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特別編:聖夜

​ ~躑躅の章~


 社務所(しゃむしょ)の奥の間の一つが、がらんとなった。

 六畳の畳の上にあるのは、衣装箪笥が一つだけだ。それも、中身は入っていない。

 縁壱(よりいち)は、部屋の入口に立ち竦んだ。向かいは広い裏庭を望み、吹き抜けていく風がそっと髪を攫って胸が軋む。まるで、長らく雨の降らない大地のようだった。

「じゃ、縁壱」

 背後から、元、部屋の主の声が響いた。

 勢いよく振り返り、大きな鞄一つ手にした姿を見る。

「兄上…」

 この感情を、どう表現したらよいものか迷った。言葉なく呟いて俯くと、今、自分がどんな顔をしているのか、兄の苦い一言で知った。

「なんだ、今生(こんじょう)の別れでもないだろう」

 継国山(つぎくにさん)の麓、桜町(さくらまち)の外れに古書堂が建ったのは、先月のことだ。

 元々広い敷地を持った一戸建てが売りに出されていて、決着が付いた後、兄は、何の迷いもなくそこを買った。そうして庭に、古書堂とガレージを建てたのだ。

 お社(やしろ)にも馴染みの深い「桜建設」が、全てを請け負ったと後から知った。あれよあれよと、特殊ガラス――中から外は見えるが、外からは見えないらしい――の吹き抜けたような窓の造りが、目映い光を沢山取り込む、暖かな家屋が出来ていった。

 大凡、古本を置くなどとは、その時は、思いもしなかった。傷むだろうに、と後から思ったものだが、キッチンを奥に併設し、カウンターにはグラスハンガーまで吊り下げたところを見ると、単に、兄の好みにしたかっただけかもと思い直す。

『きっと、趣味の延長ですね…』

 兄らしい慎重さで、全ての荷が届く前には、結界を張って欲しいと頼まれた。

『もう、何も、言えません…』

 出来上がった家屋を見ては、反対も出来ない。兄は昔から、決めたら梃子でも動かない人だった。

 継国の死渡(しと)であることを受け止めていた兄が頼んだ内容は明白で、縁壱は、望む通りに結界を張った。そうして念のためと、毎年夏飾りで使う風鈴を、一本、祓詞(はらえことば)を乗せて贈ったのだった。

「兄上。あそこは…何かお店になるんですか?」

「出来てからの楽しみだ。一度、見に来るといい」

『一度、…』

 感情の鱗が捲れ上がった気がした。それでも、兄には、大きく跳ねた心の臓は気取られることはなかった。表情すら、変わらないからだ。

 会話も、それ以上続かなかった。

『もう、兄上は…お戻りにはならないのかも知れません…』

 また、独り――残されるのか。

 そう、思った。

『今思えば、兄上がサボテンを買いに行ったあの日…義政(よしまさ)が態々京(みやこ)から遊びに来ていたのは、兄上の新居を見ておきたいと思ったからなのでしょう。空明(くうめい)さんの事もあるでしょうし』

 小さな溜息を吐くと、巌勝の鋭い眼差しが胸奥を貫いたようだった。

「お前がそうして泣くのは、二度目だな」

「! 泣いてなど、いません」

 面を上げる。どきっとした。

『気取られた? 奥底を?』

「いつでも泊まりに来るといい。…まあ、俺のところに泊まるより、うたさんの傍にいる方が安らぐんだろうが」

 聞こえた言葉に耳を疑った。

 笑声が毒づいているようにも思えた。

 確かに、彼女を見つけたときは内心歓喜したものだ。だが、それとこれとは話が違う。

「本当ですね? 嫌だって言っても、泊まっていきますよ?」

 兄はもう一度笑うと、「ああ」と頷いた。

 社務所の玄関に向かって歩き始めた後に、付いて行く。

「兄上」

 呼び掛けると、彼は、少しだけ振り返った。

 心を奮い立たせて、思うことを告げてみる。

「兄上も…いつでもお社にお姿を見せに帰ってきて下さいね? 私は…ここから、離れられません…」

「縁壱」

 兄の歩が止まった。

 こちらを向いた顔に、眉根が寄るのを見た。

「縁壱、俺は別に、お前を一人ここに残して自由になるわけじゃない」

「兄上…」

「継国から離れられないのは俺も同じだ。ただ、少し…距離を置くだけだ。ちゃんと、お前の傍に俺はいる」

「…はい」

 再び歩き出した兄の後ろ姿を、目に焼き付けた。

『傍にいる。その言葉が、どれだけの勇気を与えてくれるか…兄上はきっと、気付きもしないのでしょうね』

 跡継ぎを巡っては喧嘩ばかりしていたが、今となっては、それも懐かしい。

 ふと、思った。

『もしかして。兄上は…あの頃。…あの時』

 お社の跡目相続での言い争いは、まるで、数百年を超えて甦った喧嘩のようだったと。今、気付いた。

 いつだったか、喧嘩中、兄は、言ったのだ。


「お前の方が何もかも優れているんだ。お前がここを継げばいい」


 身体の芯が跳ねた。

 思わず、立ち止まった。

『あの時は意味が分かりませんでした。どちらが優れているかなんて…現世(げんせ)では、比べるものが、多すぎて…』

 現に、学内での成績は、兄は常にトップであったし、県下でも五指に入る優秀さだった。

 それでも兄は、柄の悪い連中とよく連んでいた。

 継国の名前やその頭が、当時の教師には何も言わせず、兄に対しては、遠巻きに眺めているだけだった。無免許でバイクや車を乗り回し、捕まったときですら、学校は揉み消した。

 そんな時だ。

 父・勝家が、剣道を薦めてきたのは。

 自分らを本堂に呼びつけて、父は、

「部活でいい。やってみないか」

「ふざけるな!」

 兄は一蹴した。憤怒で震える身を抑えきれず、その場を去った。

『父上も死渡だったなら前世の記憶はきっとあったはず。それでもなお、剣の道を薦めてきたのは、もしかしたら』

 言われた当初は、自分ですら、何故また争いの種を。と思いもした。

 繰り返して何になるのか、そうも思った。が、逆らう気にはなれなかった。そう言う性根は、あの頃から何一つ、変わっていなかった。

 だが、兄は、違った。

 何をどう、思ったのか。感じたのか。分からない。話しかけるきっかけも、勇ましさも、その時の自分にはなかったからだ。

 ところが、兄の素行の悪さは、その日を境にぱたりと止んだ。

『兄上と一緒に選んだ部活動の報告に行ったとき、父上は確かに一つ。頷いていました…「そうか」と。安堵の笑みを浮かべて…』

 以降、武道を極めて敵なしと言わしめた自身に対して、兄は、文才を発揮して県下に名を轟かせた。継国の双子は、二人合わせて文武両道と…、無敵だと言わしめた。お社の名誉を、見事、守ったのだ。

「…」

 離れていく気配に兄も気付いたのだろう、数歩先で訝しげに振り返った。

 巌勝が、ぎょっとしたように思えた。鞄を玄関先に置いて、戻ってくる。

「おい、縁壱…」

 声色に、思いも寄らず、頬を流れたものに自分でも気付いた。

 だが、止まらない。否、止められなかった。

「兄上…申し訳ありませんでした……」

 ただ、謝りたかった。

「は?」

「私…私は、あの頃、逃げていたのですね…」

「!」

「そんなつもりは、なかったのですが…」

 面を上げて、兄を見つめた。

 複雑な顔になった巌勝の様に、一瞬、言葉を失う。

『でも。今。今、伝えないと――』

「そんなつもりは、決して。なかったのです。でも、傷つけていたのだと…やっと。分かりました」

「…」

「もっとちゃんと、ぶつかるべきだったのに。話をするべきだったのに。譲るという行為が、あの頃…家のことを真剣に考えていた兄上を、結果的に」

「もう、いい」

 巌勝が、声を絞り出した。

 一歩、二歩。傍に寄り、そっと、抱き締めてくれた。

 刹那、嗚咽が漏れ出た。声を押し殺すように、兄の肩に顔を埋めた。

「俺は、知っていた。お前は優しいから、自ら身を引いたのだと」

「兄上…!」

「だが、俺は、お前が眩しかった。お前のようになりたいと心底願い、妬んだんだ。自分が望んだもの全てを持っていたお前が、とても…羨ましくて」

「それは、兄上。私も同じです…!」

 顔を上げた。胸元に手を当て、懸命にしゃくり上げるものを堪える。

「兄上は、私にとって…!」

「それも知ってた」

 兄は困ったように笑った。

「だから、苦しかった。兄として。それが常にのし掛かっていた。プライドばかり高くて、お前の本当の気持ちに気づけなかった」

 巌勝は一つ息を吐くと、ゆっくりと両手で肩を掴んで来、その身を離した。

「義政に言われたんだ、当時。お前らは同じだ、って。お互いに無い物ねだりだ、お互い自分勝手だ、ってな」

「義政…」

 彼らしい。と、思わず、小さな笑みがこぼれた。

 兄は続けた。

「俺は、その義政からも逃げた。剣の道を究めることが全てだと…、勝ち続けることを選んだんだ。当時お前が言ったことは、何一つ、あの頃…俺は、理解できなかった」

 兄は声を絞り出した。

「…すまなかった」

「兄上…!」

「うおっとと…ははっ!」

 思わず抱きついた自身を蹌踉めきながら受け止めてくれた兄の手は、あの頃と変わらず、優しかった。

 声が、静かに降ってくる。

「今度は何も恐れずに、一番を目指せ。頂点に、居続けろ」

「!」

「もう…何も、怖いことはない」

「兄上…!!」

 何度も軽く叩かれる背中に、強く、頷いた。

 やがて、落ち着いた頃を見計らった巌勝が、思い出したように、姉妹にも挨拶してくると言う。

 長らく待っても戻る気配のない兄に、不審に思った。抜き足で姉妹がいるであろう居間の方に忍び寄ると、

「じゃ、後は頼んだぞ」

 兄の声が襖を通して聞こえた。

「あいつはなかなか感情を表に出すこともないが、お前達ならきっと、心を開いてくれると信じてる。縁壱のこと、頼むな」

「はい」

「巌勝さんも、時々はここへ戻ってきてね? 姿、見せてね?」

「ああ」

『兄上…』

 今のは聞かなかったことにしよう、と、足早に、玄関へ戻った。

 縁に座り、何気なく外を見つめる。ここから出られないと思っていた扉は、存外、自分の手で開けられるものなのだと、やっと、理解した。

「待たせたな」

「兄上」

 振り返ったときには、笑顔になれた。

 驚いた兄の表情がおかしくて嬉しくて、

『確かに。今生の別れではないですね。きっと…新しい一歩になるはず』

「落ち着いたら、顔を出して下さいね」

「分かった」

 握手を交わした。

 外まで見送りに出、互いに手を振り返す。

『あ。ロープウェイまで送って差し上げればよかったですかね…』

 思うが、辺りを見回しながらゆっくりと歩き出した巌勝に、それも不要なのだと気付いた。

 兄の横顔は、清々しかった。

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