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第七話:痣

・弐・

 遅れて合流した神々廻(ししば)、翁(おきな)は春野宮(はるのみや)の意向を汲んだ。迦楼羅院(かるらいん)霜珠(そうじゅ)、瑠璃華院(るりはないん)雹犀(ひょうさい)の兄弟をそれぞれが呼び止め、その間に、春野宮は、澄海(ちょうかい)に、朝のお勤めは進めてもらえるように話す。

 察した澄海が快く引き受けてくれ、翁に深々と一礼をした。その姿だけでも、翁が呼ばれた理由の答えの、一端を垣間見たような気はした。

 春野宮達は、総本堂(そうほんどう)脇にある文殊楼(もんじゅろう)へと身を移した。

 相変わらず、辺りに氷原のような静寂さをもたらす雹犀とは違い、霜珠は始終不機嫌そうだ。

『まるで役目が入れ替わったようだよね。あの話を聞くと、何もかもが引っ繰り返って見えてくる。誘(おび)き出す役目を霜珠様が受けて、雹犀様の頭脳で狩ってる感じだ』

 一(はじめ)が人払いを済ませた報告を皮切りに、

「鬼殺隊は本来、政治には関わらん。手伝えるのは、鬼を討つところまでじゃ」

 翁が意味深な言い方をした。

 二人の表情が微かに変わったような気もする。が、差し込む朝日の映し出す塵が、影を絶えず揺らしているからかも知れない。

 雹犀が答えた。

「もちろんです。鬼を退治できさえすれば、後はこちらで何とでもします。比叡(ひえい)の問題ですから」

「そうじゃの」

「何か、策でも?」

「今宵の霜珠殿の隠れ場所は何処かいな」

「!」

「それは…」

 互いに吃った様子を交互に見定めながら、翁が言う。

「雹犀殿は毎夜、ご存じなく?」

「ええ…」

「それはそれは。じゃが、餌が無ければ鬼も活動の仕様がありゃせん。鬼狩りが来てから、比叡の鬼は遊び半分じゃろうが」

「…柳生(やぎゅう)殿」

 雹犀の瞳が微かに光った。

 翁はもう一度、はっきりと言った。

「鬼殺隊は、政治には関わらん。鬼を狩りに来ただけじゃ」

 翁の眼差しが、雹犀のそれと激しく交錯した。

 薄い氷に皹(ひび)の入る音が、次第に大きく聞こえてくるようだ。春野宮も神々廻も固唾を呑んで見守った。耐えきれなかったのは、霜珠だった。

「……兄上っ…」

 彼は膝を折った。

 頽(くずお)れた霜珠の瞳から、大粒の涙が一つこぼれ落ちた。

 見ていた春野宮は瞠目して、

『じぃちゃんの、察した通りだったんだ…!』

「霜珠」

 片膝を付いて、袈裟(けさ)を名の如く華のように開いた雹犀は、そっと霜珠を抱き締めた。ただならぬ雰囲気が二人の間に醸され、比叡という閉じられた、独特な空間を知る。

「お願いです、兄上…もう…」

「………はあ」

 大きな溜息が、雹犀から漏れた。春野宮にとっては、初めて聞いた、人としての吐息のように思えた。

「いつから。ご存じで」

「いや。推測だけじゃ」

「流石は柳生先代ですな。貴方が来なければ、そこの二人はそろそろ里へ帰っていただろうに」

「!」

『そこまで計算して。耐えていたのか…』

 春野宮は、強く拳を握った。

 だが、翁がいつもの空気を含んだ笑みを零す。

「この二人とて、主らの哀しい生い立ちをより深く知っとれば、同じ判断をするじゃろうよ」

「そうですか…」

 ゆっくりと瞼を伏せた雹犀の面が、少しずつ温もりを取り戻すようだった。瞼を上げたときの面差しはまるで人が変わったようだ。雪解けを迎えたようだった。

『これが本当の、雹犀様…!?』

 慈しみに溢れた面は、縋る弟を抱き締め愛情に満ちている。

「分かりました。ただ、護って下さい、必ず。大切な弟です。比叡にも、私にも」

「無論じゃ。必ず、護る」

 ここが引き際と、折れたのは、比叡の兄弟だった。

 その夜の天台(てんだい)座主(ざしゅ)・霜珠の居場所は雹犀を通してそれとなく大師(だいし)達の間に伝わるが、霜珠は知らぬ存ぜぬで、予定通りの蔵に身を潜めた。

「兄上…」

 祈るように静かに経を読み始めた霜珠の心持ちは、四人以外知ることはない。時は、刻一刻と過ぎていく。

 暦はそろそろ、師走(しわす)に入ろうとしていた。

 越冬の準備が始まり、比叡にも、厳粛な冬がすぐそこまで来ている。横川(よかわ)紅葉もすっかり土に還り、空気は日が傾くにつれ冷え冷えとしていく。

 物見遊山の観光客はすっかり減って、行き交う人は純粋な巡礼者ばかりになった。そのため参詣道も、静まるのが早い。

 夜の長い冬を迎えれば、人通りの無い場所は鬼の被害が格段に増える。それは比叡とて、同じであろうと思われた。

「いよいよだね」

 暮れていく空を見上げて、春野宮が言った。弓を掴む手に力が入る。夕刻のお勤めの読経(どきょう)もそろそろ終わりを迎えようとしていた。

 遠く茜の空に、重厚な鐘の音が響く。

 比叡の山門が閉じるのだ。紅葉が絢爛豪華に彩っていたつい昨日までは、篝火の数も警備の数も多く、夜でも山門も開いてはいた。

 だが、季節が終われば一般の出入りは途端に厳しくなる。

 続々と、今宵の警備担当達が大師達に連れられて、総本堂から配置場へと向かって行った。

「今宵、片を着けるぞ」

 神々廻が低い声で言った。決意めいた声だった。

「鬼を討ったとて、霜珠殿の命が奪われれば元の木阿弥(もくあみ)じゃ。何としても、比叡の未来は守らねばならん」

 円陣を組んで、四人は拳を突き合わせる。

「必ず、討つ!」

「「「はい!」」」

 固く再会を誓い、それぞれの担当地区に散っていった。

 一は東塔(とうどう)は文殊楼、座主・霜珠が隠れる場所の近くに。比叡の護りは雹犀が一番弟子、円來(えんらい)大師とその直属の僧兵だった。

 翁は西塔は青龍谷(せいりゅうだに)、丁度横川からも東塔からも等しい距離の位置だ。澄海が護りを引き受け、一派が既に巡回していた。

 春野宮は横川は元三(げんさん)大師堂。こちらは雹犀一派の別の大師が警備に付いている。

 そして神々廻は。西塔は浄土院(じょうどいん)に入るはずであった、が、

「し…神々廻殿。今宵はこちらでしたか?」

 東塔は根本(こんぽん)中堂(ちゅうどう)から大講堂(だいこうどう)を回ったところで、巡回している瑠璃華院・雹犀の一派と出くわした。足並みを見る限り、文殊楼の方へと向かっている。

 話しかけてきたのは雹犀の一番弟子、円來大師だ。

「ああ。西塔付近に鳴柱(なりばしら)がいるからな。何か問題でも?」

 今宵の神々廻は霜珠一派と行動を共にするはずであった。瑠璃華院の第一弟子に当たる円來にとっては、宿敵である、澄海とその直属の僧兵たちだ。

 だが神々廻はすっとぼけて答えた。今宵の用兵については、澄海も既に承知の上だ。霜珠を頼むと言伝(ことづて)を貰ってもいる。

 円來は拳を握って震えた。

 突如、

「!」

 陣貝の雄渾な音が響いた。二人の会話に割って入ったそれは、西塔地区の方から聞こえる。

『やはり、雹犀直属の大師達には、澄海殿は邪魔か…』

「神々廻殿。持ち場を離れては鬼に逃げられますぞ」

 ほくそ笑んで言った円來に、神々廻は鋭い視線を投げた。

 相手の怯む様を瞳に映して、

「私の言が聞こえなかったかな? 青龍寺(せいりゅうじ)の鳴柱が対応する。柳生は疾風迅雷。のらりくらりと躱すだけの鬼など、翁が本気になれば一溜まりも無いでしょうな」

 不敵な笑みを浮かべた。


 陣貝が轟いたとき、もう一方(ひとかた)、春野宮は、

「出た…! やっぱり、澄海さんとこか」

 南の夜空を仰ぎ見た。

『やっぱり情報が漏れてるのは確かなんだ。本当に、雹犀様が…』

 今はとにかく。と、春野宮は弓を強く握った。

 後顧の憂いはもう無いのである。思う存分、鬼を狩れる。

「じゃ、後は頼むね!」

「え、ええ!?」

 鬼が澄海の頚を獲るまでは、鬼狩りをその場に足止めしておくよう、雹犀か、円來大師にでも言われていたかも知れない。

 これまでなら大人しく呼応してきた。が、今宵は違う。慌てた声が大師から漏れたところを見ると、

『雹犀様が自分たちの動きを話している風も無い。雹犀様…どういうことなんだろう。霜珠様の命を確実に守るため?』

 思うが、ここで時間を潰すわけにも行かない。鬼は二匹、連携が取れる大元がなんなのか、それは分からないままなのだ。

 春野宮は天高く飛翔した。

 彼らに拘束される暇(いとま)を与えなかった。今まで一度たりともそんな姿など見たことがなかったのだろう、驚いて天を仰いだ拍子に尻餅をついた者まで、眼下に見た。

「柳生殿の差し金か…!」

 声が聞こえた気がしたが、それも刹那の間だけだ。

 春野宮の姿は一瞬にして比叡の山に溶け込み消えて、横川の瑠璃華院麾下(きか)はその場から動けなかった。


 春野宮は剛弓を肩から腰に袈裟懸けに引っかけて、猿(ましら)のように自在に木々を移ろいだ。

 参詣道を通るより、山を直線距離で進んだ方が圧倒的に近い。既に二月以上比叡で過ごしているのである。辺り一帯の地図と方角は、感覚で覚えていた。

 西塔地区に近付くと、雷霆(いかづち)の轟きが木々を叩いて反射するようだった。鳥肌が立つ。痺れるように筋肉が震えた。

「ひゃ~! やっぱじぃちゃんの雷は癖になるなあ!」

 春野宮は思わず笑声を立てた。

 間を置かず、東塔地区からも陣貝が響く。

 だが、翁は応戦途中のはずだ。

『これまでなら、僕も神々廻さんも、最初の法螺貝に呼ばれてそちらに向かうしか無かった。場所を離れた途端、二匹目が現れて』

 今までの戦闘を思い返す。

「鬼の動きを追うだけで、その背後のことなど考えたことも無かったけど」

 春野宮はそうか、と得心した。

「これまで最初の一体は、鬼狩りのいないところに現れてた。雹犀様が陣容を漏らしていたとして、鬼はそこには座主はいないと考える…だけど僕たちは向かうしか無いから、手薄になったところに二体目が現れてたんだ」

『きっと残る二つのどちらかに、霜珠様がいると考えて』

 しかし、これまで、座主の居所は掴めず鬼は撤退するしか無かった。それは霜珠が、身近な者以外に場所を話さなかったからだ。

『霜珠様は、雹犀様を信じてなかった?』

「そんなことない…あの二人」

 では、何故。

 西塔地区に入る。春野宮は、居士林(こじりん)を抜けた。

「神々廻さん…暫くそっちは頼んだからね!」

 嫌な予感が胸中を過ぎったが、釈迦堂(しゃかどう)の虚空に身を躍らすと、一気に視界が開けて剣戟の音が聞こえてきた。

 地上には、散開している澄海の薙刀(なぎなた)隊が、鬼と戦う翁を囲むように位置取り、逃さない様が見える。

「とにかく仕留めなきゃ。まずは、こちらの一体!」

 星空を背に、春野宮の身体が空に留まった、ように…彼らには見えたに違いない。

「三条さん…!」

 驚嘆した声がそこここから漏れて、やがて大きな歓声と共に大気を震わせる。

 春野宮は一矢を番(つが)えた。

 足場がなくとも春野宮の剛弓は、十二分に威力を発揮する。

「空の呼吸 肆ノ型! 十六夜(いざよい)蝉時雨(せみしぐれ)」

 放った一矢が見る間に散弾した。

 地上に向けて、鋭い矢の雨が降り注ぐ。

「はる! お主…儂(わし)まで殺す気か!」

 言うが、翁は笑顔である。こちらを見上げて言いながら、ひょいひょいと矢を躱す様は、

「よく言うよ! いとも簡単に避けちゃうくせにさ!」

「ふぉふぉふぉ!」

 翁は身体を捻り回転しながら、

「雷の呼吸 参ノ型 聚蚊成雷(しゅうぶんせいらい)!」

 間隙に技を放った。

 地を這うように雷が波状に走り、矢の雨に縫い止められた鬼に迫る。

「が、が、ガァアアアアア!」

 鬼は断末魔の叫びを上げて、藻掻いた。

「雷の呼吸 壱ノ型 霹靂(へきれき)一閃(いっせん)」

 間断なく、翁が迅雷(じんらい)となる。

 あっという間に距離を詰めた翁は、一閃。容易く鬼の頚を獲った。

「…ふう」

 その傍らに、春野宮が軽快に降り立つ。

 鬼狩りの能力の一端を垣間見た僧兵たちは、呆気に取られた。が、次の瞬間、

「「う…うおおおおおお!」」

 歓声が轟いた。

 深夜であればこそ、辺り一帯に鳴り渡る。空気が震撼した。

 突如、陣貝が三度、夜空に響いた。鬼を仕留めた合図だ。勇壮に鳴り響く轟音は、夜空の星々を打ち落とさん勢いだった。

 悦びに打ち震える僧兵たちに、ほっと一息着き掛けたとき、隣の翁が聞こえるやっとの声で言った。

「はる」

 顎をくい、と一度上げた様に、そちらを見る。

「鬼が…消える!?」

 刮目(かつもく)して見入った瞳に、獲った頚が口の端を上げた。下卑(げひ)た笑いだった。

「じぃちゃん…!」

 何とも言えない感情が春野宮の表情に表れたとき、

「柳生殿、三条殿…!」

 駆け寄り礼を言う澄海に、翁が片手を上げて、

「これより神々廻の援護に向かう。もう一体仕留めねば、意味は無い」

 春野宮は頷いた。今見たことは口を閉ざし、

「ちょっと呆気ないのが気になるよ。急ごう、じぃちゃん」

「そうじゃな。澄海殿、後は頼む」

「はい! こちらこそ、どうか…どうかお願いします! 霜珠様を…!」

「うむ!」

 春野宮達は地を蹴り、それぞれに天地を駆けて東塔地区へと向かった。

 その時だ、鐘楼(しょうろう)が一度、二度、慟哭を上げたかと思うと、地響きのような音を奏でる。恐らく地を転がり、何かにぶつかる度に大きな悲鳴を上げているのだ。

 春野宮の空を渡る足が一層速くなった。地上の翁もだ。

「神々廻!」

「神々廻さん!」

 切羽詰まった声で二人同時に叫んで、倒壊した大講堂と鐘楼の脇を通り、総本堂からはやや離れた広場に到達する。

「はる! 翁!」

 言った神々廻が、斧を振り上げる。足元の大地が隆起して、地形を瞬く間に変えた。

「岩の呼吸 肆ノ型 流紋岩(りゅうもんがん)!」

 石塔のように岩の連なった大地が、踏み込む神々廻と呼応して鬼に襲いかかる。

 翁が援護に入ったのを見、春野宮は一先ず辺りを確認した。

『一も僧兵もいない。神々廻さんの技が豪快だから、きっと避難させてくれてるんだ』

 瑠璃華院麾下の者達とは言え、護るべき者達に変わりは無い。ほっ…と、良かったと、口角が上がった。

「よし…!」

 鬼に視線を向けた春野宮の表情が一変する。

 神々廻、翁の立ち位置を踏まえ、矢の軌道が彼らに向かない場所を常に把握して飛翔する。矢を放っては、二人の技を援護した。

第七話・弐・: テキスト
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