第六話:比叡
・肆・
その夜。
何日かぶりの夜の休息を、春野宮(はるのみや)は比叡(ひえい)で迎えた。
『月が膨らんできてる…』
満たされる日は、近いのだろう。
まだ山の端(は)は朱い。落日(らくじつ)を追いかけるように望月(もちづき)が昇ってきたのを見、春野宮は、里に残してきた縁壱(よりいち)と巌勝(みちかつ)を思った。
『どうしてるかな、二人とも』
暦は既に、月を跨ごうとしている。比叡に入ったのは、霜月(しもつき)も始めの頃だ。
今ではすっかり頼もしい比叡の僧たちに、鬼殺隊柱の自分たちでさえ、十数日ぶりの休みを取れるようになった。
先日は、神々廻(ししば)がゆっくり身体を休めたところだ。
今宵は春野宮に時間が振り当てられ、数日ぶりに、夕刻より湯浴みを堪能したばかりだった。
出し抜けに、
「はる。じゃ、そろそろ行ってくる」
背後から神々廻の声が聞こえた。
「あ、うん!」
驚いた拍子に勢いよく見向きながら返事をした。明るい表情の神々廻を見ては、春野宮も少しほっとして、
「ね、神々廻さん」
すれ違うところで、春野宮は声を掛けた。真面目な顔だった。
「どうした」
神々廻のそれも神妙になり、足が止まる。
「僕思うんだけどさ、一旦…里へ戻らない?」
「え?」
「ごめん、大事な話になるよね。神々廻さんが無事戻るの、待ってる」
「それはいいが、徹夜はするな? 折角の休みなんだ、しっかり睡眠を取って、身体を休めるんだぞ?」
「神々廻さん…うん。ありがとう」
「俺も気にはなってる。戻ったら、話そう」
「! うん!」
再び「行ってくる」と駆け出した神々廻には手を振って、春野宮は、
「気を付けて!」
声を掛けた。
沈む夕日を追うように、西塔(さいどう)の方へ向かった神々廻の姿は、すぐに黒い影になった。山の木立に囲まれて、巨体もそれとなく同化してしまう。
『神々廻さんの言った通りかも知れない。何かあればどうせ目が覚めちゃうんだし、早く休んで少しでも躯の疲れを取ろう』
「春野宮様」
神々廻を見送って庵に足を向けた春野宮に、一(はじめ)の声が届いた。
「酒粕が届いたので甘酒作りましたよ」
「わ!」
「躯も解れますし、お休み前に少し召し上がって下さい」
「そうだね、そうしよう」
二人肩を並べて室内に戻る。
厚みのある湯飲みに、少し濃いめの甘酒を入れて持ってきてくれた一には礼を言って、火鉢の前に座った。一は火鉢から蝋燭に火を点けて、
「鴉…戻ってきたのですよね?」
甘酒に息を吹きかけて熱を冷ましていた春野宮は、頷いた。
一が室内の燈台に火を点けて回るのを見てから、ゆっくりと口に含む。
「美味しい…」
「良かったです」
ありがとね、と面を上げて、
「比叡近辺では鬼の被害はないそうだよ。やっぱり…潜伏しているとしか思えない、ここにいる鬼」
「不思議ですよね? 昼間はどうしているんでしょう。夜だって、毎夜現れるわけでもないですし」
「それなんだ。あまり考えたくはないことだけど…ここが匿(かくま)っているとしか」
一が息を飲む気配を感じた。
春野宮は少し間を置いて、
「明日、神々廻さんには話してみるよ。僕たちより、惣寿郎(そうじゅろう)や翁(おきな)に来てもらった方がいいのかも知れない。比叡の内部と遣り合うつもりで話を付けるなら、独自に武力を持ってて、決定権のある柱じゃないと駄目だ。神々廻さんは高野(こうや)に籍を置いたままだし、難癖付けてこないとも限らないしね」
「しかし、あの雷の継子(つぐこ)の件では、返ってそれが邪魔になったのでは? 一族の力を借りるのは…」
「実際に借りるわけじゃないよ」
春野宮は「はふっ!」と大きく息を吐いた。真っ白い吐息が大きく漏れ出て、一が微笑む。喋りながら口に含んだ甘酒の量は、思いの外多いようだった。
春野宮は飲み込み落ち着くと、続けた。
「ただ、僕たちでは駄目なんだ。最初に霜珠(そうじゅ)様と対面したときの態度を見たろ?」
「…ああ、そうでした…」
落胆した一に、春野宮の動きが止まる。両手で湯飲みを包んで抱えた膝に乗せると、火鉢を見つめた。
端正な顔に、影が落ちる。辺りはすっかり、暗くなった。
「どんなに鬼狩りで名を馳せてもさ」
春野宮の口調が自嘲気味な笑みを含んだ。
「世の中は、金と権力と、武力で回ってる」
「春野宮様…」
「それはそうだよね。皆、京(みやこ)を目指して命を賭けているんだもん」
「春野宮様がされていることだって、十分立派なことです」
思わず強い口調になった一の言葉に、春野宮は面を上げた。
もう一口含んで、笑みを零す。それは周りに見せる、作り笑いではなかった。
ずっと傍らで弓の鍛錬に励み、時にはこうして側仕えをも果たしてくれる彼だ。その違いはちゃんと伝わっているようで、
「もどかしいですね…まさかここまで来て、こんなに手こずるなんて」
話を元に戻してくれた。
「ホントだよ。鬼も鬼なら匿う人間も人間だ。どんなに政治的に利用価値があろうと、鬼と結託するなんて、僕は絶対に許せない…!」
「春野宮様…」
「…ごめん。最後の最後で、興奮しちゃった。落ち着くようにって、淹れてくれたのにね、これ」
春野宮は湯飲みを少し掲げた。小さく微笑むと、長い髪が揺れる。
一は「そうそう!」と更に笑って、
「どうかゆっくり休んで下さい、春野宮様。ここずっと、気を張り詰めておいででしたでしょう」
「なんか不思議な気分だけどね…城攻めしている気分だ」
「ほらまた。考え始める。春野宮様の悪い癖ですよ」
「あ」
おかわりは? と尋ねてきた一には丁寧に断りと礼を言って、春野宮は長い吐息を漏らした。肩を上げては勢いよく降ろして解す。それを何回か繰り返して後、
「ん、じゃ。少し寝るね。一、悪いね」
「お気になさらず。何かあればすぐ起こしますから」
「分かった、頼りにしてる」
「はい」
少し離れたところに席を移した一に「おやすみ」と声を掛けて、春野宮は、枕元の灯りは消した。
弽(ゆがけ)は頭上に、弓は床(とこ)の脇に、その姿を一が部屋の隅で見守ってくれている。小さな燈台の炎一つで書物を紐解く彼の姿が、とてもありがたいと思った。
やがてゆっくりと眠りに落ちた春野宮は、その日、久方ぶりに、あの『夢』を、見たのだった。
――――「必ず戻る!」
雪之丞(ゆきのじょう)が叫んだ。
『同じ…! 同じ始まり!』
夢に辿り着くなり、飄々(ひょうひょう)と風が吹きすさぶ上空から一気に下降して、雪之丞の言葉を聞いた。
前に見たときは分からなかった、彼のすぐ側にいる人物が特定された。
『燐寧丸(りんねいまる)様…!』
何故?
疑問が湧いた。
『いやそれよりも。はっきりと相手を見たんだ、きっと、未来が確定されつつあるに違いない!』
戸口に立っていた燐寧丸は、絶望と悲嘆と怒りとに震えて、雪之丞に護られていた。側仕(そばづか)えの者に声を掛けられ先に廊下を行く。
切羽詰まった声で雪之丞が言った。
「はる! 死ぬなよ、いいな、なんとか持ちこたえてくれ!」
「分かってる! 頼りにしてるよ、雪!」
「ああ!」
昇(のぼり)麾下(きか)の姿も見えない。
本陣に来たのは自分一人だったのかも知れない。
そうして、御館様と嫡男(ちゃくなん)の輝王丸(きおうまる)を背に、巌勝と対峙するのだ。
弓を握る手に、大気の渦が集まってきた。荒々しい風音も、その心音も、すぐに凜と張り詰めた冬の朝のように静まり返る。
「制御可能であったか…。流石は縁壱が認めた弓使いだな」
「巌勝…!」
刀を構える宵柱(よいばしら)に、もう一人の自分は為す術がなかった。背後に二人を守っていては、距離を取ることもできない。
巌勝が不敵に笑った。
「お前を倒す前に、二人を殺すことはせん」
「っ…」
春野宮は飛びじさり、反対側の庭へ出た。すかさず巌勝が追ってくる。月影(げつえい)が弧を描き刃となって、駆ける軌道に沸き立った。
応戦する自分自身を見ながら、
『巌勝の言を信じて庭に出たもう一人の僕も、そして巌勝自身も、互いに互いの性根は分かってるんだ。理解し合ってるのに、どうして!』
離れすぎても巌勝の技は飛んでくる。
近付きすぎては直接斬られる。
その絶妙な間合いをもう一人の自分は取りながら、鏃(やじり)が描く気流に斬撃を乗せて月を流し続けた。
こんな戦い方を覚えたのも、彼と何度も手合わせをしていればこそだ。
命のやり取りこそ、なかったものの。
「お前もこちら側に来るならば…見逃してやるぞ」
クク、と笑みを零しながら、巌勝が刃を袈裟(けさ)に振るった。
「何言ってるの!」
迫る三日月を上空へ飛んで避けながら、
「巌勝、目を覚まして!」
「はる…言ってたろう。お前も、弓の道を究(きわ)めると…!」
「!」
「お前の弓技は既に完成している。だが…洗練され極めたときには、息絶えるのだぞ」
「巌勝…それが理由なの? たった、それだけで!?」
「たった、だと…!?」
巌勝の痣(あざ)が、燃え上がるように揺らめいた。
闇色の闘気が足元から滲み出、辺りの景色を飲み込んでいく。
「ふざけるな!」
怒号が天を衝いた。
空気が震撼し本陣が軋む。
「お前らは、何も分かっていない…!」
腹の底から絞り出る、悲鳴にも慟哭にも似た叫び。
『変わらない…前に見た夢と、何も! それどころか、よりはっきりと想いまで伝わってくる…!』
春野宮は、再び胸を押さえて身を折った。
この光景を見た初めての夜も、そうして涙を堪えた。だが、現実の己は耐えきれずに、吐き戻したのだ。
それを縁壱が、支えてくれたのだ。
この会話の行き着く先も、顛末も知っていればこそ、まだ、今回は、冷静でいられた。
ふと、
『そう言えば、巌勝のあの傷…いや、痣? 紋様? なんでできたんだろう…』
目が行った。
前は話の内容にばかり気を取られて、痣ができた理由にまで思いが寄らなかった。一瞬疑問に浮かんだ気もしたが、すぐに会話に耳を傾けてしまった。
『何か、意味があるの…?』
師匠に痣ができた理由なんて、聞いたこともなかったけど。
そんなことを思いながら、春野宮は、二人の上空を飛んだ。初めは巌勝の痣をしっかりと目に収めようと…、ただの傷かも知れないと、彼に近寄っただけだった。
だが、
『!!』
確認してその場で反転したとき。
もう一人の自分を正面に捉えて、痣が浮き出ていることを知った。
『うそ…!!』
腰が抜けるほど驚いて、その場で何度か弾んだ。地に転び落つる事ができないからだ。
『形は違うけど。間違いない。僕にも…浮き出てる!?』
その時だ、
「お願い、目を覚まして…! 巌勝!」
「こざかしいことを…! 本陣ごと、消えてしまえ…!」
「巌勝!」
『巌勝…!』
夢の終わりがやってきた。
この後本陣は、巌勝の大技で瓦礫と化すのだ。
そして、自分は、死ぬ。
『きっと、未来は、今。確定した――――』
でなければ、これほどはっきりと、何もかもを視ることができることなど、ない。
「……春野宮様?」
失意の中目が覚めて、すぐに一の声が耳に届いた。
顔を覗き込んでいることを知った。額に何か冷たい物が当たっていて、それが、玉汗を拭う一の優しさであることに気付いたのは、間を置いてからだ。
「大丈夫ですか…、随分とうなされておいでで」
身を起こしながら、痛む頭を押さえた。
「ずっと、側にいてくれたの」
「え? ええ、まあ。苦しそうでしたので」
「そっか…ありがとう、一」
「白湯入れてきます。そろそろ日の出ですよ」
「あ…」
気にもしなかった外の様子を、春野宮は、首を回して見た。
格子の障子の向こうに、少しずつ、暁の光を見る。宵闇が暁に滲み溶けて、まるで切り絵のように、山の影が障子に映っていた。
ずっと火の番をしてくれていたのだろう、部屋は暖かく、白湯もすぐに出てきた。
そっと差し出されたそれを手にとって、口に含む。
滲む温もりに涙が溢れた。
「春野宮様?」
初めて、辛いと思った。
「僕は…!」
縁壱の前では見せられなかった、別の弱さだ。
彼と並び立つために、常に、気を張っている部分は確かにあった。
柱として。
惣寿郎のように、必要とされたくて。
子供としては甘えることがあっても、弓士としては…鬼狩りとしては、決して、甘えはしなかった。
「くっ…」
それが、初めて崩れた。
『巌勝は、もっと苦しかったはずだ。双子で。比べられて』
身を折った。
震える腕をなんとか床の脇にやり、倒れないように湯飲みを置く。そうして強く、両手で布団を掴んだ。奥歯を噛み締めて嗚咽を堪えた。
『兄として、前を行く自分自身を、許せなかったはずだ。師匠に…弟に、負けることなんて…!』
そうして、我が身の三条を思い出した。
あの頃。
家督(かとく)争いほど醜いものなどないと思っていた。
だが、世は、戦乱の世だ。
余程別の何かで魅了できるモノでもない限り、弱き者に人が従うことなどない。
その腕があり。決断力があり。常に最前線を走っていられるからこそ、家臣(かしん)は付いてくる。任せられると頼ってもらえるのだ。
『だから、僕が武家三条へ行くことを、次男の実紀(さねのり)殿は簡単に許したんだ。兄の実則(さねつね)殿のことなど、眼中にもなくて。もしかしたら、実紀殿は。本当は誰より一族のことを…!』
「春野宮様」
一の優しい声がまた、聞こえた。現実に呼び戻してくれる。
「…ごめん」
「いえ、いいんです。もう一眠りしますか?」
涙を拭い、彼を見た。
「先程神々廻様もお戻りになりましたし、夜には、翁がいらっしゃるようですよ」
「…え?」
「鴉が先乗りしまして、伝言を。比叡、討ち取れと」
「! そっか…」
「翁がいらっしゃるまで、まだ十分時間があります。後は私が引き受けますから、良かったら」
春野宮は、何とも言えずに笑みを浮かべた。
『何か大きな物事が起きる前、僕は必ず夢を見る』
「起きるよ。神々廻さんと話さないといけないし、翁が来る前に、肩も馴らしておきたいし」
『比叡はきっと、一つの節目なんだ』
「分かりました。隣室で神々廻様が先に朝餉(あさげ)を召し上がってらっしゃいます、」
「そか。顔を洗ってくるから。準備よろしく」
「! はい!」
一の顔が明るくなった。
『良かった、ごめんね…』
と、春野宮は内で思う。
『やり遂げる。僕は、鬼狩りだ』
お勝手へ降りながら、思った。
まだ、諦めてはいない――――。
だが、変わらぬ未来なら。
『巌勝を、討つ――――!』
そうして、願うもう一人の自分をも、いることに気付いた。
どうか、鬼に、ならないで。
自分を大切に…愛してあげて。
人である、『継国巌勝』を――――。
「巌勝…」
冷たい水に手を浸し、目を伏せて顔を洗った脳裏に、
「はる」
縁壱の温かい笑顔が浮かんだ。
愛宕(あたご)の、惣寿郎の屋敷へ初めて二人で行った時。
満開の桜が散る中で、自分を優しく呼んで振り返ってくれた、あの時の、優しさ。
『師匠…!』
彼を想うと、胸が軋む。
『師匠は何も、悪くない。巌勝だって、悪くない。人を妬んだり羨んだり、そんなの普通だ』
だけど、と、思う。
『すれ違ったままなのが、辛い…!』
「師匠、ごめんね」
溢れるものを洗って流して、手拭いで拭いたときには覚悟が決まった。
「僕は、討つよ。師匠には…きっとできない。誰よりも大切な、兄君だもの」
そうして、もう一人にも、謝った。
『巌勝。ごめんね。鬼になったときは――――僕は、容赦しない。どんな理由があろうとも。鬼にだけは。なったら駄目だ』
春野宮は、深呼吸をした。
一回大きく肩を揺らして息を吐くと、両手で頬を強く叩く。顔に笑顔を戻した。
「神々廻さん! お帰りなさい」
「お。はる! 大丈夫か? 体調」
「うん、平気。なんか踏ん切り付きそうじゃない? 比叡」
「そうだな。業を煮やしたのは、俺たちだけじゃなかったって訳だ」
「流石本陣。だね」
「全くだ!」
春野宮は、遙か未来を望む仲間と共に、笑顔で、その日の朝の膳を囲んだ。
第六話:比叡・完・
第七話へ続く