第五話:異変
・参・
東の稽古場へ向かう道すがら、春野宮(はるのみや)は、広場で足を止めた。
「…桜」
里の桜を見るのは、これで三回目だ。
『去年も、一昨年も、この季節の任務は師匠と一緒だった…』
柔らかな風が吹き渡る。
午後の日差しを嫋やかに薙いで、散り急ぐ花びらが舞った。
春野宮の長い髪も絹のように翻る。毎年この時期になると長さを整えるのに、縁壱が刀を通してくれていた。あまり長くても重たくて、動きに支障が出るからだ。
「春野宮様! こんにちは!」
「昇柱(のぼりばしら)様! お疲れ様です!」
「お疲れ様です、春野宮様!」
里の若手に話しかけられ、春野宮は軽く頷いて見送った。
古株の顔は変わることがない。
だが、自分たちが強くなればなるほど、比例して鬼も強くなっているような気がしていた。
『僕が来た頃よりも、鬼が増えた。異能の鬼も、多く散見されてる…』
鬼狩り全体の数は、増える一方だ。
だが、階級が下へ行けば行くほど、顔ぶれは日々変わる。それは決して、下が入ってきて上が階級を昇ったからだけではなかった。
『きっと本陣で鬼殺隊全体を見ている惣寿郎(そうじゅろう)や翁(おきな)は、その辛い事実と日々、向き合ってるんだ…』
ふと、春野宮は、右手を翳した。目の前に舞い降りてきた花びらの波に埋もれていく腕を見て、胸が軋む。
今では、鬼狩りとして里に来た若手にとっては、初めの一年が正念場のように思える。呼吸をまだしっかりと学び終えておらず、剣技も中途半端な状態にあって、任務にだけは、誰であろうと赴かなければならない。
大きく「運」が作用する一年目を無事すぎると、自信も付いて、漸く、独り立ちしていける心積もりができるのだ。
当然、そんな状況を打破すべく、下級隊士達は柱や甲(きのえ)にくっついて、徒党を組もうとする。だがそもそもそんな心積もりでは、いつか、確実に死ぬと春野宮は思う。
「春野宮様!」
「…藤吉(とうきち)」
昇柱邸で生活を共にしている弟子、三人の内、中島藤吉が弓袋を片手に駆け寄ってきた。
「お疲れ様です! もう先に行かれたかと」
「うん」
春野宮は腕を降ろすと笑みを浮かべて、
「桜がね。綺麗だったから。つい」
歩き出すと、一歩控えて藤吉が後を付いてくる。
「景色だけは、何も変わりませんね」
「! そうだね…」
春野宮は俯き加減に瞼を伏せた。
『昇麾下(きか)の面々には、きっと、僕の矜持(きょうじ)は伝わってる』
「急ごうか! ちょっとぼんやりしすぎちゃったな」
「はは! 春野宮様にも、たまには今日みたいに、足を止めて頂かないと」
「? 僕、そんなに死に急いでる?」
「違いますよ」
駆け出して、藤吉が笑った。
「俺たちが、いつまで経っても春野宮様の歩幅に追いつけないんです!」
「ああ! それは…うん。頑張れ!」
「あはは! はいっ」
春野宮は、東の稽古場裏の弓道場に着いた。
あっという間に市松(いちまつ)ら、昇麾下の面々に囲まれ、質問攻めにされる。笑みを零しながら春野宮は、一人一人の弓の指導に当たっていった。
昼を回り、一旦休憩にしようかと一息ついた時だった。
「なんか…騒がしいね?」
市松から手拭いを受け取って、額の汗を拭いながら視線を表の方へ向けた。
稽古場を抜けた向こう…通りの方から、ただならぬ気配が漂ってくる。
『隊士達の足音が…あの声は、雪? ん、いや…巌勝(みちかつ)?』
弓道場からでは、距離がある。はっきりとした言葉は聞き取れなかったが、時折響く怒号が空気を張り詰めさせるようだった。
「何かあったんでしょうか」
懸念を抱いた市松に、春野宮は頷いた。
「様子を見に行こう。心配だ」
「は!」
昇麾下は春野宮を筆頭に、道場を後にした。
皆弓と矢筒を携え、臨戦態勢にある。
果たして通りまで行き着くと、壁のように連なった隊士達の向こうに、古びた小屋があった。見れば、巌勝と雪之丞(ゆきのじょう)がそこから現れ、足早に駆けていく。走り去る方向は本陣だ。
『何があったんだろう。お館様に報告に…?』
定かではないが、それが妥当な気がした。
二人を見ている間に市松は周りに確認を取ったのだろう、傍に寄って来ると言った。
「春野宮様。先程隊士が瀕死の状態で、里に戻ってきたようです。水柱様と宵柱(よいばしら)様が初期対応なさったそうで」
「どうやらあの小屋に一旦、その身を横たえたらしいです。里の薬師(くすし)と典偉(てんい)が治療に当たっているとか」
弟子の一人、佐々木一(はじめ)も言葉を添えた。
「分かった」
春野宮は、
「ごめん! 通してくれる?」
と、壁になった隊士達の背中に呼び掛けながら、人混みを掻き分けた。小屋の前まで行き着くと、市松達に指示を出す。
「僕が中を確認するから、市松達は辺りを整備。隊士達に任務や鍛錬に戻るよう、話してくれる」
「はい!」
「人垣ができたままではいつまで経っても落ち着かない。何でもないって言い切っちゃっていいから」
「分かりました!」
「藤吉!」
「は!」
「藤吉は一緒に中へ。外は市松、任せたからね!」
「はい!」
すぐに三々五々人垣の整備に当たった市松や一達の背中を見、春野宮は息を一つ吐く。藤吉と顔を見合わせてから、中へと歩を進めた。
「これは…」
鼻をつく血の臭いに、藤吉がすぐ後ろで声を上げた。
部屋一杯に充満した血の臭いは、酸味を帯び始めていた。そこに薬師が調合する薬草の匂いが混ざって、胃酸が逆流しそうだ。
『でも、それだけじゃない、この、臭い…!』
春野宮は袂(たもと)で鼻を押さえながら、隊士の傍に寄った。
薬師と典偉が血を拭い、懸命に処置を施している。一人が内臓を内に押し詰め、もう一人が皮を引っ張り針で縫う。
「ひどいな…」
春野宮は険しい表情で呟いただけだが、目にした藤吉は、口元を押さえ慌てて隅へ寄った。豪快に吐く音が耳に付いた。
『然(さ)もありなん』
思いつつ、片膝を付く。
薬師がちらりとこちらを見たが、すぐにまた手元を注視した。
気を失ったままの隊士は、今にも事切れそうだ。そもそも、出血がひどい。腹を掻(か)っ捌(さば)かれたままではどちらにしろ血肉が飛び散ってしまう。典偉らの処置はそのためのものであったろうが、結果は目に見えているようだった。
それでも、典偉らの手は止まらない。状態を見る限り判断は付くだろうに、懸命な対応に返って疑問が湧いた。
「助かるのか」
知らず、声が低くなった。
市松達に向ける態度とは違った。柱としての顔が覗く。やっと現実を受け止めた藤吉が傍に寄っては、その違いに気付いた様で、背筋を伸ばした。
「厳しいです…この有様ですから」
『だよね。なのに、どうして』
「ですが、内臓の損傷がないんです」
「!」
血を吸っていた手拭いを桶に放って、新しいそれをまた腹に当てた典偉が顔を上げた。
「血も、なんとか止まりそうです」
「…この状態で?」
春野宮は眉間に皺を寄せた。生唾を奥へ押しやると、典偉と視線を合わせる。
「ええ。不思議なんですが」
『まさか…』
思ったことは、藤吉も同じだったようだ。
「春野宮様…」
恐れの混ざった声が耳に届き、春野宮は立ち上がる。
『同じような状況を、僕はこの目で見てる』
そもそも、それが、自分が鬼狩りになった理由なのだ。
『助かるわけがない、たった一つの…方法を除いては』
見つめてくる藤吉の不安をその身に受け止めて、春野宮は木枠の窓に寄った。外を眺め、太陽の位置を確認する。もうだいぶ、傾いていた。
『日没まで、後…一刻。いや、一刻半程か…』
不意に脳裏に、夢見の内容が過ぎった。
『本陣には、巌勝。雪之丞。義政(よしまさ)は今は何処にいるか分からないけど、里には、鬼…』
状況は似ている。
『まさか…まさか、今日? 今夜が、あの日…!?』
だとすれば、この後本陣は、相当な混乱を招くはずだ。
「っ…」
万が一を想定して、藤吉に指示を出そうと振り返ったときだった。
「はる!」
「…雪!」
心底驚いた。
『巌勝とはぐれた? …夢見が現実になるのは、今日じゃない…!?』
ほっと胸を撫で下ろした己に気付く。
雪之丞が言った。
「表通り、ありがとう。大事になってるんじゃないかと、慌てて戻ってきたんだ。助かったよ本当に」
「ううん、大したことしてないから。それより巌勝は? 二人の声が聞こえたと思って僕こそ慌てたんだけど」
「ああ、」
雪之丞が室内に上がる。
「隊士(彼)の伝言を聞いて、縁壱(よりいち)と嵐山(あらしやま)に向かうことになったんだ。どうやらそこで鬼と遭遇したみたいで」
隊士の傍まで行くと、片膝を付いた。額に手を当て、発熱を確かめている。
「雪。あまり…近付くな」
「え?」
普段とは違う口振りに、雪之丞の手が咄嗟に引っ込んだ。反射で見向いた瞳を受け止めて、「こちらへ」と彼を傍に招く。
春野宮は、肩の荷を降ろした二人の医者を見た。
「ここはもういい。ご苦労だった」
「しかし、まだ熱が」
首を横に振り、帰り支度を薦める。
「大丈夫だ。何かあればすぐに声を掛ける」
「わ…分かりました」
ただならぬ雰囲気を察したのだろう。二人は互いに互いの方を向いてから、荷を纏めた。立ち上がると一礼をして、薬箱等を持って立ち去る。
「…ふう」
室内が気心知れた者だけになると、春野宮の表情が若干和らいだ。
雪之丞が心配そうに覗き込んできたのに、春野宮は苦い笑みを零した。
「嵐山から此処まで戻ってきたって事でしょ? 彼」
「! そう言えば。そうだね…」
「それにさ。雪たちがここに運んだとき、彼の状態…もっとひどくなかった?」
雪之丞が息を飲んだ。言いたいことが伝わったようだった。
春野宮は今一度天を見上げた。
「日が落ちる…」
「はる…」
「ほら。見て」
春野宮が指さしたそこを、雪之丞、藤吉が見遣った。傷口が、完全に塞がっていた。
三人は顔を見合わせる。
「藤吉、外を確認。何があっても絶対に、屋敷に隊士達を近づけちゃ駄目だよ。鬼化を見るのは初めてだ、何が起こるか分からない」
「は…はい! 市松様にまず報告を…」
「そうだね、市松の指揮に従って。雪の援護には僕が入るから、こちらの事は心配しなくていい」
「はい!」
「状況に応じて他の柱に連絡。里での被害は決して出しては駄目だ」
「は!」
一礼をして足早に去った藤吉を見て、雪之丞の緊張が多少解れたようだった。
「手際がいいね、はる。状況判断が速い…」
「雪。どうしたの?」
「いや…俺、動揺しちゃって。巌勝にも叱咤されたばかりなんだ」
「雪…。僕もね、最初そうだったよ」
目を皿のようにして「え?」と呟いた雪之丞に、春野宮は事の起こりを話した。
「きっとね、皆、最初はそんなものだよ。戦(いくさ)は数や将の頭で計算して終わっちゃうけど。鬼狩りは…」
日が落ちた。
春野宮は弓を持ち直し、ふう。と息を吐く。面持ちが緊張した。
一本、矢筒から矢を引き抜くと、鉄の擦れ合う長い音が響いた。はっとした雪之丞も、隣でゆっくりと抜刀する。
二人同時に後退(あとじさ)り、隊士から距離を取った。
まだ意識は失ったままだが、指先がぴくりと何度か反応していた。息を飲んで見守った。
雪之丞が、声を潜めた。
「もう…元には戻らないのか」
悲痛な声音だった。
水の柱は何時でも冷静だが、とても優しい。彼が持つ落ち着いた雰囲気は、その穏やかさから来るものだった。相手を見下す冷たさではない。
『僕だって、できれば刃を向けたくはないけど…』
「鬼になってしまったら、斬るしかないのか? まだ…理性が、残っているんじゃ」
「たとえ残っていても、鬼は人を喰うよ」
「! はる…」
春野宮は、「鬼は鬼だ」と、暗に伝えた。
『これがもし、姉上だったとしても。…いや。姉上だったとしたら。僕は間違いなく、斬る。姉上だって、望まないはずだ。鬼になってまで、生きるなんて』
だが、隣の水柱の考えは違う。
もっと別の方法を、模索しようとしている。
春野宮は覚悟を決めた。
「雪」
それきり二人の会話は途切れると思われたが、雪之丞がちらりとこちらに視線を送った。
「思うようにして。僕が絶対、その背中を護るから」
「はる…!」
雪之丞の顔が明らんで、固く頷き合ったときだ。
「が、ガ…ガアアアアアぁあ!」
白目を剥いた隊士が、勢いよく立ち上がった。
両手を垂れ下げたまま、左右にぬらりと揺れ動く。口はだらしなく開いたまま涎を垂らし、小刻みに躯が震え始めた。
「オオオオオ…!」
まるで狼の遠吠えのような、雄叫びが漏れた。
一気に飛翔して、小屋の屋根を突き破る。
「ち…! 逃がさない!」
雪之丞がすぐさま反応し、腕を交差させて屋根瓦を同じく破壊しながら飛翔した。
「雪…!」
春野宮も後を追う。二人夜空に舞い上がり、まだ残った屋根に降り立ったとき、
「目を覚ませ! 君は…鬼狩りなんだ! この里の、一員なんだ…!」
雪之丞が叫びながら、突進するのを見た。
相手は一度は反応した。
だが、痙攣すると見る間に背中から昆虫の手足のような、節のあるそれが出てくる。先は尖って、蟷螂(とうろう)のようだ。
伸び上がり鞭のように撓(しな)って振り下ろされたそれを、雪之丞の下段からの刃が弾いた。
続く二撃、三撃、左右に振り抜いて懐に入り込む。背中に振り下ろされる蟷螂には、
「空の呼吸 壱ノ型!」
春野宮が一陣の矢を放った。振り下ろされた節に命中したそれは、そのまま鎌を貫き落とす。
同時に、雪之丞が踏ん張る足に一太刀浴びせた。
「ギャアああああ!」
真っ赤な血が迸り、片足を失った六足蟷螂の元・隊士は、崩れ落つ。瓦礫のようになった屋根瓦を豪快に突き破って、周囲に爆音を巻き起こした。即座に、
「昇麾下! 一(はじめ)配下構え! 春野宮様の援護に入れ! 絶対にこの辺りから逃がすな!」
市松の声が響いた。
続いて、鳴柱(なりばしら)、炎柱に伝令を飛ばす藤吉の声が聞こえ、距離のある本陣へと鴉が報告に向かった。
彼らの判断に頼もしさを覚えた春野宮は、心持ち余裕が生まれた。
『景色…あの夢に似てる。似てるけど、状況は違う。夢が異なる未来を迎えたのか、それとも…!』
「頼む! 目を覚ませ! 鬼の血に負けるな…!」
雪之丞が叫びながら、技を放った。
それは首を狙ったものではない、動きを抑制する水の流れだ。渦のような水刃(すいじん)が波濤を夜空に散らして、元・隊士を囲う。
飛んで広場の方へ逃げようとした彼には、
「空の呼吸 肆ノ型!」
それより高く、春野宮は飛翔した。
「十六夜(いざよい)蝉時雨(せみしぐれ)!」
番(つが)えた一矢が見る間に散弾し、彼に向けて、鋭い矢の雨が降り注ぐ。
「う! う…オオオオオォ…!」
二度目の雄叫びが聞こえた。
まるで啼いているようだった。
「どうにか…どうにかならないのか!」
雪之丞の切実な叫びが重なる。
「頼む、目を覚ませ…! 鬼化を止めろ!」
「はる! 雪!」
惣寿郎の声が聞こえた。剣戟(けんげき)を交わす合間に、炎麾下が昇麾下の間隔を埋めるように刃を抜いて、囲う。
もう、逃げ場はなかった。
降り立った隣に、惣寿郎が厳しい表情で立った。
『惣寿郎…』
「雪!」
翁こと鳴柱も姿を現す。雪之丞に任せきりにはしなかった。
「斬れ! 鬼になった者は元には戻らん!」
「しかし…!」
雪之丞には余裕があった。
水麾下を纏め、己もその腕で鬼の蔓延(はびこ)る戦場を渡り歩いてきた百戦錬磨の剣豪だ。
他の柱達と話しながらでも、元・隊士の攻撃には耐えうる実力があった。
だがそれが、元・隊士には、鬼の血に順応する時間を与えることになる。
「巌勝から頼まれたんだ、彼を…彼を頼む、って!」
雪之丞の慟哭が辺りを静まり返させた。
蟷螂を跳ね返す刃の凜とした音だけが、啜り泣き響くようで、夜空を裂いた。
「苦しませず頚を獲るのも務めだぞ、雪!」
言ったのは惣寿郎だ。
「惣寿郎、…僕が」
見上げて呟くと、誇り高き炎柱はこちらを向いて、一瞬言葉を呑んだ。
『責任は僕が取るよ』
矢を番えた時、
「…待て、はる」
惣寿郎の眼差しが遠く見つめたまま、潤んだ。
弓矢を降ろし、見つめる先を見る。
雪之丞が、星夜に舞い上がった。
「水の呼吸 伍ノ型! …干天(かんてん)の慈雨(じう)」
雪之丞の悲愴な思いが伝わったのだろうか。元・隊士は、腕も、生えた蟷螂も地に下げたまま、跳ねた雪之丞を見上げた。
『…ごめんな』
雪之丞の心の声が聞こえた気がした。
顕わになった頚を、す…と、優しい水の刃が通っていった。