第七話:沙羅双樹
・肆・
~躑躅の章~
私邸に戻ると早速、累(るい)が荷物からスマートフォンを取り出し、自宅へ電話をかけた。
「うん。うん、今日はこのまま矢琶羽(やはば)のとこに泊まるね」
巌勝(みちかつ)は、話の内容に耳を傾けては、
『そういやメール!』
思い出した。
慌ててスマートフォンを取り出すと、
「どうしたの?」
隣で矢琶羽が見上げてくる。
彼をちらりと見てから画面に目を戻し、数時間前に届いたメールを開くと、内容を確認し、大きく長い息を吐いた。
「秋の会合」
矢琶羽と視線を合わせる。
「もう、来週だ。確認のメールが入ったんだ、さっき」
「あ!」
矢琶羽もはっとして声を上げた。続けて何かを言おうとした時、累が通話を切る。
「母さん。今日は泊まっていいって!」
二人同時に彼の方を向いた。
矢琶羽は即座に飛び上がって、
「良かった!」
一際明るい声になった。
その瞬間、巌勝もほっと息が漏れた。こちらを向いた二人になんとも言えず軽く頷く。
矢琶羽が言った。
「先に連絡いれとく? 心配するよ、姐(あね)さん。きっと」
「そうだな…」
時計を見上げた。
まだ、十八時(酉の刻)を過ぎたところだ。
『この時間なら、繋がるな』
手短に済まそうと、何気なく電話を掛けた。
隣で矢琶羽が「あ」と呻く。一瞬、彼が何故息を飲んだのか分からなくて、間髪入れず、
『はい』
スマートフォンの向こうから届いた男性の声に、
『しまった』
思うと同時に矢琶羽と顔を見合わせ苦笑した。
「その声。空明(くうめい)…じゃないよな、もちろん。義政(よしまさ)か」
「空明? 義政?」
見上げながら言ってきたのは、累だ。矢琶羽が彼に見向く。
「え? 誰?」
「巌勝さんの恋人~」
「ええっ? え、どっち? 義政じゃないよね」
「あはは。うん。空明。巫女名(みこな)なんだ」
累の興味津々といった声色に、矢琶羽のにこやかな声が答えていく。二人の会話にはくすぐったくなって咳き込んだ。
「俺だ、すまないな」
向こうの声に反応して一度は謝る。なおも矢琶羽が累に説明を続けているのを敢えて耳に入れないようにして、親友の呆れた声に付き合った。
『ったく。こっちに掛けても出られないっていつも言ってるだろ。聞こえないし喋れないんだからさ』
「いや本当にすまん。ちょっと色々あって、すっかり忘れてた」
『それで? 何』
「空明に伝えてくれ。ありがとう、助かるって。三日ほど早く、京(みやこ)入りするようにするから」
『分かった。気を付けて来いよ!』
「ああ。じゃ、また」
『ああ。また…あ。待て。隣で桜海(おうみ)が懸命に指動かしてる。逢いたい、逢えるのを楽しみにしてる! だってさ!』
「ん…俺もだ。伝えてくれ」
『はいは~い。メールでやれよ! ったくさあ!』
相手の側から乱暴に切れた電話に、巌勝はしばらく画面を眺めた。
彼女の声は、もう二度と、聞けない。
記憶の中にだけ残された優しい声色に胸が軋むが、すぐに現実に引き戻された。
「巌勝さん」
矢琶羽がにやにやしながら覗き込んできた。
『ったくこいつは…こっちの気も知らないで』
コホン。と一度咳払いする。妙に気取った態度に矢琶羽が笑った。
「すまん、行こうか」
構わず先に歩き出す。無造作に愛車の鍵を掴んだ時、金属の冷気に身が竦んだ。相当火照っていたのだと、今更気付いた。
「ね! ね!」
矢琶羽がすぐに駆け寄って来、
「元気だった? 二人とも」
「……ああ。とても」
仕方ないな、と、彼を見る。玄関で靴を履きながら三人団子のようになった。
「あいつらはいつも変わらんな」
「うん!」
満面の笑みを浮かべる矢琶羽には、釣られて笑みが零れた。彼の頭をぐしゃっとすると、肩が上がり瞳も猫のように弧を描いた。懐(なつ)こい表情に思わず何度か撫でると、
「ちゃんと迎えに来てね、巌勝さん。姐さん…離さないでね」
「! ああ…」
『何か、あったのか…?』
思うが、今は悠長に話し込んでいる時間もない。
巌勝は、子供ら二人を愛車に乗せると、一路、継国神社へと向かった。
辺りはすっかり暗い。そして、寒い。
神社はうっすらと霜が降りていた。
もう三日もすれば、霜月(しもつき)だ。雪に閉ざされる日も、遠くない。
「ひゃ~さぶ!」
「累、こっちだよ!」
楽しそうに駆けて行く二人の後から、巌勝は、大股でついていった。
神社は人気(ひとけ)がなくすっかり闇の中だが、社務所(しゃむしょ)周りの灯籠(とうろう)には火が入れられ、玄関も電気が点いていた。中からも、煌々と光が漏れてきている。
『珍しいな。いや…まさか。もう何か、あったとか…!』
周りの冷気ほどに血の気が引いた。
「こんばんは~!」
矢琶羽が先頭に立って、社務所の引き戸を豪快に開けた。
凍える空気から逃れるように、社務所に転がり込む。
累は心持ち緊張した様子だ。
「は~~~い!」
中から響いてきた声は、しのぶのものだった。
続いて、カナエ。
「お帰りなさい~! その声。矢琶羽くんかな!」
二人の声色に、心底安堵した。
豪快に足音を響かせて迫る間に、後ろ手に扉を閉めた。一息に暖かな空気が玄関に溜まっていき、身も心も落ち着くようだった。
だが、
「!」
現れた二人を見、累の身体が大きく揺れた。跳ねた拍子にこちらにぶつかり、思わず、肩を掴む。
「…累? どうした」
かなり小さな声で言ったが、彼は気付いたようだ。天を仰ぐようにこちらを見ると、その後はゆっくりと、己の後ろに隠れようと移動した。
それは彼女らには、照れ隠しのように見えたようだ。
「まあ! かわいい!」
「初めまして! 胡蝶(こちょう)しのぶです」
「姉のカナエです。ええと…?」
「…累」
それは聞こえるかも怪しい、蚊の泣くような声だった。
いつもの礼儀正しさは微塵にもない。少しだけ顔を出して言った身が、怯えたようにずっと震えている。無理矢理前に出すことは、巌勝には躊躇われた。
「すまん。人見知りなんだ」
「!」
「後からゆっくり行くから。矢琶羽、先に行っててくれ。あ、縁壱(よりいち)はいるか?」
矢琶羽もこちらを見ては驚いた様子で、だが、無理矢理話題を変えたことにはぴんときたのだろう。しのぶも最後の一言には引っかかった様子でこちらを見ているが、
「は~い」
努めて明るく返事をした矢琶羽に続いて、カナエの、
「あ。縁壱さんならまだ出先なの。もうすぐ戻ってくると思うけど」
「そうか」
「巌勝さん…」
しのぶの心配そうな声色には頷いて、
「後にしよう。取り敢えず、縁壱の話を聞くのが先だ」
「そうね」
「ねえねえ、今日の夕飯なに~?」
「え!? ここで食べてく気? 三人とも?」
その後はさらりと矢琶羽が二人の意識を掻っ攫ってくれ、そのまま居間へと移動していくのを見届けた。すっかり彼らの見えなくなったところで、巌勝は、
「…累」
しゃがんで、見上げた。
「どうした」
「…今日、ここに泊まるの?」
「そのつもりだ。私邸の結界に皹が入った。また襲ってきたら、今度は防ぎようがない。ここは神気(しんき)が高いし、縁壱がいれば安心だ。まあ…話次第ではあるが」
「僕…」
累が泣きそうな顔になった。口を閉ざし小刻みに震えている。
「僕、帰りたい…ここ、いやだ…」
巌勝は絶句した。
『累は、我が儘を言うような子じゃない。あんなことがあった後だ、ちゃんと理解しているはず。何が…』
心を落ち着けて、努めて優しく語りかけた。
「どうしてか、理由は話せるか」
気持ちが通じたのか、累の震えは止まった。しっかりと目線を合わせて、一つ、首を縦に振った。
「あの、髪の毛を一つに束ねた方」
『妹の方か』
言いながら、また、累の視線が足元に落ちた。
「僕を…… ううん。その昔、家族だった姉さんを、殺した毒使い…」
『その昔? 鬼の? ん? 毒使い…?』
言葉を選ぶ彼の口調は重い。十分考える間があって、
「鬼殺隊の、柱……」
「柱!?」
出てきた答えに、また、色を失った。
『柱… まさか。そんな』
「巌勝さん…」
どうしよう、と言うように見つめてきた累の眼差しに、目まぐるしく脳が情報を整理しようとしていた。過去と現在の点と点を、結び合わせようとしていた。
『累は下弦の鬼だった。童磨(どうま)がよく話していたはずだ…下の者達とは。梅達を鬼に誘ったのも奴だし。探知能力には欠けていたが、界隈から話題を得るのは巧みだった…』
「間違いないのか、累」
累はまた、首を縦に振った。
『童磨の話じゃ、累を殺(や)った柱は刀で頚(くび)を斬ったはずだ。あの方の話は毒使いの話だった。そうか、那田蜘蛛山(なたぐもやま)には二人の柱がいて…一人が。妹――胡蝶しのぶ――?』
毒使い。
巌勝ははっとした。
『胡蝶の家は開業医だ。開業医、…医者…!』
姉妹は幼い頃から知っていた。桜町(さくらまち)の他の子供達と変わらず、社(やしろ)へと行儀見習いに来ていたからだ。
父が履歴を確認し、受け入れた時には何の疑問にも思わなかった。
『それはそうだ、あの頃俺はまだ、死渡(しと)として覚醒もしていない。俺を倒した鬼狩り達も、悲鳴嶼(ひめじま)達だ。気付きようもない』
不意に、鬼灯(ほおずき)旅館での顛末を思い出した。
奏愛(かなえ)の赤子は、鬼灯の毒で殺されたのだ。連想したことはそのままあの時の最後の瞬間に飛ぶ。
『姉を助けようとした妹は、あの時人間業とは思えない速さで疾走した。目に見えた柄(がら)…あれは、まさか。鬼殺隊の…!』
あの頃鬼狩り達は、それぞれに、自分の覚悟と決意を羽織に乗せていた。
『気にしてもいなかったが。目に見えたあの柄は羽織だったのか。…童磨を殺った、そのきっかけを作った、柱の…!』
毒使い。
確か、蟲柱。
生唾が喉奥を通った。大きく音が鳴って、はっとするのと、
「あら? 兄上」
社務所の出入りの扉の引き戸の音と、縁壱の声が重なったのは、ほぼ同時だった。いつもの袴姿(はかますがた)に、両手に買い物袋を複数ぶら下げて、呑気な顔をしている。肩から顔を出した刀袋の先にもトータルで違和感がありすぎて、
「……縁壱」
返って、ほっとした。ような、気がした。あまりにも無頓着な弟らしくて、緊張して張った肩が、大きく降りたのを感じた。
縁壱が言った。
「累くんも。こんばんは」
だが、累は、そ…と己の真後ろに移動すると、しどろもどろになって、
「こんばんは…」
囁くのみだった。
立ち上がり、片手に彼の肩を抱くと、累はそのまま背後に隠れてしまい、腰に両手を回して縋ってくる。縁壱とは既に見知ってはいるが、その彼が姉妹にここを託している事実が、『人間側』だとでも、判断させたのかも知れなかった。
縁壱が不思議そうに自分を見てきた。
動悸が速くなった。
『縁壱は知らない。あの二人のことを。そもそも、時代が違う』
「どうしました、兄上。怖い顔ですよ…何かありましたか」
今まで心の奥底で積み重ねてきたモノに、皹の入る音が聞こえた。
あちら側と。
こちら側。
『縁壱は、人間だ。今も昔も。人間だ――――自分たちとは、違う』
そんな答えが、全身を駆け巡った。
人間に、鬼が、塵芥(ちりあくた)となって死する瞬間など…虚無の空間を目にする瞬間など、理解できはしない。
想像すら、出来はしないだろう。
『お労しや、兄上――――』
ずきんと、胸が痛んだ。
鬼となり、何もかもを手に入れたと思っていた。柵(しがらみ)の一切から解き放たれ、見えない物を見、最早、己の右に出る者など、あの方以外にいるわけはないと、自負した間際。
世の理(ことわり)を超越した、『弟』が現れた。
「兄上?」
「来るな!」
一歩踏み出した縁壱に、一歩後退して叫んだ。悲痛なものになった。後ろにいた累が、大きく身を震わせたのを全身で感じた。
己の動揺は彼にそのまま伝わったようで、震えが止まらない。
殺される。
累も。自分も。鬼であった頃のことを知られれば。
彼女らが記憶を取り戻し、自分たちのことに気付けば、今までのようには、きっと、行かない。
『二人ばかりじゃない。悲鳴嶼も、玄弥(げんや)も、きっと、裏切る。今までのことなど、夢物語になる。それだけのことをしてきた。罪に罪を重ねて、人を喰らって生きてきた――――』
「兄上…?」
「俺…は」
掌を大きく広げて、顔を覆った時だった。
内ポケットに収めた物が、存在を主張した。
突然鳴り響いた着信音に、自身ばかりではない。縁壱も、累も、驚いて固まる。
胸元にあったそれは、シャツを通して心臓に、電撃を与えたかのようだった。
これでもかと言うほど目を見開いて、震える手をスーツの内側へ滑り込ませる。この着信音は、今日二回目。
『空明…?』
鼓動を早く刻む己を落ち着かせるように深呼吸をして、スマートフォンを手に取った。
メールだ。
何気なく、開いた。
『巌勝様。
先程はご連絡、ありがとうございました。直接頂けて、とても嬉しかったです。話せないと言うことを忘れて頂けるのは、何より嬉しいのです。ついつい、お返事したくなりました。
今週末、お逢いできることを楽しみにしております。
継国の皆様方と巌勝様が、一緒に来訪なされることが、これもまた、嬉しくて仕方がありません。
本当に…良かった。
巌勝様。
忘れないで下さいね。
貴方はもう、一人ではありません。
共に歩む弟君を、しっかり見つめてあげて下さい。交わした言葉の数々を、振り返ってみて下さい。
きっと、お気づきになるはずですわ。
縁壱様は、過去も未来ももちろん現在も。
兄君である貴方のことが、誰より、何より、一番好きなのだと言うこと。
何世紀を経ても、変わらぬものがそこにあったのです。彼には…あったのです。
辛い時には、そのことを…どうか。どうか、思い出して下さいね。
それでは一週間後に。
兄様と共に、継国の皆様方がいらっしゃることを、楽しみにお待ちしております。
貴船(きふね)桜海』
「空明……!」
頽れた。
スマートフォンを強く胸に抱いて、嗚咽が漏れた。
『そうだ。縁壱は…きっと、縁壱だけは。何があっても俺を見捨てたりしない。俺が道を、外さない限り――――彼女がそれを、その身をもって教えてくれた。そう言う人間がいると言うことを、証明してくれた。俺のために、彼女は。地獄へ降りてきてくれたんだ…!』
「兄上…」
傍に寄り、片膝を付いた縁壱の、優しく温かい手が肩に乗った。
三度目の呼び声には、一層身が震えた。
「…すまん」
懸命に三つの文字を並べた。
「いいえ。傍にいますよ、大丈夫です」
「! 縁壱…」
見透かしたような言に、苦い泣き笑いが零れた。
涙を拭い、スマートフォンの画面を切る。内ポケットへしまうと、佇む累の方を見て、もう一度強く顔を拭った。
「受け入れていかなきゃならん」
「巌勝さん…」
「お前も分かっているはずだ。記憶を持ったまま現世(げんせ)を生きる意味」
「!」
「お前にもいるだろう? お前を思う大切な人。何があってもお前を護ってくれる人」
「うん…!」
「その人のために、生きるんだ。そして何より。自分のために、生きるんだ。今度はその手に、本当の幸せを掴む為に。…いいな?」
「うん、うん…!」
「いい子だ」
抱きついてきた累をしっかりと抱き締めて、巌勝は微笑んだ。苦しげではあったが、とても優しい、慈しみに溢れた面だった。