第参話:宵闇の侍
・肆・
その年の暮れのことだ。
矢に乗せる呼吸の仕方を一から復習していた春野宮(はるのみや)は、罵詈雑言を耳にした気がした。
道場の壁の向こう、或いは、その隣の、稽古場の更に向こうかも知れない。漂ってくる雰囲気が異常で、春野宮の動きは完全に止まった。
耳を澄ます。
言葉はあれきり、聞こえてこなかった。ただ、何事か、尋常ならざることが起こっていることは確かだ。
『…この気配。巌勝(みちかつ)? と。誰だろう、複数…』
春野宮は、流れてくるそれを分析しながら、的から矢を引き抜いた。その間に、空気の流れが一層淀む。血の臭いがした。
「やば」
まさか死人が出るかと、春野宮は慌てて矢を仕舞い、矢筒を背負い直した。弓を担いで道場を後にする。表口へは向かわずに、稽古場への近道である勝手口を選んだ。
幅の狭い通路に出ると、
「土下座すれば赦してやるって言ってんだよ!」
怒声が聞こえた。
『通路に出ると丸聞こえじゃん。人が集まって来ちゃうよ』
「何故(なにゆえ)俺が貴様らに謝らねばならん。難癖を付けてきたのはお前達だろう。俺はただ、その相手をしてやっただけだ」
『あ。やっぱり巌勝!』
「ふざけるな! その態度が気にくわないって言ってんだよ」
『え~、そんなことで呼び出したの?』
「餓鬼か」
思ったことが巌勝の一言で集約されて、春野宮は、声は堪えて肩を揺らした。ひとまず、弓が引っかからないよう、狭い通路を蟹歩きで進むと、裏の庭へと出る。
近寄れば近寄るほど、低い呻き声が聞こえてくる。泥炭と踏み拉かれた草の匂いに血のそれが混ざって、春野宮は顔を顰めた。
「あ~あ」
と、春野宮は、辺りを見渡しながら集団の後ろに、何食わぬ顔で姿を現した。
「誰も手入れしないから、雑草が凄いね。日当たりいいんだあ、ここ」
「はる?」
「あ。巌勝。やほ!」
にっこりと笑い、片手を上げて振る。声に驚いた集団が振り返り様後退り、あっという間に海が割れたようになった。巌勝までの道が自然と開く。
春野宮は、その動作の間にざっと、巌勝を囲う人数を確認した。数十人いると思われた。
が、前の方は既に、腕やら足やらを抱えて呻きながら転がっている。
『あら…やっぱ派手にやっちゃった後かあ。死人は…いないね、まあ良かった』
その先頭に、首謀者と思われる侍と、少し離れたところに、血濡れた木刀を手にした巌勝がいた。
「卑怯だぞ! 柱を呼んだのか!」
「何を…」
「は? どの口が言ってんの?」
巌勝が反論しようとしたところを、春野宮が大きな声で押さえる。
「…」
口を噤んだ彼を一度見てから、言った。
「巌勝がそんなことするわけないでしょ。君たちよりさあ、強いんだから」
「な…!」
春野宮は深々と溜息を吐くと、前の怪我人の様子を見ようと歩き出す。彼らの顔を一人一人確かめながら、割れた人波の真ん中を渡った。
ふと、
『!』
「はる!」
背後から、日輪刀を振り上げた気配を感じた。
巌勝が一歩を踏み出し叫んだが、微かに首を回し横目で相手を見定めると、素早く弓を胴回りまで降ろし横回転させた。
あっ。と言う間に、踏み込んだ侍が吹っ飛ぶ。
春野宮としては、弓の縁(ふち)で薙ぎ払おうとしただけなのだが、力量の差が思いの外出てしまった。手加減したつもりなのだが、一瞬のことで、侍達は呆気に取られて固まる。何が起きたか分からない、という感じだった。
「あ~あ、弓が傷むじゃん。変な使い方させないでよ」
未だ胴回りを回転する弓を左手で止めると、すぐには振動の止まらない弦(つる)が震えて啼いた。そうして初めて、
『『弓本体で人を打ち飛ばしたのか! それも、回転させただけで!』』
と、理解した様が伝わってきた。
「僕になら、勝てると思った?」
肩越しに彼らを見遣り、鋭い視線を送る。
離れたところで、巌勝が腹を抱えて笑いを堪えるのが眼の隅に映った。
「覚えてろ!」
「…いやもう里(ここ)にはいられないと思うよ?」
とは、呟き終わらぬ間に、動ける者は走り去ってしまった。
「あら…」
春野宮は残された負傷者の一人に寄ってしゃがむ。膝を両手で抱えるとにこりと微笑んで首を傾け、長い黒髪が肩から前へ落ちた。
「見捨てられちゃったね?」
「っ…!」
巌勝が傍に寄ってくる。佇む影が身にかかって、彼を見上げた。
「何があったの?」
「生意気だって呼び出された」
「…っは! 何それ」
くすりと笑みを零して言うと、巌勝から長い吐息が漏れた。
そのうちに、話を聞きつけたらしい惣寿郎(そうじゅろう)がやってきた。瞬く間に辺りは彼の指示で炎(ほのお)麾下(きか)によって整頓される。怪我人は事情聴取のためもあるのだろう、本陣へと運ばれていった。巌勝も、本陣へと呼ばれたようだ。後ろ姿を無言で見送る。
遠ざかる彼の背中を見ながら春野宮は立ち上がり、小さく溜息を吐いた。
惣寿郎が傍に寄って来、
「大体想像は付くが…」
言外に問いを投げかけられたが、春野宮は首を振ると、
「僕は巌勝の肩を持つよ?」
「はる」
「こう言うのってね、どっかできちんと意思表示をしないと、相手は図に乗るからね」
惣寿郎の表情が険しくなった。
「それでも、怪我人を出すことはないだろうが」
「死人が出なかっただけマシじゃない?」
「はる!」
「己の力量も、力の差も分からない鬼狩りって、必要(いる)? 僕たちが育てなくちゃいけないんだろうけど、こういう形でしかのし上がれない輩は、徹底して排除すべきじゃないかな。少なくとも、『仲間』に対して背後から日輪刀を翳す侍なんて、」
「!」
「ここにはいらないと僕は思うよ?」
そんな事があったのか、と言うような惣寿郎の顔付きに、春野宮はそれについては、それ以上は言わなかった。だが、
「階級が出来たなら、規律も入隊時の確認ももっと厳しくすべきなんじゃない? このままただ人が増えていったら、どんな輩が紛れ込むか分からないし。いつか人里の方に迷惑をかける日が、絶対…来るよ?」
「…分かった」
惣寿郎は神妙な面持ちで瞼を伏せた。
どうやら自身は本陣へも行かなくて済むようだと踏んで、その場を立ち去ることにする。
「はる」
背中に届いた彼の呼び掛けに、振り返る。
見つめると、彼が言った。
「巌勝の肩を持つのは、お前の…今までの経験がもたらした結果か」
「…どうだろうね?」
春野宮は、にっこりと微笑み深々と腰を折った。
それ以上聞かれるのは、如何な惣寿郎と言えども、まっぴらごめんだった。
里に衝撃を与えると思われたこの一件は、惣寿郎と、話を取り纏めた翁(おきな)によって早急(さっきゅう)に処理された。
用心深く鬼狩り達の顔を眺めるようになった春野宮の瞳にも、あの時の侍達が再び映ることはなく、里には幾通りもの憶測が飛んだ。
『臭いものには蓋をするのか』
思ったが、数日後、そういう訳ではなかったことを知った。
巌勝が、宵柱(よいばしら)に就任したからだ。きっと、あの時点では彼の柱昇進は、決まっていたことなのだろう。
『なるほどね』
夕刻、雪之丞(ゆきのじょう)と二人、任務に赴くことになった春野宮は、里の出入り口で偶然巌勝と会った。
「あ。巌勝!」
春野宮は思い切り片手を振る。
まだ少し遠目の彼は顔色一つ歩調一つ変えることなく、行き交うと、
「これから任務か」
立ち止まり、静かに言った。
あの日以来、顔を見合わせると、彼の方から話しかけてくる事も増えた。それが何よりも、と、思う。
「うん。雪と一緒~」
笑顔が嬉しそうに見えたのか、巌勝の口角も微かに上がる。
『あ。笑った! 僕が嬉しかったのは、話しかけてくれたからなんだけどなあ』
春野宮は後ろ手に尻の辺りで指を組んで、
「巌勝? 宵柱就任、おめでとう!」
下から様子を伺うように首を傾げて見ると、今度は確かににやりと笑って、
「ありがとう。その節は済まなかったな。援護してくれたと、後から煉獄(れんごく)に聞いた」
「思ったこと言っただけだよ。ま、確かにちょっと過激だったけどね!」
「…ふ」
春野宮もくすりと微笑む。
「今度手合わせお願いしたいな! 巌勝の技ほど広範囲に影響を与えるのってないから」
「弓の射程と比べるとまだまだだけどな」
「それ! 油断ならないんだよ~」
「どうだか」
二人、不敵な笑みを零した。春野宮は胸を躍らせて、今一度、「お願いね!」と手を振る。
「分かった」
巌勝も片手を上げて、すれ違った。堪らない笑顔が溢れて、足取りが軽くなる。
すかさず、雪之丞が問いかけてきた。
「何かあったの?」
「うん。ちょっとね、きつめの訓練してみたんだ」
「巌勝と?」
穏やかな水の柱は、羨望とも取れる声色で問いかけてきた。その反応が嬉しくておかしくて、
「うん!」
調子に乗ってみる。
「そうか…。俺ももう少し、柱達と剣を交わしてみるかなあ」
「雪、水麾下育ててるんでしょ?」
「あ、うん。まあね、水の呼吸使う侍って、結構いるんだ。屋敷がとても賑やかだよ」
「へえ…! いいね、そう言うの。僕、まだ弓使いの鬼狩り志望者さんには会ったことないや」
「なかなか難しいね、同じ柱でも、結構日常違うんだなあ」
日の沈む遠い茜空を見つめた雪之丞の横顔を、春野宮はしばし見つめる。
『皆の心に、少しずつ入り込んでる。巌勝。きっと、きっと…大丈夫…!』
春野宮も、同じように夕暮れに視線を戻して、
「師匠がいつも言ってるよ? 人は、出来ることをすればいいんだ、って。だから僕、頑張れる」
「はる」
「たった一人の弓使い。結構キツいよ~?」
ふふ、と笑うと、雪之丞は何とも言えない表情で言った。
「そっか…。けど俺は、頼りにしてる」
雪之丞らしい、さりげない、一言だった。
春野宮は里へ来て、二度目の冬。
巌勝が柱最後の一枠を埋め、九人全員が揃った。
鬼狩りは、まさに、全盛期を迎えようとしていた。
第参話:宵闇の侍・完・
第四話へ続く