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​第四話:兄と弟

・肆・

 翌朝、春野宮(はるのみや)は、朝は日が昇る前から起き出した。

 屋敷裏手の水場から桶一杯に水を張り、弓道場へ運ぶ。真白い胴衣(どうぎ)に黒袴(くろばかま)姿だった。既に袂(たもと)は紐で襷掛(たすきが)けにされている。

 ここは、縁壱(よりいち)が用意してくれた、自分だけの特別な場所だ。

 誰が見ているわけでもないが、入口脇に桶を置くと、腰に手を当てて一礼をした。愛用の弓矢一式は、隅の座敷に既に置いてあった。

 一歩中に立ち入る。真後ろに向いて中腰になると、手拭いを桶の水に浸して固く絞った。そうして射場(しゃじょう)の床を端(そこ)から丁寧に、磨いていく。

 二度目は乾拭(からぶ)きだ。

 そうして矢取り道を掃いたり、矢道の雑草を抜いたりと丹念に手入れをしている内に朝日が昇った。雀たちの朝の挨拶がそこかしこから聞こえてくる。

 お天道(てんとう)を扇(あお)いですっきりとした笑顔になったとき、

「…ん?」

 顔色が少し曇った。

 屋敷の外が騒然としているようだったからだ。

 複数の足音が聞こえ、心内で数を数える。神経を研ぎ澄ますと、そのうちの一人が縁壱であることを知った。ここからでは全く声は聞こえないが、指示を出しているのであろう事が、気配で分かる。

『何かあったのかな』

 愛宕(あたご)は千日詣(せんにちもうで)の、祭りの後だ。

 今朝ばかりは、里の隊士達も殆ど眠りこけていると思われた。柱達が全員里にいることも安堵の一端であったろうし、警備も夢柱(ゆめばしら)と風柱が請け負ったからだ。

 そのうちに、焦燥を含んだ足音が遠くから合流した。

「縁壱!」

 巌勝(みちかつ)だ。

 言葉がはっきりと、耳に響くようだった。

『巌勝…?』

 流石に看過できなくなった。

 掃除用具は取り敢えずそのままに、緊急用の備え付けてある草履を棚から取り出す。駆けて屋敷脇の庭から表へ出ると、

「はる。…おはようございます」

 比較的落ち着いた、縁壱の声がした。

 炎麾下(きか)が、…縁壱ではなく、巌勝側にいる。皆、険しい表情をしていた。

「おはよう、師匠。何かあった? なんか…異様な雰囲気を感じたんだけど」

「…いえ。早朝稽古中でしたか? こちらこそすみません」

「そんなこといいんだよ、…大丈夫なの?」

 態(わざ)とであろうか。

 不得要領とした縁壱から、春野宮は、巌勝に視線を移した。

 だが巌勝も、

「大丈夫だ」

 低く、一言放つのみだ。

「じゃ、縁壱。一先ずこちらは俺が引き受ける。煉獄(れんごく)には後から顔を出すから」

「分かりました、伝えておきます」

「ああ。頼む」

 双子はそれきり背中合わせになった。

 縁壱はこちらを見つめてくるが、巌勝は踵を返すと炎麾下と足早に立ち去った。

 そんな光景は、見たことがない。

 完全に姿が見えなくなって、春野宮は、縁壱を見上げた。

「師匠」

 縁壱は息を吐きながら肩を落とした。

 軽く背中を押され、弓道場へと戻る。縁壱も、手を添えたまま付いてきていた。

 入口で草履を脱ぐと、射場の中央まで歩んだ。

 全く人気がなくなって、それでも声を忍ばせて、縁壱が話し始める。

「波々伯部(ははかべ)梗岢(きょうか)。覚えていますか?」

「え? あ、うん。じぃちゃんの後継者でしょう?」

「ええ」

 知らず、二人、面と向かって正座をした。

「彼が、昨夜、人を斬りました」

「え!?」

「今朝早く…と言いますか、はるは慌ただしさに気付いたのですね、」

「偶々(たまたま)、だけど。練習前に道場の掃除してて」

「そうでしたか…」

 縁壱はゆっくりと目を伏せた。

 言葉を呑んで彼が視界を得るのを待つ。

「暫く惣寿郎(そうじゅろう)、兄上、私は、本陣へ入り浸ることになると思います。真偽の程を確かめなければならないので」

「あ、うん」

「任務は貴方と、義政(よしまさ)と、翁(おきな)に任せることになるでしょう。…中でも義政には、既に動いてもらっています。今朝はもう、里にはいません」

「…ん? 龍洞(りゅうどう)や雪は? 神々廻(ししば)さんだって居るよね? あ、違う。翁も該当者じゃないの? 任務の方に専念するわけ?」

 春野宮は首を傾げながら、名の上がった柱を指で数えつつ矢継ぎ早に問うた。

 縁壱は一呼吸置くと、小さく頷く。

「梗岢が波々伯部一族の生き残りだという話は、しましたね」

「うん…」

「兄上曰く、梗岢が昨夜斬った相手は、細川ではないかと」

「え!」

 息を飲んだ。

 これでもかと目が大きく見開き、絶句する。

「お家騒動に巻き込まれた恐れがあるので、翁に表は任せられません」

「あ、そっか。柳生(やぎゅう)一族の先代だもんね。一族が巻き添えになったら…大変だ…」

「そう言うことです。貴方も同様」

「……うん…」

「惣寿郎も一度は辞退しましたが、柱を取り纏める長として、やはり影なりと、動かないわけにはいきません。龍洞がお庭番衆(裏)を纏め、私が矢面に立ちます。惣寿郎との橋渡しですね」

「師匠…」

「雪と神々廻さんは後詰めに入ります。今回の事は、甲(きのえ)昇格の特別任務の最中に起きたことなので」

「…特別任務?」

「昨夜、柱は合同休暇を取っていたでしょう」

「あ。うん」

「任務は、乙(きのと)が受けていたのです。甲昇格の試験を兼ねて」

「そうだったんだ…!」

「今回は、岩、水、雷。この三人の柱から申請が出ていました。昨夜は、」

「梗岢の出陣だった…?」

「そう言うことです」

 二人は一旦、見つめ合い無言になった。

 春野宮がはっとして、言う。

「師匠…こんなときに何だけど…」

「はい」

「三日後の、御前試合は? …なくなる?」

 ああ、と縁壱が思い出したように頷いた。

「いえ。行われると思います。そのつもりで準備して下さい。前日の任務は…入れば翁に任せましょう」

「…大丈夫なの? 慌ただしいよね、本陣だって巌勝だって。相手している暇なんか…」

「兄上のことです」

 縁壱は、何とも言えない顔になって首を横に振った。

「それはそれ、これはこれ。割り切ると思います。真相がはっきりするまでは事を大きくはしたくないでしょうし」

「あ。そか…梗岢のためにも…」

「ええ」

 縁壱は深呼吸すると、立ち上がった。

 釣られて春野宮も立ち上がり、出入り口まで見送る。

「鬼退治は任せましたよ、はる」

 草履を履いてこちらを向いた縁壱に、春野宮は強く頷いた。

 安心したように微笑んだ彼が、静かに立ち去っていく。屋敷の影になって見えなくなるまで、春野宮は、後ろ姿を見送った。


 翌日、梗岢が座敷牢(ざしきろう)に入れられた。

 時の差こそあれど、鴉を通して、柱全員にそのことが告げられる。

 春野宮に任務が回ってくることは、まだ、なかった。代わりに義政が出ずっぱりで、里に戻る様子がない。

『義政のことだから、きっと、落ち着かない翁、明日の僕の御前試合、考慮してくれてるんだ…』

 片付いたら自分も外に出なければ。

 思いつつ、春野宮は、稽古場に姿を現した。

 普段こちらで練習をする柱達が、一人も姿を見せず本陣に入り浸っているとなれば、下級隊士達に要らぬ詮索をさせることになる。

 どうやら雪之丞もそう感じていたらしく、

「雪」

「はる」

 顔を見合わせて、互いに作り笑いの浮かんだ奇妙な顔付きになった。

 どちらからともなく歩み寄って、

「珍しいこともあるものだね」

 雪之丞が言った。

 春野宮は努めて明るい声で、

「うん。いつもと違う道場を使ってみるって、新鮮だね! 水麾下って、北の稽古場根城にしてたんだ?」

「根城」

 雪之丞は苦笑い、

「屋敷から一番近いからね。その代わり、一人で稽古したい時は別の所へ行くよ、俺」

「そうなんだ。今度僕、里の道場巡りしてみようかなあ?」

「はるは呑気だなあ」

 雪之丞がにこりと首を傾けた。

「下級隊士達の間では、どの道場にどの時間帯に行けば、どの柱に逢えるって、話題なんだぞ?」

「え! そうなの?」

「んん? 弓を習いたいって隊士に遭ったことない?」

「ないけど」

 同じ方向に首を傾げると、穏やかな水の柱はまた肩を揺らし、

「そうか…おかしいな? あれから俺何度か、はるが何処にいるかって聞かれてるんだけど。そう言う理由で」

「またまたあ」

「いや本当だって」

 腕を組んで再び首を傾げた雪之丞に、春野宮は笑声を立てた。

 雪之丞は気を取り直し、

「ま、いいか。どう? はる。折角だし、少し手合わせしてみる?」

「いいね! 少しモヤモヤしてたんだ、僕」

「俺も。思い切り、ぶちまけたい」

「それもまた、珍しいなあ!」

 漸く二人、笑顔になった。

 ちょっと待ってね、と、春野宮が弓袋から弓を取り出す。その場で正座をし、準備を始めた春野宮に、

「おい…」

「水柱と昇柱(のぼりばしら)が」

 と、辺りがすぐにざわつき始めた。

 あっという間に観客が集まる。円陣を組むように稽古場一帯を縁取る隊士達に、側の雪之丞が見回した。

「ま。仕方ないか」

「しょっちゅうだよ? 僕」

「そうなんだ?」

「師匠とほら。よく」

「なるほど」

「…お待たせ!」

 春野宮は立ち上がり、にっこりと笑った。

「よし。やるか!」

「ん! 宜しくお願いします」

「よろしく、はる」

 お互いに一歩後退し、武器を片手に礼をする。

 やがて北の稽古場は、豊かな水量の帯と、爽やかな空色の帯が絡み合う、その日の夏の青空宛らに、地上に日本画を描いた。

 立会人のいない柱同士の手合わせは、技の出し合い、躱(かわ)し合いで、穏やかな時間を紡いでいった。



 その二日後。

 春野宮は、宵柱(よいばしら)・継国巌勝と共に、柱入れ替えの儀の申請試合を請け負った。

 まだ、波々伯部梗岢の一件が片も付かない頃合いだ。

 二人の柱の機嫌はどんよりと地を這うようで、容赦がなかった。互いに申請のあった甲の面々を、一瞬で片付けた。

 立ち合いは縁壱が行ったが、一切手間はかからず、機械的に処理されていく。見ていたお館様・昌輝(まさてる)は苦笑したが、

「致し方なし」

 傍の惣寿郎と呟き合ったらしい。

 大した時間も掛けずに全ての儀を終えると、春野宮は、巌勝の傍に寄った。

「巌勝」

「…ん」

 物静かな宵柱は、鞘に収めた日輪刀を腰に馴染ませると、面を上げた。

「今回の事。なんだか…ごめんね」

「…お前のせいじゃないだろう」

「でも。細川が」

 巌勝は正面に向き直ると、表情を変えずに見つめて来、

「何処にでも転がってるような話だ。このご時世ではな」

「巌勝…」

「お前は鬼狩りだ、はる」

「!」

「皆…」

 と、巌勝はその場に居合わせた柱を順に眺めた。

「それぞれに何某(なにがし)かの宿命は負ってる。それは、分かっているつもりだ」

 春野宮も、縁壱や惣寿郎を眺めて、巌勝に視線を戻した。

「お前に咎(とが)はない。はる。気を遣わせて、こちらこそすまん」

 軽く頭を下げた巌勝に、春野宮は言葉がなかった。

 真摯な姿に、ただただ、こちらも無言で頭を下げた。


 その二日後。

 義政が任務から帰投し、波々伯部梗岢は暫く謹慎処分となり巌勝に引き取られた。

 全ての片が付くのには更に日数がかかったが、まだ、蝉時雨の五月蠅(うるさ)く鳴り渡る夏の間に、一件は、落着したのだった。

第四話:兄と弟・完・

​第五話へ続く

第四話・肆・: テキスト
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