第壱話:暁の侍
・参・
三条(さんじょう)の屋敷に着く頃には、辺りはすっかり真っ暗だった。
付近には血の臭いが充満し、絶叫と剣戟(けんげき)の音が響いている。
到着すると、春野宮(はるのみや)は、十六夜(いざよい)の背から飛び降りた。
「行け、巻き込まれるなよ」
声を掛けて首を叩く。愛馬は心得た様子で、屋敷を遠巻きに離れて行った。
「殿! 殿はいずこにおわす!」
明日よりは父と仰ぐ、当主、三条行実(ゆきざね)の姿を探して声を限りに叫ぶ。
途中自室に寄って、弓を担ぎ矢筒を背負った。だが、手にしたのは抜刀だ。館内では致し方ない。
「殿! 殿…!」
逃げ惑う屋敷の者達の波に逆らって、剣戟がより響く方へと足を運ぶ。その頃には、昴(すばる)の照顕(てるあき)を呼ぶ声も屋敷に響き始めた。
「姉上…!」
春野宮は青ざめた。
『この状況じゃ、何が起こるか分からない。姉上の身が危険だ』
「姉上!」
春野宮は一旦、行実を探すのを止めた。声のする方を辿って駆けていき、庭園の向こうに小さく姿を認める。
「姉上!」
春野宮は大きく呼ばわった。姉はすぐ気付いて、こちらを見向く。
「姉上、照顕殿も僕が捜します! どうか皆と、避難を!」
「天晴(たかはる)…、でも!」
「春野宮!」
昴の声と、行実の声が重なった。
庭園右手から現れた行実の姿を確認する。
「殿! ご無事で…!」
ほっとしたのも束の間、
「危ない!」
その背後より、身の丈八尺もあろうかという異形のモノが、ぬらりと姿を現した。
「なんて、奴…!」
昔話に伝え聞く鬼とは全く違った。
腕は肩から二本ずつ生え、頭も二つあるように見える。二つが一つにくっついて、目が三つ、口が一つで大きく裂けていた。頭に角などない。あるのは人面の小さな瘤(こぶ)で、髪の隙間から無数に顔を出していた。
足が竦んだ。
「っ…」
嘔吐(えづ)く。奴が手にしているのはかつては人であったろう塊、足だったり腹だったりだ。きっと人肉を喰らう化け物でしかないのだろうと、春野宮は悟った。
阿鼻叫喚が響く庭園に、鬼の面が然(さ)も愉快げに歪む。
何某(なにがし)かの頭部を持った腕が振り上げられ、
「殿お!」
春野宮は咄嗟に弓を肩から外した。
刀を鞘に収める暇などない。柄を指の小指と薬指で挟みつつ、矢を番(つが)えて構える。
「くっ…!」
余計な重さに耐えて軌道を即座に修正し、放った。
三ツ目の真ん中に、深々と突き刺さる。
『ギャアアアアアア!』
人々の絶叫を遮るほどの雄叫びが上がった。矢に手を掛け目玉を押さえながら引き抜こうとし、更に痛みに震える声が上がる。地団駄を踏んだ大地が大きく揺れた。
近くにいた者らが腰を抜かし、或いは揺れる地に転倒し、何とか正気を保った者だけが這いつくばって離れていく。
行実は鬼を見上げ固まってしまい、
「っち!」
春野宮は弓を担ぐと刀を振り翳し、声を上げて鬼に迫った。
柿の実ほどの大きな目玉が、こちらを向いて怒りに震える。きっと「こいつだ」そう認識したに違いない。
憤怒の叫びを上げながら、鬼が両手を振り上げる間に、脛(すね)を斬りつける。が、びくともしなかった。
ごう、とうねりを上げて降りた腕を、咄嗟に刀で受け止める。
『な…んて、馬鹿力…!』
技量など関係がなかった。
上から力のみで押し潰そうとしてくる。
「っく…!」
片膝を付いた。そのまま頭をかち割られるんじゃないかと思った時、
「春野宮…!」
漸(ようや)く行実が呟いた。
止まっていた時間がやっと動き出したのだと安堵する。
「は、やく…! どうかこの場から…! 殿!」
行実が頷いて、春野宮の側から離れた。だが逃げた方角に愕然とする。
『そっちは! 姉上が!』
「姉上! 逃げてえ!」
叫ぶのと、同時だった。鬼が行実を追って、飛翔したのは。
逃げる獲物を追いかけるのは、獣の本能のように思えた。知能もないのだと思った。
そのすぐ傍から、
「昴…!」
細川の殿、照顕も現れる。抜刀し、駆け出した。勇敢だが、無謀だと春野宮は思った。ただ、姉を助けようと踏み込んだのは形相からでも分かる。
だが、図体がでかい分、鬼の方があっという間に距離を縮めた。
「姉上…!」
春野宮も大地を蹴った。が、距離を得られない。鬼の馬鹿力で躯(からだ)が痺(しび)れていたのだ。立ち上がらなければ、弓も構えられない。
「姉上え!!」
「行実様! 危ない!」
昴は、鬼に追いつかれた行実の元へ駆けた。
『あり得ない! そんな!』
春野宮が真っ青になって手を伸ばす。
姉も、手を伸ばした。
しかし、彼女が伸ばした手は、春野宮には決して絡まない。行実の長い袂(たもと)をしっかりと掴んでいた。
「昴!!」
照顕の悲嘆が春野宮の絶望を加速させる。
その声が先だったか、判断も付きかねる須臾(しゅゆ)の間だ。昴が、行実の着物を思い切り引っ張った。
「!!」
驚いた行実が前につんのめりながら、昴の脇を抜け後ろへ放られた。
彼を背にした昴は毅然と胸を張り、鬼を見上げた。
「姉上えええ!」
春野宮の絶叫が屋敷中に轟く。
振り上げた鬼の手が、昴を真横に薙ぎ払った。複数の鈍い音がして、脇へ吹っ飛んでいく。昴の身は何度か大地の上を弾んで、離れたところへ血の海を作り始めた。
「姉上! 姉上え…!!」
縺(もつ)れる足に鞭打ちながら、懸命に駆け寄った。
その間にも、鬼は払い飛ばしたその感触に、『柔らかく美味いもの』と認識したに違いない。春野宮を追うようにして、昴に寄った。下卑(げひ)た笑いと滴る涎が地に落ちて、野卑(やひ)な顔が不快極まった。
「姉上…!」
そっと抱き上げた春野宮の瞳から、涙が溢れ出る。
「天晴……私の、大切な…おと、う…と…」
姉の腕が、大きく震えながら頬に触れた。その手に手を重ねて、春野宮が叫ぶ。
「姉上! 姉上…! いやだ! 嫌だ…僕を置いていかないで! 姉上…!」
「愛…して、る…わ…、た…は。る……」
「姉上! 姉上!」
不意に、視線が己の頭上を越えていった。苦痛に歪む顔から、穏やかな面に変わっていく。
「ああ……にち、り…ん……!」
それが、昴の最期の言葉だった。目映そうに細めた目尻から、雫が一つ零れていった。そのままゆっくりと、閉じていく。
必死になって姉を叫ぶ背後に、あの鬼の気配を感じた。
『姉上…!』
姉の亡骸(なきがら)を抱き締めた。嗚咽(おえつ)を堪えきれず、過ぎったのは、
『もう、いい』
姉と共に死ぬことだった。
が、更にその後ろから、炎のような轟音が響いてくる。
辺りは煌々(こうこう)と輝き照らされ、まるで朝日が昇るようだった。
降り注ぐ光と温もりに、春野宮は、姉を抱き締めたまま涙に濡れた面を上げた。身を捩(よじ)り、天を仰ぐ。
「……日輪」
姉の言葉を理解した。
天高く舞い上がった一人の侍が、振り上げた刀から陽炎(かげろう)を迸(ほとばし)らせていた。勢いよく真横に振った刃は鬼の頚(くび)を一太刀で斬り落とす。彼は、棒立ちになった鬼と宙ですれ違い様、刀身を鞘に収めた。
鎺(はばき)が収まる小さな音がした。
目映い光が収まっていくのに合わせて、鬼が塵と化していく。
目を見張った。
侍が着地する。長い黒髪がはらりと舞い降りて、辺りはまた漆黒の闇に閉ざされた。
喧噪が、耳に届き始める。
侍が静かに立ち上がり、こちらに向かって歩いてきた。
一歩近付いてくる度に、現実が身を襲う。松明(たいまつ)を掲げ、篝火(かがりび)を焚(た)く屋敷が少しずつ、秩序を取り戻していくようだ。耳には指揮を執(と)る、三条行実の声が届いていた。
侍は、呆然と見つめたままの自身の傍らに片膝を付いた。
「貴方は、怪我は」
彼は、『大丈夫か』とは、聞かなかった。その気遣いが分かるほどには冷静な自分に、春野宮は、愕然とした。
途端、止まっていた感情が溢れ出した。
「うわああああ…! 姉上、姉上…!」
昴を抱き締めたまま血の海に突っ伏した春野宮の傍を、侍は、離れようとはしなかった。
宴の会場は、そのまま昴(すばる)御前(ごぜ)の葬儀の場となった。簡易的なものではあったが、遺体の損傷が激しく、摂津国(せっつのくに)まで運ぶことは到底無理であろうと、細川(ほそかわ)照顕(てるあき)が判断したからである。
春野宮(はるのみや)は、昴が屋敷へ上げられる間も、傍を離れようとはしなかった。未だ腹部からの出血は激しく、春野宮は、溢れる涙をそのままに、まろびでる内臓を押さえて血濡れた。彼女が通った道には紅い川ができ、その後は、誰も近付こうとはしなかった。あの、侍を除いては。
深夜にかけては、屋敷の整備と混乱を収めることに時間が費やされた。落ち着くと早馬が四方へ散り、訃報(ふほう)が各所へ届けられた。
侍がじっと見つめて佇む中、春野宮は、泣きながら、昴の顔(かんばせ)を丁寧に拭った。一人、彼女の死出の旅路を整える。死に装束(しょうぞく)がそっと脇に置かれたが、どう見ても、着せることは困難だった。
「っく…!」
だが、春野宮は涙を拭ってその身に羽織らせた。
『姉上…!』
鬼に抉られた躯(からだ)をそのままに、荼毘(だび)に付すのは嫌だった。叫びたいのを懸命に堪え、荒い息を吐きながら昴の躯に触れると、その手に、侍の手が伸びてきた。
心底驚いて、真横に並んだ彼を見た。
侍は静かな声で、
「手伝わせて下さい」
言った。
奥歯を噛み締め、漏れ出る声を懸命に抑えた。必死な思いで、
「ありがとうございます…!」
何とか紡ぐ。
二人無言で旅路を整えているうちに、東の空が色付いてきた。
「姉上…!」
脇に正座をし、強く拳を握った。侍が立ち上がり、その理由を背後に届いた声で知った。
「挨拶が遅れ、申し訳ない」
行実(ゆきざね)のそれだった。
「…いえ」
「鬼を退治して下さり、ありがとうございました。昴は…残念でしたが…」
「では、私はこれで」
真っ赤に染まった足袋(たび)の先が軒の方を向いて、春野宮は前のめりになった。
「待って下さい!」
思いの外悲痛な声になった。
立ち止まり、こちらを向いた侍に、中腰になって言う。
「貴方は、鬼狩りなんですか? 僕、鬼狩りを見たのは初めてで」
「…ええ、そうです」
「僕を!」
春野宮は絶叫した。両手をついて、
「僕を鬼狩りの里へ、連れて行って下さい!」
血の海に頭を下げる。
行実の怒りが降ってきた。
「春野宮! 何を言うか、お前はこの三条の」
「姉の仇(かたき)を! 姉の仇を討てるようになりたいんです!」
「仇ならこの人が討ってくれたろう!」
行実が傍らに片膝を付いて言った。
その手が肩に伸びてくるが、キッと睨むと勢いよく払う。高く乾いた音が響いて、葬儀の支度を進める者達の動きが止まった。
「春野宮…!」
「鬼が! 鬼がいるから…!」
侍の目が、こちらをじっと見ていた。
「鬼がいるから、こんな目に遭うんだ! 戦(いくさ)なら我慢するよ、いくらでも! でも、でも…!」
納得はできない。
瞳が物を言った。行実のこめかみに怒りが滲んだからだ。
「我が儘を言うな! お前はこの三条の次期当主なんだぞ」
「そんなの代わりはいくらでもいる! でも、姉上の無念を晴らせるのは僕しかいないんだ! この世から、全ての鬼を狩ってやる…!」
「春野宮!」
「皆の顔を見てよ! 誰も、何も、言えない。何にもできない。人間は、鬼に対して無力なんだ…、抗わなくちゃいけないんだよ!」
「そんなの侍崩れにさせておけばいい!」
「!」
「お前にはお前の」
つい、手が出た。
行実の横面を思い切り叩いて、驚いた彼の顔が横を向く。立ち上がり見下ろして、
「ふざけるな…!」
言った傍で、流石に、
「春野宮様!」
「なりません、春野宮様!」
多くの近侍(きんじ)が寄ってきて、羽交い締めにされた。
「侍崩れとか言うなあっ!!」
視界がまた滲んだ。
行実の姿が溢れたものでぶれる中、身を折って叫ぶ。
「その侍崩れに助けられたのは、どこのどいつだ!!」
藻掻(もが)いて藻掻いて、腕の自由を得ようと暴れた。
「何もできなかったくせに! みんな、姉上に助けられたんじゃないか! その姉上の仇を討ってくれたのは、その、侍崩れなんだよ!」
強引に振り解いた腕に、拳を握る。荒い息を吐いてなおも叫ぼうとした時、ふ…と、
「もういい、…もういいですよ」
それまで脇で聞いていた侍の両腕が、頬に伸びた。
はっとして近侍が更に離れた隙に、その懐(ふところ)に包まれる。
優しい声が降ってきた。
「辛かったですね…、到着が遅れて、本当に申し訳ありません」
「…うっ」
彼の着物を、これでもかと強く掴んだ。広い胸元に顔を埋めて込み上げたものを耐えようとすると、強く抱き留められた。
「! 姉上…! 姉上ええええ!」
耐えきれなかった。声を上げて、泣き叫んだ。
「彼は、私が連れて行きます」
『!』
「なっ…!」
「ここにいても、貴方方が望むような『侍』には、彼はきっとなりません」
春野宮は面を上げた。
気付いた侍がこちらを見て、二度ほど頭を撫でられる。
「とても険しい道のりです」
「…」
「ですが、きっと貴方なら、立派な鬼狩りになれますよ」
「調子に乗るな!」
行実が叫んだ。立ち上がり、取り返そうと飛びかかってくる。
侍は片手で自身の腰に手を回すと、舞でも踊るかのように、身を翻し行実の拳を避けた。背中にさっと自身を回し、間に立って盾になってくれる。
『広い、背中…』
一切無駄のない動きに、春野宮の涙は止まった。
「春野宮は三条にとって、なくてはならない存在なんだ。おいそれと鬼狩りなんかにやれるものか!」
「その存在に対して、貴方方は何を返しましたか?」
「…は?」
「姉の命を頂いただけでしょう」
「!!」
「この年で」
と、彼が一度、軽く首を回してこちらを見る。また、優しい瞳と視線が合った。
「それだけの人望があるとは大したものです。きっとそれだけの努力を、これまで…この少年はしてきたのでしょう。姉君が見守る、その腕の中で」
『!』
侍はまた前を向いた。
「その唯一の心の支えを、彼は失ったのです」
静かな声色だったが、春野宮は、そこに、深い悲しみと怒りを感じた。
『この人も…この人も、鬼に。大切な人を…?』
「ならば、その意志を尊重してあげては?」
言葉を失った行実が、頽(くずお)れるのを見る。
何事か反論しようとでも思考を巡らせているのであろう、様子は分かる。だが、侍は一瞥したのみでこちらを向くと、膝をついて両手をそれぞれの手に取って見上げてきた。
彼は、もう一度言った。
「辛く、険しい道になりますよ」
「…はい」
「覚悟はいいですね?」
「はい!」
「いい返事です。…行きましょう」
「! はい!」
侍は、颯爽と立ち上がると踵を返した。
春野宮は瞬時に、姉の向こうに置いておいた弓矢等一式を手に取る。
駆け出した侍の姿が庭に飛び出た時、
『…ああ…!』
その姿は神々しく、日の光に包まれた。
『暁の、侍…! 神様。日の神様が、ここにいる…!』
祈るように思いながら、弓を肩に担ぐ。庭先で振り返った真顔の侍に駆け寄りながら矢筒を背負い、弽(ゆがけ)を手に填(は)める。
自分を呼ぶ複数の声が聞こえたが、構わず侍の隣に並んだ。
見上げると、彼は一度小さく頷き、朝日の昇る方向へ駆け出した。
春野宮も、その身を日の元へ投げ出した。
『姉上…!』
真っ直ぐ、昇る日輪を見据えた。