第五話:異変
・肆・
夜明け前。
本陣は騒然となった。
鬼化した隊士は討ち果たしたが、鬼化させることができるのは始祖(しそ)・鬼舞辻(きぶつじ)無惨(むざん)だけだからである。よもや『彼』を通して里の場所が知れたかも知れず、急ぎ、対処せねばならなかった。
本陣へと集められた柱達は、五人。
縁壱(よりいち)、巌勝(みちかつ)、義政(よしまさ)はまだ任務中だった。雪之丞(ゆきのじょう)は疲労困憊(こんぱい)で、まだ大広間に姿を現してはいない。
座る間もなく、惣寿郎(そうじゅろう)が口火を切った。
「神々廻(ししば)、雪の状態は」
「動揺がひどいが少しすれば。…雪のことだ。必ず持ち直す、大丈夫だ」
「分かった。二人には同じ任務を渡すから、神々廻、雪を頼む」
「了解」
惣寿郎が皆を順に見渡した。表情が険しくなった。
「お館様には確認済みだ。この里は、捨てる」
「!」
「空里(からざと)へ移動かのう?」
「そうだ、順を追って話す。各自役割を把握してくれ」
惣寿郎は言いながら、懐から書簡を取り出した。
「先鋒(せんぽう)は、はる」
「え? あ、はい」
「はるにはこの後の状況判断を任せる。縁壱、巌勝、義政。三人が戻り次第一人を選んで空里への道程を確保してくれ」
「残る二人は?」
「殿(しんがり)になる」
「!」
皆が息を飲んだ。
殿とは、戦で言うなら敵の追っ手を身を呈して防ぐ役目のことだ。捨て身の楯と言うことになる。
里が奇襲されるなら鬼舞辻無惨の可能性は高い。
だが、丸一日あるのに、ここで、鬼狩り全員がただ待つ必要もない。
万が一。
鬼狩り最強と誰もが認める、日柱(ひばしら)、或いは宵柱(よいばしら)が討たれるようなことがあれば、それは、鬼狩り全体が壊滅する恐れがあるのだ。最悪の事態を、ただ黙って受け入れることはない。
『まだ…まだあの夢は、現実になり得る』
頭からこびりついて離れなかった。
今日という日が、この一連の出来事が、繋がっているように思えてならなかった。
『もし、巌勝が鬼化して戻ったら? その道中で、師匠が、もし、もし…!』
この状況を見る限り、嵐山(あらしやま)にいたのは無惨なのだ。
そうして、春野宮ははっとした。だが先に、惣寿郎が言う。
「できれば殿は縁壱、巌勝の二人に任せるのが最適と思うが、」
「ちょっと待って、惣寿郎」
春野宮は慌てて口を挟んだ。
「なんだ、どうした」
「確認になるんだけど、嵐山にいたのは無惨なんだよね? だから二人が向かったんだよね? …けど、二人は隊士の鬼化のこと知らないよね? んん? なんかちょっとおかしくない?」
皆も我に返った。
「そう言えば…、そうだな」
神々廻が唸った。
「取り敢えず…重要なのは、無惨だな。里を移動すると言うことは…縁壱達は倒せなかったのか? じゃ、二人は? 無事なのか? 鴉、戻ったんだろう?」
「ああ、すまん…一番大事な部分が抜けたな」
惣寿郎が申し訳なさそうに頭を掻いた。
それだけ彼も、この緊急事態に飲まれたと言うことなのだろう。
深呼吸をして、落ち着いて口を開いたとき、
「…遅くなりました、すみません」
雪之丞が部屋に現れた。
まだ顔は青いが、足取りはしっかりしている。
「雪!」
春野宮が駆け寄り、手を添えた。
雪之丞に微かな笑みが浮かび、余計な力が抜けたように思われた。
「雪、大丈夫か?」
神々廻や龍洞(りゅうどう)も声を掛け、
「ああ。大丈夫、もう、いけます」
皆に囲まれ苦い笑みを零した水柱は、もう一度炎柱に向かって謝罪した。が、惣寿郎は「よかった」一言安堵を漏らす。
そうして、話に戻った。
「まず、二人を嵐山に向かわせたのは、お館様の先見の明だ」
「万が一を想定して…?」
「ああ。初期対応を行った雪、巌勝から話を聞いて、傷の深さの割にはと懸念されたようだ」
春野宮は思わず、雪之丞と顔を見合わせた。同じような判断を、隊士を見ながらしたからだ。
「それで二人を嵐山に向かわせたんだが…」
「無惨ではなかった、…か」
翁(おきな)の言に、惣寿郎が頷く。
「遭遇後、すぐに巌勝の鴉が本陣に戻った。異能の鬼だと報告しに来てくれたんだ。その後、昇(のぼり)麾下(きか)の鴉が本陣に現れた。鬼化の件だな」
「その時、惣寿郎は本陣にいたの?」
問いかけると、彼は頷いて、
「幾つかの場合に備えて対処法を決めていた。今の状況は、かなりいい方だ」
「そうだったんだ…」
「お館様の判断によると、狙いは里の…鬼狩りの壊滅ではないかと」
皆が顔を見合わせた。
「鬼化した隊士を里に送り込んで里の状況を知る。嵐山には強い隊士が来るだろうと予想して下級の鬼を置く。そうして自身は、」
「里へ…」
「だが、鬼化した隊士から情報がすぐに伝達されなかったのか、それとも何か予定が狂ったのか。夜の内に無惨は現れなかった」
「だから、念のため里を移動することにしたんだね」
「そう言うことだ」
この時。
鬼との駆け引きで一歩先を進んだ鬼狩り達は、まだ、気付いていなかった。
駆け引きの最たる功労者は、その、鬼化した隊士であったことを。
惣寿郎が言ったことは正しい。鬼化した隊士から、情報はすぐには無惨の元には届かなかった。だがそれこそ、彼の最期の抵抗であったことを、鬼の情報を統制しているこの時代では、まだ、気付きようが無かった。
惣寿郎が言った。
「話を戻すぞ。殿は、縁壱、巌勝の二人に引き続き任せるのが最適と思うが、義政の鴉が…今もまだ、戻らない。義政を殿の補佐に入れるとすると」
「巌勝が残って、師匠が先鋒になる?」
「そう言うことだ。その辺りの割り振りを、お前に任せる、はる。三人の内誰か一人でも合流し次第、すぐに移動してくれ。日ノ卯(ひのう)に行き先はもう確認させてある」
「分かった」
「次に本陣。お館様の護衛と畑の牛や、馬の移動だ。俺と、梗岢(きょうか)が担う」
「梗岢? やはりあやつに任せるんかいな」
咄嗟に出た翁の声は一驚していたが、すぐに真顔になった。
言葉尻を捉えても、予測はし得ていたらしい。惣寿郎がにんまりと笑みを浮かべ、
「ああ。あいつ、馬に乗れたろう?」
「お。そうじゃったの」
「柱だけでは手が足りない。何かあれば俺が面倒を引き受けるから。甲(きのえ)の梗岢に俺の補佐に入ってもらう」
「なかなか名誉なことじゃ」
嬉しそうに言った翁に、その場が一瞬和んだ。
こういう時に柱から支持を得られる甲は、それだけで一頭地を抜いていると言うことだ。より、柱に近い存在だと皆に知らしめることになる。
「で、翁。補佐に龍洞。二人はその俺たちの後詰(ごづ)めだ。本陣の先頭は俺たちが行くから、後ろと、旧里(ふるさと)との伝令役を頼む」
二人が頷き、龍洞が口を開いた。
「お庭番衆(にわばんしゅう)も纏めて構わないな? 煉獄」
「無論。お前に一任する。今回、先鋒ははる達二人に任せても大丈夫だろう。移動する下級隊士達の数の方が問題かも知れん」
春野宮が龍洞と目配せし、頷き合った。
「最後に神々廻。補佐に雪」
「はい」
惣寿郎は一歩踏み出すと、書簡を二人に渡す。最後まで広げさせると、神々廻が見ながら呟いた。
「これ…甲の名簿か」
「ああ。現時点でのな」
「なるほど、さっきの話か。甲を組長に残りの下級隊士達を班分けして、順に移動するんだな?」
「その通り。流石だ、この広間で甲に指示を出してくれ。こちらが整う頃にははる達が恐らく新里(しんざと)への道を確保するはずだ」
神々廻と惣寿郎が最終確認を取ろうとする中、
「日ノ輪(ひのわ)!」
縁側に降り立った鴉に春野宮が気付いた。
「師匠の鴉だ。もしかして…帰投した?」
駆け寄って、日ノ輪に話しかける。すぐ後から日ノ卯もやってきて、仲良く傍に並んだ。さっと振り返り、
「惣寿郎、行くね! 後は何かあれば日ノ卯を通して報告するよ」
「分かった、頼んだぞ! はる!」
「ん! 任せて!」
春野宮は座敷を回り玄関へ出た。
草履を履くと天高く飛翔し、日ノ輪を追いかけて縁壱の元へと急ぐ。
『義政…大丈夫かな? いつも単独任務をそつなくこなしてるけど。誰より足が早いから、ちょっと離れたところは全部義政に負担掛けてるんだよね…』
未だ義政の鴉が本陣に現れないことを危惧しつつ、春野宮は、里の外れで嵐山帰りの二人と合流した。
昇る陽の強烈な光が目に眩しい、朝だった。
「それでは、私たちはすぐに発たなければならないのですね」
話を聞き終えた縁壱が、気を引き締めた。
「うん、そうなんだけど…巌勝。大丈夫? 具合悪そう」
春野宮は巌勝の傍に寄り、腰に手を回した。
驚いた巌勝が、大きく跳ねるように身を震わせた。が、自分の表情を見ては息を一つ吐いて、
「すまない…はる」
身を預けて来たのだった。
『怪我はなさそう。よかった、本当に…よかった!』
ほっとしてしっかりと抱き支えた。
『余程疲れてる…。これはすぐには動けないね…。できれば巌勝と一緒に先鋒を務めたかったけど。色々話、聞きたかったんだけどな。仕方ないか』
「巌勝、歩ける?」
「ああ…」
踏み出した巌勝が嘔吐(えづ)く。春野宮ははっとして足を止めたが、巌勝が蚊の泣くような声で言った。
「すまん、大丈夫だ」
「本当? 少し休まなくて平気? 僕のことは気にしないでいいからね、吐きたくなったら我慢も遠慮もしないで? ね?」
「はる…」
巌勝の顔が歪んだ。
無理に笑おうとした顔が苦痛に混ざって、得も言われぬ様になったのだ。
『巌勝……』
「師匠、巌勝をこのまま放っておけない。屋敷まで一緒に行こう。場所、分かる?」
「あ、ええ…こちらです」
何やら驚いた様子で、縁壱は、こちらを見ていたようだった。
話しかけられて意識がこちらに向くと、ゆっくりと案内を始めた。
屋敷通りまで来たところで、大空を翔る鴉に気付く。義政の鴉だった。
「義政…! よかった、無事だった」
「義政? 何か、あったのか」
巌勝の声が気遣わしげになって、春野宮は笑顔になった。
「うん、本陣に鴉がなかなか戻ってこなかったから、皆心配してたんだ」
「そうか…」
巌勝の顔もほっとしたようになった。
思わず、
「巌勝、義政のこと気に掛けてるんだね」
「…まあな」
素直に頷いた彼に、心底驚く。
『鍵は、義政? 師匠じゃないの?』
思うが、今はそれどころではない。春野宮はくすりと微笑んで、
「巌勝。殿大変だろうけど、頼むね。義政が補佐に入るから、大丈夫だよね」
「ああ。任せろ。大丈夫だ」
「ん。それまでゆっくり休んで。あまり…思い詰めたりしたら駄目だよ?」
「! ああ……」
巌勝が伏せ目がちに笑みを浮かべた。
物静かな宵柱は、きっと、普段、柱にすらも弱みは見せたりしないのだろう。
『けど。きっと、義政は。義政だけは…巌勝の心に入り込んでるんだ』
屋敷まで行き着き、「奥まで一緒に行く?」と声を掛ける。巌勝は首を横に振り、
「日が昇った。出ないと拙(まず)いだろう、俺はいい」
「ん…、ありがと!」
「それはこちらの言葉だ。助かった、はる」
「じゃ、また後でね。ちゃんと新里で合流してね!」
「ああ、必ず」
「うん。必ず!」
春野宮は巌勝と拳を合わせ、門前で別れた。
朝日に照らされているせいか、若干顔色もよく見える。少しほっとして頷くと、一歩後ろに控えた縁壱と合流した。
「…行きましょうか、はる」
「はい! 日ノ卯、日ノ輪! 先導頼んだよ!」
『『任せろ!』』
二羽の鴉に導かれ、春野宮は、縁壱と共に里の南の出入り口を目指した。あっという間に、深山に身が溶け込んだ。
その日の空里への移動は、
先鋒に日柱・継国縁壱、補佐、昇柱・三条春野宮天晴(たかはる)。
空里への最前線を任された。人目に付かないよう道程の確保から、他国の間者(かんじゃ)と万が一遭遇してしまった場合の交渉、最悪交戦まで、一手に引き受けることになる。二人は早朝出発し、昼前には一往復半し終えて、惣寿郎へ安全確保の鴉を飛ばした。
昼前、炎柱・煉獄惣寿郎、補佐、甲・波々伯部(ははかべ)梗岢率いる本陣が移動を開始した。
お館様始め、産屋敷(うぶやしき)一族が馬で移動する。畑の牛も引き連れての行軍となるため惣寿郎及び炎麾下だけでは人手が足りず、梗岢も一部の下級隊士を纏め、指揮官を務めることになった。その中には、これまでに任務を共にした、下級隊士達も含まれている。梗岢は階級は甲ながら、既に雷麾下がいることを、柱のみならず里全体に知らしめたのだった。
空里で四人が合流した後は、春野宮は、梗岢と一旦里へ帰投した。惣寿郎と縁壱がそのまま新里に残り、指揮に当たる。共に来た下級隊士達が、本陣や厩舎(きゅうしゃ)などの手入れを始め、里での生活の準備を済ませることになった。
本陣の後詰めに鳴柱(なりばしら)・柳生(やぎゅう)但馬守(たじまのかみ)宗厳(むねよし)、補佐、夢柱(ゆめばしら)・美濃部(みのべ)龍洞。
遊撃隊(ゆうげきたい)の役目も担うが、本陣の移動を確認したら、こちらも一旦里へ帰投した。
本陣の移動開始と共に、以下、各甲が指揮する組ごとに、残りの下級隊士達も班を分かれ、続々と移動を開始した。神々廻と雪之丞が連携を取り、里で送り出す役目を担った。
戻った春野宮、梗岢、翁、龍洞が、その、班の合間に入り、全体の移動を確認することになった。
最後に、岩柱・神々廻主水(もんど)及び岩麾下、補佐、水柱・錆沼(さびぬま)雪之丞清臣(きよおみ)及び水麾下の移動。
そして、殿を務めるのが宵柱・継国巌勝、補佐、風柱・貴船義政だった。
二人は旧里の最終確認もしなければならない。万が一日が落ちて鬼が襲来すれば、二人が対処することになる。
何分、初めての空里への移動ではあった。
だが、特に大きな混乱を招くこともなく、柱達は見事な連携で、日中の内にやり遂げたのであった。
その夜。
春野宮は夢見にうなされ真夜中に起きた。
新里でも屋敷は縁壱の隣であったが、今日は縁壱の屋敷で一緒に寝泊まりしていた。ことある毎に布団を並べるのは、癖になっていると言ってもいい。
とは言え、今夜ばかりは柱は皆、落ち着かないことだろう。
自身が縁壱と寝食を共にしたように、巌勝は義政と、翁は梗岢と、龍洞はお庭番衆とお館様の傍周りを、惣寿郎は炎麾下、神々廻は雪之丞と互いの配下と共にいるところを確認している。
『こんな時一緒にいる相手って、きっと…一番心を許せて、大切な人なんだろうな…』
春野宮は縁壱の顔を見ては、その穏やかな寝顔に笑みを零した。
『朝、師匠…僕が巌勝を支えたのに驚いていたけど。何も話さなかったな、夕餉(ゆうげ)の時』
「…はる」
「うわ! びっくりしたあ」
「じっと見つめられては…目も覚めます」
「感覚鋭すぎ。まあ、今日は仕方ないかもだけど」
「何かありましたか?」
「うん…」
夢のことは話せなかった。
今までも、一度も話したことはない。
血を分けた兄が鬼になるなど、聞きたくもないはずだ。
「夜伽(よとぎ)でもしましょうか」
「洒落にならないからやめて。師匠ったらもう!」
「ふふ!」
言いながら、春野宮はにっこりと笑うと縁壱の布団に潜り込んだ。
彼は驚いて目を丸くしたが、「仕方ありませんね」と満更でもない様子だ。身を軽くくの字に折ると、懐深くに包んでくれた。とても、温かい。
春野宮も丸くなって、縁壱の胸元に顔を埋めた。
「師匠。嵐山で、何かあった?」
普通に喋ったが、くぐもって小声になった。
顔を見なければ、話してくれるような気がしたのだ。
だが、縁壱から言葉はなかった。
『駄目か…どうしよう。夢、何も変わらなかった。もう…どうにもならないのかな。師匠をどうにかするより、義政に相談した方が…いいのかな』
「…はる」
「…ん?」
「はるは、兄君と仲は良かったですか?」
降ってきた質問は、意図していなかった。
思わず見上げると、すぐ目の前に縁壱の整った顔があって、少し戸惑う。綺麗な面立ちだった。明け方見た巌勝の面と、そっくりだった。
違うのは、額の痣(あざ)だけだ。
「僕の所は、全然。家督(かとく)争いがひどくてね」
春野宮はまた俯いた。
まさか、自分が顔を逸らして話すことになろうとは、思ってもみなかった。
「嫡男(ちゃくなん)より次男の方が、才があって。同じ腹だったけど、喧嘩ばかりしてた。そのせいで、宗家は分裂したよ」
「そうでしたか…」
「僕は五男だったから興味なかったし、自分で自分の身をどうにかするしかなかったから、弓を選んだんだ。山城(やましろ)では、弓は絶対だったから。それで一番になれば、誰も文句を言わないだろうと思って…あの弽はね、その時姉上が買ってくれた物なんだ」
思いも寄らず、涙が溢れた。
「あれ?」
つい、呟いてそれを拭う。
縁壱の腕が背中に回って、ふんわり包まれると姉・昴(すばる)を想いだした。一層、涙が零れてくる。
「姉・昴さんのためにも」
「うん…」
縁壱は、何を言わずとも、自分の心の奥が分かっているのだと感じた。
弓を極める。答えはいつでも、掌にあった。
「私も。兄上のために…生きたかった」
「え?」
思わずまた見上げると、遠い目をしていた縁壱が下を向いて、「おやおや」と袂(たもと)で頬を拭ってくれる。
「私の剣は、幼い頃…兄上が鍛錬していた姿を見て真似たものが始まりです」
「そうなの?」
「ええ。私には…何もなかった。…いえ、それは言いすぎですね。母上の温もりと、兄上の目映いばかりのその姿…」
「師匠?」
「ですが、兄上の心には、私は…いないのかも知れない……」
ぎゅっと抱き締められ、春野宮は言葉を失った。
思ったよりも、深刻なのだと気付いた。
『渇望は、同じだ。だけど…』
兄は弟の剣の腕を。
弟は兄の愛情を。
『求めているものは、全く違う…』
夢で、巌勝は、確かに言ったのだ。
――――一つのことを究めると言うことの…、この、耐え難き渇望と絶望…!――――
『無理だ…!』
悟った。
『師匠は何も悪くない。偶々(たまたま)、天が、その御技を分け与えただけだ。鬼を屠(ほふ)れと。その使命の元に…』
巌勝の気持ちも分かる。
どんな思いで自分が弓を取ったか。それを考えれば、憎むことなど決してできない。
『胸が張り裂けちゃうよ…!』
「師匠…」
身を預けると、縁壱が吐息を漏らした。
「ありがとう、はる…」
人は、一人では生きられない。
だが、この人の兄は。
『きっと、その覚悟があるんだ――――』
確かに、縁壱が言う通りだった。
一点を見据え、ただひたすらにその道を逝く彼は、確かに。眩しい。
だがそれも、悲愴故(ゆえ)のものだ。
『鬼となっては、何もかもが変わってくる…!』
まるで線香花火のようだと、春野宮は、思った。
『永遠に消えない命の炎…。選んだら駄目だよ、巌勝…!』
願うしかないのか。
もう。このまま。
春野宮はそのまま、縁壱と共に眠りについた。
第五話:異変・完・
第六話へ続く