第七話:沙羅双樹
・漆・
~躑躅の章~
大樹を囲み、祭壇の前に歩み出る。供えられた酒と水の壺の蓋を開けると、縁壱(よりいち)は、静かに一礼した。
四隅に斎竹(いみだけ)を建て、注連縄(しめなわ)で括られた聖域には、正装をした縁壱と巌勝(みちかつ)しかいない。行冥(ぎょうめい)達と合流をして、必要最低限の人数でと思っていたところ、兄が、殆どの警察官を丘の麓(ふもと)まで退避させるよう一言告げたのだ。
『いざとなったら、今の私に全員を守り切れるか…。出来れば悲鳴嶼(ひめじま)さん達にも、丘を降りて欲しかった』
今、この場にいるのは、自分ら継国(つぎくに)の祭祀(さいし)二人と、行冥、玄弥(げんや)、錆兎(さびと)、真菰(まこも)。そして、彼らの上司と、捜査に携わった同僚数名だ。
うち、一人は、おおよそ警察官とは思えない風貌をしていた。
ごま塩の面、荒れた髪。服もよれて色褪せており、殺伐とした生活を送っていたように思える。彼がなぜその場に居たのかは、錆兎の言葉で明らかになったのだった。
彼は、四年前、この件を暴こうとして警察を追われた、元刑事だったのだ。
縁壱は、榊(さかき)を左右に大きく振り、大樹へと心の内で呼び掛けた。
『きっと全てが白日の下に晒されます。真理(まり)さんの証言と、証拠から。萌黄(もえぎ)殿、沙羅(さら)さんを…いえ。一度。ゆっくりとお話が出来ませんか』
事件を解決するのは、行冥達の役目だ。
彼のことだ、きっちり、片を着けてくれると思う。これまでの付き合いから、確信に近いものが縁壱にはあった。
『私の役目は、萌黄殿、貴方の浄化』
縁壱は、しっかりと大樹を見上げた。
大樹の中程に、少女の姿が見える。
『沙羅さん…』
彼女はまだ、目覚めからは遠いようだった。幹に、十字に手足を飲み込まれたまま、項垂れている。視線を感じない以上、瞼も閉じているのだろう。
長々と言葉を紡ぎ、精霊の降臨を待った。
『この状況にあって、まだ分からないのは…あの、白い『依頼主』』
兄はしっかりと姿を見たようだが、自身はそこまで見られてはいない。
覚醒はまだ、時間がかかりそうな気がした。ただ、兄との会話で、状況は受け止めている。
『新しい未来。兄上と、私の…新しい、一歩。悲鳴嶼さんがきっかけを与えてくれた…』
「萌黄殿…!」
思わず、彼の名前が口を突いて出た。
巌勝がはっとした様子で、瞑想していた面を上げて視線を流す。
『兄上は、あの時学生だと言いました。悲鳴嶼さんの話を聞く限り、『依頼主』は、拓巳(たくみ)くんでは』
ふと、縁壱は思った。
「「「!」」」
遠雷が鳴った。
皆が驚いて、天を仰ぐ。
縁壱はまだ、祈り続けていた。
『天が崩れる…! 継国様は、まだ出雲(いずも)からお戻りではないのですね…!』
若干焦った。
当てにしていたわけではないが、一日にしたことには意味があった。
翌日以降は『継国様』が、いなかった間の管轄内の様相を各地に確認しに出向いて、やはり、山を留守にしてしまうからだ。
やがて、ぽつり。ぽつりと、雨が降り始めた。
大樹から一層強い風が吹き放たれる。遠く沙羅双樹の花が揺れた。丘の上にいては聞こえるはずもない花音が、劈くように辺りに鳴り渡る。
「縁壱!」
「縁壱さん!」
複数の声が聞こえた。
雨脚が強くなって、精霊の怒りを我が身に感じた時、
「縁壱!」
兄の声が聞こえ、咄嗟に振り返った。
「兄上!」
『憂世(うきよ)!?』
巌勝の背後に、回転する、大きな漆黒の円が見えた。激しく大地を叩きつける雨のカーテンの向こう。無数の白い手が思い思いの方向に揺れながら中央から溢れ出、手招きしている。
『何故、憂世の入口があんな所に…!』
「兄上!」
懸命に手を伸ばした。
巌勝が叫ぶ。
「お前だけを逝かせるわけにはいかん!」
「え…!?」
互いに互いの後ろに、同じものを見ているのかも知れなかった。
『死ね! 継国の双子…!』
指が絡み合い、身を引き寄せ合い、重力に取り込まれるのが二人一緒ならそれもよかれと思ったのは、どちらだったか。
「刀を抜け! 縁壱!」
巌勝が自身の腰に手を回して叫んだ。
頭で理解するより早く、刀を抜いた。
「幻日虹(げんにちこう)!」
技を放ち、兄ごとその場を移動する。
さあ…っと、景色が晴れた。
すっきりとした蒼穹が広がる、金色(こんじき)の平原。柔らかな風が靡く、
「精霊界…!」
その入口。
手にした刃から迸る炎が、空気を焼いたのだ。一瞬にして、辺りを浄化した。
いつかどこかで見た、絵画の景色のようだった。
どこまでも続く、蒼穹。斜陽に照らされて、金波銀波に翻る黄金の草原。肌を撫でる風は優しく暖かく、まるで自身を包んでくれるようだった。
「…沙羅」
愛しい人が形を伴い、すぐ傍に顕れる。
「萌黄様!」
諸手を広げ迎え入れてくれるその胸に、駆けて飛び込んだ。
強く抱き締め包んでくれる腕に、とめどなく涙が溢れた。
「やめて! やめてええぇぇえ!」
身包み剥がされ露になる裸体。
暴れれば殴られ、叫べば叩かれ、脚を掴まれ腕を掴まれ、秘部を剥き出しにされた。
「やめて! やめてええ! お願い! お願いだから…っ!」
「沙羅! 沙羅あぁあ!!」
「拓巳…!」
羽交い締めにされた親友。
助けに来てくれたのに、多勢に無勢で殴り倒され、犯される自身を見る羽目になった。
なんでこんなことになったのか…
ただ、歩いていただけだ。
塾の帰り道。
家路へと。
拓巳はただ、教室に置き忘れた自分のノートを届けようと、後から追い掛けてきてくれただけだ。
そのノートも、踏みにじられ、破かれ頁が散乱し、見るも無惨な姿になった。
今の、自分のように…。
代わる代わる男達が中に一物を挿れてくる。暴れても、泣いても、泥水に押しつけられ鉄パイプで殴られて、好きなように弄ぶ。
下卑た嗤いが、嘲笑が、仲間内に広がって、次は誰だの、どうするかだの、モルモットで遊ぶ会話が耳に届いた。
『拓巳。拓巳…ごめんね…!』
自分がノートさえ忘れなければ、彼が捕まる事なんてなかった。
工事途中の廃ビルに連れ込まれる姿なんて見ることもなく、あの頃から変わらない正義感を振り翳すことも、なかったろうに。
地べたに押しやられ天地が逆になった視界に、口答え、暴れた拓巳の腕が折られた姿を見た。
絶叫が辺りに木霊する。
それでも、彼が怯むことなどない。
「お願い…拓巳を傷つけないで…! ゆうこと聞くから! お願い、おねがい…!」
「沙羅! やめろ! いいんだ、俺のことなんか、いいから!」
懸命に首を振った。
その目に、拓巳の足が電動ノコギリで切断されるのを見た。
「ぎゃああ! あああっ…!」
「おねがいです…!」
懸命に訴えて、それ以上…彼が。その時は、彼が、傷つくことのない様は見た。はずだった。
だけど、弄ばれ、秘部は爛れ痛みすらも麻痺して、身体は赤黒く意識は飛んで…次。目覚めた時には、辺りには血の海が広がっていた。拓巳の姿はなく、差し込む光に夜明けの近付いていることを知った。
途方に暮れて家に帰り、その後のことは…よく憶えていない。
騒然とした朝だった、気がする。が、あっという間に夜になり、泣き濡れて過ごすうちに、幾日経ったかも分からなくなった。
「沙羅」
窓辺に現れた光の主に、心の箍(たが)が外れた。
「萌黄様…!」
窓を開け、手を伸ばす。泣きじゃくるその身をしっかりと抱いて、彼が言った。
「ごめん、ごめんね…! 助けてあげられず…」
「ううん、ううん…!」
彼は精霊だ。
人の世に関与できないことくらい、知っている。
だが、彼は言った。
「私の元に、来るかい…?」
何のことか分からずに、しばし見つめた。
「本当はね、君が大人になったら…迎えに来るはずだったんだ」
萌黄は月桂樹(げっけいじゅ)の冠(かんむり)と、銀の指輪を見せた。
「これって…」
「うん。好きだよ、沙羅。あの森に愛され祝福され、私もずっと、君を見守ってきた。選ばれた君には『人として』、最後に辛い思いをさせてしまったね…本当に、すまない」
「萌黄様…」
「ずっと。ずっと…私の腕の中で眠るといい。温めてあげる。癒やしてあげる。この先何百年かけてでも。私の命、ある限り…そうして、忘れていくんだ、全て…」
「何もかも…?」
「ああ。何もかも…」
「うん、うん…!」
『お母さん。お父さん。ごめんね。…拓巳、真理、ごめんね…!』
『…なんて、こと…!』
縁壱は、絶句した。
『そうして沙羅さんは、あの洞(うろ)に。あの大樹に。その身も魂も捧げ取り込まれて。…でも。でも、萌黄殿も…ただ。沙羅さんを救いたかっただけ…!』
次の動作が遅れた。
「縁壱…!」
兄が反応する声が聞こえ、そちらを見向く。
黄金の大地に降り立った兄が、手から手を振り放す動作を見せた。まるで、鞘から刀を抜くような仕草だった。
「月の呼吸」
『え…!』
振り抜いたのは、刃に無数の眼が付いた、禍詞(いみことば)の刀だ。
『あれは! あれは、鬼の…! 黒死牟(こくしぼう)であった時の…! 禍詞で再現するなんて!』
「兄上! いけない…!」
「伍ノ型 月魄災渦(げっぱくさいか)!」
叫ぶが、兄は、そのまま月の斬撃を放った。
軌道を追って振り返り、萌黄が飛翔するのを目に移す。
その姿が、見上げる大樹ほどにあろうかという、神の御身(おんみ)を顕わにした。
腕を一振りするごとに、大枝が顕れ鞭のように撓る。轟音を響かせて襲いかかって来、
「つくづく、樹木に縁がある…!」
巌勝が舌打ちした。
縁壱は踏み込んだ。
『兄上は止まらない。売られた喧嘩は絶対に買う人です…ああ、もう…!』
「萌黄殿、お願いです、萌黄殿…!」
『どうか、声を。私たちの声を、聴いて下さい…!』
祈りながら、刃を振るう。
兄が次に放った月の斬撃は牽制だった。大きさの不定型な月が広範囲に流れていくのに合わせ、飛翔する。
「飛輪陽炎(ひりんかげろう)…!」
兄の斬撃は計算ずくだ。相手が避けられる場所は一つしかない。
先を読んで技を放った己の後に続き、巌勝が踏み込むのを見る。死角になるように身を捩ると、萌黄が釣られて腕を交差させた。
『サークル・エンド…!』
萌黄が五指を思い切り広げ、左右に腕を引く。光の輪が交差された場所から現れ見る間に大きく膨らんで、飲み込もうと眼前に迫った。
「っく! 斜陽…転身!」
縁壱は炎で光を削ぎながら、宙で身を翻した。返す一振りで斬撃を放つが、萌黄がすぐさま飛び退(すさ)る。
光が彼の身を追うように帯を引き、着地点に、
「兄上!」
『! 小賢しや…!』
「月の呼吸 漆ノ型 厄鏡(やっきょう)・月映え…!」
幾重もの月の壁を発現させた。
大地を抉り突き進む月の壁に、黄金色の草が刻まれ羽根のように舞い散る。人形であれば月の斬撃をまともに食らうこともなかったろうが、萌黄の身体は間合いより大きい。
草の葉に薄萌黄(うすもえぎ)の血を飛散させて、
『許さぬ。決して…許さぬぞ…! お前らも。…人間も!』
萌黄は烈火の如く怒り狂った。
黄金色の覇気が全身から吹き出して、片足で着地する間に再度、両手を交差させる。同じ技かと目を見開いた双子は、指が印を組んでいるのに気付いた。
『『来る!』』
構えを取ったのは縁壱だ。
踏み込みを選んだのは兄だった。
『兄上…!』
萌黄が次の大技を放とうとしたのと、巌勝が縁壱の援護のために、
「月の…」
盾となり先に技を放とうとした時、
「もうやめてえ!」
少女の叫びが聞こえた。
『沙羅……!』
「! 沙羅さん!?」
縁壱は、萌黄と兄の間に降り立った、見目麗しい少女を見た。