第参話:宵闇の侍
・弐・
日ノ卯(ひのう)の伝令に本陣へ足を運ぶと、出てくる縁壱(よりいち)と鉢合わせた。
「あ、師匠!」
「はる。引っ越しは無事終わりましたか?」
「あ、はい。今までありがとうございました、師匠。任務もお疲れ様です」
『任務帰りでお疲れだろうに、師匠はいっつも先に気にかけてくれる。優しいんだから』
春野宮(はるのみや)はその辺は弁(わきま)えて、明るい声で丁寧に言い、辞儀をした。
顔を上げると、
「また何時でもいらっしゃい。お隣ですしね」
「へっへ~ん! そう思ってた!」
「はる」
縁壱の顔が一層穏やかなものになった。
今でも人目のある日中では、そうそう顔色は変えない彼である。だが、二人で話している時の彼は、微かであれど、よく、雰囲気が変わるものだと感じていた。
たとえ無表情であっても、己が話している時は、静かに耳を傾けてくれていると分かるのだ。
「じゃ。行って来ます! 師匠」
「はる」
すれ違い様、縁壱が言う。
「んっ?」
斜交いになった身を思い切り捩って、春野宮は彼を仰いだ。駆け出そうとしていた勢いは、完全に削がれた。
「兄上を、どうか…どうか、宜しくお願いしますね」
「え? あ、うん。…うん?」
頷いたものの、どういう訳じゃい。と言うように、春野宮は最後に首を傾げた。その様に縁壱は真顔で、一礼をしてくる。
『何か、あったのかな』
去って行く背中を見つめると、不安が過ぎった。
普段から縁壱は目上であろうと年下であろうと、丁寧な様は変わらない。
だが、改まってそう下げられると、居心地が悪かった。要らぬ心配をしてしまう。
『とにかく、御館様の呼び出しだから』
春野宮は屋敷の門戸を潜った。
すぐに輝王丸(きおうまる)が出迎えてくれ、案内(あない)してくれる。
『引き戸の向こう、謁見の間だった気が…』
「はる!」
「あ。義政(よしまさ)」
足を踏み入れた部屋の位置に、一層、心許なくなった。それでも信頼できる柱の顔を見れば、ほっとした声が漏れる。
義政の前に腰を落ち着けた。普段弓矢の手入れをする時同様、正座になった。意識しないと、自然とその姿勢になるのだ。
意図せず、ちょこん。と座した己に、義政の手が伸びて来て、
「あっはっは。可愛いなあ、はる」
頭を叩かれる。
「!」
最期の日の、姉の手を思い出した。
何とも言えない表情で義政を見ると、
「もうっ。子供じゃないんだからね!」
「いやいやいやいや。十分子供。正座したって胡座(あぐら)の俺の背、抜けないじゃん」
「だああ!」
「あははは!」
思わず飛びかかると、義政は快活に笑って応戦してきた。
取っ組み合いになって、小姓(こしょう)達が狼狽(うろた)える。それがまた義政にはおかしかったらしく、更に腹を抱えた。
「二人とも! そろそろ巌勝(みちかつ)様がお見えになりますから!」
「あ、え? 何?」
春野宮の動きが止まった。
義政に組み敷かれたまま、輝王丸の声に首だけ回すと、
「僕、何も聞いてないんだけど」
目を丸くして言いながら、影の落ちた義政の顔を正面に見上げた。
「何かあったの? 巌勝さん」
義政は身を離し、座り直しながら、
「ああ、巌勝の日輪刀が届いたんだ」
理由を話してくれた。
「鞘を抜いた結果次第で、すぐ任務に赴くってさ。俺たちは、その巌勝の、援護」
「へえ! 初陣(ういじん)かあ!」
「ん。はる、」
「あ、何?」
「俺にとっては、お前との共同任務も初めてなんだよ」
「あ。そうだね! 宜しくお願いします」
春野宮も居住まいを正し、改めて手を付いた。
だが、すぐには言葉は返ってこない。
訝しげに面を上げると、不安そうな様が見て取れた。
『無理もない、か。どんなに話を聞いてたって、弓じゃあね』
ところが、そうではなかった。
「何があっても、俺が守るから」
「…え?」
「煉獄(れんごく)さんや縁壱のようにはいかないだろうけど、俺だって、柱だ。援護してくれる弓士の命、ちゃんと守るよ」
「あ、そっちか」
今度は春野宮が、腹を抱えた。
義政の手が、すぱこーん。と豪快に頭を叩いていく。
「巌勝様がお見えになりました」
襖一つ挟んで、輝王丸の声が響いた。廊下側から、声が伝ってきたようだった。
隣室から、
「うん、入ってもらって」
明るい声色が応えた。昌輝(まさてる)のものだ。
春野宮は義政と顔を見合わせる。片膝を立てて、中腰になった。左手は、腰に差した刀の鞘に当てられた。自身のそれは、日輪刀ではない。山城を出た時に身につけていた、護身用のそれだ。
相手はいくら縁壱の兄とは言え、鬼狩りの里へ来たのは僅かに半月前だ。昌輝と一対一では、万が一がないとも限らない。
二人が交わす他愛のない会話に耳を傾けつつ、春野宮は、緊張を解かなかった。
いよいよ、二人の話が日輪刀に移る。
昌輝が言った。
「日輪刀は色変わりの刀だ。変わらなければ剣士としての才は無い。里を出、二度と、鬼にも里にも関わらぬこと」
「…はい」
「万が一遭遇するようなことがあれば、近くの寺院へ。いいね?」
「はい」
「いよいよか…」
横で、義政が聞き取れるかと思えるほどの音量で発した。
思わず彼を見、視線を交わして頷く。
昌輝の最後の言葉が聞こえた。
「色が変わればここにはいられる。だけど…その道は、日の当たらぬ過酷なものだ。覚悟はいいかい」
問いかけに、応える声はなかった。
春野宮は生唾を奥へ押しやる。やがて、
「面を」
昌輝の言に、拝跪(はいき)したのだろうと察した。義政と二人、ほっと胸を撫で下ろした。
沈黙が辺りを支配する。
まるで襖向こうの巌勝から、刀を抜く刃の音が、聞こえてくるようだ。
張り詰めた空気は隣室にまで及んで来、神経を研ぎ澄ます。囁くような刃の音を拾った。
落ち葉がひらり、ひらりと舞うような、刃の小さな声。
その音が、止まった。
「!」
春野宮は前のめりになった。鍔(つば)に親指をかける。
襖の向こうから、
「巌勝?」
昌輝の心配そうな声が届いた。
爪の先程の角度で、義政と横目で意志を交わす。
カチ、と鎺(はばき)が外れる確かな音がして、刀身をゆっくりと抜いたであろう巌勝の周りから、一息に、冷気が流れて来た。
「!」
二人は勢いよく立ち上がった。
あっという間に、気温が下がる。まるで冬の夜の深い闇に引きずり込むようだ。辺りに霜が降りて、畳が白く煙る。
「御館様!」
春野宮が左の襖を、義政が右の襖を、音を立てて開け放った。二つ目の動作で鍔を押す。鎺が浮いて刀を抜く、その刹那の間、
「大丈夫」
とでも言うように、昌輝が片手を挙げた。
動きを止めていた巌勝もこちらを一瞥し、また、刀に見向く。刀身を抜き放つと、直立させた。
見る間に刃が漆黒に変わり、その後を、深い銀糸の帯が追った。
「縁壱と同じ…二色…! でも…!」
今はもう藤色の刀身に、義政が息を飲む。巌勝が眉根を寄せた。
その理由が、春野宮には分からない。ただ、義政の一言は快く思わなかったであろうことは、分かった。
「巌勝」
昌輝が真剣な眼差しを彼に投げた。
巌勝は咄嗟に刀を鞘に収めて脇に置く。
「早速だけど、任務に就いてくれるかい」
「…は」
「場所は丹波(たんば)だ。案内は義政がする。援護にははるが入る」
巌勝がこちらを見、一礼した。
春野宮達は、固まり動けなかった身に鞭打って、慌てて片膝を付き頭を垂れる。抜きかけた刃は、元の鞘に収まった。
「巌勝」
昌輝の二度目の呼び掛けに、巌勝がそちらを向いたのを感じた。
「これは私の憶測だけど。多分、君は、どの流派にも属さない」
『僕と、同じ…!』
春野宮は、身体の芯が大きく波打つのを感じた。
「縁壱は、その流派を『呼吸』と呼んでる。まだ、彼以外に使いこなせるのは、炎柱の惣寿郎(そうじゅろう)、鳴柱(なりばしら)の宗厳(むねよし)、そして岩柱の主水(もんど)だけだ」
「呼吸…」
「里の柱はね、先にそれぞれ得意な剣の型を持っていたんだ。それを、流派と呼んでいた。だけど、縁壱は先に呼吸を習得していて、そこに剣の型を乗せたんだ」
『知らなかった…! あの呼吸は、師匠が始まりだったのか! それも、呼吸の方が先だなんて。普通、剣技は型をまず習うのに』
…まさか、独学?
そう思うに至って、身震いした。改めて、縁壱の凄さを知った。
『師匠こそ、本物の神の子だ…! あんな剣技、独学でどうこうできるものじゃない!』
やがて、話し終えた昌輝に、巌勝が、深々と頭を下げたのを春野宮達は見た。
何とも言えず、春野宮は巌勝を見つめる。
『あんなに出来のいい弟を持って、この人は。…どんなにか』
三条の家を思い出す。
『夢見』の力が発現したのは、嫡男(ちゃくなん)ではなかった。次男の方だったのだ。それ以降、嫡男と次男の立場は入れ替わり、宗家は目に見えて分裂した。
『今はもう、三条宗家がどうなったかなんて、分からないけど…あの頃は、ひどい家督(かとく)争いが続いてた。僕はそれが嫌で、弓を』
春野宮は、笑顔で立ち上がった義政の脇で、ゆっくりと身を起こした。思考は留まることがなかった。
『師匠が兄君と十年ぶりに再会したのも、それまで連絡を取れなかったのも、本当は…そう言うことが原因じゃないのか。その、師匠の、類い希な剣の腕が』
――――だとしたなら、兄の巌勝は、何故、鬼狩りの里へ?
「宜しくな! 巌勝」
義政の快活な声が聞こえて、春野宮は我に返った。
にこりと満面に笑みを浮かべて、
「僕、弓使いなんだ。足手まといにならないよう、頑張るね!」
無邪気に言うと、巌勝が、目をこれでもかと見開いたのを見た。
何をどう感じたかは分かりかねたが、義政が笑いながら背中を叩いてくる。
「侮るなよ~、はるの腕前、見たらきっと驚くぞ!」
「義政だって見たことないじゃん。僕、まだ、惣寿郎と師匠としか任務行ってないんだから。これまで」
「…師匠?」
深い海の底のような声が、耳に届いた。心地いい声色だった。
出逢った時とは違う印象を与えたその色に、春野宮は僅かばかり返答に詰まる。
じっと巌勝を見つめて後、
「あ、うん。巌勝さんの弟さん。縁壱さん」
「!」
「こいつさ、縁壱にくっついてここに来たんだ。色々あったみたいだけど、おいおい。な? はる」
「そうだね。丹波だっけ? …割と近いな」
場所が場所だと思い、一度、昌輝の方を見た。
「ん。初陣だからね」
「確かに」
「行こう! 少し飛ばすが、巌勝。辛い時は教えてくれ」
「は? 足で…行くのか」
「もちろん。里に馬がいるわけないだろ?」
「…想定外だ」
春野宮は赤べこのように頭を何度も縦に振り、
「遠慮しなくていいからね、巌勝さん。義政の足の速さ、ちょっと異常だから。あ~、僕が先に無理って言うかも」
「あはは!」
春野宮は、ひとまず、兄と弟のことは頭の隅に追いやった。
要らぬ詮索ほど、自身の首を絞めることはない。
『やるべきことをこなしていくだけだ。そうして僕は、ここまで来たんだから』
「あ。義政。屋敷寄ってね? 僕、弓取ってこなくちゃ」
「あ、そっか。お前何にも聞かずにここへ来たんだもんな」
「そうそう」
「よし。じゃ、行くか!」
「改めてよろしく、巌勝さん」
「……ああ。よろしく。義政、春野宮」
肩を並べて、三人、本陣を後にした。
鬼狩りの里からは、京(みやこ)の中心へは降りなかった。
山から山へ、まるで尾根を伝うように北西へと進む。巌勝の足取りも軽く、かなり速度を落としているとは言え全く問題のなさそうな様子に、春野宮は感服した。
『流石、師匠の兄君…』
袈裟懸けに担いだ弓が時折ずれるのを直しながら、
「ねえ、義政」
「ん?」
二人の前を行く彼の背中に呼び掛けた。
言葉だけが返って来、
「依頼。どこからだったの?」
このまま山を伝っていくと、山城(やましろ)に入ってしまう。景色が次第に見慣れてしまいそうで、悩ましかった。
「ああ、観音寺(かんのんじ)だ」
「! 補陀洛山(ふだらくさん)の?」
語勢が増して、巌勝がちらりとこちらを見た。
「なんで…」
「お前だと、遠回りになりそうだからだろ」
たった一言で全てを理解した義政が、うっすらと困ったような顔をした。
巌勝が疑問に思ったようで、
「何かあるのか? そこに」
「そこにというか…」
春野宮は義政に任せず、自らの口を開いた。
「山城は、僕の出身地なんだ」
「! そうなのか…。んん…?」
「ちょっとね、反対を押し切って無理矢理家を出ちゃったから。帰るに帰れなくって」
「お前、弓使いだと言ったな。三条、春野宮…天晴(たかはる)」
「え? あ、うん」
「そうか…行方不明になった武家三条の跡取って、お前だな? 春野宮」
「あ。僕、行方不明扱いになってるの?」
春野宮は真顔で言って、一瞬後、笑い出した。
「そっか。そっかあ…」
「俺が聞いたのは、鬼騒動があって、『山城の弓張月』が鬼に喰われたらしいって噂だ。美濃(みの)の方まで話が流れてくるほどだから、余程だな…」
春野宮は笑い収めると、長い、それはとても長い吐息を漏らした。
「はる…」
義政が表現に困った様子で、名前だけ呟いた。
「なんか。すっきりしたよ」
春野宮はもう一度溜息を吐くと、凜と面を上げた。確かに、清々しい表情だった。
「出る時もそうだったけど、三条では鬼狩りは、『侍崩れ』扱いなんだ。汚辱なんだよ」
「はる。…あんまり、ひどいこと言うな。辛くなるだけだぞ」
「地方の武家社会ではそうだってことだよ」
「…それは、まあ。そうかも知れないな」
巌勝が、小さく頷いた。
「巌勝、お前まで」
「御館様が義政に案内をお願いしたのは、その事実を受け止めさせる為だったのかもね…僕、まだまだ年端もいかないし、夢見がちだから」
「そこまで言えれば十分だ、はる」
「ありがと、巌勝。僕、そんな生半可な決意で鬼狩りになったわけじゃないんだけどな。まだまだ、努力がきっと足りないんだね」
「そう言うことじゃないと思うぞ?」
義政はとうとう、怒気を交えて言った。
「煉獄さんや縁壱から離れて、他の柱と行動を共にするようになったんだ。いよいよお前にも、最前線を任せるってことなんだろ」
「義政…」
「悪かったよ」
義政は頭を掻いた。
その一言には春野宮は何のことやら覚えはなく、間が開いた。
仕方なくと言った体で、義政が口を開く。
「お前を守る、なんて言ってさ」
思わず、こちらを向いた巌勝と、春野宮は視線を交わした。相手の目は驚いていた、が、次には、ふ…と微笑む。思わず春野宮も笑い出した。義政が照れたように暴れたのを、二人で止めた。