第壱話:暁の侍
・肆・
二晩駆けて、鬼狩りの里近くまでやってきた。
侍の足は一歩がとてつもなく大きく、速かった。身長差もあろうが、二、三倍の運動量をこなさないと追いつけない。当然息が上がるのもこちらが先で、時折振り返っては様子を見る真顔に、春野宮(はるのみや)は、正直苛立ちもした。
三条(さんじょう)を出て、山城(やましろ)の外れまで来た初日の夜は、旅籠(はたご)に泊まらせてくれた。この辺りはまだ、三条の領地だ。
血濡れた我が身に宿の者が驚いて、慌てて新しい着物、袴(はかま)やら足袋(たび)やらを用意してくれた。
『一日も勤めていられなかったな、武家三条の当主。山城の皆、ごめんね…』
彼らは状況を知らない。
そのうち噂が巡るだろうが、昨日の今日では館の方に戒厳令が出ているだろうし、今すぐどうと言うことではないはずだ。宿の者達の厚意には、進んで甘えることにした。温かい湯船に浸かると、その後は、泥のように眠った。
二日目になると、心持ち、侍の足の速さに馴れた自分がいた。
その日の夜も宿に泊まらせてくれたが、ここはもう、京(みやこ)だ。中心地まではまだ相当あるが、ここまで来れば、自分が誰だかなど、分かろうはずもなかった。
人心地着いた気がした。
膳を囲んだ時、侍が言った。
「お腹が驚いてしまいますから、ゆっくり食べて下さい」
「…はい」
そう言えば、あれから何も口にしていなかった。
思えば、自分を連れてきてくれた侍も、同様なはずだ。
『付き合ってくれたんだ…』
無心で走っていれば、気が紛れた。
姉への想いは、すぐに、はぐれまいと懸命に侍の後を追う必死な思いにすり替わった。
『だから、辛いとか、悲しいとか、思わずに…ここまで』
目頭が熱くなった。
目の前の侍は、食を喉に通すのも、等しい時間を紡いでくれた。そう言えば、初日の夜も、自分が眠るまでは傍にいて、宿で借りた本を読んでいた。
『起きていてくれたんだ、あの時も。灯台の僅かな光ばかりで…』
淋しくないように。
「ありがと…、ありがとう、ございます…っ…」
涙に噎せながら言うと、侍の膳が止まった。慌てて米を掻き込むと、
「あ」
小さく彼が呻いた。
と、喉につっかえる。一気に腹も重くなって、苦しさが増した。
「言ったでしょう…」
侍は顔色一つ変えることなく、茶を湯飲みに注ぎ、差し出してくれた。
京に入ると、平坦な道も多い。起伏の激しい山肌を辿るのは呼吸が乱れるが、平坦な道なら息は続く。代わりに、石畳を走るのは足腰に負担がかかることも知った。
『もしかして、走る場所まで、色々考えてくれてるのかな…?』
馴れと同時に休憩時間も少なくなっていく。侍の背中を追い続けることも、段々苦にならなくなった。
里まであと一息と教えてもらったところで、その夜は、野宿をすることになった。
乾いた枝を拾い集め、侍の元に戻る。
鬼狩りとなり、この侍のように退治に赴くようになれば、きっと、こんな夜が日常になるのだろう。彼は何も言わなかったが、その手順や、道中で少量の米や味噌等を仕入れたりと、言動は、きちんと目に収め学習した。
小さな荷物の中から、水筒と椀を取り出す。
彼は、梅干しの粥に、干物の味噌汁を振る舞ってくれた。
椀が一つしかなかったから、先に差し出された。
「…」
思わず首を横に振った。
年長者を差し置いて自身が先に手を付けることは、できなかった。
ところが、彼が言った。
「毒など入っていませんから」
「あ。そう言うことじゃなくて…」
『そっか…、最初の二晩宿にしたのは。もしかしたら…』
果たして彼が何処まで気を回してくれたのかは、分かりかねた。
何も言わないからだ。表情すら、変わらない。
ただ、無限の優しさだけは伝わってきた。あの強烈な剣技からは想像も付かないほどの、溢れ出る温もりだった。
差し出された手が引っ込むことはなく、春野宮は言った。
「手際見てたし」
「それもそうですね。…なら尚更。先にお食べなさい。温かい内に。躯が解(ほぐ)れます」
「……ありがとうございます」
椀一つで押し問答しても仕方ない。
春野宮は深々と頭を下げると、先に頂くことにした。
『…美味しい…』
「今宵は私が火を見ていますから、貴方はゆっくり休みなさい」
侍は揺らぐ炎を見つめながら、静かな声で言った。
空気を焼いて弾く音が、静寂に響いた。
山の方からは梟(ふくろう)や獣の声がして、何気なく、侍の脇に寄る。
「ご馳走様でした」
見上げて言うと、「はい」と小さな声が聞こえて、彼が、二杯目を注いだ。何気なくその動作を見ていると、
「おかわりしますか?」
「ふふ!」
思わず笑みがこぼれてしまった。
「美味しかったけど、お腹いっぱい。ありがとうございます」
「そうですか」
ゆっくり食(は)み始めた侍に、身を寄せる。
彼は一度こちらを向いたが、気にせず、焚火を見た。
「鬼狩りさん」
呼び掛けると、彼は箸を止めて、少し首を傾けたように思えた。「何か?」そう、言っているような気がした。
「うん。助けてくれて、ありがとう」
彼がこちらを向いた。
炎に照らされる顔は変わることがなかったが、何となく、気持ちは伝わってくるような気がした。
『不思議な人…』
「ね、鬼狩りさん。名前。なんて言うの? 僕ね、天晴(たかはる)。三条春野宮、天晴」
「縁壱(よりいち)です。…継国(つぎくに)縁壱」
「縁壱さん…」
侍は、椀に残った味噌汁を注ぐと、ふやけた煮干しで椀を磨き、そのまま喉に掻き込んだ。荷物から小さな布きれを取り出すと椀を拭く。使い古したそれは炎の中に放られ、焚火の薪になった。
荷物をまとめると、音は次第に少なくなっていく。
じっと二人炎を見つめて、
「僕ね、はるって呼ばれてたんだ。小さい頃」
春野宮は言った。
「春野宮の、はる。姉上に」
彼女の存在が話に出ると、彼の緊張が伝わるような気がした。責める気は毛頭ないのだが、そんな空気だった。
「照顕公(てるあきこう)の正室(せいしつ)に収まってからは、けじめだからって『天晴』って呼ぶようになっちゃったけど」
「…」
「だから、そう呼んでくれると嬉しいな」
彼の方を向いてそう伝えると、縁壱は、ほんの微かに目を丸くして視線を合わせてきた。
「いいのですか?」
「うん。縁壱さんに、そう呼んで欲しいんだ」
「…分かりました」
「良かった!」
にこりと微笑んで言うと、縁壱の申し訳なさそうな空気は、消えた。
それにまた内心で、良かったと思う。
そっと、身を横たえた。
縁壱の足元だった。彼が作る火影が心地いい。
「火、ありがとう。寝ちゃって、…ごめんなさい…」
「いいのですよ。ゆっくり休みなさい、……はる」
失われていく視界と感覚の際で、縁壱の手が、頭に乗った気がした。
大きく、温かく、
「姉上……」
彷彿とする掌だった。まるで包まれているようだった。
炎の爆ぜる音と宵闇から響く獣の声が、子守歌になった。初めは怖いと感じていたそれが、不思議と、今の彼の傍では、恐怖になることはなかった。
鬼狩りの里は、四方を山に囲まれた盆地にあった。
高台に登れば京を遠目に一望できる場所もあるそうだが、それはまた。と言葉少なに言われた。
色濃い山肌の合間から、複数の鳥の声が聞こえる。風はとても冷たく、それなりに標高があるように思えた。
縁壱が通る度に、「お帰りなさい」と声がかかる。
軽く会釈をするのみで顔色一つ変わらない彼は、真っ直ぐ、何処かを目指しているようだった。
稽古場と思われる道場の脇を幾つか過ぎ、広場を縦断する。
次第に、通りに面して大小様々な平屋が軒を連ね始めた。
「お帰りなさい、縁壱さん」
「任務お疲れ様です!」
そこが寝泊まりをする鬼狩り達の屋敷と気付くのに、時間はかからなかった。
彼が言った。
「ここでは、炊事、洗濯、全てを自分たちでしなければなりません」
「あ、はい」
縁壱の言葉に、春野宮は、視線を彼に戻した。
「里の生活に慣れるために、まずは共同屋敷に…」
言いかけた言葉が途切れる。
彼の視線の先を追うと、毛色の珍しい若武者が駆けて来ていた。
『あれは…!?』
目を疑った。
獅子の鬣(たてがみ)のような、黄金の髪色。毛先は紅く、はっきりとした面立ち。京で知らぬ者などいない。
『愛宕(あたご)の煉獄(れんごく)…!』
ただ、彼がどの「煉獄」かは分かりかねた。
あの一族は顔が皆同じで、頭領(とうりょう)も影武者(かげむしゃ)も、見分けが付かないからだ。
傍に寄ってきた彼の肩には、漆黒の鴉が止まっている。首根に炎のような色の組紐と房が付いていて、彼の鴉だと一目瞭然だった。誇らしげな姿を見ていると、山城に残してきた十六夜(いざよい)が思い出されて、胸が軋んだ。
「鴉が伝令を寄越したと思えば…早かったな、縁壱」
「ただいま戻りました、惣寿郎(そうじゅろう)」
「惣寿郎!? 頭領!?」
思わず、春野宮は声を上げた。
煉獄惣寿郎。
炎を操る愛宕の一族、煉獄家歴代の中でも、飛び抜けてその技量に優れていると言わしめる人物だ。もちろん、現・当主である。
『まさか…一族の長(おさ)が鬼狩りになっていただなんて』
思いもよらなかった。春野宮の瞳が、大きく見開いた。
彼はにやりと口角を上げると、
「『山城の弓張月(ゆみはりづき)』。三条春野宮天晴だな、お初にお目にかかる。愛宕の煉獄…煉獄惣寿郎だ」
「本当に…あ、いや。初めまして。山城の武家三条、春野宮天晴です」
春野宮は弓を肩に一度掛け直して、辞儀を返した。愛宕の煉獄に自身の異名(いみょう)が知られていることほど、名誉なことはない。
惣寿郎もまた縁壱ほどに体格に恵まれ、背も高かった。肩幅は、縁壱よりありそうだった。その腕から迸る炎はまさに業火なのだろうと、容易に察しが付く。
彼が言った。
「かなり抑え気味だったとは言え、縁壱の足にきっちり付いてくるとはなかなかのものだ。弓張月の異名は伊達ではないな」
「お褒めに預かり光栄です」
「ははっ! 期待している。鬼狩りに弓使いはお前が初めてなんだ。その道は険しいだろうが、挫けるなよ」
「はい!」
「惣寿郎」
会話が一段落着いたところで、縁壱が静かな声を発した。
「私は御館様の元へ報告に参ります。はるを連れて行っても?」
「なんだ、もうそんな呼び名が付いているのか。無論だ、よろしく頼む」
縁壱は頷くと、こちらを向いて軽く首を振った。
行きましょう、という合図なのだろうと思う。
「宜しくお願いします」
丁寧に頭を下げると、彼は黙って歩き出した。出逢った時ほどに雄弁な彼はもう、何処にもいなかったが、
『煉獄さんのことは、信頼してるんだ…空気が和らいだ』
里へ無事到着した時の安堵より勝って、縁壱の気配が穏やかになった。
『この人に頼りにされるって、やっぱり凄いんだ、愛宕の煉獄…』
自分を守ってくれた、暁の侍。
一族を説得してくれたのも、自分を守ってくれたためだと今なら分かる。好んで口を開くことのない人なら、尚更それは負担であったろうと思った。
その背は広く、頂(いただき)は高く、遙か彼方を歩いているようだ。剣技は到底及ばないことも、あの一瞬で理解した。
『僕には弓がある。この人の…縁壱さんの恩義に報いるためにも。――――姉上』
春野宮は、天を仰いだ。
『必ず鬼を駆逐する! 誓うよ、この『山城の弓張月』の名にかけて!』
強く、拳を握った。
その日。
春野宮は、弓で縁壱と御前試合を披露することになった。
惣寿郎が立ち合い、敵わぬまでも、動く的を射貫ける腕前は確かであることを、証明したのだった。
相手が縁壱でなければ。と、惣寿郎に言わしめた春野宮ではあったが、悔しさは拭えない。
晴れて鬼狩りとして生きていくことを赦された少年の第一歩は、
「師匠!」
縁壱を越えるための、未来への、輝かしい一歩でもあった。
第壱話:暁の侍・完・
第弐話へ続く