第壱話:暁の侍
・弐・
幼い頃より傍にいてくれたのは、姉上だけだった。
馬術を習うと言って、馬場に通うようになってからも、昴(すばる)は付いてきてくれた。
女性(にょしょう)が馬など。
女中(じょちゅう)や側近(そっきん)らが血眼になって止めたが、それも始めの頃だけだ。頑固な昴の姿勢を正すこと能(あた)わず、溜息交じりに大の侍達が付き従ったのを、春野宮(はるのみや)は、よく覚えている。
四人の兄は、仲が良くはない。
『夢見』の力は、嫡男(ちゃくなん)・実則(さねつね)よりも先に、次男・実紀(さねのり)の方に発現してしまった。それが騒動になるのは、火を見るより明らかだ。
案の定、跡目争いはすぐに勃発した。
救いだったのは、二人の母君が正室で、同じであったことだ。
なんやかやと争いがちな上二人を宥めていたのはその奥方様で、彼女の心労は、端で見ていても相当なものだと思われた。
三男・晴信(はるのぶ)と、四男・公允(きみまさ)の母は側室で、更に上二人とそれぞれに腹も違う。
三男の晴信は、春野宮と同じ腹ではあった。だが、物心ついた頃より春野宮は、上四人の争いには巻き込まれまいと、行動を共にするのは極力控えた。
ひたすらに、馬術と弓術の鍛錬に打ち込んだのである。
十を過ぎた頃、状況ががらりと変わった。
姉の昴が、摂津国(せっつのくに)の細川家(ほそかわけ)へ嫁ぐことになった。幸か不幸か、照顕公(てるあきこう)の一目惚れだそうで、望まれての縁組みであった。
そうして昴が、虜にした細川の当主、照顕公に耳打ちしたのである。
「五男の春野宮を、武家(ぶけ)三条が養子に迎えるよう、後見(こうけん)下さい。彼ならば、間違いなく細川の力になりますわ」
寝耳に水だった。
武家三条は、宗家(そうけ)三条の分家だ。
そのため、男児に恵まれなかった武家三条には、いずれ、宗家から誰かが養子に入らねばならなかった。それを左遷(させん)と取るか、機会と取るかは、五人の男児それぞれに、見方が違った。
ただ、武門を率いる者となると、相応の武術の嗜(たしな)みは必要になる。
特に、宗家の護(まも)り社(やしろ)は石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)である。
お社は那須与一(なすのよいち)の頃より弓術の神様を奉(まつ)るもので、馬術より剣術より、弓が使えないのでは話にならない。
何より、京(みやこ)の裏鬼門(うらきもん)の鎮守府(ちんじゅふ)である。
当主の腕前は、そのまま鎮守府の沽券(こけん)に関わる。
宗家の座を巡る権謀術数に日々時間を費やしていた上四人には、残念ながら、春野宮を超える実力は全くなかった。
当然のように、春野宮は、
「僕が参ります。武家三条は、この春野宮にお任せを」
膝を突き合わせた兄たちに、冷徹に言い放った。
次いで、畳に額が付くかと思われるほど平伏する。その上に、主には、三男・晴信公からの罵声が飛んだ。だが、肩を持ったのは次男の実紀公だ。
「いいじゃないか。天晴が継いでくれるというなら万々歳だ。その腕も申し分ない。現当主・行実公(ゆきざねこう)も、満足だろうよ」
彼にとっては、何の力も持たない嫡男・実則公より、春野宮の方が、脅威だったのである。
斯くして、春野宮は、自身にとっては願ったりの――次男にとっては追い出す形で――、武家三条への養子が決まった。
そしてそれを摂津国が後押しし、武家三条は、宗家三条に勝るとも劣らぬ力を手に入れたのである。
尤も、宗家の力(それ)は『夢見』の力であって、武家のそれは武力そのものだ。実際に刃を交えれば、当然、武家三条の方に分がある。
春野宮の将来は、約束されたも同然であった。
『それからだ。
あの夢を、見るようになったのは――――』
「水埜宮(みずのみや)様!」
石清水の奥の院に着いた春野宮は、近侍(きんじ)に十六夜(いざよい)を預けるとそこからは、姉の昴と二人で敷居を跨いだ。
山門を潜ると、まるで別世界に来たようだ。
一際鮮やかな色合いの紅葉に囲まれた奥の院は、鳥の囀りが響き渡る、清閑な森の最奥にあった。空を閉ざすほど腕を広げた紅葉の枝葉が光を透かすお蔭で、辺りは燃えるように赫い。
地には紅葉が降り積もり、春野宮達が歩く度に乾いた音を立てる。
栗鼠だろうか、ふと、視界に入ったような気もしたが一瞬のことだ。見向いた時には小さき者の姿はなく、春野宮は、しばし立ち止まった。
「これは…三条の若宮(わかみや)様。おや…昴様まで」
「水埜宮様! お懐かしゅう。ご壮健で何より。天晴がどうしても、貴女に逢っておきたいって」
かつては凜とした佇まいであった巫女も、今では、齢七十を越える老婆だ。鋭かった眼差しは穏やかな光を湛え、面差しは柔らかい。本宮での巫女としての務めを果たした後も、石清水に捧げることを決めてこの宮に入ったと、春野宮は聞いている。その彼女には、もう、元の名は、なかった。
『水埜宮』
それが、石清水の奥の院を預かる者の、名となるからだ。
「話を聞いて頂きたいのです、水埜宮様。文も寄越さず突然参りました非礼、どうか、この通り…」
春野宮は、深々と頭を下げた。
水埜宮はゆっくり瞬きをすると、
「構わぬ。そろそろ来るかとはな、思っておった」
口の端を上げて言った水埜宮に、春野宮は、昴と顔を見合わせた。
無言で踵を返した水埜宮の背を慌てて追い、奥へと姿を消す。
小さな堂に通された春野宮は、暫く、水埜宮が茶を点(た)てるのを見ていた。
豊かな緑の薫りが鼻を擽る。
石清水の甘い水で点てた茶は、舌触りが良く喉奥をするりと潤して、身も心も落ち着くようだった。
茶道具を片し、後に控えた童(わらわ)に下げさせると、水埜宮は長い息を吐いた。鳥の囀りが響いて来、一度、そちらを見遣る。
「そうか…やはりな。『夢見』の力は、はるに宿っておったか」
然(さ)もありなん。と、彼女の肩が大きく一度上下した。
「ですが、実紀公にもその力は」
「まあな。だが、十五も過ぎれば主の方がよりはっきりと、『空の力』を発現するだろうて」
「空の力?」
「その夢を見る時は、天から見下ろしてはいないか?」
春野宮は逡巡した。
『あれは…見下ろすと言うより、漂ってるだけなんだけど』
水埜宮に嘘を吐いても仕方がない。相談しに来たのだ。
率直なところを伝えると、水埜宮がくっく…と笑みを零した。
「まあ、初めはそんなもんだろう。私もな、初めて見た時は回転する空に酔いが回って目が覚めた」
「そんな話…」
「まあ、言わんて」
ですよね、と、春野宮の表情も崩れた。
「歴代の夢見はの」
水埜宮が静かに語り始めた。
「歴史に介入できないように、天からしか見下ろせんのだ。過去にそれはそれは、強い力を持った夢見がおっての。そいつは夢の中で未来を変えおった」
「! そんなことが…?」
「もう、数百年も昔の話だ。三条宗家が産まれる頃の話だな」
「宗家誕生の話…」
「うむ」
水埜宮は一息ついた。
「ただの。変えた未来は宗家に栄華をもたらした。だが、あるべきはずだった未来は不幸になっての。変えた本人が嘆き、夢見に制約を付けたと言われておる。それが、空の力だ」
「…」
「夢の中で夢を操作できない代わりに、空を伝って夢から夢へ渡り、より正確な未来を視ることができるようになった」
「まるで術士(じゅつし)ですね」
「その通りだな。夢見も元は術士の力だろう。血は薄まり今では予知夢しか出来んが、稀に、その星の下に産まれてくる者がおる」
「水埜宮様。もしかして、天晴が…?」
それまで大人しく聞いていた昴が、口を挟んだ。
水埜宮は首肯した。瞼を伏せて、何処か遠いところへ飛ぶ。
「はるが産まれた時の話だ」
記憶をはっきりと引き出したのだろう、瞼を押し上げた水埜宮の視線は鋭利だった。二人は一瞬、気圧された。
「暁の空には弓張月(ゆみはりづき)があってな」
「弓張月…。天晴の異名(いみょう)だわ」
「星がその月に向かって一つ流れた。気付いた者は数名だが、皆、見て見ぬ振りをしたのだ」
「僕が、…五男だから」
「そう。だが、民が主に名を与えた」
「『山城(やましろ)の弓張月』…」
「知らぬが仏とはよく言ったものだが、まあ。正室ら(正統な血筋)には苦いだろうな」
昴が、ふふん。と言うように両手を腰に当て胸を張った。
思わず、「姉上…」と苦い笑みを零した春野宮に、水埜宮が快活な笑みを零す。
「半月(はんげつ)に星が流れるのは、八幡様(はちまんさま)が弓矢を番(つが)えた証拠だ。『運命(さだめ)の子』と宗家では言われておる」
「その名って、夢見の正統後継者に与えられる名ですよね…?」
春野宮の問いに、彼女はゆっくりと首を縦に振った。
「主はいずれ、空の力をも解放し、夢見の力を操作するか…或いは、その武道(腕)に活かすか…まあ。形は分からんが。いずれ強大な力を得よう」
声色の変わった水埜宮に、春野宮は聞きながら居住まいを正した。正面から真っ直ぐ、見つめる。
「それはきっと、大きな渦を作り得るに違いない」
「その渦が、もしかしたら…夢の結末に…?」
「多分な」
「では、僕は…その渦に巻き込まれたら、確実に死ぬわけですね?」
春野宮の問いかけに、二人はしばし口を噤んだ。
じっと横顔を見つめてきていた昴の顔が、勢いよく、水埜宮に向く。
「そんな。水埜宮様、何とかならないの?」
痛切な声色に、水埜宮が意を決したようだった。
「決めるのははるだ。その一択で納得がいくのなら、それで良い」
「天晴…!」
昴がまた、こちらを向いた。
春野宮は姉を一度見てから、水埜宮を見る。
「でも、未来を変えたら、別の未来が不幸になったんですよね?」
水埜宮は頷きはした。
だが、
「これはな…夢見としては、あまり好ましくはないことではあるが」
前置きをすると、何とも言えない笑みを浮かべて言った。
「はる。未来とはな、そうはなかなか。定まってはおらぬものだ」
「ん? 意味が分かりません…。決まっているから、夢見があるのではないのですか?」
「だから言ったろう。夢見としては好ましくないことだと」
ますます怪訝な顔付きになった春野宮に、水埜宮の表情が曾祖母のそれになった。眼差しがとても柔らかく、春野宮は、息を飲む。
「変えたくは、ないのかえ?」
「!」
「変えたいわ!」
即座に反応したのは昴だった。
「私はいやよ、天晴が私よりも先に死ぬなんて!」
「ほらの?」
水埜宮は優しい笑みを零した。
「そう願う者もまた、いるのだ」
「当然じゃない」
「…難しすぎて、僕には、まだ…」
躊躇いを見せた春野宮に、水埜宮は、また、鎮守府の顔に戻った。
「はる」
「…はい」
知らず俯いていた春野宮は、面を上げた。心の不安がそのまま眼差しに表れたようで、水埜宮が射貫いてくる。
「話を聞く限り、まだ、運命(さだめ)の歯車は回ってはおらん。第一、その死の間際の声の主は、はっきりと見えない上に、出逢ってもいないのだろうが」
「そう言えば。そうですね」
「迷った時は、その手の中にあるモノを見つめろ、はる」
春野宮は膝に当てていた拳を上げ、手を開いた。
「この手の中に、あるもの…」
そうしてもう一度、拳を握る。
『この手の中にあるのは、僕には…姉上と。弓だ。これだけは、絶対ここから零さない』
もう一度、水埜宮を見る。その面構えが、変わった。
彼女は一度頷いて、
「これまで立派に自分で自分の道を切り開いてきたのだ。はる」
「はい」
「その胸に宿る誇りを見失わない限り、道は何処までも続くだろう」
「はい!」
春野宮は、膝横に拳を床に当てると、深々と一礼した。
『山城の弓張月の名にかけて。僕は、この弓道を違えたりしない!』
「水埜宮様。ありがとうございました!」
「む。主の行く道を、いつもここから見守っておる」
「は!」
ゆっくりと面を上げた。
無言の姉を見ると、彼女は目尻に浮かんだものを袖の縁で拭いながら、
「天晴…。貴方は本当に、立派になって…!」
目頭を押さえた昴に思わず、春野宮は笑った。
「行こう。姉上。今夜は宴だよ!」
「…そうね。貴方の新しい、一歩だものね!」
「うん!」
二人、手に手を取って立ち上がる。外はすっかり、薄暗くなっていた。もうそこまで、夜の闇が迫っているのだ。
「いけない。長居しちゃった」
呟いた春野宮に、水埜宮が、
「…はる」
「はい?」
「……いや。戻るのか」
「え? ええ、もちろん。今宵は僕の元服(げんぷく)の祝いですよ。いなくて如何(どう)します」
「泊まっていっても良いのだぞ?」
「またまた!」
姉弟は、顔を見合わせて笑った。
昴が微笑む。
「水埜宮様。摂津国へ戻る前に、天晴と一度、泊まりに来るわ!」
「そうだね。それくらい、照顕様も赦して下さるよね」
「殿はお優しいから。きっと大丈夫よ!」
「うん!」
水埜宮が、淋しそうに微笑み、何度か頷いた。
奥の院から姿を現した二人に、近侍が切羽詰まった顔で寄ってきた。その数が、二人多い。即座に春野宮は真顔になって、
「何があった」
伝令と思しき二人に声を掛けた。
「鬼が…! 鬼が、三条の宴の間に…!」
「なんだって!?」
「皆奮戦していますが、」
聞きながら、春野宮は颯爽と十六夜の背に跨がった。
「早急(さっきゅう)に戻るぞ!」
声を掛けながら愛馬の手綱を引く。無理に方向を変えようとした主に十六夜は竿立ちになり嘶(いなな)くと、後ろ足だけで回頭した。前足の着地と同時に春野宮の望む方へ、走り出す。
「十六夜! 頼んだぞ!」
数度頼もしい長首を叩くと、十六夜は誇らしげにまた嘶く。興奮したのか、顔を揺らして鼻息をぶるっと吐くと、あっという間に疾風(はやて)のようになった。
昴他近侍達にそこまでの馬術はない。慌てた仕草に馬たちが混乱し、宥めながら頭を館の方へ向ける。一足早く昴が
「はいやっ!」
春野宮を追ったが、彼女とて、弟の姿は豆粒程に、既に距離が離れていた。
「先行くわよ! 天晴一人では危ないわ」
「昴様! は、はい…!」
近侍達も二呼吸ほど置いて、漸く館の方へと走り出す。姉弟(してい)の手綱捌きには到底追いつかず、全速力でも見る間に距離が広がるようだった。