第七話:沙羅双樹
・陸・
~椿の章~
「ここは…どこでしょう…」
だだ広い草原に、縁壱は、ぽつねん。と佇んでいた。
風が戦(そよ)ぎ、足元の草が揺れる。足首を擽られてそちらを向いた時、耳に、
「沙羅(さら)の嘘つき!」
と、子供の声が聞こえてきた。
面を上げると、先の草原ではない。あの森に来ていた。
「沙羅双樹……」
白い花が年中咲き乱れる、不思議な森。木々は二メートル以上にも達し、背の高い縁壱すらも飲み込む。光が斜めに差し込んで、大気中の塵が翻ると、辺りは一層幻想的に見えた。穏やかな午後の日差しだった。
「嘘じゃないもん! ホントだもん!」
あの声に応えるように、別の声が答えた。
声のする方を探して見向く。
赤いランドセルを背負った子供が二人。黒いランドセルを背負った子供が一人。
嘘つきと叫んだ男の子に対して、女の子の一人が、身を折って「自分は正しい」と懸命に主張していた。
近寄るが、彼らには己の姿は見えてはいないらしい。
「まさか。ここはあの、大楠(おおくす)の精霊の…それとも、あの少女の…いえ。少女が見せている、記憶…?」
どれも確信はない。
「沙羅が来る時、ここ、いっつも開いてるんだもん!」
少女が叫ぶと、呼応するように、ランドセルの中身が音を立てた。給食袋が揺れて、隣にぶら下がる鈴も凜と鳴る。まるで、少女の主張を肯定するかのようだった。
「今は開いてないじゃんか!」
男の子が言った。腕を振り上げて、どこかを指さしている。見ると、管理棟脇のフェンスだった。ただ、立体感はない。いつの間に移動したのか、あるいは現れたのか、出入りのフェンスの扉が固く閉ざされた、前にいた。
「嘘じゃんか!」
「嘘じゃないもん…!」
紙の絵のように薄っぺらかった管理棟が、現実味を帯びてきた。次第に沙羅双樹の香りまでするようだ。噎せ返る、ジャスミンのような香り。
『なんで? なんで今日は、開いてないの!?』
少女の思考が流れてきた。
そうして確信する。これは、少女の記憶だと。
『あの少女は、沙羅さんでしたか…!』
悲しみに閉ざされていく彼女の気持ちが分かった。
見れば、少女の瞳は潤んでいて、こぼれ落ちるものを必死で止めていた。
『ねえ、どうして? 萌黄(もえぎ)様』
『萌黄様?』
彼女にだけ見えるものが、あるのだろうか。
沙羅双樹を見上げる彼女の心持ちは、その先の丘、大樹へと飛んでいた。そうして『彼』に、拒まれているように感じられているのだ。
少年は、頑として、沙羅の言うことに耳を傾けはしない。しかし、沙羅の気持ちはそんな彼に対してよりも、この土地に拒まれたことの方が余程ショックなようだった。
隣にいたもう一人の少女が言う。彼女はショートカットの、利発そうな少女だった。
「今日はさ、きっとたまたま閉まってたんだよ。ね? 沙羅」
ぐっと堪える沙羅の手を取って、少女は指を絡ませた。
「真理(まり)…」
ありがとう、と言うように、沙羅が彼女を見る。だが、少年は譲らない。
「違うね!」
「拓巳(たくみ)!」
「沙羅が言う開いている日の方が偶然だったんだよ。いつも開いてるわけないじゃん! 管理人さんだっているのにさ」
「あんたはなんでそう、いっつも沙羅に噛みつくのよ! 友達なら一度でも『そうだね』って言ってみなさいよ! 自己主張ばっかり!」
「真理の方こそいつもうるせえよ! 沙羅が黙るとしゃしゃり出てきてさ!」
「だってあんたが」
「もういいよ!」
真理の手を離した沙羅が、きつく目を瞑って声高に言った。ぽろりと雫が目尻から一つ、こぼれ落ちた。
『沙羅さん…』
見ていた縁壱(よりいち)も、胸の辺りで拳を握る。
「沙羅が間違ってたの! ごめんね!」
叫んだ彼女は、そのまま走り出した。きっと元来た道なのだろう。
『あ! どうしましょう』
縁壱は判断に迷った。沙羅と、残された二人を二度ほど交互に見る間に、真理が、
「沙羅!」
名を呼んでは拓巳をキッと睨み付ける。
「あんたのせいだからね! 拓巳のぶぁああか!!」
「ざけんな! 俺、何も間違ってねーし!」
そうして彼女は、沙羅を追い掛けていった。
縁壱は、拓巳の方へ一歩近付いた。ふと、
「ふざけるなよ…仕方ないじゃんか!」
俯いて悔しそうに言ったその声色に、足が止まった。
『拓巳くん?』
声に出したつもりでも、まるで心の声みたいだ。彼らの『時空』には、流石に入り込めないのだと痛感した。
その間にも、沙羅の思考が流れてくる。
『なんで? ねえどうして? 萌黄様…どうして今日は、扉、閉まってるの?』
心の声に重なるように、拓巳の呟きが聞こえた。
「相手が神様じゃ、どう足掻いたって、叶わないじゃんか…!」
『! そうでしたか…』
拓巳の仄かな想いを知った。
『大楠の樹の精霊が、萌黄様なのですね。二人は、沙羅さんのその加護を知っていた…』
消沈した様子で、少女二人の後を追い始めた拓巳を見、縁壱はその先を見た。
『急ぎましょう。彼女がまだ、心の声を届けてくれているうちに』
走り出し、沙羅と真理の気配を探る。
何度か道を違えそうになるが、その度に、
『!』
沙羅双樹の木々が花音を散らした。
まるで「そちらじゃないよ」そう、話してくれているようだった。
『沙羅さんは、この森に愛されて生を受けたのですね。だから、この辺り一帯の主である大楠の精霊は、彼女を…』
「沙羅あ!」
真理の声が、違う方向から聞こえてきた。
己が追い掛けていたのが沙羅の方だったと知って、あ。と呻く。
『今は花に従いましょう。沙羅さんの方へ』
決断すると、縁壱の動きは素早かった。長い髪を花霞に散らすように、颯爽と先を急ぐ。
次第に、幼子の「くすくす」という笑い声が複数聞こえるようになった。どこか別の場所に迷い込んだかと思ったが、そうではなかった。
『沙羅さん…!』
見つけた少女は、沙羅双樹の森に両手を伸ばしていた。
その腕に、天から…沙羅双樹の花霞の奥から、大人の腕が伸びてくる。腕に腕を絡ませ、互いに掴み引き寄せるように、次第に姿が露になる。
「萌黄様」
「沙羅…」
縁壱は目を見張った。
長い髪。光に当たると新緑の草原のようにさざめく。彼の名は、きっとここから来ているに違いない。
『兄上が見たのは――まさか、彼?』
優しい面立ち、細身の身体。真白い着物に袖はなく、織部(おりべ)色の袴に裾濃縅(すそごおどし)の陣羽織(じんばおり)が鮮やかだった。裾に向かって紫色が濃くなっていくそれだ。注連縄(しめなわ)のような帯は白と藍媚茶(あいこびちゃ)、裏葉柳(うらはやなぎ)の螺旋。羽衣はなかったが、精霊としての真の姿が、これなのだろうと思った。
『きっと、沙羅さんが見ている彼その者を、私も見ているのですね』
神も精霊も、視る者や文化、土地が違えば、若干なりとも違って見える。
たとえ根本は、一つきりだったとしてもだ。
「沙羅。ごめんね」
包むように少女を抱き締めた精霊の面は、とても柔和だった。少し霞んだ低めの音は、まるであの洞(うろ)に響くようだ。耳に心地いい。
「聖域に入れる者は、限られているのだよ…」
『聖域…! やはりそうでしたか。沙羅さんをミイラに…いえ、即身仏(そくしんぶつ)にしたのは、大楠の精霊ですね…』
僧侶でも無い者が、即身仏になることなど出来はしない。それも、樹の洞でだ。
修行を積んだ僧侶でも、ミイラ化できずにその過程で朽ち果てて、無縁仏として供養されることもある。仏教で言うところの即身仏になるには、入定(にゅうじょう)した後、想像を絶する過程があるのだ。
きっと大楠の精霊は、彼女に己と同じ『時』を紡がせるために、真似事をさせたに違いない。痛みも苦しみも与えることはなく。眠るように。
「沙羅!」
突如響いた友の声に、縁壱は我に返った。
当然、精霊の姿も消える。
呼ばれた少女が振り向いて、ようやく追いついた真理の息せき切った様子に、沙羅も、二三駆けて寄った。
二人、手に手を取って、
「真理。ごめんね」
「いいのいいの! もうっ。拓巳なんかほっとこ!」
「真理…ありがとう。いつも、いつも。ありがとう」
「何言ってんの! 沙羅は嘘つかないもん。あたし、知ってる!」
そうして「帰ろっか」にこりと笑って言った真理に、沙羅もやっと笑顔を見せた。腕を組んで、他愛ないことを喋りながら、森を抜けていく。
その足取りは、四方、沙羅双樹の木々が生い茂る只中にあって、全く迷いがなかった。まるで二人には、はっきりとした道が見えているようだった。
「ちぇっ」
それは後から来た拓巳も同様で、ばつが悪そうに、二人の後に続く。
彼もまた、この森に祝福されている一人だと、縁壱は知った。
「縁壱…!」
ぼんやりと視界を開いた弟に、声が喉奥から絞り出るようだった。心底安堵した瞬間力が抜けて、布団に突っ伏し、肩を震わせる。
「兄上……」
「縁壱!」
震える小さな声に、心臓を鷲掴みにされた気がした。
勢いよく身を上げて見つめる。
赤らんだ顔に、吐く息が熱い。布団の下で何かがもぞもぞと動いて、はっとした後、縁壱の手が、よたよたと伸び上がった。
「縁壱」
両手でしっかりと包む。
『熱い…!』
「兄上…なんだか、ぼんやりとして…」
「当然だ、まだ熱が高い。きっと奴だ。大樹の精霊の仕業だ」
巌勝(みちかつ)は、そこで言葉を呑んだ。
弟の顔が、納得したようになったからだ。
「兄上…今… 今日は、いつですか……」
「先程時計の針が回った。霜月(しもつき)になった。十一月一日だ」
「!」
縁壱が身じろいだ。
握った手を離し、床にそれをついて、身を捩る。懸命に起き上がろうとする姿に、
「無茶だ!」
「でも… でも」
「悲鳴嶼(ひめじま)から話は聞いた。謎は全て解けたんだ、今日の祈祷(きとう)は別の奴に任せればいい」
「兄上…!」
縁壱が必死で、首を横に振った。
「それでは、それでは駄目なんです…! っく…」
「縁壱」
起き上がった彼の肩を掴んだ腕に、縁壱の長い髪が流れて触れた。
どきりとして言葉を失った隙に、片腕を強く掴まれる。今度こそ、言葉がなかった。
「萌黄殿… あの、大楠の精霊も、被害者なのですよ…」
「何を言って」
「萌黄殿は、神前(しんぜん)に上がる段で、恐らく沙羅さんを嫁に迎えることになっていたのだと思います」
「え…?」
「それを、手折られたんです。人間に」
「縁壱? お前…」
「沙羅さんが放つ強い光に、闇が誘われ引き寄せられ、彼女は人であるよう、汚されたんですよ…」
「!」
その言葉は、弟の口から聞きたくはない内容だった。
強い光には、濃い影が付きまとう――――。
まるでかつての弟と、己のように。
天を見上げることはできても…、たとえ影を作り出す主を見上げることはできても、影は、影だ。地べたを這い回るしかない。
決して、主と同じ世界は見られないのだ。
『…迷うな。迷うな! 俺は、もう…!』
「兄上」
どきっとした。
弟が話していることは、別のことだ。あの頃のことを比較してはいない。
『そもそも縁壱は、光と影などと、始めから分けてなどいない。そう思い込んでいたのは、俺だ』
「彼女を本来の姿に、戻してあげなければなりません」
縁壱が言った。
「沙羅さんは天に昇るべき人間です。空明(くうめい)さんと同じですよ、兄上」
「!」
「沙羅さんはきっと、萌黄殿がどんなことになっても、迎えに降りてきます。たった一人の、愛した相手なのですから」
巌勝は、瞠目したまま彼を掴んでいた手を離した。
ゆっくりと瞼を伏せて、何とも言えない笑みに次いで、吐息を漏らす。
『見透かされたか? こいつのことだ。…空明をダシにされたら、俺は。もう…何も言えないじゃないか』
二度目の吐息は、長くなった。
『仕方ない… 今度は俺が、こいつを支えるしか』
覚悟を決めて彼を見た時、縁壱は、優しい笑みを零した。
それはあの時のそれと、同じものだ。
――俺は、二番目に強い侍になります――
『そうか。空明…分かった気がする…』
――何世紀を経ても、変わらぬものがそこにあったのです。
彼には…あったのです――
『好きとか嫌いとか、想いばかりじゃない。人は、支え合い互いに受け入れて生きていける、唯一の、生き物だということ…』
「分かった、縁壱」
巌勝の眉尻が下がった。
『もう、二番手でいいじゃないか。縁壱を支える側であったとしても。それがまた、影なる道であったとしても。縁壱にとっての一番は、俺なんだ。それが、今はもう…分かっているのだから』
「兄上…!」
嬉しそうに綻んだ弟に、もう一度手を伸ばす。
「とにかく今は寝ろ。少しでも体力を回復して、明日に備えろ。いいな?」
「はい、はい…!」
「悲鳴嶼には俺の方から連絡を入れておくから、安心しろ」
「傍に…」
「ん?」
「傍にいて下さいますよね? 兄上」
「! …もちろんだ。傍にいる」
『何度も思った事だ。北ルート事件の時も。鬼灯旅館の時も』
「私も。兄上のお傍にいていいのですよね?」
「……もちろんだ」
「はい…!」
大人しく横になった縁壱に、布団を掛けた。見つめて来、まどろんでいく眼差しに、頬を撫で、前髪を梳く。
『痣(あざ)…』
それだけは、まだ、言えなかった。
大楠の精霊の邪気に抵抗するべく、無意識のうちに力を発現させたのであろうと思えた。行冥(ぎょうめい)からの報告によれば、原因不明の事故やら病気やらに罹った人物は、共通している。
沙羅と拓巳の事件を、なかったことにした連中だ。
『きっと縁壱は、精霊にとってもやむを得ずの処置だったはずだ。自分たちを引き離そうとする、継国の神主…』
明日にはきっと、縁壱自身が、鏡を見て気付くだろう。
そうして、再認識するに違いない。
自身が、全ての者の上に立つ存在であると言うこと――――。
それは弟が、普段なら、全く考えもしないことであったとしてもだ。
『変わらない。今までと何も、変わりはしない。俺達は、もう、違う未来を歩んでいるはずだ…! あの頃とは、違う!』
そっと頭を撫でて、熱っぽい身体に己の手を当てると、縁壱は、安心したように…幼子のように。すぅっと深い眠りに落ちていった。