもよって、柱から犠牲者を出してしまった。

 巌勝が鬼になる前に、こんな事が起ころうとは、思ってもみなかった。柱はいつでも柱だと。この面子が揃っているものだとばかり、思い込んでいた。

 あの夢で死ぬ自分が、きっと最初で最後だと…残る柱が巌勝を止めてくれると、心のどこかで思い込んでいた。

 それだけの絆を、結んできたつもりだった。仲間達…柱達と。

 盛大に、翁が葬送される。

 里へ帰りたいと話してくれた姿は、骨になってしまった。

「っ…!」

 春野宮は読経の鳴り響く中、立ち上がった。

「駄目だ…! 焼くな! 翁を焼くな…!」

 春野宮の声を聞いた比叡の僧たちが、驚いて振り返る。

 春野宮はその僧たちの間を駆け抜けて、一際高い声で読経を上げる霜珠と雹犀に近寄っていった。

 だがそれを止めたのは、

「はる…!」

 神々廻だ。

 抱き留められ、包まれ、慟哭をもかき消される。

「翁! 翁…!」

「はる、仕方が無い。比叡にも…面目がある。何もしないわけにはいかないんだ」

「でも! 翁は里へ帰りたいって! 皆に、逢いたいって…!」

「分かってる、分かってる…! すまん…!」

「! 神々廻さん…!!」

 悔しい。

 何もかもが。

 許せない。

 自分自身が。

「翁…! ごめんなさい…! 僕のせいだ…!」

 春野宮は、神々廻に縋って泣いた。感情が溢れるに任せた。



 もし。

 剣の腕前を上げる前に巌勝を殺していたら。

 未来は。

 どうなっていただろう――――?


 鬼になるかも知れない。


 たった一つの、そんな不確かな理由で。

 それとも、こんな哀しい事になるのなら、殺してしまった方が全てがうまくいったのだろうか。


 助けてくれた、暁の侍を欺(あざむ)いてでも。

 どんなに恨まれても。

 周りが一切理解しなくても。

 自分さえその業を一生背負って生きさえすれば、後は誰も、傷つかずに――――。

 巌勝だって、鬼になんてならずに――――。


 済んだかも知れない。

 かも知れない。

 かも知れない。

 そう、それも、予測でしかない。


『それとも僕が、鬼狩りになんてならなければ――――』


 未来は、変わっていただろうか?

 翁も死なず。

 あの双子も、哀しい思いをせずに済んだのだろうか?


「はる」

 神々廻のいつになく優しい声が、縁壱の声と重なって聞こえた。

「…師匠?」

「! はる…少し休め。こっちは大丈夫だ、俺が見てる」

「神々廻さん…」

 縁壱の、あの優しい諸腕が懐かしかった。

 彼の懐に顔を埋めるときだけは、一切の苦痛から解放される。深い闇に飲まれても、安心して眠っていられた。

「ありがとうございます…、大丈夫です」

「はる」

「僕…生きていかなきゃならないんだ。何をどう、選び取ってでも…!」

 約束したのだ。

 姉と。

 鬼のいない世の中を、作ると。

『巌勝を討つって、心に決めたんだ。もし、鬼になったりでもしたら。そのときはって――――』

 縁壱を傷つけないと誓ったのだ。

 自分自身に。

「翁…」

 春野宮は身を起こした。神々廻からそっと離れ、豪奢に彩られ飾られた棺桶が荼毘に付されていくのを見る。

 運命を全て受け入れるのは、容易なことでは無い。

 だが、この手に掴んだたった二つのこと、そのうちの一つがまだ掌に残っている限り、戦い続けなければならなかった。

『僕は『山城(やましろ)の弓張月(ゆみはりづき)』。翁…ごめんなさい。きっと、きっと、全てのケリは僕が付けるよ。僕が、何としても…! だから、今は許してほしい。見ていて欲しい、翁…!』

 春野宮は、瞼を伏せ、弓袋を持つ手を胸に翳し、翁を思った。

 痛みと、無理矢理、訣別した。

第七話・参・: テキスト
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