第七話:痣
・壱・
西塔(さいどう)は浄土院(じょうどいん)から通りを一本挟んだところに、小さなお堂、椿堂(つばきどう)がある。春野宮(はるのみや)は堂の出入りから、今夜西塔を巡回する大師(だいし)の一派を眺めた。
今日の春野宮の警護は東堂(とうどう)だ。西塔の護りは神々廻(ししば)が担当する。だが、翁(おきな)が合流すると聞いて、移動に身軽な春野宮が神々廻の詰める椿堂に足を運んでおいたのだった。
獣の声もすっかりなりを潜める深夜、
「じぃちゃん!」
一(はじめ)に連れられて姿を現した鳴柱(なりばしら)に、欣喜(きんき)の声を上げた。
実に、一月ぶりの再会だった。思わず春野宮は駆け出して、
「寺のもんは前置きが長すぎる」
凝った肩を回しながらぼやいた翁に飛びついた。
「柳生(やぎゅう)殿!」
神々廻も堂の奥から姿を現して、相好を崩した。
彼の目は、春野宮が翁に頭を撫でられたところを見たのだろう、笑みは消えぬまま、
「まあ、そう言わないで下さい」
二人を堂の中へ招きながら言った。
「寺なんて、見栄でできてるようなものです。歴史が長ければ長いほどに」
春野宮は翁に先に入口を譲り、再度、外の僧兵たちを眺めた。今宵何度目かの交代の時間に居合わせたようで、団が入れ替わる。釈迦堂(しゃかどう)や居士林(こじりん)の方へ向かうのを見送った。
堂の中からは、翁の、
「お前さんからそのような言葉を聞く日が来ようとはのぅ」
「僕、現実見た気がする。ここへ来て」
言いながら、中へ身を滑らせた。
すぐさま、一が入口に仁王立ちになって外部からの人の入りを遮断した。
「ふぉふぉふぉ! 極楽(ごくらく)浄土(じょうど)は遠いのう」
「やめてよ、じぃちゃん」
三人は一頻り、再会を喜び合った。
「師匠や巌勝(みちかつ)は…元気?」
「縁壱(よりいち)も巌勝も、それぞれに休暇を取っておったな」
「…え?」
図らずも、緊張を帯びた声になった。翁の表情も硬くなって、一層、どきりとした。
「まあ、縁壱が時折思い立ったように休暇を取るのはな。珍しくもないが…巌勝は、昼間逢うた時は、顔色が悪かったの。折角の休暇じゃったろうに」
「何かあったの…」
「それはわからん。何せ、儂(わし)もここへ来る直前じゃったしのう。鞍馬(くらま)にな、足を運んでおったんじゃ。義政(よしまさ)と合同休暇を取ってな」
「!」
「偶々(たまたま)里を出るところで、帰ってきた二人と会ったんじゃ。何事もなければいいんじゃが」
「そんなに具合悪そうだったの、巌勝」
「うむ…ま、梗岢(きょうか)がおる。甲斐甲斐しく世話するじゃろうし、巌勝も、梗岢が一緒なら大丈夫じゃろう」
春野宮は息を飲んだ。
巌勝とは、縁壱ほど付き合いが深くはない。
彼にとって義政が大切な人であろう事は推察していたが、まさか、雷の後継が心に入り込んでいようとは、思ってもみなかった。
『それとも。義政? 僕が夢を見たのは昨夜だ。義政と巌勝の間に何かあった? ううん、それは僕の夢より過去の話じゃないのか。それとも、夢を見た直後…明け方? 昼? いや…もしかして、師匠の方に、何か…』
分からない。
春野宮が頭を振った時、翁が居住まいを正した。
「さて。今宵も来るかの」
神々廻が頷きつつ、
「手短に、陣容と、これまでの戦果をお伝えします、翁」
「じゃな。頼む」
二人が比叡の地図を挟んで、話をし始めた。
その間も、春野宮は、翁から聞いた話を反芻せずにはいられなかった。だが、ここに彼らはいないのだ。
『考えても無駄だ…忙しすぎて、柱全員の行動を掴んでおくなんて、到底無理だもの。ううん、柱だから、忙しいんだ。互いに互いを信頼して任せてるんだし、だからこそ、休暇も取れるんだし』
自分や惣寿郎(そうじゅろう)が、時間が合えば縁壱と過ごすように、巌勝とて義政や梗岢と過ごすのだろう。任務で何処に行くかくらいまでなら知りようもあろうが、個人的なことなど分かりはしない。
『きっと、柱全員の行動を把握してるのって、表管理の惣寿郎か、裏管理の美濃部(みのべ)さんくらいだ』
春野宮は気を引き締め直し、二人の会話に耳を傾けた。
話は既に、隊を組み直して今に至るところまで進んでいる。
「では、神々廻は意味が無いと?」
「そこまで断言はしませんが、隊を組み直してから、動きは劇的に良くなりました。守りが強固になったためか、鬼の襲撃は夜半(やは)にはなくなる」
「今夜だって、時間だいぶ過ぎてるよね? もう、姿を現さないかも」
「どうも様子がおかしいとしか」
「うむ…」
呻いた翁に、春野宮は補足した。
「ちょっかい出しては消える感じなんだ。依頼を出したときには本気だったのかも知れないけど、今は座主(ざしゅ)を狙っているのかどうかも怪しいよ? 大体、建物に近寄ることはないし、探してる気配すらないもの」
「どうやら思っていたより、事態は深刻そうじゃの?」
翁の言葉を聞きながら、春野宮は一度胡座を組み替えた。
神々廻が言う。
「今回、翁は如何(どう)してこちらに? 俺らは、鴉(からす)はもちろん、書面を送ってもいませんが」
「神々廻さんと丁度昨夜、話した所なんだ。一旦戻ろうかって」
かいた胡座の足首を両手に掴んで、
「此処(ここ)の僧たちも戦い方は覚えただろうし、僕たちがいても意味ないって感じる。頚を獲るより追い返す方を選んでるんだもの」
「なるほどの」
翁は長い顎髭(あごひげ)を何度か撫でた。深い溜息を吐く。
「儂がここへ来たのは、霜珠(そうじゅ)殿の二度目の依頼があったからじゃ」
「! そうでしたか…」
「てっきり、お主らを介して送られてきたものと思っておったが…現場をないがしろにするとは、比叡(ひえい)はげに驕傲(きょうごう)じゃの」
春野宮は神々廻と顔を見合わせた。
「待って、僕たちの手に負えないとでも書いてあった?」
「…いや?」
不審そうに翁が否定した。
神々廻が一歩膝を進め、
「俺ら、霜珠殿に逢えないんですよ」
「何じゃと?」
「今、僧兵の指揮を執っているのは兄君の瑠璃華院(るりはないん)です。現在の形に僧兵たちを組み分けるとき、僧兵を纏めているのは瑠璃華院だからと、管轄が霜珠殿から移ったんです」
「じぃちゃんも詳しいんじゃないの? 二人の関係」
春野宮が問うと、翁は絶句した。
「比叡の跡目(あとめ)騒動はまだ収まってはおらぬのか」
「それは分かりかねますが、あまり好ましい関係ではなさそうですね」
「そうか。柱をここに集めてよもや本陣を狙っとるかとでも思ったが」
翁はより真剣な面持ちになって言った。
「鬼狩り関係なく、別の目的があって、鬼を潜ませている可能性の方が高そうそうじゃの」
「霜珠様の、お命…?」
「話を聞く限りではそうじゃな」
断言しなかった翁に、春野宮達が少し間を置く。
「まだ他に、何かあるとでも…」
神々廻が声を潜めて言った。
翁が眉根を寄せる。
「考えてもみい。鬼など使わなくとも、いくらでも殺しようはあろうが。同じ比叡に住んでいるんじゃ」
「ちょっと、じぃちゃん」
「そもそも、あれだけ派手な兄弟喧嘩しおってからに、今更鬼など使ってそんな遠回しに陰険なことするものかいな」
「翁にはどうやら、思うところがありそうですが?」
神々廻が姿勢を正すと、翁が頷いた。
「追い返すだけ、と言うのが気になる。比叡は足利初代から武家社会(幕府)とは敵対している一大組織じゃ。もし、鬼と手を組んで、京(みやこ)の簒奪(さんだつ)を狙っているとしたら?」
「! そんな大がかりなことする? 大体、鬼なんか使ったら信者が黙ってないでしょ」
「鬼は夜しか活動せんのじゃ。民達に分かるものかいな。鬼とて隠れ蓑ができて万々歳じゃろ」
「まさか…」
「現・座主の迦楼羅院(かるらいん)霜珠は、京では穏健派(おんけんは)として知られる温厚な方じゃ」
思わず「え」と春野宮が呻くと、神々廻がにやりと笑った。
何となく翁はその理由を察したようだが、敢えてそこは触れては来ず、
「主らが瑠璃華院雹犀(ひょうさい)の元に与してしまったからの」
「そういう訳じゃないけど」
「訳じゃなかろうが、逢えないなら指示もできん。実際鬼は野放しなんじゃろう? 霜珠殿は、止めて欲しいんじゃないのかの。兄君のやろうとしていることを」
「「!」」
思ってもみないことが翁の口から漏れて、春野宮は神々廻と顔を見合わせた。
あの二人を見る限り、かなり無理がありそうだと思いつつ、
「本当に…、そう言った理由で…」
「主らは若いからの。知らぬじゃろうが」
溜息交じりで言った翁は、何とも言えない顔付きになった。
「別の腹から三男が産まれ、その奴を唆(そそのか)して二人の仲を裂いたのは、三男の母君である側室(そくしつ)のお琴の君じゃ」
「…ええ?」
「若かりし頃の雹犀殿と霜珠殿は、それはもう仲が良くてな。この二人が比叡を守ってくれれば京は安泰と、一昔前は、「麗しきは花の京、糾(ただ)したるは比叡の日輪(ほむら)」と、謳(うた)われたもんじゃ」
「…だからこそ、三人の跡目争いは巷(ちまた)へ噂が…?」
「然(さ)もありなん」
翁は嘆息をついて、立ち上がった。
一度外を見に行くが、特に何事もなく夜が明けようとしている様子に、刹那の間だけ安堵の表情になる。
「儂らには不思議なもんじゃ」
翁は一に「ご苦労」と声を掛けると、振り返って言った。
一はちらりと背後の翁を見ては軽く会釈をし、再び、表に見向く。忠義な背中が、春野宮には、頼もしく思えた。
「その騒動が収まった後の事じゃ。比叡はの、ぱたりと。それはもう、鮮やかなほどに…ぱたりと。諍(いさか)いがなくなったのじゃ」
「…どういうこと?」
「二人は、仲違いの振りをしたままかも知れん。と。言うことじゃな」
「え!?」
「そうか…!」
神々廻が顎に手をやり呻いた。
「あれほどの大きな騒動の後は、そう簡単に始末が着きはしない。だが、逆手に取れば、膿(うみ)を出し切ることができる…!」
「そういうことじゃ」
「二人に悪事を働く囁きを呟こうものなら、皆の知らぬ間に、闇から闇へ…」
「全てを刈り尽くして、今があるって事?」
「ま、推測じゃがの」
翁は頷き、四人は、夜明けを迎えた。
目映い光に目を細めながら、暁光(ぎょうこう)を見る。
「お優しい霜珠殿は心を痛め続けておるかも知れん。じゃが、兄君の雹犀殿は、一度飲んだ毒は皿までと覚悟しておるのじゃろう。仕上げに、弟の為に、京を手に入れようとしているのかも知れん」
「そんな! だからって、鬼まで使って…!」
「だからじゃ。京が比叡の管轄下に入れば、…せめて対等以上に力を持てば、弟も。その末裔(まつえい)も。少なくとも…今以上の争いを見ることはない」
「っ…」
「戦国の世ぞ。いつ比叡が焼かれるか。それは誰にもわからんのじゃ」
春野宮は思わず、立ち上がった。震える拳は掴んだ弓に伝わり、弦が泣く。
「だからって。僕は認めないよ!? 鬼は駄目だ。どんな理由があろうとも、鬼だけは、許さない」
「…はる」
「じぃちゃんが話してくれた通りだったとしても、僕は迷わない。僕は、鬼狩りなんだ」
翁が神々廻と顔を見合わせた。
二人とも、納得したような笑みを浮かべる。
「そう言うと思ったぞい」
「お前が一番、…柱の中ですら、誰よりも。一番、鬼狩りらしい鬼狩りかも知れんな。はる」
「神々廻さん…っ」
「ははっ」
二人が笑った。
「お前のような柱がいなければ、鬼殺隊は成り立たんよ」
「そうじゃの。時代が穏やかになれば…きっと。雪や縁壱のような鬼狩りこそが世を纏めて行くじゃろうが。残念ながら、まだ、時代は奴らに追いついてはおらん」
「時代…」
「世が混沌としておれば、鬼も悪事を働くばかりじゃ。情けなぞ要らぬ」
「うん…!」
「比叡の思惑はどうあれ、ともかく鬼を放置するわけにはいかん。片を、着けようぞ」
固く頷き合った三人は、一先(ひとま)ず、各地域へ散った。陣貝(じんがい)が鳴り響かなかったのだ、各警備に問題は無いと思いつつ、確認は取らねばならない。
東塔へ向かう林の中で、春野宮は、
『師匠…』
縁壱を思った。
『鬼を狩ることは、無駄な殺生では無いはずだ。けど、師匠は…』
鬼を憎み狩ることと、命を狩る痛み。
『相反するものが、師匠の中にはあるのかも知れない。だからこそ、師匠は、鬼舞辻(きぶつじ)を許せないのかも知れない…』
鬼、その者ではなく。
鬼の始祖(しそ)こそ。
『刀を振るう意義は、師匠にとっては、命を奪うということに直結するんだ。鬼を狩るという使命に繋がるんじゃない。だから、苦しくて…。師匠は…この世の理(ことわり)の、根源を、きっと、視てる――――』
「巌勝」
春野宮は、東塔の入口で歩を止めた。
ゆっくりと、出迎えてくれる僧兵の輪に笑顔で入り込み、報告を受けては頷く。さりげなく輪に溶け込んだ一が後は纏めてくれ、春野宮は、人垣を少し離れて天を仰いだ。
「貴方が鬼になったら。師匠は…!」
『討つ。討ち取る。師匠は泣かせない。憎悪なら、僕が受ける。一生を――――賭けて』
「春野宮様」
「ん!」
一の声に、春野宮は日輪を背負って振り返った。
「翁と神々廻様の鴉が戻りました。皆、問題ないようです」
「そっか、良かった。次の対策を練らないと駄目だね。やっぱり一度、霜珠殿と話すべきかな」
「二人ともすぐにお戻りになられるようですが…朝のお勤め前に、」
一の言葉に、春野宮の瞳が輝いた。
「流石、一! そうだよ、そうしよう。君は本当、頭の回転速いなあ」
笑顔になって言うと、一も照れたように笑って、
「こちらです、この時間帯ならそろそろ奥の院からお姿をお見せになられますよ」
「よし! 行こう、一。…日ノ卯(ひのう)!」
『あいよ!』
「神々廻さん達に…」
『ほいほい、任せな!』
何を告げることもなく、翼を広げて風に乗った日ノ卯に、春野宮は声を立てて笑った。
「僕の周りは僕より優秀な者ばかりだ」
「弓で敵わないんじゃまだまだなんですがね」
「言うねえ! 頼むよ、一。君たち昇(のぼり)麾下(きか)は、僕の自慢だ!」
「! はい…!」
二人は駆け出して、奥の院から繋がる総本堂へと目指した。