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第六話:比叡

・壱・

 空里への移動後は大きな混乱もなく、一同は胸を撫で下ろした。

 暫くは皆息を潜め、鬼退治は極力他の組織に任せたが、一月も過ぎた頃から、漸く動き出す。

 隊士達は任務で里を離れることが次第に多くなっていったが、あの一件で、士気は上がっていた。鬼の始祖の存在は確実なものであることを、知り得たからである。


 梅雨が明けた頃、快挙があった。


 まだ丁(ひのと)の階級である隊士達が、複数人で事に当たり、異能の鬼を倒したのである。

 依頼があったときは異能だと確認できなかったため柱は動かなかったが、鴉の報告が、里を騒然とさせた。

 階級は上の下だが、彼らは真面目に呼吸を学んでいる一派だったことが、帰投後に分かった。多くは神々廻(ししば)、雪之丞(ゆきのじょう)を師と仰ぐ岩と水の混合部隊で、彼らは、消沈している雪之丞の心持ちを大いに救った。


 これを機に、しっかり呼吸を技に乗せれば、柱でなくとも異能の鬼も倒せる事が証明された。鬼殺隊士は良くも悪くも、篩(ふるい)に掛けられることになったのである。一時は、里を離れる者も増えた。

 それでも、残った者達の成長は目を見張るほどの早さだった。めきめきと剣技を上達させていき、実力の伴った階級が統制されつつあった。

 まだ階級制度ができたばかりの頃合いで上級隊士になった者達の中には、肩身が狭い思いをする者も当然出始めた。一時期、上位階級内では衝突と混乱が生じたが、問題を起こす方は、至って単純な感情を抑えきれずに起こすものだ。


 鬼殺隊は、実力主義の世界である。


 昌輝(まさてる)も柱も、見通しの甘かった点は認めながらも、問題を起こした隊士達は厳重に処した。気付いたときには、殆どの甲(きのえ)隊士がいないという失態を招くことになったが、結果的には、波々伯部(ははかべ)梗岢(きょうか)や市松(いちまつ)のような、強者ばかりが残ることになったのである。


 同時に、自然と、階級内でもしきたりが増えてきた。

 下級隊士達の間では、何度か生き延び鬼を退治した経験を活かして、階級が辛(かのと)に上がる頃には、師と仰ぐ柱を決めることが通例になってきた。

 縁壱(よりいち)や巌勝(みちかつ)、弓を使う春野宮(はるのみや)の呼吸はそうそう真似できるものではないことが証明されたが、この頃から、『育手(そだて)』の概念が生まれ始めた。


 一年前、既に己の後継を決めていた翁(おきな)と、その弟子である梗岢は、とりわけいい見本になった。

 翁曰く、

「儂(わし)は歳じゃ。勝手に死ぬわけにはいくまいが」

 とのことではあったが、梗岢を見る限りその見立ては間違いがなく、柱が直接指導し、己が呼吸を継がせる跡取を、『継子(つぐこ)』と呼ぶようになった。


 昌輝は、そんな隊内の動きを、いずれは後を継ぐ輝王丸(きおうまる)、燐寧丸(りんねいまる)にとくと教えて聞かせ、冊子に纏めさせた。

『鬼殺隊教程』の走りである。

 そして夏の終わりには、柱達が集まる会議も『柱合会議』と名付けられ、事あれば、すぐに開催されるようになった。



 この日の議題は、比叡(ひえい)であった。


『宗家…どうしてるだろう。まさか、表鬼門(おもてきもん)が舞台になるなんて』

 春野宮は一人、複雑な心境を抱えた。知らず胸元に手を当てて、握った拳が力んだ。

『石清水(いわしみず)の水埜宮(みずのみや)様は元気だろうか…。あの日、水埜宮様は…』


 ――知っていたのかも知れない。


 そう思った。姉・昴(すばる)が死ぬことを。

『だから、泊まっていかないか? と、遠回しに…』

 これまで、なるべく考えずにいたことだ。

 水埜宮に責任はないからだ。

 昴が死んで三年目に入り、やっと受け止められるようになった。

『墓参りにすら、行けてない。姉上…ごめんね。きっと、その墓前に無惨(むざん)の頚(くび)を献上するから!』

 春野宮は息を整え精神を統一すると、柱合会議に集中した。


 比叡。


 京(みやこ)四山(よんざん)にあたるこの土地は、東の護りの要でもある。京を護る石清水八幡宮が裏鬼門なら、比叡は表を司り、僧兵たちも荒事に滅法強い。近隣諸国ですら、あの織田信長が現れるまでは、手出しのできなかった場所だ。

「比叡に応援に行く日が来るとは…」

 翁が啖呵を切った。

「相当強力な鬼という事かのう。まさか、鬼舞辻(きぶつじ)じゃあるまいな」

「それについては仔細が書かれていたよ」

 昌輝が応じる。

「どうも、異能の兄弟鬼のようなんだ」

「兄弟、か…」

 巌勝が呟く。

「比叡は広いだろう? 通りを縦横無尽に席巻しているらしくてね」

 昌輝が巌勝に、輝王丸を通して比叡からの書面を渡した。

 巌勝は一通り目を通してから、隣の惣寿郎(そうじゅろう)に渡す。序列は縁壱に続き、巌勝、義政(よしまさ)、惣寿郎…と上位は固定されてきたが、なんやかやと指揮を執るのは、やはり、惣寿郎だった。

「堪え忍んでいるところを見ると、止めを刺せないのが原因なのでは?」

「猩々(しょうじょう)緋鉱石(ひこうせき)で作った武器は、そう出回るものではないからね。比叡にはそれなりの数があるだろうが、それでも、一部の大師(だいし)達の手元にだけだろう」

「前線を護っているのは僧兵だろうにな」

 呆れた様子で巌勝が言うと、惣寿郎が苦笑った。

「ま、そう言うな。伝統を重んじる比叡様だからな」

 言い様に巌勝がふ…と笑った。十分な皮肉だ。

「しきたりは異なるが」

 同じように口角を上げた神々廻が、一歩膝を進めた。

「寺社内のことなら私が。それなりに動けるかと」

 かつては高野(こうや)の僧であった彼だ。臨機応変に対応できるだろうと昌輝も首肯して、

「では、主水(もんど)。それと、はる」

「え? 僕ですか?」

 頚が云々の話をしていたばかりだ。思いもよらない振られ方で、つい、頓狂な声になった。

 昌輝は頷いた。

「比叡の僧兵は薙刀(なぎなた)隊と弓隊だ。龍洞(りゅうどう)に頼もうかとも思っていたんだけど…うん。はる、主水が薙刀隊を指揮したとして、弓隊の動きが彼の動きに付いていけないのでは意味がない。結局そこからまた、逃げられてしまうからね」

「あ、なるほど」

「まずはそこから。誇り高き東の神族だ。できれば首魁(しゅかい)は彼らが獲りたいだろう。手間のかかる注文だけど、そこだけは、上手くやってほしい」

「畏(かしこ)まりました」

 神々廻と春野宮は中央に出、頭(こうべ)を垂れた。

 二人頷き合い、早速本陣を後にする。


「では、半刻後に里の北の入口で」

「分かった!」

 春野宮は、神々廻に手を振り足早に屋敷に向かった。

 その途中で、

「はる!」

 後を追いかけてきた縁壱に呼び止められる。

「師匠! どうしたの?」

「…いえ、屋敷に寄るのですか?」

「あ、うん。市松達に後を託さないといけないし、矢も多めに持っていこうと思って。神々廻さんに少し時間をもらったんだ」

「そうでしたか…」

 屋敷まで。そう言った縁壱に、春野宮は内心首を傾げながらも、共に屋敷への道を辿る。

 不意に思った。

「もしかして、師匠…心配してくれてる?」

 下から顔を覗き込むようにして言うと、縁壱は微かに頷いたように思えた。

「余計な心配かも知れませんが、側仕(そばづか)えに一人連れて行っては? はる」

「市松達?」

「ええ。表鬼門に参るのです。貴方の存在は、比叡では有名なのでは」

 はっとした。

「言われてみれば、そうだね…」

 顎(あご)に手をやり、唸(うな)る。自然と足が止まった。

「僕の姿は分からなくても、名前を聞いてはっとする人いそうだよね」

「それです。毒味役はあちらで引き受けて下さるでしょうが、身辺の警護は信用できる者でないと」

「あまり深く考えてなかった、その辺。鬼狩りでいることが当たり前になっちゃって」

「はる…」

 肩を並べてまた歩き出しながら、春野宮は困ったような笑みを浮かべた。

「ありがとう、師匠」

「いえ…差し出がましいことを申しました」

「ううん。僕、そういうとこ無頓着だから。感謝してる」

「私が傍にいられれば、一番なんですがね」

 春野宮は目を丸くして、縁壱の顔を見た。

 何か? と言うように物語った表情は、いつもの真顔より、少しばかり色があるように思える。

「…ううん。幸せ者だなあ、僕」

 後ろ手に指を組んで天を見上げた顔が、にんまりとなった。

 隣を歩く縁壱の表情もとても穏やかで、それが殊更嬉しい。

 屋敷に行き着いて、春野宮は門の手前で縁壱を振り返った。礼が口を突いて出掛かったが、彼は、当たり前のようにそこにいる。きっと屋敷に入るまで見送ってくれている気でいたのだろうと思うと、

「師匠」

 傍に寄って見上げた。

「はい」

「師匠もあまり無理したら駄目だよ? 辛いときは辛いって言ってね?」

「…ええ」

「僕がいなくても、大丈夫だよね?」

「……」

 すぐにでも縦に振ると思われていた首が、なかなか動かなかった。

『こういうとこ、師匠らしいよなあ。偉ぶらなくって。素直で』

「…どうか気を付けて、はる」

 そうして、こちらの身を心配してくれるのだ。

 きゅ、とその腰に両腕を回して、縁壱を精一杯包んだ。

「ん。行って来ます、師匠!」

「…はい」

 覆い被さるように抱き締め返してくれた縁壱に、春野宮は笑顔を見せて屋敷に戻った。駆けながら、一度見返り、大きく手を振る。相手の手はとても謙虚で、胸元に拳(それ)を当てると、微かに笑みを浮かべただけだった。

 春野宮は、もらった忠告通り、佐々木(ささき)一(はじめ)を連れて行くことにした。市松、藤吉(とうきち)より弓の腕は劣るが、その分剣技に優れた気の利く隊士だ。念のため一度本陣に寄り、御館様にも許可を取った。

 昌輝は快く送り出してくれ、一には、警護を徹底してもらえるよう頼んだのだった。



 比叡の麓(ふもと)、坂本(さかもと)へ着いたのは夕刻のことだった。季節柄、辺りはすっかり暗く、寒い。宿場の食事処へ足を運んで、春野宮達は、温かい蕎麦と稲荷を頼んだ。

「ね、神々廻さん」

「なんだ」

 背負っていた斧を壁際に立て掛けながら、神々廻が応じた。

 春野宮の長い弓袋は一が受け取り、同じように傍に立ててくれる。礼を言って、向かい合わせになった神々廻を見た。

「神々廻さんは岩麾下(きか)、連れてこなくて大丈夫だった? 高野出身なんだよね?」

「ああ、」

 神々廻が朗らかに笑った。

 春野宮の二三倍は横にも縦にもあろうかという図体に乗る顔は、割と強面(こわもて)だ。

 伴(とも)が小柄な自分では、尚更目立つだろうと思った。

 だが、崩れた相好は穏やかだ。年嵩もあろうが、悠然とした体が滲み出ていて、雰囲気からしてとても頼りになる。

『存外、本気出したら実は、神々廻さんが一番強かったりして』

 不意に、そんなことを思った。そう言えば、彼とはまだ、直接手合わせをしたことがない。任務で数度、援護に入っただけだ。

「大丈夫だ、俺は籍を置いたままだからな」

「え。そうだったの?」

 神々廻は一つ頷き、茶を啜る。

「もし俺に鬼以外の案件で何かあれば、高野が黙っちゃいない。金剛丸(こんごうまる)…あ、俺の鎹(かすがい)鴉(がらす)の名前なんだが」

「それまたごつい名前だね」

 言うと、神々廻のみならず、一も一緒になって笑った。

「ま。あいつがな、総本山に飛ぶことになってるから。一気に雪崩が起きるぞ」

「すごっ…」

 不敵に笑った神々廻の元に、「お待ち!」蕎麦が運ばれてきた。間を置かず、春野宮と一の前にも置かれ、稲荷は三人分、一皿で纏めてきてくれる。

 手を合わせて頬張ると、一心地着いた気になるが、今夜はこれからだ。

 春野宮の視線が何気なく外へ飛ぶと、

「行けるな? はる」

 神々廻が豪快に蕎麦を啜って言った。

 春野宮は彼に視線を戻し、にやりと笑う。顔立ちはまだ幼さが残るが、鬼狩りにおいては、百戦錬磨の弓使いだ。表情は頼もしさを覚えるほど、精悍だった。

「もちろん! そのために来たんだからね」

「よし。腹拵(ごしら)えしたら一気に山を登るぞ」

「はい!」

『神々廻さんはきっと、鬼舞辻を倒したら高野に戻るのかな。僧としてだけじゃなくて、多分…世の中全体のことを選んだんだ』

 柱達、一人一人と言葉を交わす度、胸が熱くなった。

 彼らとこの一時代を築けたことを、とても、誇りに思う。

『たとえ終わりが決まっていても。僕は…僕のやるべき事を、全うするだけだ』

「ご馳走様でした! …美味しかった」

 人差し指を唇に当てて椀を見た。

 一が

「ちょっと濃くなかったですか?」

 小首を傾げる。

 神々廻が笑い、

「店主は東の生まれかも知れんな。この味付けは京でもなかなか珍しい。蕎麦は信濃らへんから東の方が美味いからな」

「疲れた躯には効くね。しょっぱいの。美味しい」

 春野宮がまた褒めると、残る二人の笑声が重なった。

「行くか」

 神々廻の一声に、春野宮達が頷いて一斉に立ち上がる。

 獲物を手に取り、店主に勘定と礼を言って、店を後にした。



 比叡山(ひえいざん)は、大きく三塔(さんどう)の地域に分けられる。

 東塔(とうどう)地区、西塔(さいどう)地区、横川(よかわ)地区だ。

 春野宮達は、内、東塔地区の麓から山へ分け入った。

 いずれの場所にも巡礼の受付箇所はあるが、主な出入りは東塔地区であり、総本堂も東から入った方が近い。参道の脇には大小様々な庵(いおり)やお社(やしろ)を結ぶように宿場町(しゅくばまち)が続き、煌々(こうこう)と蝋燭の明かりが点っていた。

 町人達が営む宿場町を過ぎると、参道の灯りは、少しずつ疎(まば)らになっていった。比叡の管理下に置かれた宿坊(しゅくぼう)が軒を連ね始め、日が落ちれば殆どが、消灯するのだ。その代わり、麓近い宿場町より二刻ほども、朝は早い。

 ここまで来ると、総本山(そうほんざん)は目と鼻の先だ。

 三人は顔を見合わせて後、一際急な上り坂になった石畳を、急ぎ進んだ。

 やがて、それまでで一番大きな宿坊を左手に望み、鬱蒼と杉の木立が生い茂る山間(やまあい)に入った。山門などない。ただ、天高く杉が生い茂っているため辺りは一層闇深く、文字通り、一寸先は闇になった。

 目を凝らし少し歩くと、燃えさかる真っ赤な炎が両脇に見えてき始めた。近付くにつれ、空気を焼き爆ぜる音も聞こえる。篝火(かがりび)だ。大きさ高さ共に一尺以上はあろうかという篝火(それ)が、山道の脇に点在していた。

 炎の揺らぎに誘われるように、春野宮達は山道を行った。右手へ曲がる最後の山道を越えると、一気に視界が開ける。

 広場だ。

 この時刻では、受付はしっかり窓口を閉めている。

「着いたね…」

 春野宮の呟きに、神々廻が頷きながら辺りを見渡した。

「読経(どきょう)が聞こえるな。夜の勤めの時間はとっくに過ぎているから…鬼封じの祈りか」

 こっちだ、と、神々廻が先に行った。

 春野宮は一と後に続き、大黒堂(だいこくどう)の脇にある大階段を登った。登りながら、彼らは、次第に大きく響いてくる読経を耳にした。

 やがて、荘厳な総本堂が鎮座する境内(けいだい)へと足を踏み入れた。悪鬼退散を願う経を読む野太い声が、幾重にも重なる。空気が振動し、鳥肌が立った。

 総本堂の前には薙刀を携えた僧兵が数人建ち並んでいた。

「何者!」

 歩み寄るとすぐに声がかかったが、神々廻の格好を見ては、若干落ち着きを取り戻したようだ。

「どちらの教えで!」

 とは別の僧兵の声だったが、神々廻は軽く横に頭を振ると、

「我らは鬼狩りだ」

「!」

「依頼を受けて参上仕(つかまつ)った。依頼主への取り次ぎを願いたい」

「証拠は」

「こちらの文に」

 神々廻と僧兵が一歩を踏み出して、本陣へ届いた文を渡し、受け取る。

 篝火の近くまで歩んで文を広げたその者は、振り返ったときには、恐々としていた。

「大変失礼仕りました!」

 声色からも横柄さがなくなって、周りの者が驚いて見遣るほどだ。

「こちらへ。天台(てんだい)座主(ざしゅ)の元まで案内致します」

『天台座主!?』

『直々だったのか…!』

 春野宮達は絶句した。柱合会議で文を直接読んだのは、巌勝と惣寿郎だけだ。二人とも淡々としていただけに、右筆(ゆうひつ)が代弁しているのだと思い込んでいた。

 柱が二人も遣わされたのは、単に比叡という特別な土地だからという理由だけではなさそうだ。

 彼らは神妙な面持ちになって、総本堂の裏手にある、比較的大きな庵へと足を運んだ。

第六話・壱・: テキスト
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