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第七話:沙羅双樹

・漆・
 ~椿の章~

「そうか…」

 野太い男の声が、空間に響いた。

 静寂に木霊していく様からすると、どうやら相当広いようだ。

 だが、辺りは漆黒の闇に閉ざされ、誰が誰だかは判然としない。

 身じろいだ、衣擦れの音が響く。どうやら声の主の前には、何者かが傅(かしづ)いているようだった。深々と頭(こうべ)を垂れた拍子に、布が悲鳴を上げたようだった。

「だが、人であるより鬼であった方の期間のが長いのだ。かつての苦悩はそう簡単に、拭い切れるものではないはず」

「どうやら彼の心に巣くうのは、一つではないようですよ」

「弟以外に誰かいるのか」

「恐らく、京(みやこ)の舞姫かと」

「! 空明(くうめい)か…!」

「彼女の方が厄介なのでは? 弟君とは違い、かつても今も、双子とは確執など一切ありません。巌勝(みちかつ)殿も、彼女の言葉だけはすんなりと受け入れているご様子」

「そちらはな。既に手は打ってある。だが…慎重に進めているようだ、奴は」

「…」

「まあいい。弟が覚醒し、かつての柱達が記憶を取り戻せば、巌勝も思い知るはず。あいつは、こちら側の人間だ」

 男の言葉に、眼前の者は今一度頭を垂れた。

 それが合図だったかのように、とぷん。と、漆黒の足元が揺れる。やがてゆっくりと、白い手が波間から無数に伸び上がってきた。

「しばらく様子を見よう。そろそろ西は、会合の時期だ」

 手足を掴まれ、波間に引きずり込まれていく。心臓が暴れ出すが、毎度のことだ。そろそろ慣れねばと、彼は言い聞かせるように、落ち着きを取り戻そうとした。

「累(るい)」

 去り際、男が己の名を呼んだ。

「は」

「伊弉諾尊(いざなぎ)と同じ轍(てつ)は踏むなよ?」

「……はい」

 再び深々と拝跪して、黒の波間に沈んだ。白い手が己を取り囲み、闇へ。闇へ…より深く連れて行く。

 二度目。眼を開けた時には、見慣れた天井が映った。

 隣から穏やかな寝息が聞こえて、首を回す。

「…矢琶羽(やはば)」

 縁壱(よりいち)が倒れ、自分らを送ってくれたのは、結局兄の方だった。社(やしろ)の宝物(ほうもつ)をも持たせてくれたが、それは矢琶羽が管理している。

『巌勝(みちかつ)さん…!』

 累は、腕を交差させて顔を覆った。

『僕…!』

 道中何度も、今回の件が落ち着くまでは幽体(ゆうたい)になるなと念を押された。その度に、親身になってくれているのが痛いほどよく分かった。

『これでいいの? 僕。本当に、納得できる?』

 累はもう一度、隣で眠る友を見つめた。

「窓際がいいな、俺!」

 そう言って笑った彼の顔に、月が優しく光を照らしている。

 きっと彼は、霊の通り道となる側を選んでくれたのだろう。

『僕を、守る為に…』

「寝てるけど。すっかり。…ばか」

 累は矢琶羽に身を寄せて、小さく丸くなった。

 そっと頭に手が乗ったのに、「え?」と面を上げる。

 が、矢琶羽は、寝入っていた。振りだった。顔がにやけている。

 互いにくすくすと笑っては身を寄せて、累は、友の懐(ふところ)の温もりにこっそり涙した。





 玄弥(げんや)の迎えに、巌勝は、足早に社務所(しゃむしょ)の玄関に向かった。

 久々に履いた黒袴(くろばかま)が、乾いた音を何度も立てる。新しい足袋がまだ馴染まず親指の付け根を圧迫するのも、懐かしい感覚だった。

『正直、この姿で悲鳴嶼(ひめじま)達と会うのは気が引けるが。今日ばかりは、仕方ない』

「玄弥」

 段を上がったところで出迎えると、

「わお!」

 玄弥の声が明るくなった。

 真っ直ぐな反応にほっとする。

『ここのところ、ちょっと気にしすぎか…?』

 累の動揺に、蟲柱(むしばしら)の話。縁壱の痣(あざ)。

『どれも覚悟していたことだったろう。死渡(しと)になった時。そうして悲鳴嶼に、再会した時』


 ――いつか、ばれるのではないかと――


「ふう」

 息を一つ吐く。

 玄弥が笑った。

「なんだ、巌勝さんでも緊張するんすか? 珍しいっスね!」

「まあな。…縁壱の体調が、優れない」

「…え」

「俺がサポートする。そろそろ準備も終わるだろうから、少し待っててくれるか」

「あ。はい。…大丈夫スか…」

 心底案ずる声色に、巌勝の表情は返って和らいだ。

「ありがとう、大丈夫だ」

 玄弥が頷く。

 巌勝は廊下を取って返して、

「縁壱」

 奥の座敷へと戻った。

 引き戸を開けながら、

「玄弥が来たぞ。そろそろ…」

「兄上」

『気付いたか』

「私… 私の、額に…!」

「ああ」

「もしかして、今こんなに体温が高いのも…」

「ああ。萌黄(もえぎ)…だったか? あいつの邪気を払うのに、身体が自然と抵抗した結果だろう」

「そんな…!」

 縁壱が姿見に見向き、映る自身に愕然となった。

 膝から崩れ落ちて、自分で自分を抱くように腕を交差させて掴む。

「縁壱」

 傍に寄って、片膝を付いた。

「こんなことになるのなら、見えない方がましです…!」

「縁壱」

「だって、兄上…!」

「縁壱、大丈夫だ」

 そっと抱き締めた。

 はっとしたように大きく彼の身が震え、「兄上」と、消え入りそうな声が耳に届く。腕に力を込めると、彼の顔が肩に埋まるのを感じた。

「大丈夫だ。お前も、俺も。いいか? よく考えてみろ」

 しっかりと抱き留めて、瞼を伏せる。

 弟の震えを我が身に移すように、呼吸を合わせた。

「何故、今になって見えるようになった。何故、今になって痣が発現したと思う? お前のそれは、あの頃…元々は、生まれつきであったはずだ」

「そんなの。だってさっき、兄上が邪霊を払うためにって」

「そうだな。多分それが、きっかけだ」

「きっかけ…」

 巌勝は片手を彼の頭部に回し、更に包んだ。

「だが…きっと。そうやって自然と抵抗したのは、お前がきっと信じたからだ。俺はもう、いなくならないと」

「え? ……あ…」

 身じろいだ彼に、腕の力を抜く。

 思考を巡らせている間に、もう一言添えた。

「それは、正しい」

 面を上げた彼に、視線を合わせる。

「俺は二度と、勝手にいなくならない。お前に辛い思いはさせない」

「兄上…」

「ま。ちょっと、自信ないが?」

「兄上っ!」

「ははは!」

 弟の表情に自然と笑みが零れた。

 刹那、ぎゅっと抱きつく縁壱に、目が丸くなる。だが、気持ちは静かに、柔らかくなっていくのが自分でも分かった。

「私… 私は、今年、死ぬのでしょうか」

「二十五だからか?」

「ええ」

「だからお前は阿呆なんだ」

 いつもの言葉が自然と口を突いて出た。

 む。と言うように見上げた弟に、くすりと笑みを零す。

「お前、あの頃も何歳まで生きたんだ。俺はな、…血反吐を吐くようだったんだぞ」

 それまで言えなかった言葉が、言えた。


『ああ…… きっと、もう、大丈夫だ』


 何となく、そう思った。

『お前を嫌い、そんな自分を嫌い、鬼として生きる理由に勝利を掲げたあの頃。今でも、…辛い。あの日々を思ったら』

「だってそれは、」

 と、縁壱が言った。

「兄上が勝手に鬼になっちゃったからでしょう」

「だからお前は! 一言余計なんだ」

「私のこと、考えてくれました? 鬼になる前に。その後でも。どんな思いで再会を望んだか。ほんの少しでも、考えてくれました?」

「一言じゃないな! お前は! 本当に嫌な奴だな!」

「ふふ! 兄上!」

 ふわりと再び抱きついてきた縁壱に、何とも言えない溜息が溢れた。

「ったく…!」

 こちらも余計なことを付け加えようとした時、

「何やってんスか」

 呆れた顔と口調で玄弥が引き戸に寄りかかっているのが目に入った。

「あ」

 と青ざめた時には縁壱はしっかりと己を抱き締めており、玄弥の誤解はこの先しばらく解けなかった…のだが。

「ほら。行きますよ! 遅いんスよ支度が」

 この時の玄弥は「ホンッと! 仲いいすねえ」と、縁壱の機嫌を取り持ってくれたのだった。

 県警の覆面に乗り合わせ、一路、沙羅双樹の丘へと向かう。

 空はどんよりと、曇り始めていた。



 あの頃と違うのは、腰に日輪刀がないことだ。髪も、短い。一度切ってからは、縁壱のように再び伸ばす気には、さらさらなれなかった。

 ありとあらゆる記憶が戻ったのは、『死渡』になってからだ。

 だが、素質はあったのだろう。あるいは閻魔(えんま)から、唾を付けられていたのかも知れない。

 髪にしたってそうだ。何となく、同じにはしたくなかった。無意識のうちに、比べられることからは避けて通るようになっていた。そして、

 縁壱が川で溺れた時。

 母が病で倒れ、死に至った時。

 悲鳴嶼に初めて会った時。

 折に触れて、衝撃的な過去が脳裏を過ぎった。

『きっとそれは、縁壱も同じだったはずだ』

 弟は、何も言わなかった。

 自分も、何も言わなかった。

 何をどう話せば良いのか、分からなかったからだ。縁壱も恐らく、そんな前世、話しても、俺には信じてもらえないだろうと思っていたに違いない。

「兄上」

 隣を歩く縁壱が話しかけてきた。

 玄弥の後に続いて、沙羅双樹の森を行く。無言に耐えきれなかったのかと思ったが、そうではなかった。

「刀」

 日輪刀の柄(つか)に手を当てていた。

「兄上が持つべきでは」

 不安そうに、彼が言った。

「邪霊に堕ちているのなら、兄上に斬って頂く必要があります」

「『退魔は俺の仕事』か?」

「…ええ」

 返事は少しの間が開いたものの、縁壱の表情は、あの頃と変わらず真顔だった。

 その話は、夏の終わりに無一郎(むいちろう)を助けた時、途中になった会話だ。

『痣が発現した今こそ、話すことなのかも知れんな』

 本人がどう受け止めるかは、別として。

「縁壱」

「はい」

「京の空明が、死渡としての力を全て持っているのは、お前も知ってるな」

「え? ええ…」

 縁壱の真顔が崩れた。

 なぜ今その話を? と、見開いた目が物語っていた。

「今、お前は、その彼女の域に達しようとしている」

「……」

「そして、彼女には無いものが、お前にはある」

「それって…」

「ああ。剣技だ」

 間髪入れず、

「抜けますよ、森!」

 緊迫した玄弥の声が響いた。

 突如、丘の上から豪風が吹いてくる。見上げた空はどんよりと暗く、まるで嵐の前のようだ。

 巌勝達は息を飲んだ。

 荒れ狂う風がそのまま、大樹の怒りを示しているように感じられた。

 大樹の前には祈祷のための祭壇があるが、竹も紙垂(しで)も大きく風に揺れて、注連縄(しめなわ)が軋んでいた。米も斎砂(いみすな)も崩れ、祭壇そのものが今にも倒れそうだった。

 向かい風に突っ込む。一歩一歩を踏みしめて登りながら、祭壇近くに待機する行冥(ぎょうめい)達の元へ向かった。

「縁壱」

「はい、兄上」

 下方へと押しやる風に逆らって、会話を続けた。

「そろそろ独り立ちする時だ」

「え…!?」

「現世(げんせ)に於いては『神主』として。あの頃を思うなら『剣士』としても」

「!」

「そろそろしっかり自覚しろ。お前が、頂点だ」

「そんな。それは」

 祭壇前まで行き着いて、行冥が寄ってきたのを片手で制した。今少しだけ。目で訴えて、頷く行冥を見た。

「お前が世の理(ことわり)を見ているのはもう、知ってる。万物や命の大切さ、平等さ、それも分かる。お前がそういう姿勢でいるのは、尊いと思う」

「…」

「だが、それだけでは駄目だ。力ある者は、優しいだけでは上には立てん」

「兄上…」

「あの頃。お前が鬼となった俺を討てなかったのは、何故だ?」

「!」

「それが、答えだ」

 縁壱が俯いた。しっかりと刀の柄を掴んで、震える身を押さえているのが分かる。

「一歩を踏み出す時だ。お前も。俺も」

「…ここから、新しい幕が…」

 面を上げて呟いた縁壱に、つい、顔が緩んだ。恐らく、笑みが浮かんだと己でも思う。

「そうだ。新しい幕が上がる。俺達は、もう、あの頃の俺達じゃない。違う未来を掴んでいるんだ」

「…この手に?」

「そう。この手に」

 縁壱が、そっと瞼を伏せた。

 穏やかな面に、凜とした決意が滲む。優しいだけだった今までの表情が引き締まり、階段を一つ登ったのが分かった。


 ――俺は、二番目に強い侍になります――


『多分な意味があった』

 瞼を押し上げて微笑んだ縁壱は、あの時と変わらぬ表情をしていた。

 昨夜憶えたことをまた感じて、巌勝は、今度こそ、しっかりそれを受け止めた。

『今も昔も。縁壱が皆から慕われているのは、その腕前があったばかりじゃない。人としての、本当の強さと優しさを、兼ね備えていたからだ。それを惜しみなく、皆に分け与えていたからだ』

「…敵わんな。お前には」

「…兄上?」

「いや」

 巌勝は笑みを零した。

 この緊急の最中にあって、何だかとても、誇らしい気持ちになった。それがまた、不思議だった。

『兄として。か』

 今度は。

『お前が、一番だと思い続けてくれた兄でいられるように。これからは努力してみる。俺は、俺でいい』


 もう、お前の様になりたいとは、思わない――――。


「縁壱。頼んだぞ」

 背中を押して、祭壇へと見向くと、縁壱は、

「はい! 兄上」

 決意と共に、清々しい笑顔を見せた。

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