第七話:沙羅双樹
・陸・
~躑躅の章~
新胡桃市(しんくるみし)は昨日より騒然としていた。
大手銀行に勤めている、役職付きの面々の息子が軒並み連行されているからだ。
「なんか…大事になってきたなあ」
玄弥(げんや)は、通りを挟んだ道脇に車を停めた。窓は開けず、ドアの縁に肘を突いて外を眺める。隣の真菰(まこも)が、助手席から覗き込むようにして身を乗り出し、同じように窓の外の銀行を見た。漏れた溜息が腕にかかり、玄弥は咄嗟に彼女を見る。
真菰がちら。と上目遣いに視線を合わせては、
「自分が助かるためだけに洗いざらい話したからね、あの加害者」
「その性根も理解できないけどな」
「同じく」
二人同時にまた息を吐いては、真菰が、深くシートに座り直した。
外に跳ねる、黒い癖っ毛。大きめな瞳は少しぼんやりとした感じで、全体の印象をふんわりとさせがちだ。だが、話してみると、仕事中は、割としっかりとした言葉が返ってくる。
「行くか」
「うん。通りの突き当たり、右だよ」
「あいよ!」
新胡桃市の大通りを、玄弥は軽快に走らせた。
通りは四車線あるが、朝早くから多くの車が行き交い埋まっている。騒音が市内に響き、雑踏が賑やかだった。やがて通りのT字に差し掛かると、玄弥は、右折レーンに車を移動させ、緩やかに停まった。
「真理(まり)さん…だったっけ」
「ああ、うん?」
外を眺めながら呟く真菰に、疑問符を付けて返した。
「拓巳(たくみ)くんと沙羅(さら)ちゃん。知りたがるかな」
「…かも知れないが、黙っとくしかないからなあ」
「捜査中だしね」
「もう、明らかだけどな。殆ど全て。顛末」
「うん……」
やがて動き出した車の波に、玄弥も続く。
そうして中心街から外れて住宅街へ向かうと、白い家並みが続く、上品な区画に入って行った。
この辺りは、新胡桃市内でも一際値の上がる高級住宅街だ。
街全体が白く、白亜通りと呼ばれる、異国のアパートメントが並ぶ通りもある。カラフルな巡回バスが住宅街を周り、新胡桃市の駅へと人を運んでいた。
通りの両脇に等間隔で並ぶ木々は、紅葉していた。赤や橙、黄色く色付いた細やかな葉が風で翻り、心地よさそうにしている。白い通りには鮮やかな見目だった。
玄弥はしばらく通りを行って、カーナビゲーションを見た。
二本目の細道を左へ入り、迷路のような街路を行く。
どこの家も似たり寄ったりで、初めて来た者は、同じ所をぐるぐる巡っているような錯覚に陥るだろう。それでも、彼らは、外の景色を注視しながらゆったりと車を走らせていった。
目指す家へ着く。
今日は日曜だ。
前もって連絡はしてあるが、警察が乗り込んでくるなど、思いも寄らなかったに違いない。
『それとも。覚悟はしていたかな。真理さんだけは』
出来るだけ邪魔にならないよう通りの脇へ車を停める。
極力音がしないように努めたつもりでも、二つの扉の閉まる音は、静かな住宅街に豪快に響き渡った。
フロントを回り込んでくる真菰と、苦い笑みを交わす。自然と彼女が先を歩いて、玄弥は後に続いた。
『こういう時、俺の髪型ちょっとマズいよな~。女子高生に話を聞く事なんて、ほとんどないし。いつもの俺なら』
相方は身長二メートルもある行冥(ぎょうめい)だ。
隣を歩くのがモヒカン頭では、道行く人も自然と脇へ避ける。二年もタッグを組んでいれば、慣れたものではあったが。
『はい』
インターフォン越しに、落ち着いた女性の声が聞こえた。きっと母親だろうと思った。
「連絡させて頂きました、霧谷(きりたに)真菰です」
「あ。不死川(しなずがわ)玄弥です」
『刑事さん…!』
ちょっと待って下さいね、と、通話が切れた。
間を置かず鍵の開く音がして、中から華やかなエプロン姿の女性が現れる。この住宅街では、その装いも、普通の形なのだろう。
真菰と同時に警察手帳を取り出して、身分を確かめて貰う。
母親は頷くと、大きく扉を開いてくれた。
「お待ちしておりました、どうぞ」
「…失礼します」
中へ身を滑らせる。
案内されたダイニングには、既に少女がいた。
ゆっくりと立ち上がった彼女の面は泣き濡れていて、目は既に真っ赤だ。
睡眠も、十分には取れていないのかも知れない。
幼馴染みの二人のことが聞きたくて訪れたものだが、思わず、真菰と顔を見合わせた。どうやら思った以上に深刻な話が、待ち受けていそうだった。
ソファを薦められ席に着く。真理も着席すると、母親がしっかりと両肩を抱いた後、茶を淹れに対面キッチンへと離れて行った。
真理が言った。
「最初は…分からなかったんです、拓巳も沙羅も、どうしていなくなったのか」
「最初は…」
真菰が言葉尻を捉えるが、玄弥は、彼女を見ると首を横に振った。
こういう時は、話したいだけ話して貰うのが一番だ。
真菰も察してくれ、軽く首を縦に振る。
「警察は当時も、何度か話を聞きに来てくれたけど、結局は、二人でどこかで暮らしてるって…!」
二人は息を飲んだ。
『相手は中学だぞ。そんなわけないだろうが…!』
「熱心に話を聞いてくれてた刑事さんは、半年も経つと異動になったとかで」
『飛ばされたのか。やっぱり…隠蔽(いんぺい)は間違いない…!』
「一年も経たないうちに、家出扱いになったんです、二人とも…」
そうして涙ぐんだ真理に、二人は言葉がなかった。
しばらく彼女の鼻を啜る音が部屋を占めて、
「何度も警察へ行って、探して欲しいって…! 沙羅のお母さんと叫び頼み続けました。でも、無理で…! それから数ヶ月経って、これが」
真理は、旧(ふる)いスマートフォンを取り出した。
気付く。
卓上には、もう一つ、スマートフォンが置かれている。裏返しに置かれたそれはスマホリングが付いていて、何かのキャラクターだろう、マスコットもぶら下がっていた。
恐らくそちらが、彼女が今使っている携帯に違いない。
真菰が手を伸ばし、差し出された物を受け取った。
玄弥は身を寄せて一緒に覗き込む。
画面はカメラのようだ。暗い。どこか閉じられた空間のように思われたが、判然とはしない。無論、見覚えもない。
真菰が再生ボタンを押した。
途端、
『いやあああああああ!!』
絶叫が轟いた。
真理が両手で耳を塞ぐ。身を折り、泣き出した。
レイプ映像だった。
「ひどい…!」
真菰が片手で口を覆う。
がたがたと身を震わせた彼女の背中を、思わず摩った。
絶叫と、服の破ける音。
嘲笑と下卑た声。指示を出すそれだ。
そこに、
『止めろお! 沙羅を離せ!』
怒号が入り交じった。
驚いた玄弥は、画面を食い入るように見た。
『沙羅! 沙羅…!』
『拓巳…! いやああ! 止めて! やめてえええ!』
声しか聞こえない。
だが、いるのは確かだ。
『このクソやろう! てめえ ら みんな、ころ…してや、る!』
拓巳の絶叫と暴れる音が響く。それに重なる嗤(わら)い声。
恐らく、羽交い締めにされたのだろう。
『それはこっちの台詞(セリフ)だ。てめえなんざ生きたまま手足もぎ取って捨ててやるよ!』
「!」
その一言で、玄弥は理解した。
『拓巳は、沙羅を助けようとしたんだ…!
何がどうなってこの状況になったのか、今はまだ、分からないけど。
そして、彼女は犯されて、彼は…殺された…!』
映像の途切れたそれに、真菰の腕が力なく垂れた。スマートフォンが腿に落ち、懸命に歯を食いしばる。
真理が面を上げて伸ばした視線に、真菰の、驚くほど怒りに満ちた、そうして決意をした表情が応えた。スマートフォンを手渡して、真理をしっかりと見つめた瞳は、
『許さない』
物語っている。
真理が、声を漏らした。
「これ、には…続き、が、あって…!」
しゃくり上げながら、懸命に落ち着こうとしながら、何度か深呼吸をした。
「『お前もこうするぞ』って。行方不明になったはずの、沙羅の携帯からラインがきて」
「! ……」
「そうなりたくなかったら、調べるな、黙ってろ。って」
「それ。それはありますか…!」
真菰が言うが、真理は激しく首を横に振った。
「当時の警察に押収されて、戻ってきていません…!」
「っ…」
「この映像は、念のためと思ってコピーしておいたんです。いつか、親身になってくれた刑事さんに渡せたらって。そう思って…!」
「俺達に話してくれたのは、なぜ…」
玄弥が問うと、真理は、面を上げて、何とも言えない泣き笑いを見せた。
「信じて…信じてもらえないかも…知れませんが」
胸元に手を当てて、祈るようになった。
「拓巳が。白い靄のようでしたけど。拓巳が枕元に現れて。若い刑事さんが来てくれるから、そうしたら、全て話してって…!」
隣で真菰が絶句したのを、玄弥は、『無理もない』と思った。
だが、玄弥は言った。
「ありがとうございます、信じてくれて。俺は、信じますよ。ここは継国(つぎくに)のお膝元ですからね」
「継国の…!」
玄弥は強く、頷いた。
真理の嗚咽が漏れて、しばらく泣き続ける。
やがて、彼女が口を開いた。
「行方不明になる前日です…」
「はい」
「沙羅からメールが来ました。これです…」
『真理。今までありがとう。
お迎えが来てくれたから、私、行くね。
きっとこの先迷惑をかけちゃうだろうけど、私のことは心配しないで。真理は、真理の人生をちゃんと歩んでね。
…一年前。うちでお泊まり会したでしょ? 楽しかったなあ。
あの時見せ合いっこした、白のネグリジェ。
あれがね、ウェディングドレスになるなんて、思ってもみなかったよ、私。
でも…これでいいって、言ってくれたから。これで行くことにしたの。
真理。
ありがとう。今まで…沢山沢山。ありがとう…』
読み終えて、玄弥は面を上げた。全く内容が分からない。
自分らのスマートフォンに送って貰って、もう一度読み返す。が、やはり、何も分からない。
ただこれが、当時の警察にとっては、沙羅と拓巳が手を取り合って家出した証拠になった、と、真理は教えてくれた。
真理が続けた。
「きっと…沙羅は…! 脅されていたんだと思います…! 次は、私だって…誰かにこの映像の事実を言えば、次は…!」
「真理さん…!」
「でも、沙羅は守ってくれた…きっと、その身を賭けて…私を…!」
ついに、真理が突っ伏した。
それ以上、彼女が自ら口を開くことはなかった。
キッチンからも、鼻を啜る音が聞こえ、その部屋はしばらく、悲しみと悔恨で包まれていた。
聞き終えた行冥は、歯軋りと震えが止まらなかった。握った拳に血が滲むようで、仄かに香る。
隣の錆兎(さびと)が、大きく深呼吸をして、
「真菰」
『はい。お兄ちゃん』
「それで、それらの証拠は、今」
『まだ誰にも。だってまた、隠蔽されても困るし』
「そうだな」
行冥も頷いて、
「助かった、色々繋がったよ」
『悲鳴嶼(ひめじま)さん、俺ら、これからどうすれば』
「まずは、あれだ。お前達は飛ばされた、その…親身になってくれた刑事を探すことから始めろ。きっとそれはすぐ分かる、その間に錆兎が…」
見ると、錆兎も頷いて、
「ああ。俺は怪異にあった刑事らの過去を洗う。繋がりが見えてくるはずだ。すぐにはその件について上に報告はするな。誰がどこで、大手銀行と、当時の刑事が繋がっているか分からん」
行冥も頷く。
「玄弥、俺は今の話を縁壱(よりいち)に伝える。縁壱に伝われば、巌勝(みちかつ)にも話が行く。そうすれば、巌勝も動いてくれるはずだ。人脈に長けた巌勝のことだから、何か力を貸してくれるかも知れん。お前ら二人が主導権を握れ」
『悲鳴嶼さん…!』
「俺達の情報も逐次、お前達に伝える。いいか、きっと期限は…明後日だ」
「期限? 期限て、何の」
錆兎が驚いた様子で、こちらを向いた。
電話口の向こうからも、回答を待つ様子が感じられて、行冥は、ひとまず引きちぎってきた資料を錆兎に渡した。
開いて読み進めるのを一瞥して、
「沙羅さんが行方不明になったのが、十一月一日。拓巳くんの遺体が揃ったのも、十一月一日」
『縁壱さんが祓えをするのも、明後日、十一月…一日!』
「そういうことだ」
「まさか…」
読み終えた錆兎と視線が合って、行冥は言った。
「恐らく、今、原因不明で倒れた者らの命が刈り取られるのは、明後日。十一月一日。猶予をもらえているとするなら、二十三時五十九分までだ」
「「「!」」」
『待って、待って下さい、刈り取るって…!?』
「まだ推測の域を出ん。だが最悪、数名が同時に命を落とす」
『そんな。それは…!』
真菰が何とも言えず、口を閉ざした。
隠蔽は許せないことだが、命を落とすこともまた、違うと思ったのだ。
そんな気配が感じられて、行冥は強い口調で続けた。
「分かってる。だからそれを、継国に確認する。きっと彼らなら分かるはずだ。もしかしたら…もう何事かが、彼らの身には起こっているかも知れん…!」
『錆兎さん』
玄弥の呼びかけに、「なんだ」と錆兎が後を待った。
『倒れた方々の過去がはっきりしたら、すぐに教えてくれますか』
「ああ。そのつもりだが…?」
『思ったんスよ。悲鳴嶼さんが推測した通りなら、大手を振って、協力者となり得る飛ばされた刑事も探せますよね?』
「なるほど…!」
錆兎と行冥が顔を合わせる。
「賭けではあるが、確かに。隠蔽に関わった者共が倒れているなら、雑魚共を気にする必要はないな。どうせこっちも時間が限られているんだ」
『はい。それまでに、俺達も何とか調べて見ます、その刑事が今どこにいるか』
「分かった。頼んだぞ、玄弥」
『はい!』
「真菰! 判断に迷ったら玄弥とちゃんと相談するんだぞ。いつでもこちらは連絡待ってるからな」
『はい!』
確実な猶予は丸一日。明後日は儀式が待っているのだ。
通話を切り、彼らは、それぞれに動き始めた。
その少し前。
「駄目だ…繋がらん」
皆が見守る前で、巌勝が溜息を吐いた。
社務所(しゃむしょ)奥の居間を陣取っていた彼らは、巌勝の、座卓に携帯を軽く放る姿を見る。
縁壱も呻いて、
「まさか…何かあったわけでは…」
声色が不安そうになった。
「いや、そういう訳じゃないだろう。ずっと通話中なんだ。奴のことだから、キャッチにはなっているはずだ…とすると」
「やはり、手放せない何事かが」
「手放せない重要な話の最中。と言うことだ、縁壱。あまり心配するな」
「いつもと逆ね」
言ったのはカナエだった。
巌勝が多少怒気を含んで、
「俺は事実を話してる」
「兄上」
縁壱が困ったような顔になった。
「兄上もそんなにカリカリしないで」
「っ…」
「カナエさん、すみません」
「ううん、いいの。巌勝さんの眉間に皺が寄るのは、もう見慣れてるもん」
やんわりと微笑んで言うカナエに、双子は呆気に取られた。
いち早く穏やかな面になったのは縁壱で、
「そうですね。焦っても仕方がありません。兄上の言うとおり、話し中なら無事な証拠。そう、捉えて…」
と。縁壱のスマートフォンが鳴った。
一斉に彼の手元に視線が集まって、縁壱は、おっとりと懐に手を忍ばせる。着物の奥から取り出すと画面を見、
「あ」
視線が巌勝に飛んだ。
「なんだ」
「悲鳴嶼さんからです」
「!」
一瞬、室内の空気がざわついた。
縁壱は通話を繋げると、スピーカーにする。その横で、しのぶが、姉の肩をちょいちょいと叩き、見向いたカナエに時計を指さした。
縁壱も、
「もしもし。縁壱です」
答えはするが、時計を見上げる。
代わりに兄が、行冥と話し始めた。
昼を過ぎた頃合いだった。二人は授与所(じゅよじょ)に行く時間だ。継国のアルバイト巫女達が、順に遅い休憩を取るからである。
カナエもはっとした様子でしのぶに頷き、同時に見てきた二人には、軽く頷いて「お願いします」と言うように瞬きをした。
姉妹が立ち上がり、足早に廊下を走っていく間も、兄と行冥の話は続いている。
四年前の悲惨な事件に話が傾いた時、
『あ…ら?』
縁壱は、眩暈がして頭を押さえた。
「縁壱さん?」
言ったのは、多分、矢琶羽(やはば)だったように思う。
「縁壱さん!」
二度目の呼び声は、耳に遠く、低く、間延びしていた。まるで彼の声ではないようだ。視界が暗転していく。身体がふらついて、誰かが手を添えてくれたような気がした。
「縁壱さん!」
「縁壱!」
兄の声が聞こえた。
兄の声だけは、はっきりと耳に聞こえる。とても心配そうな声だった。
「兄上…」
ちゃんと、呟いたようには思う。だが、意識が遠のいていくようだ。
身体が熱い。
『こんな体温…あの頃、以来…ですね……』
「痣(あざ)が…!?」
兄の声も、遠くなってきた。
「縁壱! 縁…い…… ち…… 」
そのまま、気を失った。