第六話:比叡
・参・
夕刻、その日全ての公務を終えた霜珠(そうじゅ)と、春野宮(はるのみや)達は面会した。
場所は総本堂(そうほんどう)だ。
吹き抜けた本堂に身を忍ばせる場所などなく、外の警備は一番弟子・澄海(ちょうかい)の手の者が固めた。
何より、本堂の中心にいたなら、三人の話す声は外まで響かない。柱二人が側にいればこそ、重要な話をするには適所と言えた。
天台(てんだい)座主(ざしゅ)・迦楼羅院(かるらいん)霜珠は、神々廻(ししば)より多少歳が上のように思えた。もう少し年配であろうと踏んでいた春野宮は、現れた大人に瞠目した。整った面立ちで、僧侶でなくとも京(みやこ)なら、顔で食べていけそうなほどだ。むしろ、頭髪を丸めた姿の方こそ艶(なま)めかしく、威厳と言うよりは色気があった。
見れば、神々廻は当然のように受け止めている。一(はじめ)は本堂に入ったときより隅に控えて、自分たちからは死角となる箇所を確認できる位置を陣取っていた。全くもって、できた弟子だと思った。
「霜珠殿」
神々廻が切り出した。
低い声が本堂の冷気を震わせた。
「お初にお目にかかります。鬼殺隊岩柱・神々廻主水(もんど)と申します」
「あ。昇柱(のぼりばしら)、三条(さんじょう)春野宮天晴(たかはる)です」
「なるほど。澄海が話していた凸凹(でこぼこ)とはまあ…確かに」
くすりと微笑んで毒づいた霜珠に、春野宮は一驚した。大凡、そう言うことは口にはしなさそうな外見だったからだ。
『ひねくれてそう…こんな所に閉じ込められてたら、そうなるのかなあ』
春野宮もねじ曲がった感想を抱きはしたが、口に出すのは流石に控えた。喧嘩をしに来たわけではない。
霜珠が言った。
「鬼殺隊には九人の優秀な鬼狩りがいるとは聞いていましたが、また…特別な二人が来ましたね」
隣で若干雰囲気の変わった様を感じる。霜珠がそれに微笑みながら、
「高野(こうや)の僧と、山城(やましろ)で鬼に喰われたという三条の跡取(あととり)がおいでになるとは」
春野宮の顔も苦虫を噛み潰したようになった。
「世間の噂とは、全く当てにならないものです」
「兄君は、元気であらせられますかな?」
ふと、神々廻が言った。反論だったのだろうか、霜珠の面からその刹那だけ笑みが消えた。
辺りが一層冷え込んで、春野宮は内心慌てた。
「ね、僕たち比叡(ひえい)の僧兵の陣容を知りたいんだ」
「…ほう」
神々廻を睨(ね)め付けていた瞳が、こちらを向いた。
『っ…』
胸を錐(きり)で突かれたようだった。綺麗な顔をしているだけに、鋭さが増す。
たじろいだ春野宮ではあったが、豪胆さは神々廻に引けを取らない。すぐに平静に戻った。
「昨日の陣貝、鬼出現の音って事で合ってるよね?」
神々廻のようには、敬語は使わなかった。
『どうせ見た目でもう見下されてるんだ。構うもんか』
「そうですね、確かに鬼出現の陣貝です。鬼が二匹いまして、突拍子もなく姿を見せるもので、一先ずそのように、兄が、対応させました」
「兄…」
春野宮は何気なく復唱した。そこだけ強調されたからだ。
『神々廻さんが話した兄君のことかな』
「瑠璃華院(るりはないん)はまだご存命でしたか」
神々廻が言うと、霜珠がまたも顔色を変えた。今度はよりはっきりとした違いが分かった。
『比叡を治める座主がこれでやっていけるのかな。なんか…最初に感じた印象と全然違う、話すと』
「貴方が何をご存じかは知らぬが」
霜珠の声色に怨嗟(えんさ)が混ざったように感じられた。人々に教えを説く身からは想像しがたい声だ。
「比叡の政治(こと)に口を挟むのは慎んでもらいたい」
「元よりそのつもりだけど? 僕たちがここに来たのは、鬼を退治するためなんだ」
「昇柱殿」
「さっきから何をそんなに怒ってるのか知らないけど、こっちは昨晩の、まるでなってない陣容に辟易(へきえき)してるんだ。話に集中してくれないかな」
「はる」
神々廻がふ…と、笑った。
『ますます挑発してるから、神々廻さん!』
とは思うが、次いで、「分かった」と理解したように表情を変えた彼にはほっとして、
「どうなってるの? 僧兵の指揮」
霜珠の顔が真っ赤になった。
春野宮の言の方が、辛辣だったようだ。少年はそれにはまるで気付かなかったようで、霜珠が震えながら拳を握る。
時間を掛けて怒りを収めた霜珠は、ゆっくりと口を開いた。
「…僧兵は、兄に任せてあります」
『また、兄君…』
「陣を組み直したい。瑠璃華院に今すぐ逢うことは叶いますかな」
「叶う、んじゃなくて、呼んできてよ」
春野宮は言った。
「霜珠様、ここで一番偉いんでしょ? 兄君だろうが親だろうが、貴方に決定権があるんだ。僕たちね、そんなに暇じゃないんだよ」
「はるっ…」
とうとう神々廻が笑い出した。
岩柱が何をそんなに堪えきれなかったのか、春野宮には理解しかねた。が、霜珠は絶句して歯軋りすると、立ち上がった。
「誰(た)ぞ! これへ!」
声を掛け、側仕(そばづか)えの者を二、三呼ぶ。
兄君である瑠璃華院をここへ呼ぶよう指示を出すと、驚いた表情になった側仕えの者達にこそ、春野宮は驚いた。
それでも、霜珠の指示は変わらない。頑として言い放つと、足早に散っていった。
無言の時が流れる。
三人、愉快な話ができる様相ではまるでなく、じっと、瑠璃華院が来るのを待った。
春野宮は弓の手入れをし始める。
神々廻が少し困惑したようだったが、待つ時間が無駄のように思えた。
『弓、引きたいなあ。なんかこう…むしゃくしゃするなあ』
落としどころのない感情を、鏃(やじり)を磨くことで一つ一つ消していった。少しずつ綺麗になっていく鏃に、春野宮の顔も穏やかになっていく。
やがて、霜珠の兄である瑠璃華院がその場に現れ、深々と一礼をした。こちらはこちらで、似たり寄ったりの綺麗な顔立ちだったが、左頬から首筋に掛けては豪快な刀傷の痕があり、どうも、肩まで続いているように思えた。
目を見張った春野宮は立ち上がり、
「失礼仕(つかまつ)りました」
凝視したことを詫びた。
だが、瑠璃華院は「いいえ」と微笑むと、弟の横に座り、こちらにも手を差し出した。春野宮も腰を落とす。
「お待たせしましたね。瑠璃華院雹犀(ひょうさい)と申します」
兄は深々と手を付き一礼をすると、乱れた袈裟を整えながら面を上げた。
とても穏やかで流麗な所作ではあったが、瞳の奥は、まるで氷原のようだった。
明け方、話の付いた春野宮達は、何事もなく一夜が明けたことに胸を撫で下ろした。
太陽が昇るのに合わせて、二人と別れる。
「お疲れ様でした、神々廻様、春野宮様」
「うん…! 一もお疲れ様。ありがと!」
「いえ」
本堂の外に出、朝日に伸びをしながら深呼吸をすると、白い息が大量に漏れ出た。
「っはあ! さっむ!」
「山だからな。雪が降らないだけまだましだ」
「ホントだね…、季節跨ぎたくないね、ここでさ」
「そのためにも午後から調整に入ろう。大師(だいし)八人、講堂に集まってくれるそうだからな」
「うん! やっと目処が立ってきたね。よかったよ」
「どうだろうな…? なんかまだ、一悶着ありそうな気がするぞ」
三人は庵へ向かいつつ、話し始めた。
「神々廻さん、あの二人のこと、よく知ってるの?」
「個人的に知っているわけじゃない」
神々廻は苦い笑みを零した。
「高野にいたときだ、比叡の噂を聞いてな。雹犀殿のあの傷を見る限り、噂はあながち間違いではなかったようだが」
「気になるんだけど」
大きく仰いで彼を見つめると、「元より話す気だった」とばかりに、神々廻が軽く頷いた。
「今は二人しかおらんが、比叡の後継(あの兄弟)は、元々三人いたんだ」
「え」
「あの二人の下に、もう一人。弟がいてな」
参道を行く間に、度々比叡の僧たちとすれ違う。
その度に神々廻は会話を止めて、会釈した。
春野宮もそれに倣い、無言になる。
「上の二人…つまりは今の霜珠様と雹犀様だが。この二人はとても仲が良かったと聞いている」
「今の二人からは想像も付かないけど」
「だよな…その下の三男がな、拙(まず)かった。野心家で、自分が比叡の座主になるべく二人の仲を裂いたんだ」
庵に行き着いた。
一が早速朝餉(あさげ)の準備をし始めた姿を二人は見届けて、座敷へ上がる。春野宮達は獲物を仕舞いながら話を続けた。
「三男は先に雹犀様を襲った。次男の霜珠様のせいにするためだ。だが霜珠様はとても穏やかな方で、三男の悪事がそれで明るみに出たと俺は聞いた」
「…何処にでも、兄弟喧嘩ってあるんだね…霜珠様が穏やかだったなんて。相当傷ついたんだろうな…」
「この時勢だからな。その後、三男は処刑されたと高野には伝わってきたが、どちらが手を下したのかは俺も知らん」
「長男の雹犀様じゃないの?」
「分からない…噂は噂だったし、確かめようもなかったしな。ただ、今の二人を見る限りでは、三男が残した爪痕は相当深いと言うことだろう」
「一度も目を合わせなかったしね、あの二人。ただ、雹犀様の方が合理的な感じがしたよ。あの後、話がとんとん拍子だったじゃない」
「確かに」
頷いたときだ。
一の明るい声が隣から聞こえてくる。
「できましたよ! 運んでも構いませんか」
「あ。うん! ありがとう、一緒に食べよう」
「はい」
態々確認を取ってくれる辺り、彼らしいなあと春野宮は思いながら、神々廻に「いいよね?」と首を傾げる。
神々廻も笑顔で頷いて、
「午後から忙しくなるな」
「大師も真っ二つって言ってたっけ。迦楼羅院派と瑠璃華院派」
「ああ。四四。誰か一人でも裏切り者が出れば、一気に均衡が崩れるわけだ」
「物騒な話をしてますね?」
「はは。まあな」
一の言葉に神々廻がなんとも言えず頷いて、膳を受け取る。
三人は手を合わせて頬張りはじめた。
「ちょっと半端な数字だね、地区が三つあるから、日の出と日の入りで交代して六人、か」
「残る二人がその日は休みということになるな。その繰り返しになるだろう」
「東塔(とうどう)には一に入ってもらっていいよね?」
春野宮が言うと、神々廻が「どうだ?」と言葉を投げながら見向いた。
「あ、はい。頑張ります!」
「澄海様には優先的に東塔に入ってもらって、一との連絡を絶やさないようにしてもらおう」
神々廻の提案に春野宮は頷き、
「神々廻さんは西塔(さいどう)。お願いしていい? 雹犀様の動向も気になるし、左右どちらにも動けるし」
「お前の方がいいと思ったんだがな。移動も速いし、言いたいこと言える若さがあるからな」
思い出したように神々廻が笑うと、一の箸は止まりきょとんとし、春野宮は少し頬を膨らませた。
「んもうっ」
「ははっ。褒めてるんだ。この年になるとな、ぼやきたくもなる」
「ぼやきというか、嫌味でしょ」
「お前ホント、口さがないな!」
言って笑った神々廻に、春野宮の顔に笑顔が戻った。一が二人を交互に見遣る姿がまたおかしくて、春野宮の笑声が響く。
二人はその後、軽く睡眠を取って、午後に備えた。
寝起き後は講堂に向かい、瑠璃華院の立ち会いの下、大師達に今後の僧兵の動きを伝える。
僧兵たちは大師八人の数に全て割り振られ、その一個師団毎に警備を日替わりで担当するようになった。
満遍なく均等に割り振られた予定に体調を崩す者はめっきり減って、日に日に効率は上がっていく。
何度か比叡に巣くう鬼とも遭遇したが、怪我人も出なくなった。動きの整った比叡に座主他大師達は礼を言い、士気は格段に上がったが、一方で、春野宮達の懸念は膨らむばかりだった。
彼らは鬼を追い払うばかりで、仕留めようとはしなかったからである。
その頃、縁壱(よりいち)は、山城国(やましろのくに)へと足を運んでいた。御館様・昌輝(まさてる)に休暇を願い出て、五日ほどの旅路の許可をもらったのだ。
景色は、三年前と変わらなかった。
初めてこの土地を訪れたときも、鬼を退治する目的がなければゆっくりと紅葉を眺めたいと思ったものだ。それほど、山城の赫く燃ゆる景色は美しかった。
縁壱は、記憶を掘り返しながら三ツ川の合流点を跨ぐ。東へ足を延ばせば、少年のかつての屋敷があるはずだった。
川の上流に向かって足を進め、ふと、村の外れで縁壱は足を止めた。
『ここは昔、もっと賑わっていたような気がしましたが…』
脳裏に春野宮の姿が思い浮かんだ。
一途で己にも他人にも厳しい彼ではあるが、時折見せる無邪気な顔がとても好きだった。きっと彼が当主となり山城を継いでいたなら、今頃ここは、明るい日差しに包まれた空間になっていたに違いない。
『細川家の内紛といい、この寂れた様子といい…私は…』
鬼狩りになりたいと望んだのは、春野宮だ。
だが、連れて帰った責任が自身には伴う。
遠く連なる茅葺(かやぶ)きの家々を眺めて、縁壱は、拳を胸の辺りで握った。
『はるは時折、遠くを見ている…夜中に目が覚めて、泣いていることもしばしば。山城に来れば、何か分かるかと思いましたが』
伏し目がちに視線を外し踵を返した時だった。
「おや…」
畦道(あぜみち)の向こうから、数人の騎馬隊がやってきた。
あっという間に距離を縮め、手綱を引きつつ馬上の人が呟く。
「どう…どうどう」
声や姿も覚えがない。だが、相手は自分を見知っているのだとすれば、あの運命(さだめ)の夜を共にはしたのだろうと思う。
軽く会釈はしたものの、答えに詰まって見つめていると、
「昴(すばる)と天晴(たかはる)の異母兄です。三条宗家、当主の実紀(さねのり)です」
「! それは…失礼いたしました」
「いえ。天晴は…春野宮は、元気ですか」
よもや、そんな言葉が出てくるとは思わなかった。山城三条一門は、春野宮にとって、苦い思い出ばかりであろうと思っていたのだ。
逡巡した間の内に、実紀は部下へ先に館へ戻るよう告げると、颯爽と降りた。全くもって、意外な対処だった。
走り去る騎馬隊を見送って、実紀がこちらを向いた。
「改めまして、お初にお目にかかります。三条山城守(やましろのかみ)実紀です」
「…継国縁壱です。はる…は、元気ですよ。誰よりも頑張って、鬼狩り達を引っ張ってくれています。配下もできて、とても慕われているようです」
「そうですか…!」
実紀の表情が明るくなった。
いちいち驚いていても仕方がない、縁壱は、静かに呼吸を整えると今この時の彼を見つめた。
『もしかしたら…はるは関わらなかったから知らなかっただけで、一族の長たる…いいえ。長の座を奪った彼は。実紀殿は、本当は誰よりも山城のことを思っていたのでは』
自身が向かおうとしていた方向へ実紀は馬の首を向けた。ともに歩き出しながら、
「今日はどちらへ? 良ければ案内しますよ」
穏やかな面を向けた。
異母兄とは言うが、こちらも春野宮に劣らぬ美貌だ。
『はるを武家三条へやったのも、彼だと聞きましたし。敵を欺くには味方から。はるが自分からそう言い出すように、幼い頃から見定めていたのだとしたら? 実紀殿の真の心の内は、はるの腕前を頼りにしていたのでは…』
だが。と、縁壱はそっと思考を閉ざした。今此処でそれを糾すのも、無粋だ。それに、幼い頃より山城の現当主がそれだけの思慮と一族の恨みを買う覚悟を持っていたのだとすれば、そうそう話すとも思えない。
縁壱は、
「それが…どうしたものかと」
疑問符を表に出した相手に、微かに顔色を変えて応えた。
「はるが、時折苦しそうに夜中、起きるので。もしかしたら、山城を思い出しているのかと。少し様子を見に、足を延ばしたのです」
「そうでしたか…」
語尾の余韻が思ったより長く、実紀が顎に片手を添え思案気になった。
しばしその間を待ちながら歩くと、
「もしかしたら、『夢見』の件かも知れません」
「『夢見』?」
「三条宗家に伝わる『空の力』の話、天晴から聞いたことはありませんか」
「いえ…、全く…」
縁壱が微かに目を丸くして首を横に振ったのに、実紀はまた考えを巡らせたようだった。
『一族にまつわる力なら、おいそれと外には…』
思うが、実紀は、
「貴方は天晴の命の恩人です。そうやって、彼のことを思って態々足を運んでくれたのですから…」
そうして彼は、道すがら、一族の話と、この先の石清水八幡宮は更に奥の庵に、
『水埜宮(みずのみや)』
と呼ばれる『夢見』の長が住まう話をしてくれた。
「お気を付けて。縁壱さん」
「実紀殿…忝(かたじけな)い」
「いえ」
再び馬上の人となった実紀は、
「では。失礼仕ります」
縁壱も深々と頭を下げた。
張りのある掛け声一つ掛けて、山城の中心部へと舞い戻る実紀の後ろ姿を見送る。
「……三条宗家の、夢見の力…」
彼の馬が立てた土埃が静まるまで立ち尽くして、縁壱は、凜々しい面を石清水八幡宮の方へと向けた。
そうして彼は、春野宮にとってのあの日が、
『決められていた旅立ち』
だと言うことを、水埜宮から、聞いたのだった。
まるで己が来ることを、知っていたかのような、口振りだった――。