第弐話:柱
・肆・
その夜、春野宮(はるのみや)は、また、あの夢を見た。
『ここ! まさか…また、あの夢? でも…』
蒼穹に身を投げ出していた春野宮は、泳ぐようにして八方を見渡した。
「雲が…ない…!」
あれほど行く手を遮っていた白い塊が、一切ない。
いや、あるにはあるのだが、更に天高いところに薄く棚引くだけだ。
晴れ渡った景色に、心の臓が高鳴る。
『もしかして…見られる!? 何が起こるのか。はっきりと!』
春野宮は、眼下と思われる方に向かって、体躯を矢と化した。大気を切り豪風を巻き起こして、遙か下方へ降りていく。着物はもちろん髪も真後ろへ延びきり、生え際に痛みが走るが、構わず滑空する。
眼下に屋敷が見えてきた。一旦止まる。
「あれは。お館様の…屋敷? 本陣!?」
木っ端微塵に倒壊した屋敷を見つけた。崩れた様からは誰の屋敷かは分からない。だが、敷地の広さと、広がる庭園と、何より、門。
本陣の出入りは山門のような、雄渾な鉄扉だ。丸太のような閂(かんぬき)が付いている。大人数人がかりでやっと片側の扉が開くという、重量のあるそれだ。
その上、高さも誇りだった。
四方は同じ高さの塀に囲まれ、角には櫓(やぐら)がある。春野宮は今では、有事の際にはその櫓に登って旗本(はたもと)弓隊を率いる柱だ。本陣には他にも、鬼狩りとは別の独特な組織が幾つも存在していて、惣寿郎(そうじゅろう)と翁(おきな)が取り纏めている。
普段、門は開け放たれている。鬼狩り達を何時でも歓迎してくれているのだ。だが、ひとたびここが戦場にでもなれば、本陣が籠城先(ろうじょうさき)となる。平城(ひらじろ)とは言え、奥には水車小屋や畑、屯所(とんしょ)もあり、剣技に長けた鬼狩り達が守り籠もるには、十分な様式であった。
「こんなにはっきりと見えるなんて…! 里へ来たからだ」
その中心、昌輝(まさてる)の屋敷が、倒壊していた。
囲む塀の一角も崩れ、倒壊した漆喰(しっくい)の壁は外に向かって雪崩れている。
と言うことは、内側から衝撃を受け、外へ向かって力が発散されたと言うことだ。
しかし、門は閉じている。
「何。どういうこと? 僕が死ぬ夢じゃないの?」
春野宮は混乱した。
空を泳ぎ、壊れた塀と屋敷の間にある庭園に降り立とうと移動する。が、櫓近くまで来るとそこから先は行けなくなった。宙を渡る感覚はあるのに…風を切る感覚は確かに肌身に感じるのに、高度が全く変わらない。
『空の力…! 制約を付けた夢見の力が働いているんだ!』
歯痒かった。
だが、そこまで降り立つと人影ははっきりとしてくる。点在したそれを数えて、愕然となった。
一人は、風柱、貴船(きふね)義政(よしまさ)。
一人は、水柱、錆沼(さびぬま)雪之丞(ゆきのじょう)清臣(きよおみ)。
一人は、
「ぬおぉぉおぉぉ…!」
天空をも揺るがす、雄叫びが聞こえた。
三人目に数え上げようとした、その影だ。
声には聞き覚えがない。着物の色も柄も、見たことの無いものだ。濃い紫と黒の斑の着物。だが、
「師匠!?」
額の痣(あざ)、長い髪。先が赫灼(かくしゃく)の、漆黒の髪。見間違えようもない。
その面は、異形だった。六つ目だ。異様なほどに血走って、カッと見開き義政を見据えている。
鬼だ。
侍の姿をした、鬼だ。
「そんな…馬鹿な!」
縁壱(よりいち)が、刀を翳(かざ)し踏み込んだ時だった。彼の影になっていた場所からもう一人、姿を現す。
「!!」
己だった。
腹を掻っ捌かれて、喀血(かっけつ)し、瓦礫に横たわっていた。もう、事切れているようだった。弓が、己同様真っ二つに裂かれている。
誰に殺されたのか、火を見るより明らかだった。
「うわあああああ!」
『なんて、こと…!』
思ったのと、現実の己が目を覚ましたのとが同時だった。
「ああ! はあ…はあはあ! はあっ…!」
勢いよく身を起こし、布団をはね飛ばす。噴き出る汗を散らして隣を見遣った。
穏やかな寝息を立てる、縁壱がいた。
『師匠に! 師匠に殺されるの!? 僕!』
何度も額の汗を浴衣で拭い、唾を飲み込んだ。なかなか息が整わない。焦れば焦るほど、汗が噴き出てくる。
『嘘だ…! 嘘だ!』
あの日。
激甚な剣技を目の当たりにはしたが、彼自身は、とても穏やかで優しい人だと感じていた。どことなく哀愁が漂い、その悲しみに必死で耐えている様がまるで己と同じようで、放っておけないと感じた、人。
それはきっと互いに、互いを思ったことであったように感じていた。だからこそ縁壱は何も言わず、自分を傍にいさせてくれると思うのだ。そんな彼のためにも、弓道を極めようと決意した、…のに。
『こんな…こんな優しい人を鬼に変える何かが…出来事が、起きるってこと!?』
鬼狩りの里へ来て、最初に学んだのは鬼の生態だった。
確たる証拠はまだないそうだが、鬼は恐らく、始祖(しそ)・鬼舞辻(きぶつじ)無惨(むざん)のみが増やすことができるとされている。
『あれだけの剣技を持つ師匠が、鬼の始祖に敵わないなんてこと、あるわけない! 師匠に敵なんていないはずだ、とすると…師匠は、自ら鬼になった? 或いは、抗えない何かと引き替えに?』
「馬鹿な!」
春野宮は激しく頭を振った。
『師匠に限って、鬼になんてなるわけない!』
縁壱が鬼狩りになった経緯は、まだ知らなかった。
だが、昼間の御前会議での様子を見る限りでは、ここへ来るまでは、とても幸せな日々を送っていたのであろうことは、分かる。
それを、鬼に、一瞬にして奪われたのだ。
己と、同じように――――。
そうして、春野宮は気付いた。
自身の終焉より、この、隣の、暁の侍にこそ、想いが向いていることを。
それは、姉、昴(すばる)を想うときと同じような感覚だった。
『僕にとって、この人は…もう』
「師匠…」
漸く、落ち着いた気がした。
一言では言い表せない、渦を巻く感情に、長い溜息が漏れる。
しばし縁壱を眺めていた春野宮は、そっと布団を抜け出した。
部屋の角に立て掛けてあった袋から弓を取り出し、弦(つる)を張る。続いて矢立(やたて)から矢を何本か矢筒(やづつ)に移すと、己が組み手の形に合わせて紐を巻いた弽(ゆがけ)を手に、縁側に向かい、正座をした。
精神統一をするなら、やはり、弓だ。
下弽(したがけ)を填め、その上に鹿革の弽を纏う。装備の一つ一つは、成長と共に作り直していかなければならない物ではあったが、この弽だけは、使えなくなっても生涯持っておこうと、ふと、思った。
幼い頃より弓を引いてきた春野宮は、既に、左右で肩幅が違う。矢を引く側の胸筋は、弓を支え持つ側より、より発達するのだ。肩もごつくなるし、見た目だけで分かるほどになる。同じ弓使いなら、筋量でその腕前すら垣間見ることも、春野宮には可能だった。
準備が整うと、春野宮は、一度大きく深呼吸をした。
立ち上がり、そっと、庵(いおり)を抜け出す。
「…はる」
部屋の戸を閉めた後、気付いていた縁壱が小さく呟いて起き上がったことも知らず、一目散に、弓場を目指した。
春の生暖かい風が肌に纏わり付く、朧月夜だった。
矢の突き立つ爽快な音を、何度か耳にした後、
「うーん」
春野宮は呻いて首を傾げた。
「やっぱり、おかしい。何だろう、この違和感…」
呟きながら弓場を歩いて、矢を取りに行く。
矢は的に、六本刺さっていた。
一本は中央、残る五本は五芒星を描くように、その頂点に刺さっている。それも、どれも、的ぎりぎりの縁(ふち)を狙ったものだ。
引き抜いていると、
「狙ってそれをしてのけたとしたなら、やはり大したものですね、はるは」
「! 師匠」
届いた声色に嬉しいそれが重なって、春野宮は振り返った。
全てを引き抜くと駆けて寄る。縁壱は、羽織を身に纏い、もう一枚、手にしてきていた。自分の分だと分かって、顔が綻んでしまう。
「もちろん! 狙ったよ。でもね…」
何でしょう、と言うように、縁壱の瞳が揺らぐ。
「的(鬼)は動くし、実戦ではそうはいかない。それに、刀は一度抜いたら後の動作は一つで完結するけど、弓は、矢を取り出して、構えて、放つ、この三動作が常に付きまとうんだ」
「ほう」
「その間に間を詰められたら、一巻の終わりだよね?」
「確かにそうですね」
縁壱が顎に手を当て、少し考え込んだ。
春野宮は焦らず、見つめる。
やがて彼が言った。
「模擬戦あるのみ、と言いたいところですが、その前に、はるには会得(えとく)していただくことがあります」
「呼吸、だね?」
「あ。ええ。気付いていましたか」
「昼間はその話題ばかりだったもの」
「そうでした」
縁壱の声色が微かに弾んだのを聞き逃さない。
はるは小さく笑みを零して、うずうずと肩を揺らした。
「ねえ! どうやるの? 呼吸って、何?」
「里に戻ってからと思っていましたが…善は急げですね。では少し、やってみましょうか」
縁壱が羽織を脱いで、二枚のそれを道場隅の座椅子に置いた。
腰に日輪刀が差してある。武士の嗜(たしな)みと言えばそうなのだが、浴衣であっても様になるのが縁壱らしいと春野宮は思った。
「まずは普通に、的を狙って下さい」
縁壱の瞳が、須臾(しゅゆ)の間だけ大きく見開いた。
元に戻るのはすぐであったが、何か、何処か、違う場所を見ているような、そんな気配がする。
だが、春野宮は、言われたとおりに弓矢を番(つが)えた。
しっかり全てを視て貰おうと、基本に立ち返る。一度大きく弓を掲げながら深呼吸をし、ゆっくり降ろしながら細く穏やかな吐息を漏らして行った。鏃(やじり)が的に向くと、目線が先に、鋭く射貫いた。
矢を引き絞りながらすぅと息を吸う。次第に弦が張り、軋む音が二人の間に流れていった。
「…なるほど。一度、解いて」
縁壱が言う。
「?」
放たないんだ、と思いつつ、構えを解いた。息継ぎの仕方が日常に戻る。はっとした。
「もしかして、今の」
「流石です、はる」
縁壱がゆっくりと頷く。
「呼吸とは、自身の体内の血の巡りを早くすること。内在する力を解放するために、空気を大量に吸い込んで、筋肉の動きを活性化するのです」
「呼吸で力を調整するのか…!」
「ええ。ただ、弓と刀では力の入れ方が違うのではと思いまして。構えて頂かないと、その差が私には分かりかねたので」
春野宮は何度も頷いた。
「何となく、分かるよ。僕の場合呼吸は精神統一だったけど、それをそのまま矢に乗せればいいのか」
「貴方は凄いですねえ」
「弓だけね!」
ふふ、と、縁壱が微笑んだ。
「あ、好き! その顔!」
思わず春野宮は笑いながら言って、縁壱の驚きを掻っ攫った。
目を見開いて固まった彼を脇に、今の感覚を忘れないうちにと、春野宮は的の方に身体を向ける。
「もう。遠慮しなくていいんだもんね」
呟くと、我に返った縁壱が、
「ええ」
確かに一つ、肯定した。
「分かった。やってみる」
弓矢を下に向けたまま、軽く矢を番える。
息を整え、大きく翳す間に、
『胸を開き、沢山の空気を取り込む。きっとそれが体内に巡るのを、感じればいいんだ』
すぅ…と、深呼吸をした。
「!」
隣で、縁壱が目を見張ったのを感じた。
だが、弓矢と一体化する自身から集中は解かない。足元がふわりと浮いた気がしたが、足場は失ってはいない。
『大気が、支えてくれてる?』
思ったが、確認する術は今はなかった。不思議な感覚だった。
弓矢を降ろしながら矢を引き絞る。体内を巡り終えた空気を細く長く吐いていくと、突如、鏃に大気が集まり始めた。透明なような、白色…空色のような、流麗な帯。渦を巻いて次第に豪風を巻き起こす鏃を前に、
「空の呼吸 壱ノ型! 夜半(やは)の嵐・観世縒(かんぜよ)り!」
脳裏に浮かんだ言葉を吐き出す。同時に、指を離した。
矢は、鏃から螺旋の突風を巻き起こしつつ、鋭く的に向かった。
タンッ!
一瞬のことだった。
これまで放ってきたどの矢より、的に速く、深く、突き刺さった。矢羽根(やばね)まで埋まり、ほぼ、貫通している。
一驚した途端、
「あいたあっ!」
春野宮はその場に豪快に転げた。
「はる!」
「いったあ! え! なんで!?」
「宙に浮いていたからですよ」
「えええ?」
訳が分からず、春野宮は弓を庇いながら身を起こした。
『不思議な感覚がしてたけど、本当に、浮いていたのか…!』
「翁の言ったとおりですね」
縁壱が片膝を突き、言った。「大丈夫ですか?」と手を差し伸べてくれ、重ねる。
引っ張り上げられるように立ち上がり、「びっくりしたあ」と返す。
「手解きどころか、少し話しただけでコツが分かりましたか」
「うーん…今のでいいの?」
「ええ。そして、その呼吸を、日々の生活の間も常に意識することで、精度はより高くなります」
「そっか…いちいち弓を構える動作のたんびにこれしてたら、確実に死ぬよね、僕」
ふふ、と、縁壱がまた笑った。
『ああ、もう…! 絶対。絶対、鬼になんかさせない。師匠をこれ以上、悲しませてなるもんか!』
「分かった。僕、まずこれを会得するよ。そうすれば、どんな体勢でも矢を放つことが出来るようになるってことだもんね」
「そう言えば…そうですね。私たちは飛び上がるだけですが、はるのそれはもしかしたら、大気そのものを動かすことが出来るのかも知れない…」
即座に、「ああ、そうだったのですね…」と、縁壱が得心した。
「何? 何か気になる?」
「いえ、」
縁壱は穏やかな眼差しを向けてくると、
「『昇柱(のぼりばしら)』。付けたのは、惣寿郎なのですよ」
「あ、うん…?」
「なんで『昇』なのか理解しかねていましたが、貴方と一緒に繰り返し任務に出ることで、惣寿郎はこうなることを、既に見抜いていたのですね」
「?」
「貴方が、天に昇る本物の『弓張月(ゆみはりづき)』であると言うことをです」
「天に昇る、弓張月…」
「山城(やましろ)の弓張月は、また一つ。その異名(いみょう)に意味を持ちましたね。はる」
「師匠……。はい!」
春野宮は、この上もなく嬉しそうな笑顔で頷いた。
そして、その後一週間のうちに。
縁壱の兄であるという、『継国巌勝(みちかつ)』が、鬼狩りの里に合流した。
第弐話:柱・完・
第参話へ続く