第壱話:暁の侍
・壱・
真っ青な空に、入道雲がかかる。
雲の狭間を行けども行けども波が途切れることはなく、次第に上下の感覚がなくなるようだった。
辛うじて、沸き上がる雲の向きから大地がどちらかは分かるが、降りたくても、降りられない。そう、行けども行けども。雲の下に出ることが叶わないのだ。
――――まただ。また、この夢――――。
少年は、吹き渡る風を切って、大地を目指した。
轟音が耳を劈く。
一つに束ねた髪や袴、羽織の全てが真後ろに引かれるほど強烈に、落下速度に勢いを付ける。
『どうせ夢なんだ』
地上に叩きつけられようが、死ぬわけない。
そう、思っていた。
だが、やはり、行けども行けども。そうして、
「はるーーーー!」
自分を呼ぶ悲痛な声が、空を引き裂くように響き渡った。
『ああ…』
絶望が過ぎる。少年は、停まり、風の吹くまま宙に漂った。
声だけしか聞こえない、絶望。
声色から分かるのは、自分の最期だ。その死が意味するものを映像として目に収めたいのに、何処まで行っても降りられない、絶望。
そして、自分が死ぬという、確信に近い、絶望。
初めてこの声を聞いた時も、これは、自分を想ってくれる者の号泣なのだと即座に理解した。
だが、それに覚えはない。
何度も聞いて特徴は覚えたが、夢を見て以後も、出逢ってはいない。
そもそも、たかだか十三年しか生きていないのだ。出逢った人の数などたかが知れている。
最初は、この夢に意味などないのだと思っていた。
時は、戦国乱世。
人はいとも容易く死を迎える。
戦場に出れば、生は、何時でも死と隣り合わせだ。深く考える必要などない。
ところが、元服(げんぷく)を迎える日が決まってより、見る回数が日増しに多くなった。或いは三条(さんじょう)宗家(そうけ)に伝わる『夢見(ゆめみ)』の現象なのかと思うに至り、安易に口に出すこともできなくなった。
もし、『夢見』の力が発現したとしたなら、一族にとって、好ましくはないからだ。
『僕は、宗家の五男だ。嫡男(ちゃくなん)の実則(さねつね)殿にこの力が発現していない以上、お家騒動の元になる』
それは、決して望まぬことであった。
「――っは!」
春野宮(はるのみや)は、見つめた一点――中央を、的確に射貫いた。的であった扇は燎原(りょうげん)の炎のように舞い上がり、螺旋を描いて落ちていく。
「「「わああああ!」」」
刹那、一斉に歓声が上がった。褒め称える声に混ざって、妬みをも感じるが、春野宮の集中が途切れることはない。
城内馬場(ばば)を駆け抜ける栗駒(愛馬)の振動に下半身は任せながら、即座に肩の矢筒より一矢を抜き、弦(つる)に添える。その間、瞬きするほどの短さだ。
上下する馬の背にあっても、春野宮が番(つが)えた鏃(やじり)の切っ先は、的の中央を指したままぶれない。跨がる馬の背に揺られる彼の身体が次の的を見遣ってひねりを加えて行く中――駆け抜けた愛馬と春野宮の弓が、的を真横に捕らえる半髪前――ほんの一瞬。
春野宮の剛弓が、再び音を立てて撓(しな)った。
タンッ!
軽快な音を立てて突き刺さった矢は、またも、扇の中央を射貫いていた。真紅(祝い)の扇はまたも、高く空(くう)を駆け昇ってははらりはらりと宙を舞う。
「流石だ!」
「いよっ! 『山城(やましろ)の弓張月(ゆみはりづき)』!」
「まさに与一公(よいちこう)の再来ですな!」
「三条は安泰だ! 山城の上弦(つる)は如何なる者にも斬ることは敵わん!」
喝采と担ぐ声を聞き流しながら、春野宮は「ふう」と一息吐いた。
頭頂で一つに束ねた長い黒髪が、肩から胸元に落ちる。弓を腰に携え馬上で一礼をすると、絹のような髪は風に靡き、女性(にょしょう)の溜息を誘った。歓声が一際大きく、大地を揺るがした。
この時、春野宮――三条春野宮天晴(たかはる)は、十三歳。
今日、この日は、晴れて元服を迎える目出度い日だ。
一族の中でも特に小柄で、扱う剛弓は身長より大きく特注だった。加減なく弓を引けば、その様は、まるで上弦の月にすっぽりと半身が入り込むかのような見栄えだ。『山城の弓張月』は、幼いながら、山城の女性には『月窓(げっそう)の君』と噂になるほど眉目も秀麗だった。
剛弓を肩に担いだ春野宮は、流鏑馬(やぶさめ)の演場から離れ去った。
花道を辿り奥へと退場すると、舞台には、遠く、次の歓声が上がり始める。一息ついたように、面が柔和になった。
「十六夜(いざよい)。お疲れ様」
愛馬の首に手を当てて、そっと話しかけた。
濃紫の房を幾つも付けた豪奢な鞍(くら)や鐙(あぶみ)、手綱に身を包まれた愛馬・十六夜は誇らしげだ。鼻をフンと一度鳴らすと、「どうだ」と言わんばかりに春野宮の方に首を傾けた。
「ははっ!」
思わず笑みがこぼれた。
狩衣(かりぎぬ)の膨らみに足が取られないよう大きく愛馬の背を跨ぐと、軽やかに着地する。
「天晴(たかはる)!」
「…姉上!」
遠くから駆けてくる姉・昴(すばる)御前(ごぜ)の表情に、春野宮の相好が崩れた。九つも歳が上の彼女は、身長も、頭一つ半程も大きかった。
錦糸が縫い散りばめられた、白菊の着物。真紅の布地に大柄な花が艶やかで、昴の明るい性格を表しているように思える。春野宮にとっては、同腹の姉だった。
裾を開(はだ)けさせ駆けて来る様が、素直で豪快だ。
『姉上…足元! 足元見えてますから!』
苦笑い小さな吐息を漏らす間に、姉は、駆け寄ってきた。
頭を二三叩かれて、思わず頬を膨らませる。
「姉上。それはやめて下さいと、何度も」
「なら早く大きくならないとね? 天晴?」
「っ~~~」
苦虫を噛み潰した様に顔が歪む。が、十六夜の手綱を取って歩き出した姉の隣に、弾む足取りで並ぶと、春野宮は言った。
「摂津国(せっつのくに)から態々(わざわざ)お越し頂けるとは…天晴は果報者ですね!」
「見たかったの。天晴の流鏑馬。武家三条へ入ってしまったら、もう、逢えなくなりそうな気がして」
「嫁ぎ先では大層愛されているとか。今日も殿と一緒に?」
「ええ。天晴が武門を継いでくれたら、摂津と山城はもう戦わなくて済みそう。あちらでも、『山城の弓張月』は有名よ」
春野宮は苦笑った。
「それは違いますよ、姉上」
厩舎(きゅうしゃ)に着いたところで、昴御前から手綱を受け取る。十六夜に感謝を告げてから、厩(うまや)に繋ぎつつ、
「姉上が殿の寵愛(ちょうあい)を一身に受けているからです。戦(いくさ)を回避する御技を持つのは、女性(にょしょう)ならでは」
「…随分と大人びてきたのね。覚悟は決まったんだ?」
「はい」
天晴は確かに首を一つ縦に振って、十六夜の武具を外した。
「僕は僕の務めを果たします。山城から、姉上を守って見せますよ。今宵の元服の宴の席には、いらっしゃるのですよね?」
「もちろん! 貴方の晴れ姿を見ないわけにはいかないわ。あの流鏑馬で十分見たと言えばそうだけどね!」
「姉上…」
「貴方は私の誇りよ、天晴。全ての的の中央を射貫く貴方の腕前と言ったら。宗家の面々の表情に胸がすいたわ! 様(ザマ)もないわね!」
「ありがとうございます! 姉上にそうおっしゃって頂けるのが、僕には最大の賛辞ですよ」
「天晴…立派な侍になってね。武家三条はこれからは、貴方が率いるのよ」
「はい、姉上!」
山城は、古来より歴史的価値の高い文化が残る地域だ。
幾度となく京(みやこ)の中心となり、時代が去ってもなお、信仰は厚い。殊更、石清水(いわしみず)八幡宮(はちまんぐう)は京の裏鬼門(うらきもん)に当たり、表鬼門(おもてきもん)・比叡(ひえい)と並んで、国家鎮守(ちんじゅ)の社(やしろ)として根強く信仰されていた。
交易面でも、京や大和(やまと)、境(さかい)などを結ぶ中継点だ。物流の往来が激しく、覇権を巡ってこの地は戦乱に巻き込まれることが度々あった。が、武家三条が治めてよりはこのかた、戦が回避されつつあった。
山城は、足を郊外に伸ばせば宇治茶に代表される茶畑も多い。多くの山、丘陵に囲まれ、宇治川(うじがわ)、桂川(かつらがわ)、木津川(きづがわ)の合流点を中心に扇状の盆地が広がり、京野菜発祥の地の一つでもある。
山と川に囲まれた土地は豊富な資源をもたらすばかりでなく、そのまま天然の要害となり、三条を堅固に守っていたのだった。
とは言え、三条は元々、笛の名手を多く排出した公家(くげ)の名門である。右大臣、左大臣にまで登り詰めた歴代の当主も両の手に余るほど多く、三条の宗家は、石清水の社の鎮守をも兼ねていた。
歴代当主には『夢見』という、異能を備えて産まれる者も多い。予知夢に似た近い未来を見、歴史を文字通り渡り歩いてきたわけだが――、戦乱の世に至っては、その能力は、当主たるもの、なくてはならない力だと考えられていた。
「姉上」
「…ん? どうしたの?」
流鏑馬での祓いの儀を無事果たした春野宮は、それより後夕刻までは、時間があった。
着替えて後の挨拶回りなど、次期当主として済ませなければならないこともある。それでも、まだ、宴までは相当時間があった。
「少し寄りたいところがあるんです。姉上も一緒に来てくれませんか?」
「それは構わないけど…。それなら殿に声を掛けてくるわ、心配なさるから。構わない?」
「では、僕も参ります。義父上が対応なさってはいますが、こちらへ出向いて下さったのに、僕が…ね?」
「そうね! 御館様も喜ぶわ!」
春野宮は、昴御前に案内される形で、摂津国は姉の嫁ぎ先、細川家(ほそかわけ)当主、細川照顕(てるあき)への目通りが、早々に叶ったのだった。
細川家と昼餉(ひるげ)を共にした春野宮は、談笑を終えると席を立った。
「では、殿。行って参りますわ」
「ああ、気を付けて。昴」
二人が交わす言葉を耳にしながら、深々と一礼をする。
また後ほど、と互いに柔らかな笑みを零し、軽い宴席を後にした。
太陽の傾きを見る限り、まだ、未(ひつじ)の刻(こく)を回ったくらいだろう。
姉を伴い馬場へ急ぎ、春野宮は、館をしばし離れた。姉の昴と馬を走らせた。
急遽細川家が用意してくれた宴席の前には、武家三条当主・三条行実(ゆきざね)の腹心(ふくしん)に話は付けてある。行き先も伝えてあるし、近侍(きんじ)を三人ほど連れたのみのお忍びだった。
三条は宗家、お社の石清水へ向かう。京を守る裏鬼門、石清水八幡宮のことだ。
朱塗りのお社が蒼穹を背に映えて、荘厳に輝いていた。本殿へは石の灯籠が並ぶが、昼間は沈黙している。
広い門構えの手前より、中の様子を一瞥した春野宮は、中へは入らず迂回した。八幡様を囲む漆喰の壁を辿るような形で、奥の院を目指した。
複数の蹄(ひづめ)の音が、軽快に鳴り渡る。
お社を囲む高い塀の向こうからは、真っ赤に色づいた紅葉が燃えるように聳えていた。陽の光に照らされて、風で揺らぐと、まるで大文字(だいもんじ)の送り火を間近で見ているかのようだ。
木々には所々、雪洞(ぼんぼり)が見え隠れしている。夜の帳が降りればきっと、八幡様の巫女達が灯籠同様、火を点けて回るのだろう。
紅葉が小さな音を立てて、地に舞い落ちる。
「山城は、いつ見ても美しいわね…」
隣を走る昴が見上げ、感嘆の息を吐いた。
春野宮も、視線を追うように見上げ、頷く。
「僕にはこうして、姉上と馬を走らせることが出来るだけで、十分幸せですけどね」
「天晴ったら」
笑った昴の美しい顔(かんばせ)に、紅葉が舞った。