第七話:沙羅双樹
・伍・
~躑躅の章~
「錆兎(さびと)!」
「悲鳴嶼(ひめじま)! 良かった、ご足労頂いてすまん」
「いや。…保護者は」
「ああ。もう面会も終わっている。姿から母親が一時錯乱してな」
錆兎が険しい顔付きで言って、一瞬だけ言葉を呑んだ。
無理もない、と行冥(ぎょうめい)も思う。
「身につけていたネグリジェで娘だと分かったようだ。中学に上がる時、大人びた物をと一緒に選んで買ったらしい」
「…それは、つらいな」
「ああ……」
こっちだ。と案内されて、行冥は錆兎の後に続いた。
長い廊下を進み、待合の一室に入る。コの字型に黒い長机が並び、一見すると会議室のようだった。入って正面は窓、左手が部屋の前側で、ホワイトボードが置かれている。
仏さんの身内、恐らく、両親だろう――は、窓際の席に着いていた。
母親は、溢れる涙を懸命にハンカチで拭っていた。その彼女を、旦那がそっと肩に手を当てて、見守っている。手元に新しいハンカチが強く握られていたが、それは男物だった。見れば、母親の拭う手元のそれは、もう、雫がしたたり落ちそうなほど見た目にもずっしりと重量があり、色濃く変わっている。
「…お待たせしました」
錆兎が声を掛けると、父親の方が、面を上げた。
錆兎とは挨拶が済んでいるのだろう、彼はこちらを向いて立ち上がると目線を合わせ、
「お世話になります。娘のために、祈祷(きとう)をして下さるそうで」
「あ、いえ…私ではなく、継国(つぎくに)の者が、ですが」
「! 継国の…!」
父親の反応と同時に、母親の慟哭が室内に響いた。
「ありがとうございます、本当に…ありがとうございます…!」
瞳を潤ませて、父親が深々と腰を曲げる。
黙祷するようにゆっくりと頭を垂れて、一礼を返した。
錆兎の所作で、共に、彼らに面と向かってはL字になるように席に着いた。
「お辛いとは思いますが、少し話を聞かせて頂けますか。状況に応じて、こちらにいる悲鳴嶼が、継国にも報告します」
「はい、はい…!」
錆兎は、既に話半ばだったのだろうか、初めて聞く情報を交えながら、必要な事を問い、正していった。
順に速記する。
要約すると、彼女が行方不明になったその夜には、二人の目撃者がいたようだ。
一人は、沙羅双樹の丘近くの公園にいた、浮浪者。
一人は、その傍の通りを、たまたま通りかかったタクシー。その、運転手。
前者は一年前の冬、路上で死んだとのことだった。病に罹っていたらしく、冬を越えられなかったそうだ。
もう一方は、既に別の者が裏を取りに行っているようだ。出発前に到着していれば、自分らが出向いていたらしいことが、言葉尻から察せられた。
『運転手に話を聞くより、親御さんに聞ける方が、俺は有り難いかも知れんが』
錆兎の話は終わり、こちらに話題を振ってくれる。
彼の話は殆どが、彼女の死因を探るための状況確認ばかりだった。きっと捜査は、彼らに任せて大丈夫だろう。
『俺が呼ばれたのは、元々継国神社(さん)への橋渡しだし』
それならば。と、行冥も割り切った。
「変なことを伺うようですが」
「…はい」
彼らがこちらを向いた。母親は俯いている。視線を送ったが、眼差しに力は込めなかった。
「沙羅さん。名前ですが…何か謂われが?」
「え?」
本当に、予期してはいなかったのだろう。
錆兎も、「悲鳴嶼?」と、微かに表情を変えた。
「いえ。何となくです。沙羅双樹の丘で…まあ正確には、あの大楠の洞(うろ)ですが。何分、お社(やしろ)に関わると、物事には『縁(えにし)』があるものだと思われますので。名前が一緒なのが、気になっているんです」
「そうでしたか…」
旦那が呟く合間に、母親が面を上げた。
泣き濡れた顔は窶(やつ)れていたが、瞳が光を取り戻していた。見つめ合い彼女が何度も頷くのを見ると、行冥も、ゆっくり頷く。教えて欲しかった。
やがて彼女は、泣き収めてゆっくりと、話をしてくれた。
「あの丘の麓(ふもと)に、…今はもう、大きな病院に建て替わってますけど。元々、産婦人科があったのです。町医者で」
「ん? 息子さんが後を継いで、今の大きな病院に生まれ変わった…あそこですか?」
錆兎が言う。
「ええ、ええ…! そうです」
彼女の表情が、少しずつ柔らかなものになっていく。
「沙羅はそこで出産しました。沙羅双樹がいつも窓から見えていて。年中咲いている姿に、不思議に思ったものです…」
「それで、沙羅、と?」
「あ。いえ。産まれる前日に、夢に、仙女のような美しい…今思えば、男性だったのかも知れません。神様が現れたんです」
「神様…」
「袖のない着物、注連縄(しめなわ)のような帯。羽衣(はごろも)の様な物も纏(まと)ってらっしゃいました。不思議な雰囲気で…確か、着物は白と若草色…深みの違う緑色で、襲(かさね)を表していたと思います」
行冥は、すぐさまそれをメモに取った。
『縁壱(よりいち)なら、何か分かるかも知れん…!』
「その神様が…沙羅双樹の花束を下さったのですよ」
「…え?」
筆が止まる。
じっと彼女を見つめると、母親は、腹を押さえて菩薩(ぼさつ)のような眼差しになった。
「生まれてくる子に祝福を。と。そう仰って。『彼女』の行く道が、いつも光に溢れているように。と」
そうして、嗚咽が漏れた。
何度も深く息をして、気持ちを鎮めているのが分かる。
そっと、見守った。
「それで、『沙羅』と名付けたんです…」
言葉がなかった。
光あれ。
そう願われて生まれてきた子は、確かに神の祝福を受けたのかも知れない。その代わりに、深い闇を引き寄せてしまった。
きっとそのことを、両親も察しているのだろう。
再び抱き合って泣き崩れた母親に代わって、
「沙羅は、沙羅双樹の丘へよく遊びに行っていました」
「しかし、鍵がかかっていますよね…? 丘へは…」
「ええ。多分、そのことについては、幼馴染みの子供達がよく知るかと…。いつも三人、一緒で…っ」
そこで、旦那も言葉を詰まらせた。
泣き濡れた面で旦那を見、手に手を重ね、母親が繋げる。
「そのうちの一人は、バラバラ遺体になって見つかりました」
「! まさか…上村(かみむら)…」
「ええ。そうです、上村拓巳(たくみ)くん…」
『仏さんの、幼馴染みだったのか…!』
「なんで、あんなことになったのか…! 沙羅の死は、拓巳くんの死に何か関係があるのですか? 時期、同じですよね!? 沙羅が行方不明になったのも、何か…!」
行冥は、思わず錆兎の方を見た。
その脳裏に、玄弥(げんや)を思う。
『今どこだ、玄弥…! こんな形で繋がるなんて。最悪の事態にならなければいいが…!』
万が一。
拓巳が犯罪者集団の一人だったとしたなら、この親御さんには、更に辛い事実を告げねばならぬ事になる。
錆兎もそれが分かるから、今は口を閉ざした。
明らかにせねば、何とも言えないのだ。
「拓巳くんの件は、残念ですが、別の者が担当しています」
「!」
「私の口からは、今は何とも言えません…」
両親は、目に見えて肩を落とした。
その時だ。
部屋の扉をノックする音が聞こえ、
「失礼します」
錆兎が席を立つ。
部屋を出て十分すぎるほどの間を置いて戻ると、
「追い打ちをかけるようで済みませんが、もう一点。確認して頂けますか」
「…何を、でしょうか…」
「タクシー会社に、当時のドライブレコーダーが残っていたそうです」
「!」
「映っている人影が沙羅さんかどうか。お願いできれば助かるのですが」
そうして、錆兎に連れられていった両親は、その部屋でまた、泣き崩れた。
それが彼女の、最後の姿だった。
裸足で。
麗しい黒髪は時折風に靡き。ネグリジェも襞を揺らし。
時折夜空の月を眺めては、涙を零し。
沙羅双樹の丘の麓の公園を抜けて、森へ向かう姿が…少しずつ、少しずつ、小さく。そうしてやがて、花々に飲み込まれ、消えたのだった。
ビデオを確認した両親は、行冥の呼んだタクシーに乗って帰って行った。
「やるせないな」
拳を握り、俯き加減で言う錆兎に、黙って頷く。
『玄弥に色々確認を取る必要がありそうだ。縁壱に話すのは、その後だな…』
この後の段取りを考えて、行冥は小さく吐息を漏らした。知らず、腕を組んで、錆兎と署内に戻り始める。
「少し整理しておこうか、内容」
「そうだな」
二階に上がり、今度は本物の会議室へと通された。
互いに険しい顔付きで席に着いた時だ、スマートフォンがけたたましく鳴って、行冥は「ん?」と首を傾げた。
「あ。すまん。玄弥からだ」
「! ナイスタイミング」
「確かに」
行冥は、眼差しは錆兎に向けたまま、スマートフォンに耳を傾けた。彼が手早く、手帳を開く。早速、相方の方から話が始まった。
『お疲れ様っス! 悲鳴嶼さん』
「ああ、お疲れ。ちょうど良かった、今、電話しようかと思っていたところだ」
『と言うことは。悲鳴嶼さんも繋がっちゃったんですかね?』
「その通り。そっちもか」
言いながら、錆兎に頷く。行冥は、
「ちょっと待ってくれ。スピーカーにする」
『あ。じゃあ俺も。真菰(まこも)ちゃんが傍にいるんスよ』
「そうか」
若干緊張が解けた。ちゃん付けとは、なかなかどうして。もう意気投合しているようだ。
「お前が関わる事になったバラバラ遺体、名前…上村拓巳って言ってたな」
『ええ。…ん? そっちっすか』
玄弥が、二言目で、驚いたような口調になった。
『てっきり、殺人犯の話かと思ったんですが』
「ああ、まあ、それもそうなんだが、それを知りたいのは錆兎の方だな」
「お疲れ、玄弥」
『おお! お疲れ様っス!』
『お兄ちゃん?』
「真菰、仕事中はその呼び方止めろって…」
『あ。はあい。ごめんなさ~い!』
真菰の明るい声が一同の強張った表情を和らげた。
錆兎が仄かに口角を上げて、
「悲鳴嶼。俺の方は後からでも真菰に聞ける。気になったことを」
「すまん。助かる」
「怪異が収まるなら万々歳なんだ。こちらとしても」
行冥は頷いて、スマートフォンに見向いた。
「玄弥、上村拓巳だが、その、殺人犯の仲間なのか」
『え! まさか! 被害者っすよ、純粋な』
心底ほっとした。
『年齢もだいぶ違いますしね、拓巳くんを殺ったのは、当時高校生と大学生六人の集団です。共通しているのは、彼らの親が新胡桃市(しんくるみし)の大手銀行に勤めているとかで』
「! 派閥か…」
『当時大学生だった主犯が、頭取(とうどり)の息子だそうです』
「なんてこった… ! まさか…揉み消したのか。もしかして…」
行冥は錆兎を見た。
錆兎は瞼をゆっくりと伏せて、長々と溜息を吐く。
「県警の上層部か…。或いは、当時の捜査一派か…。あ。じゃ、原因不明の怪異も…!」
「そうか、そうかも知れん…!」
『で、その拓巳くんの幼馴染みなんですが、二人いまして』
「ああ。結城(ゆうき)沙羅さんと、もう一人…」
『ええ。ええ。ミイラ化したご遺体、沙羅さんで間違いないッスかね?』
「それだ、ああ。間違いない」
『やっぱり…』
玄弥がそこで、大きく深呼吸する気配を感じた。
空いた間に、きっと、真菰と顔を見合わせているのだろうと思う。
『もう一人の幼馴染みが、立石(たていし)真理(まり)さん。彼女に話を聞くことができました』
「そうか…!」
『真理さんは、どうやら自分が、沙羅さんを遠回しに殺したと。思っているようで…』
玄弥はゆっくりと、今朝のことを思い起こした。