第弐話:柱
・壱・
鬼狩(おにが)りの里へ来てからの半年は、あっという間に過ぎた。
扱う武器が弓であったため、稽古場の隣には弓場が出来た。縁壱(よりいち)と、惣寿郎(そうじゅろう)の計らいだった。
だが、弓場に足を運ぶ者など、自分以外誰一人いない。
隣の稽古場に向かう道では、声高に、
「弓で鬼が倒せるかよ」
「それ。刀もろくに扱えないって言うじゃないか」
複数人の嘲笑と足音が、いつも聞こえた。
来たばかりの頃は、震える拳を握り、歯を食いしばった。
『場所が違えば、こんなにも扱いは異なるのか。山城(やましろ)では『弓』は、絶対的な力だったのに』
稽古に時間(とき)を忘れて打ち込むと、共同屋敷に帰っても、残飯を出されて嘲笑されることもしばしばあった。布団は刻まれ、心配した惣寿郎が、
「俺の屋敷に来るか? 暫くはこちらでも」
と声を掛けてくれたりもしたが、丁重に断った。どれだけ心労を掛けたか知れない。
「姉上…」
天を仰ぐ。
――貴方は私の誇りよ、天晴(たかはる)――
『負けない。負けてたまるか。僕の敵は鬼だ。人じゃない。あんな奴らに構ってる時間(暇)なんかないんだ』
春野宮(はるのみや)は、剛弓を構えた。
鏃(やじり)は既に、猩々(しょうじょう)緋鉱石(ひこうせき)で作られた物を装備していた。微妙に重さの変わった矢に慣れるのはすぐだったが、風を切る速度と紡がれる空気の流れは毎回異なる。目に見えて、水色や薄白い透明な空気の糸が、鏃の先から流れることも日に日に多くなっていった。なかなか弓技が安定しなかった。
『自分が放った矢なのに、軌道が定まらない。なんでだろう…』
こんな経験は初めてだった。
読めない矢の軌道は、何故か、的の中央は射貫く。だがそれは、予測の範囲外なのだ。自分の腕前だ、「当たるだろう」とは思っても、いつものように「当たる」という確信が得られない。それが、日々、平静さを奪っていくようだった。
『日輪刀(にちりんとう)でもこんな現象起こるのかな。刀を振るう師匠はまるで、太陽のようだったけど…』
「あ~、もう! 師匠早く備前(びぜん)から戻ってきてよ! 聞きたいこと、沢山あるのに!」
大きな声でぼやきながら矢筒から二本目を取り出す。番(つが)えて弓を構えたとき、天高く鴉が啼(な)いた。
『はる!』
「日ノ卯(ひのう)!」
御館様から賜った、伝令の鳥、鎹鴉(かすがいがらす)だ。名前は自由に付けて良いとのことだったから、姉の名を冠した。
視線をそちらに向けると、弓矢の的も自然とそちらを向いてしまい、慌てた日ノ卯が大きく旋回した。
「あ! ごめん」
春野宮も急いで弓矢を降ろし、左手に纏め持つ。
右腕を高々と掲げると、彼はその腕に舞い降りてきた。
『急ぎ、本陣へ! 招集だ』
「? 了解」
春野宮は手早く弦(つる)を外し弓を真っ直ぐな棒状に戻すと、袋に仕舞った。房の付いた紐を巻いて締め、的に矢を拾いに行くと、矢筒は背負ったまま弓場を後にした。
鬼狩りの里――。
その名の通り、鬼を狩る者達が集まる人里である。
未だ陰陽師(おんみょうじ)や宮仕(みやづか)えの祓(はら)いの弓士などがいる時代だ。鬼は日中でも、日の差さない山中や雪の日、特に梅雨の時期などは、頻繁に目撃されていることを、春野宮は、ここへ来て知った。
毎日のように被害報告が上がってくる本陣に、絶句した。自分が遭遇したことも、決して珍しいことではなかったのだと、思い知らされた。
春野宮とて、鬼狩りの存在は知っていた。昼間でも散見される鬼だ、鬼狩りは、民達にも、広く知れ渡る存在だった。
ただ、その多くは僧兵(そうへい)だと思い込んでいた。
山城にも、鬼退治の僧兵は多くいる。京(みやこ)の中心にほど近い場所だ。鬼が現れれば火急のこと故(ゆえ)、普段は啀(いが)み合っている寺社でも、連携を取らざるを得ない。
『それでも、寺社が纏まって動くより、師匠の来る方が早かった。きっと、寺への使いの早馬を送って、それから寺が連携を取って頭数を揃えて移動するのでは、手間がかかるからだ。それに…あの腕前』
鬼があれほど凶暴で、いとも簡単に人を食い殺す異形(モノ)だとは、知らなかった。僧兵が束になって戦っても、敵わない鬼がいることも、ここへ来て、『任務』に出ることで、知った。
京近辺の寺社に限らず、諸国にも、少なからず鬼狩りの集団はいる。石高(こくだか)が万近い武将になると、それだけで一部隊を抱える国もあるほどだ。
だが、自身が所属することになったのは、そのどれにも当てはまらなかった。聞けば、平安の頃より続く、長く鬼と対峙してきた個人的な一派だった。
現・当主を、産屋敷(うぶやしき)昌輝(まさてる)という。
産屋敷一族が抱える鬼狩りは、全ての鬼の始祖(しそ)を狙う、鬼追い専門の狩人(かりゅうど)達だった。鬼追いの始まりの者達だそうだ。世に広く伝わる『鬼狩り』は、産屋敷一族の組織を真似たものに過ぎなかったのだと知った。
『世間では、鬼狩りは侍崩れだとか言われているけど』
なかなか如何(どう)して、実践的な剣技だった。とてもじゃないが、身体的にも、ただの侍が束になってかかろうと敵う相手ではない。
『京にいる人達の方が、その事実をよく分かっているんだろうな』
誰より何より驚いたのは、その、京の文化の一端を、『鬼狩り』が担っていることだった。
『まさか、大衆演劇になっているだなんて、思いもよらなかったもの!』
春野宮は苦笑い、本陣は昌輝のいる産屋敷邸の門を潜った。
「師匠!」
「はる。久しぶりですね、元気でしたか」
大広間へと向かう廊下で縁壱の姿を見かけた。呼び掛けると、彼は振り返り、のんびりとした声色で言った。自然と足が止まる。
眼前に駆け寄って、
「はい。あの。僕、ちょっと聞きたいことがあって。師匠の帰りを待ってたんだ」
「それは後にしましょう。これから大切なお話があると思われます」
「大切な…」
微かに語尾を上げて言うと、縁壱の表情が和らいだ気がした。
「はるは、私や惣寿郎以外の、御館様を支える面々に会うのは初めてでしたね」
「え! 逢えるの!?」
縁壱が頷きながら、少し歩を進める。
引き戸に手を添えながら、「はる」と呼ばれ、彼の前に立つ。
襖の乾いた音が静かに響くと、視界が次第に開けていった。室内の明るさに目を奪われ、次いで、しん…と静まり返った中から、一斉に視線を浴びる。
強烈な眼差しの波に、春野宮は、一瞬気圧され後ろに流された。
縁壱の身が背中に触れて、はっとする。大きく見上げて彼を見ると、
「彼が、『山城の弓張月(ゆみはりづき)』。三条(さんじょう)…」
「あ! 三条春野宮、天晴です! 以後、宜しくお願いいたします!」
縁壱が全てを紹介しそうになって、慌てて前を向き頭を下げた。
「お~! 来たか、はる」
「惣寿郎!」
思わず名を呼び捨てると、中の面々の表情がどっと崩れた。口々に、
「若いっていいなあ! 怖いもの知らずだよ」
「煉獄(れんごく)さんを呼び捨てるのって、彼だけじゃない?」
「山城の弓張月だろ? 噂に違わぬ豪胆さだな」
全くもって、誰が誰だか分からない。ただ、雰囲気から、歓迎されていることだけは分かった。
「縁壱も。お疲れさん! これで晴れて、一人前か」
「縁壱に対してそう言うことが言えるのは、煉獄だけだな」
「全くだ!」
一斉に笑いが起きた。
目を瞬かせて見ていると、縁壱の手が肩に乗った。思わず見上げると、彼の表情が、とても面映ゆそうに、嬉しそうに、色を変えたのが見えた。
縁壱が視線に気付いて、「入りましょうか」ほんの少し首を傾けて言ったのに、ただ頷いた。末席へと案内される間に、皆が名乗り自己紹介をしてくれる。
その間にも、
「遅れたわい! 会合はまだかの!」
「翁(おきな)。お疲れ様です」
『うっそ!? 柳生(やぎゅう)一族の先代!?』
春野宮は息を飲んだ。
『一族は宗矩殿(むねのりどの)が継いで、現役引退したって聞いたけど! こんなところにいたのか…!』
一人、そしてまた一人と現れて名乗り合う。
その、最後の一人は、
「お前か。山城の弓張月。武家三条の若き棟梁!」
「!!」
『『貴船(きふね)の風神(ふうじん)』までいるのか…!』
「俺は、風使いの義政(よしまさ)だ。貴船義政。宜しくな! はる」
『この、声…!』
「はるーーーー!」
あの声と、重なった。
『この人だ! この人が、あの夢の、主…!! そんな、まさか!』
「はる? 如何しました?」
「あ! いえ!」
縁壱の静かな声が耳を通り、春野宮は背筋を伸ばした。
「失礼仕(つかまつ)りました、なんか、凄い人達ばかりだって…嬉しくなりまして」
咄嗟に弁明し頭を下げる。
「三条春野宮天晴です。弓使いです…宜しくお願いします」
義政は快活な笑みを零して、軽く肩を叩いてきた。豆だらけのごつごつとした、傷だらけの掌だった。
『この人も、相当な苦労を…』
きっとここにいる面々は、皆、それなりの戦場を潜り抜けてここに辿り着いたに違いない。
それぞれの道をその足で、その手で切り開き、現在(今)があるのだ――――。
『僕だけじゃない。鬼を憎む気持ちは、きっと、僕だけじゃないんだ。みんな、その辛さも悲しみも、刀に乗せて…!』
目頭が熱くなった。
俯いたまま顔を上げることが出来なくなった。
「はる」
察したような縁壱の声色がまた届き、春野宮は袂(たもと)で強く目を拭った。
皆が温かく、そして決意の色で見つめてくる。
「僕! 僕…頑張ります! 弓で何処まで皆さんに追いつけるか分からないけど! きっと、足手纏いにはなりません!」
惣寿郎が頷いた。
「知ってる。お前には期待している、はる」
「実際凄い腕前だって聞いたぞ? 百発百中なんだろ?」
義政が言い、岩使いと話してくれた神々廻(ししば)主水(もんど)が続いた。
「後は呼吸だけだな。縁壱、煉獄、これからなんだろう? はるの指導は」
「ええ」
「呼吸…?」
縁壱が頷いた横で、春野宮は繰り返した。
だが、
「とにかく皆さん、座りましょう。面子は揃いました。そろそろ御館様がいらっしゃいますよ」
縁壱の掛け声に、皆、慌てて縦二列に座す。
「はる。はるはこちら」
案内されたのは、神々廻の後ろだった。巨体の後ろに腰を落として胡座(あぐら)をかくと、彼の広い背しか見えない。
つい、
「…岩みたい」
「岩ですからね、実際。扱うのは」
「お前らなあ…」
やり取りに、また、皆が笑った。
縁壱の、くすり。という小さな吐息のようなものが聞こえて、春野宮は、勢いよく彼を見上げた。
見上げた時にはもう、真顔だった。
『師匠…』
流れるような所作で彼は一番前まで歩むと、惣寿郎とは対になるように、縦軸の一本を率いる先頭に座す。それも、惣寿郎より半歩分、前だった。
『す、凄い人だったんだ、やっぱり!』
春野宮は、生唾を奥へ押しやった。そうなると、彼と親しく言を交わす一同が気になる。一番後ろにいるのをいいことに、ちょいちょいと身を乗り出してこの場にいる面々を見た。
自分を含めて、八名、いた。聞いた名を一人ずつ、反芻して脳に刻む。
挙動に不審を覚えたのだろう、前の神々廻が皆からは見えない側の腕を後ろに回して、人差し指でとんとん。と二度ほど畳を叩いた。
『あ。ごめんなさい』
それきり大人しく、春野宮は座して待った。
神々廻の肩が少し揺れて、思わず、春野宮も笑みを零した。