第七話:沙羅双樹
・捌・
~躑躅の章~
光に照らされた白いネグリジェが、翻る度に天使の襞を作る。兄の舌打ちが聞こえ、振り翳した刃の切っ先を強引に変えるのが見えた。だが、兄の攻撃は範囲攻撃だ。縁(ふち)が彼女らに襲いかかって、
『沙羅(さら)!』
悲鳴を上げて萌黄(もえぎ)が手を伸ばした。
沙羅の身を軽く包み、引き寄せてコの字になる。その萌黄の左半身を、兄の月輪(がちりん)が掠めていった。
肌を切る鋭い音が幾重にも聞こえ、黄金の大地が薄萌黄色に染まる。
『萌黄様!』
沙羅が右肩から這い出てきた。そのまま蹲る萌黄の頭部に身を寄せて、耳を両腕で抱くようにして縋ると、涙を見せた。
『萌黄様! 萌黄様…!』
何度か耳元で叫ぶ彼女に、
『沙羅…』
萌黄がやっと身を起こした。
『ああ…無事だね。良かった…』
ほうっと安堵したように答えると、悟空を掌で転がす釈迦程に大きかった彼の身が、少しずつ人形(ひとがた)の大きさに戻っていく。
縁壱(よりいち)も一息ついて、
「兄上! もう…無茶ばかり…!」
彼に駆け寄った。
「縁壱…無事か」
「もちろんです。兄上こそ。そのすぐ刃物に訴える癖、やめて下さい心臓に悪い!」
「先に手を出したのはあいつだぞ」
「何日前の話ですか!」
若干怒気を含めて言った時、立ち上がり沙羅の腰を抱いて佇む萌黄の鋭い眼差しを浴びた。
『縁壱様、巌勝(みちかつ)様』
沙羅がゆっくりと頭を下げた。
『非礼はどうか、この通り…』
『沙羅』
『萌黄様。彼らは私を無理矢理引き離したりはしません』
二人の言葉に、兄の表情が苦虫を噛み潰したようになった。
縁壱は刀を納め、兄にもそれを促す。
巌勝は眉間に皺を寄せたままだったが、闇色の刃を霧消させた。禍詞(いみことば)が解(ほど)けて、宙に消えていく。
「萌黄殿」
縁壱が一歩を踏み出して言った。
「彼女らが受けた仕打ちは、私共の友が必ず暴いてくれます」
『あの、桜町(さくらまちしょ)署の刑事か』
「ええ。悲鳴嶼(ひめじま)さん達が。必ず。辛いだろうに、証拠も沙羅さんの親友がきちんと残して置いてくれました」
『真理(まり)のこと…!?』
「はい」
『……』
沙羅が少し、動揺したように思えた。
「貴女の事をずっと想ってらっしゃったようです。自分のせいだと。自分を助けるために命を絶ったのではないかと。思い込んでいるようでしたよ」
『そんな! 違うわ…』
「ええ。ええ…そうですね。ですが、貴女のあの様な姿を見たら、残された方々はどう思うでしょう?」
『!』
『貴様…!』
萌黄の両手が彼女から離れた。
印を組もうと腕を上げた動作に、巌勝が禍詞を紡ぐ。
それを、
「兄上」
縁壱は腕を掴んで止めた。
「縁壱!」
瞳が黄金(きん)に輝き始めたのを見て、縁壱ははっとした。懸命に首を横に振り、兄の腕を掴む手に力を込める。
奥歯を噛み砕くように険しい表情をした兄が、顔を逸らした。
「いいのです。彼が私を殺すしか方法がないというのなら、私はその怒りを全て身に受けましょう」
「縁壱、おまっ…!」
「ですが、」
縁壱は兄を掴む手はそのままに、視線をまた彼女に戻した。
驚くほど険相になって、皆が息を飲むのを感じる。
「沙羅さんは気付いてらっしゃるのではないですか? 自分に祈りを捧げてくれる、幾人もの影」
『誑かすか! 赦さんぞ…! 貴様!』
『萌黄様! …お願いです』
沙羅が自身と同じように、萌黄の腕を掴んだ。ただ、両手を絡ませ、身を寄せる姿は必死だ。
瞳は悲しげに揺らいでいる。
しばらく見つめ合った二人のうち、萌黄のそれは、少しずつ和らいでいった。瞳の奥の滾る炎が、小さくなっていった。
やがて彼は、怒りを収めた。
巌勝の腕からも、緊張が解けたのを感じる。
縁壱は手を離し、脇を見た。釣られたように皆もそちらを向くが、だだ広い黄金の草原が広がっているだけだ。
「出ていらっしゃい」
縁壱が声高に響かせる。
風に乗った言葉は低く麗しく、どこまでも流れていくようだった。地平の果てまで続く黄金は、変わらず風に戦(そよ)ぎ、金波銀波を翻している。
この地に天へと続く階段があることは、…否、そこへ導くことが出来るのは、精霊である萌黄だけであることも、縁壱は、察していた。ただそれは、天へと昇る許可を、閻魔(えんま)が下したとあれば可能なことだ。あるいは、『京(みやこ)の舞姫』の様に、『昇華』の力を行使できるだけの『死渡(しと)』であること…。
『ですが、彼がいれば恐らく。…仕方ありません』
声を掛けたが無反応の相手に、縁壱は右腕を天に掲げた。
袂(たもと)がゆっくりと腕を滑り、隆とした逞しいそれが現れる。
瞼を伏せ、呼吸を紡ぎ、大きく振るい円を描くと、鮮やかな日輪が具現した。風船を叩き天へと放るように、手首を返す。
途端、日輪は天へと駆け上がり、弾けた。
『綺麗…』
見ていた沙羅が思わず呟いた。
弾けた太陽は、光を反射する硝子の破片の様に、ひらりひらりと舞い落ちてくる。落下する軌道を目で追ううち、
『拓巳(たくみ)!?』
現れた人影に、彼女の声が一驚した。
「拓巳…?」
巌勝も同じような声音になった。
それもそのはず、彼はもう、学生の姿ではなかったからだ。狩衣(かりぎぬ)に弓を持ち、矢筒(やづつ)を背負っている。二十歳前後の若者の様だった。
縁壱が言った。
「沙羅さん。拓巳さんは、既に天で神々に召し抱えられているのですよ。人としては珍しく、神使(しんし)と呼ばれます」
『沙羅…』
拓巳が何とも言えない顔で微笑んだ。
『迎えに来たんだ。なかなか、気付いてもらえなくて』
『!』
萌黄が身を震わせた。
沙羅が彼の指に指を絡ませる。
「貴女も分かっているはずです。このままでは、いけないことくらい」
「萌黄」
と、巌勝が厳しい口調で言った。
「これでいいのか? お前は本当は…彼女を嫁に迎えるはずだったんだろう」
『!』
二人が息を飲んだ。
拓巳が強く拳を握り、俯くのを縁壱は見る。
『拓巳さん…』
持て余した想いはあれど、選択を彼女に委ねその身を賭して守り抜いた強さが、神に愛でられる一因になったのだろう。
兄が続けた。
「このままでは、お前ら二人とも地獄行きだぞ」
『ふざけるな! 彼女は…!』
「そうさせているのはお前だろうが」
萌黄が歯軋りした。
言いたいことは存分にあるだろうが、兄の真っ直ぐな瞳がそれを佚しさせた。
「考えたことがあるのか」
静かに言った兄の言葉は、
『まるで、自身に言い聞かせるようです… 兄上。貴方は、それほどまでに。空明(くうめい)さんを』
「沙羅がお前の傍を離れないのは、どんな結末であっても、お前と運命を共にする覚悟が既にあるからだ」
萌黄がはっとした様子で、沙羅を見た。
彼女も一度は萌黄を見るが、すぐに俯く。それは、肯定のように思われた。
「お前の勝手な独占欲が、彼女に道を踏み外させたんだ」
『巌勝様! それは違います! 私…私が…! 私に、生きる勇気が…』
沙羅が言い淀んだ。
思わず縁壱も、
「兄上…」
巌勝の袂を引いた。
巌勝が一度こちらを見、すまなそうな顔になった。
『!』
彼らには見えないその表情は、「赦せ」そう、言っているようだった。
巌勝はゆっくり瞬きをすると、元の険しい顔に戻って、縁壱を背に護り二人を眼差しで射貫く。
「そう。沙羅、お前も、萌黄に甘えた」
『貴様…それ以上言うな! 侮辱するか…!』
萌黄の身体が、再び膨張しようと鼓動を刻み始めた。
『萌黄様…!』
沙羅が必死になって、その腕を掴む。
空気が次第に張り詰めていった。
「逃げることを、選んだんだ。沙羅」
『兄上…!』
それは、彼にしか言えないことであろうと、縁壱は思った。
『きっと兄上は、後悔はしていないはず。鬼になったこと。ですが、それが誤りであったことは、もう…受け止めてらっしゃるのですね…!』
縁壱の双眸から、涙が溢れた。
あの日。
『兄上が何故鬼になったのか、私はすぐには分からなかった』
「っ…」
拭おうと腕を上げて吐息が漏れた時、滲む視界に、
『兄上…!』
そっと片手が、後ろ手に伸びているのを見た。己に差し出されているのを知った。
手に手を重ねる。
ぎゅっと、強い力が掌を伝ってきた。
『兄上…! ごめんなさい、ごめんなさい…!』
――――お前が世の理(ことわり)を見ているのはもう。知ってる。
万物や命の大切さ、平等さ、それも分かる。
お前がそういう姿勢でいるのは、尊いと思う。
だが、それだけでは駄目だ。
力ある者は、優しいだけでは上には立てん――――
縁壱も、強く兄の手を握り返した。
「沙羅さん」
繋いだ手はそのままに、彼らに向き直る。
その表情は決して咎めるものではなかった。穏やかな笑みをすら湛えていた。
「あの様な仕打ちを受けて、それでもなお、『生きよ』とは、私には…言えません」
「縁壱」
巌勝が呆れたような顔を向けてきた。
それには思わずくすりと笑みを零して、掴んだ兄の手を胸元に引き上げる。願うように、祈るように。
「ですが…もし。貴女が一歩でも勇気を出してくれていたなら。拓巳さんの事件は、もっと早くに解決していたのではないでしょうか」
『『!』』
「拓巳さんのご両親は、四年もの歳月、無念に血の滲むような日々を送らなくても…済んだのかも知れません」
『拓巳……』
沙羅が拓巳を見た。
萌黄はそんな沙羅を見た。そうして、拓巳を見た。
彼にも、拓巳がどれほどの思いで沙羅を守ったのか、それは分かるような表情だった。
拓巳はなんとも言えず苦笑うと、頭をぽり…と掻いた。
「萌黄。沙羅」
巌勝が言った。
「この世には、永遠も絶対もない。だが、絆や想いは確かに存在している。どのような年月をこの先過ごすことになろうとも…きっと。お前達はまた、逢える」
『沙羅』
『萌黄様…』
「そうですね」
縁壱も頷いた。
「長い年月をこの先も生きていく萌黄殿です。恐らく彼女の方が、貴方の元へ降りてきますよ。…ね? 兄上?」
「~~~っ!」
言いたいことが伝わったようで、言葉を失った兄に、縁壱は再度微笑んだ。
『好きです、兄上。その、いつも真っ直ぐ、痛いくらい鋭く前を見据えたその姿が。眼差しが』
「兄上は、何も変わってはいません。私には、目映いばかりです」
「またお前は! 一言。嫌味か!」
「違いますよ、なんでそう兄上は悪い方にばっかり取るんですか!」
「お前がそう言う言い方をするからだろう!」
兄が繋いだ手を振り解いた。腕を組み、勢いよくそっぽを向く。
「お前の方こそ何も変わっとらん! 毎度毎度、言葉足らずなんだ!」
「兄上に言われたくありません! 兄上こそ毎度毎度、肝心なことは何も仰らないくせに!」
「俺は思慮深いんだ!」
「自分で言います? 私は控えているのですよ? その偉そうな態度! この際だからはっきりと…」
『…ぷ』
『あはは!』
「「!」」
『沙羅…』
腹を抱えた若者二人に、萌黄が小さな溜息を吐いた。肩を竦め微笑んだ姿が、ほんの少し、悲しげだった。
縁壱は巌勝と顔を見合わせる。
小さく笑みを零した。
沙羅が言った。
『萌黄様。お二人の言ったとおりです、必ず…会いに来ます。この沙羅双樹の丘へ。大楠(おおくす)の元へ。戻ってきます』
『沙羅…』
『沢山の方にお世話になりました。そして、迷惑をかけました。それは、償わないと。……お赦し、下さいますか』
見上げた沙羅を見つめた萌黄は、しばらくの後、ゆっくりと頷いた。
二人がそっと口付けを交わす姿に、
『良かった』
縁壱の吐息も漏れる。
兄が気付いてこちらを見ては、同じように息を零して何度も軽く頷いた。
『萌黄殿!』
縁壱が日輪刀を抜いた。萌黄は頷き、
『…拓巳。頼んだぞ。天へ昇っても、沙羅のこと…』
両手を掲げ沙羅双樹の花の枝を具現させる。
『分かってる。必ず、守る。導いていく』
『頼む』
そうして、兄が軽く後退した。
萌黄が沙羅双樹の枝を翻す。花の香りが辺りに満ちて、天への階段が現れた。
縁壱はそれを見届けて、『碧羅(へきら)の天』を描いた。そこから順に、ヒノカミ神楽を舞っていく。
皆が見上げた天の、扉が開いた。
「覚醒したか…」
兄の呟きが聞こえたが、この時は、心の内で首を横に振った。
『兄上…違いますよ。『神使』である拓巳さんがいるからこそ、天へ登る許可が下りたと、確信しているだけです…』
ただ、最初で最後になるかも知れない、精霊との共演を…沙羅双樹の花と日輪の炎が導く天への道と扉を、丁寧に、描いていった。