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​第五話:異変

・壱・

 最後の矢は、的を外れた。

「ん…やっぱりあの隙間に打ち込むのって、難しいなあ」

 春野宮(はるのみや)は呟きながら弓を収める。見れば、的の中央には既に、数本の矢がぎっしりと刺さっていた。中央の一点のみ、鏃(やじり)一つ分の隙間がある。

 周囲の矢も当てて剣山のようにした腕前だけでも舌を巻くものだが、中央を最後にとは、見ていた日ノ卯(ひのう)も

『阿呆かいな』

 と絶賛した。

 不思議なもので、打ち合う刀の稽古場に、鴉が集まることはない。

 だが、春野宮の屋敷裏手の弓道場や、稽古場裏の弓道場には、鴉は良く集まった。張り詰めた空気と、矢が流れるだけの静寂が、彼らには心地よさそうだった。

 今日も日ノ卯の周りには、縁壱(よりいち)の日ノ輪(ひのわ)、惣寿郎(そうじゅろう)の鐵(くろがね)、そうして若手鴉が集ってきている。

 春野宮は的場まで矢を取りに行く最中、向かいの高い柵の上に数羽鴉が止まっているのを見、

『毎度。飽きないなあ…』

 くすりと笑みを零した。

 そろそろ、風が冷たい。色付いた葉も、日に日に舞い散る数が多くなっていた。

 屋敷裏手の弓道場は、安全のために塀が高く設置してある。が、天井はない。そのため冷たい空気はよく降りてきて、道場を吹き抜けて行った。

 晴れていようが雨であろうが、季節毎に様々な状況で鍛錬できることは願ったりだ。天候による不自由はないが、季節の変わり目は、どこか、物悲しい気分にもなる。

「もう、あんなに空が高いや…」

 十数本の矢を抜いて、筒に入れる。使った的は蜂の巣のようになり、

「…しまった。こういう練習の仕方すると、的がすぐ駄目になっちゃう」

 肩を落とした。

 丸太でも使うべきだったと後悔した。

 不意に、日ノ卯の元に一羽の鴉が降り立つ。気配にそちらを見て、

「また新しい仲間かな?」

 と思ったが、どうやら自分の傍を離れようとしなかった日ノ卯の代わりに、伝言を言いに来たようだった。

「日ノ卯~」

 春野宮が責めるような口調で言うと、日ノ卯は『ケケッ!』と悪びれる様子もなく笑った。颯爽と舞い降りて来ては、肩に止まる。まるでそれが合図であったかのように鴉の会合はお開きになって、日ノ輪も鐵も、主の元へ帰るようだった。

 本陣からの呼び出しに、慌てて弓の弦(つる)を外す。袋に入れて仕舞いながら道場を後にすると、弽(ゆがけ)はそのままに駆けて向かった。何を思ったのか、日ノ卯が後を付いてきた。

『この時間帯の呼び出しなら、任務かな?』

 可能性は大きい。そうだとしたなら、装備は外さずとも、馴染んだままの方が都合が良かった。

『ただ…それならどうして日ノ卯が先に本陣へ戻らなかったのか。お館様の呼び出しは、気付くだろうに』

 本陣の軒を潜ると、輝王丸(きおうまる)が出迎えてくれた。広間へと案内される。謁見の間でないのなら、任務ではない。ますます憂慮した。

 引き戸が小姓(こしょう)の手で開けられて、中の人数に最初目を奪われた。

 お館様の脇には、

「師匠。…惣寿郎」

 二人が控えている。

 三人の前には、五人の隊士がいた。

『え…何。なんかやだな、空気…』

 重たい。

 出入りの扉のところで逡巡していると、お館様・昌輝(まさてる)が口を開いた。

「はる。お疲れ様」

 一斉に、五人がこちらを向いた。

 内、二人が見知った顔だ。

『あの時の』

 それは、三月ほど前の柱入れ替えの儀の事だ。

 あの時相手をした甲(きのえ)三人の内、二人がそこにいた。

『え。なんで』

 五人が深々と、恭(うやうや)しく頭(こうべ)を垂れる。

 意味が分からず、心の臓が早鐘を打つようだった。

『何か僕、やらかしたっけ…』

「はる、こちらへ。どうしたのかな?」

「あ、いえ…」

 一向に動かない自分に昌輝は疑問を含みはしたが、穏やかな口調で言われた。

「失礼仕(つかまつ)ります」

 弓袋毎腰骨に手を当て、一礼する。

 す…と足袋を畳に滑らせて流れるように室内に入った。五人と少し距離を置いた脇に、腰を落とす。正座になった。

 背筋を伸ばし、弓袋を脇に置いて、両手を腿に当てる。

 癖だった。

 柱達が集まる機会でもない限り、春野宮は、常にこの姿勢だった。弓道では当たり前の姿勢も、名だたる侍達の間では異様に映る。だが、昌輝は、黙認してくれていた。

「…ほう」

 今更ながら、惣寿郎がそれに気付いたようだ。

 春野宮は彼の方に身を向けると、一度、申し訳なさそうに上体を倒した。

 惣寿郎が「うむ」と明るい面で頷くのを見る。少し、ほっとした。どうやら呼ばれたのは、悪いことではないようだ。

「はる、そこの五人はね、昇(のぼり)麾下(きか)を志願している者だよ」

「…え?」

 鳩が豆鉄砲を食ったようになった。

 何度か瞬きする。言った昌輝の横で、惣寿郎がにやりとほくそ笑んだ。

「はる」

 縁壱が言葉を添えてくる。

「話しかける機会がなかなかなかったようです。とうとう私の所に、相談に来ましてね」

「ええと…」

『前に雪が話してたのって、まさかこの人達…』

 春野宮は身を前に倒すと五人を順に見、険しい顔になった。

 中央の者は一礼するとしっかり見つめ返してきたが、他の四人は恐々としている。

「師匠の所には行けるのに、僕の所には来られなかったの?」

「ほら。それです、はる。貴方はこと、弓に関しては厳しいのですよ」

「だって!」

 珍しく縁壱に口答えをしかけたとき、中央の者が膝を進め、手を付いて丁寧に頭を下げた。

「勇気がなかったことは認めます。ですが、一度…どうか、一度。自分の弓を見て下さい」

 絶句した。

 慌てて四人も口々に、「自分も!」と頭を下げてくる。

「はる」

 縁壱に、微かに首を傾けて呼ばれ、ますます言葉を失った。

 やがて春野宮は深々と溜息を吐いて、

「中央の」

 呼び掛けると、ゆっくりと相手は面を上げた。

「名前は?」

「市松(いちまつ)と申します」

 凜とした姿勢は悪くない。真っ直ぐ見返してくる気概も満更ではなかった。四、五歳年が上のように思えたが、それを笠に着る様子もない。それなりの決意はあって、縁壱に話しかけたのだろう。

 春野宮は膝を進めて皆を眺められる場所へ移動すると、姿勢を正して言った。

「本陣には既に櫓(やぐら)周りの御館様直属の弓隊もあるし、僕は、個人的に弓隊を作る気はない。鬼殺隊での弓が、如何(いか)なるものかを弁(わきま)えているからだ。はっきり言っとく。弓で柱にはなれない」

 顔色を変えた者らを目に収めた。

「僕は運が良かっただけだ。それでも弓を取り、隊士として生きて行くという覚悟があるなら、市松。…それと、君と、…君」

「あ、はい!」

「はい!」

 指さされた二人が声を上げた。名乗りを上げようとしたそれは手で制し、

「明日、もう一度、弓を持って僕の屋敷に来るように。市松、時の頃は君が取り纏めて」

「「「は!」」」

 三人が平伏した。

 春野宮は御館様方を見向き、一礼する。

 何処かほっとした表情の縁壱と惣寿郎を見ては困ったように微笑んで、立ち上がった。

 その足元に、残る二人が縋ってくる。

「あの! なんで…!」

 春野宮は彼らを一瞥した。

「柱になるのが目的なら、そのまま刀を極めればいい」

「!」

「僕はね、柱になりたくて…偉くなりたくて鬼狩りになった訳じゃない。鬼を狩るんだ! この、弓で! その業を日々模索して…、鍛錬しているんだよ。この世から鬼を駆逐する。それが鬼狩りだ。肩書は、ただ、後から付いてくるものに過ぎない」

「っ…」

「その覚悟がない弓使いは要らない。鬼狩りとして生きる弓道は、そんなに甘いものじゃないんだ。君たち二人には、その覚悟が足りなかったようだね」

 春野宮は再び上座の三人に一礼すると、強く弓袋を握って踵を返した。

 その背中に、縁壱の静かな言葉が響く。

「市松さん」

「あ…はい」

「分かってはいると思いますが…。はるはああ言いましたが、運だけではないですよ。はるが柱たる所以は、あの覚悟と、御技の上に成り立つものです」

「はい。柱昇格入れ替えの儀で、確と目に収めました」

「…それは良かった」

 縁壱はそこで一旦言葉を切り、五人を順に見つめる。

 そうして、いつになく厳しい口調になった。

「昇柱(のぼりばしら)の弓の誇りを穢(けが)す輩(やから)は、私も赦しません。そのことを常に念頭に置いて…はるから。盗めるだけ、その御業を盗みなさい。きっと彼は、何よりそれが、一番…嬉しいでしょうから」

「「「ははっ!」」」

 市松達が低く頭を下げたのに、縁壱の真顔はまたいつものように柔和になった。

 昌輝と惣寿郎がちらりと彼を見たが、それには答えず、五人が足早に去るのを見送った。



 翌日。

 春野宮の元に「昇麾下誕生」の噂は、鬼殺隊内に衝撃を与え瞬く間に広がった。

 少年が里に来たばかりの頃から見守っていた炎麾下の面々は、惣寿郎と共に我が事のように喜んで、それがまた、何も知らない隊士達の間では話題になった。

 その後、腕に覚えのある弓士が春野宮の屋敷の門戸を叩く姿が、良く見受けられるようになった。

 が、彼に認められる隊士は本当に、極一握りだった。

 春野宮の基準は明確だ。

 鬼狩りとしても。

 弓を究める道士としても。

 だが、二つを同時に備えた隊士というのは、そうそういないようだ。

『才の有無は何とかなる。長い…長い道だ、弓の道は。だけど、鬼狩りとしての心積もりは』


 ――――姉上。


 妥協はしない。

『自分の価値を自分で下げたら、後に続く者達の質も必然的に落ちる。生と死が隣り合わせにあるこの世の中で、最前線で戦う剣士達の命を預かる身としても。僕たちは…』

 見上げた天に、日ノ卯が旋回している。

 春野宮の表情が晴れた。

『あの日。日ノ卯はきっと、分かってたんだね。なんで僕が本陣に呼ばれたか。僕がどんな反応をするか。だからきっと、無視してくれてたんだ…』

「日ノ卯!」

 弓を片手に、右腕を上げる。

 彼は一声啼くと、舞い降りてきた。

「ありがとう、日ノ卯。君は僕の、良き理解者だ」

『当然!』

「! あはは!」

 思わず頬擦りをすると、日ノ卯は、それは迷惑。とばかりに片足を上げて、蹴りを入れてきた。

 それがまた愛おしく、春野宮に笑みが零れた。



 昇麾下の面々は十人ちょっとに上ったが、春野宮の屋敷に住まうのは、市松他、最初に志願してきた二名のみだった。

 年の瀬や正月を共に過ごし、松の内も明ける頃、春野宮は早朝、弓を取った。久々に雪が止んだ、晴れた日だ。弓を放ちたくて仕方がなかった。

「たのもう!」

『義政(よしまさ)?』

 春野宮の弓が下がる。

 市松の対応する声が聞こえ、

「君は。良かった。無事、はるに認められたんだね」

 雪之丞(ゆきのじょう)の明るい声色が響いた。

『やっぱり、雪が言ってた人達だったのか』

 何とも苦い笑みがこぼれた。

 春野宮は市松が呼びに来る前に、庭先を通って三人の元へ足早に寄った。

「春野宮様」

「市松、ありがとう。後は僕が」

「あ、はい。朝餉(あさげ)の準備ができています、何時でも」

「うん。すぐ戻るね」

「はい!」

 市松が屋敷の奥へ消えると、義政と雪之丞が快活な笑みを零した。

「すっかり殿様が板に付いてきたなあ、はる」

「やめてよ義政」

「でも良かった、なんかね、縁がなさそうだったんだ、彼」

「あ。市松?」

「ん」

 雪之丞が頷く。

「任務がないときは、いつも探してたよ、はるのこと。彼。一度ははるが任務から戻ってくるまで屋敷前で待ってたら? って話したこともあったんだけど、それだと鍛錬の時間が勿体ないって。春野宮様だって、任務上がりではお疲れだろう、って。言ってさ」

「へえ…」

「いつの間にか彼の周りには、はるに指南を受けたいって言う弓士が集まり始めてね、でも…何だろう。彼が選んだわけでもないんだろうけど、彼の行動に今度は付いていけなかったのかな、縁壱の所へ相談を薦めたときは、三人だけになってたなあ」

 言葉の節々を捉え、春野宮は若干心が痛んだ。

『僕の所に話が来るまでに、そんなに雪の手を煩わせてしまっていたのか…』

 師匠の言った通りなのかも。と、内心反省はしつつ、

「三人?」

 数がおかしいぞ、と思った。問いかけると、雪之丞は頷いた。

「うん。今、はると一緒に暮らしてる三人だと思うよ?」

「ああ、なるほどね…」

『市松の見立ては、あながち間違いじゃなかったって事か…』

「それよりさ」

 と、義政が慌てて口を挟んだ。

「たまには息抜きしよう、はる」

「ん?」

「ほら。…凧揚げ!」

「! ああ…!」

「縁壱も誘ってさ、広場で」

「いいね!」

 春野宮の顔が少年のそれに戻った。

 義政が言う。

「じゃ、半刻後に広場で! 俺たち、巌勝(みちかつ)先に誘ってくるよ」

「分かった。じゃ、僕、師匠呼んで行くね!」

「ん!」

 また後で、と、義政と雪之丞が手を振り足早に去って行く。

 春野宮はそれを見送ってから、屋敷の奥へ消えた。

 味噌のいい香りがする居間へと足早に向かう。

 市松達が膳を挟んで談笑する場に姿を現すと、三人が笑顔で「おはようございます」と声を掛けてきた。

「おはよう、みんな。いつもありがとう」

「いえ!」

 上座に座り、皆で手を合わせる。

 自然と弓談義になる食卓に、春野宮はそっと耳を澄ました。彼らが互いの意見を受け入れながら、一頻(ひとしき)り話す様子を見守る。

 ふと、

『ああ、そっか…』

 縁壱の心境が分かった気がした。

『師匠はいつもこんな風に、僕の話を聞いてくれてたんだ…』

 ただ無口なだけだと思っていたけど、と、春野宮はくすりと微笑む。

『聞き上手だったんだ、師匠。…いや待てよ? おっとりしてるからなあ…そう思わせて本当は、やっぱり、聞いてないかも? いやいや、師匠のことだから…』

「春野宮様?」

 市松が顔を覗き込んでくる。

「…市松。ここ」

 と、鼻下を指さし、

「ご飯粒付いてる」

「あ、いや!」

 瞬時に顔を真っ赤にして慌てた彼に、後の二人が笑った。

 春野宮の笑声も、重なった。

第五話・壱・: テキスト
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