第七話:沙羅双樹
・参・
~躑躅の章~
風が少し出てきたようだった。
沙羅双樹の森が花音を散らし、右に左に揺れている。
「季節ではなかったはず、ですよね」
森の中を玄弥(げんや)と二人歩きながら、縁壱(よりいち)は見上げて呟いた。
ジャスミンのような、甘い香りが鼻を擽っては通り過ぎていく。
玄弥がスマートフォンを弄りながら言った。
「そうみたいスね。開花は春から夏にかけてのようですが…」
「どうしました?」
「いえ。日本では育たない、熱帯の樹木みたいです」
「「…」」
画面を消して顔を上げた彼と、視線が合った。
「それが、この辺り一帯が国立公園になっている理由でしょうか」
「え? あ、そう言うことじゃないと思いますけど」
足が止まり、まじまじとこちらを見てきた玄弥に、「何か?」と言うように首を傾げる。
彼は「いえ」と呟くと、
「まあ…そうかも知れませんね」
と、今度は同意した。達観したように見えるのは、気のせいだろうか。
彼が続けた。
「ずっと昔からここにはこの木々があったわけですし、当時だって疑問には思ったはずでしょうから。確かに貴重だってことで、国立公園になったのかも知れないスね」
どこか投遣りでどこか棘があるような口調だったが、そこは敢えて指摘するのは止めた。
玄弥がまた歩き出す。「こちらです」と言われては分岐を迷うことなく先へ進む彼の後を付いていくうち、
「良く道が分かりますね?」
不思議な感覚になった。
どこを見渡しても見上げても、この森は、白い花が連なり微笑むように音を立てて、景色が変わらない。
『そう言えば。管理人さん達だってそうですね。行き慣れた森とは言え、どうやって迷わず管理棟まで行くのでしょう』
咲き乱れる花々を眺めていると、
「風ですよ」
「風?」
「はい。奇妙なんですが、ここはどの入口から森に入っても、一定方向に流れているんです。風が。楠(くすのき)の大樹から丘を風が滑り降りて、新胡桃市(しんくるみし)の町中へと流れていくんスよ」
「自然の摂理に反していますね…」
「でしょう。沙羅双樹といい、風といい、多分ここは…神聖な場所なんじゃないスかね。人の理解の及ばないものがあるんスよ」
『あ』
気付いた。
先程玄弥が言いたかったことは、それなのだろう。
ましてや、己が呼ばれた理由が「お祓い」である。昨夜の行冥(ぎょうめい)の戸惑いにも似た連絡といい、玄弥のこの言葉といい、警察側では、始末に負えないに違いない。
腑に落ちたところで、縁壱の表情もスッキリとした。先を行く玄弥をちらりと見ると、彼の横顔も涼しげだ。ただ、どこか懐かしげな雰囲気が漂って、縁壱は、何気なく尋ねた。
「玄弥さんは、風…分かるんですか? 流れが」
彼の視線の先を追うようにして言うと、
「それっス!」
勢いよくこちらに見向き、満面の笑みになった。
「小さい頃から風だけは、良く分かるんスよ!」
「そうでしたか」
得意げに伸びた鼻の下に、思わず小さな笑みが浮かんだ。
「こう見えても射撃の腕は首席で卒業したんスよ、警察学校。どんな的でも射貫く自信があります!」
「それは凄い」
多少興奮して感想が漏れた脳裏に、遙か遠い昔が過ぎった。
一瞬、若く美しい鬼狩りの姿が瞼に映る。絹のような髪を頭頂部で一つに束ね、風の軌道を読む、弓使い。
『同じようなことを、前にも良く…聞きましたね…』
それはとても懐かしく、そして、胸に痛みを伴う面影のものだ。
縁壱は胸に拳を当てて、彼(か)の者の名を心の内で呼んだ。
「さ。着きました!」
感情を遮るように、玄弥が言った。
管理棟が見えて来る。
「…あ。悲鳴嶼(ひめじま)さん!」
丁度入口から出てきた巨体には声色が弾んで、彼が駆け足になった。
縁壱の歩調が変わることはなく、こちらを向いた行冥と、遅れて合流する。
彼は律儀に、
「ご足労、すまないな」
「いえ」
言うと、早速。とばかりに、バリケードになっているフェンスの扉を、管理者に開けて貰った。
四人順番に、フェンスの扉を潜る。
最後に通ったのは、縁壱だった。
「…」
風が吹き抜けていった。
何気なく丘を見上げる。わりと斜面のあるそれだった。頂(いただき)にはここからでも確(しか)と分かる太い木の根が、縦横無尽に波打っていた。
『…あの空洞は。あれが悲鳴嶼さんが昨夜話してた、樹の洞(うろ)でしょうか』
ぽっかりと空いた黒い空間に、目を奪われた。
『現世(うつしよ)には、別の世界へ通ずる門がわりとあるものですが』
「行こうか」
「あ。はい」
行冥に話しかけられ、視線は途切れた。
彼に頷き、若干前のめりになって、丘を登り始める。刈り揃えられた草を縫うように、白い歩道が続いていた。一歩踏みしめるごとに砂利の音が、複数響く。
時に激しく、時に緩やかに、風が丘を吹き降りていった。着物や髪が後ろに流れて、乾いた音を響かせる。嫌な気配はしなかった。
見上げれば楠の大樹が迫ってくる。複数人の警察官達も待機していて、難なく合流するかと思えたが、
「!」
木々の枝が頭上に掛かるほど懐に入り込んだ頃合いで、縁壱は、見上げたまま歩みが止まった。
一点を見つめた。
『あれは…人? 少女?』
それ、が、見えた。
大樹の幹、真ん中よりやや下方に、白いネグリジェを着た少女がいた。
まるで十字架に貼り付けられたようだ。項垂れて、両腕を広げた肘から先が、幹に取り込まれようとしている。膝下も、既に幹に溶け込んでいるのだろう、見えなかった。腰にも枝が巻き付いて、決して大楠(おおくす)が放そうとはしない。そんな意志が見て取れる。
だが、少女は、ゆっくりと目覚め面を上げると、
『…こんにちは』
首を少し傾けて、柔らかな笑みを零した。
その時だった。
丘の麓(ふもと)の沙羅双樹の花が、一斉に鳴いた。花音(はなおと)が凜々と、神楽鈴(かぐらすず)のように丘に響き渡る。足元から円を描くように草色が一変するかと思われた時、
「縁壱さん!?」
咄嗟に、傍にいた玄弥が情けない声を上げて、腕を掴んできた。
行冥も眉間に皺を寄せて、
「縁壱。何を見ている? 何が見えてる」
彼の言葉が辺りに響き、意識がそちらに取られると、少女は口も瞼も閉ざした。項垂れて、また、頭が沈む。
『今のは…! そうでしたか…彼女が紡ぐのは精霊の刻(とき)、どうやら大樹の力を分け与えられているようです。ただ飲み込まれているわけではなさそうですね』
ついと、行冥の方を見た。
「昨日の話ですと、お祓いはミイラだったと思いましたが」
「え? あ、ああ」
『禍(まが)い者かと思っていましたが、どうやら根本から私は勘違いをしていたようです』
「こっちだ」
行冥はすぐに落ち着くと、大楠へと更に寄った。
後に続く。根を踏まないよう足元に注意して数歩進むと、すぐに、遠目に見えた黒い空間――大樹の洞――の入口に立った。
「…」
自然と足が止まってしまった。
「縁壱?」
出入り口で振り返った行冥は、半身があちら側、半身がこちら側にあって、黒白に色が染まっている。
『案内人(あないにん)である累(るい)くんがいれば、また何か違った見識が得られたでしょうが…』
このような洞(うろ)は、古代から、神域(しんいき)の一つだ。人がむやみに立ち入っていい場所ではない。時に、幽世(かくりよ)と現世(うつしよ)を繋げる道の、出入り口を担うこともある。
『ただ、『彼女の力』を見る限り、行き先は幽世ではなさそうですが…』
「いえ…」
『仕方ありません。とにかく確かめないことには』
自分で自分の背中を押して、吐息一つ気合いを入れた。
中に足を踏み入れ、ライトを点ける警官達に礼を言う。
行冥に案内され中央を譲られると、
「これは…」
『先程の少女…。間違いありません。同一人物ですね』
姿形は全く異なるが、着ている物と放つ覇気は全く同じだ。
『と言うことは、ただの幽体(ゆうたい)ではない…やっぱり精霊? だから私にも。見えた…?』
縁壱は一旦外へ出た。
もう一度大樹を見上げる。
慌てて行冥たちも追ってくるが、彼らの声が響けば、また、彼女は夢現(ゆめうつつ)の中へ引きこもってしまう。
『お願いです、名もなき君…!』
心の中で問いかける。
尋ねたいこと、確認したいこと、行冥達から頼まれていること、話したいことは山ほどあった。
だが、彼女は、瞼を押し上げると、つい。と顎を上げて、遙か下方を見るに留めた。
その視線の先を追って、大樹の陰から日の元へ出る。
丘は遙か下方、沙羅双樹の丘、フェンスのこちら側に、
『白い影…!』
誰かがいた。
はっきりとは分からない。
見えない自分と、見せようと努めてくれた『彼女』のお蔭で辛うじて、靄のような白い影を見ることができるのだろう。
それは多分に周りにも影響しているようで、
「…ひっ!」
「本当だ、本当だった…!」
複数人の警官の言葉を聞く。それがやはり、引金になってしまった。慌てて彼女の方を向くが、もう、深く深く――眠りについているようだ。
『何を、どうしたいのでしょう…! 彼女が助かりたいのか? 助けてほしいのか? それとも自分ではなく、あの白い人影?』
縁壱は口元に手をやって、思案に耽った。
行冥も玄弥も待ってはくれていたが、矢庭にスマートフォンが鳴る。けたたましい音に答えたのは、玄弥だった。
「もしもし」
一瞬の間の後、
「お! 真菰(まこも)ちゃん!」
声が一瞬で明るくなった。
『真菰?』
聞いたことのない名だ。
縁壱は一旦思考を中断し、玄弥の方に集中した。何度も頷いては確認を取る姿に、皆が静まり返る。やがて、通話を切った玄弥は行冥を見て、
「やっぱり、ただ事じゃなかったみたいっス、悲鳴嶼さん!」
「昨日の件か?」
『昨日の件…?』
「はい。どうやら四年前のバラバラ死体事件。あの、犯人の仲間だったみたいで」
「なんだと!?」
仲間内が、俄に騒然となった。
新胡桃市で起きた四年前の事件。それは、中学生の死体がバラバラで、市内至る所から見つかったという事件だ。あまりにも残忍でショッキングな出来事であったため、縁壱もよく憶えている。当時は、新胡桃市のみならず、全国のトップニュースでも連日取り上げられていた。
「どうやらグループ内で揉め事が起きたらしくて。昨日捕まえた強盗犯は、次は自分が殺されるかもって、署内に逃げ込んだみたいっス」
「そうだったのか…!」
「真菰ちゃんが、こっちに来て欲しいって。捜査を手伝って欲しいって…上司の確認をとってくれって」
「! 良かったじゃないか、玄弥。頑張れ!」
「いいスか、行っても!」
「もちろんだ。あっちも了承済みなんだろう?」
「はい!」
「分かった、こっちは縁壱も来てくれたことだし、後は任せろ。大丈夫だ。すぐに行ってこい」
「あ、でも。縁壱さん。お社(やしろ)に送らないと!」
「あ…ええと」
皆の視線がこちらを向いて、縁壱は僅かに目を丸くした。
「そうですね…」
一度大樹を見上げ見つめて後、皆の方を向く。最後に行冥の視線を捉えて、
「彼女の身元、確認してあげて下さい。ここから放しても大丈夫です」
「! 本当だな…!?」
「はい」
『魂は大樹の彼女…。肉体の方は、家族に返してあげましょう』
こちらの問題も、すぐに動き始めた。鑑識やら警官やら動きが慌ただしくなる。それらを一瞥して後、
「お祓いも、確かに早い方が良さそうです。三日後でお願いできますか。ちょうど月も変わって継国様(つぎくにさま)もお戻りになりますし。私はその日都合を付けないと、それ以降難しくなりそうです」
「分かった。三日後だな? 十一月一日」
「ええ。お願いできますか?」
「ああ。都合する。場所はここで構わんな?」
「はい」
そうして縁壱は、玄弥に伴われて沙羅双樹の丘を離れた。
神社まで送ると言ってくれた彼には、
「いえ、大丈夫ですよ。真菰さんがお待ちでしょう、新胡桃市の警察署前からバスを乗り継いで帰りますから」
「え! でも」
「ふふ! 頑張って下さい、玄弥さん。大きな事件の解決になりそうですね。あの件、ずっと未解決だったでしょう」
「はい…!」
既に心ここにあらずと言った彼には、申し訳なさが先に立った。
彼の覆面に乗り込んで、意気揚々と走らせる玄弥に礼を言って、新胡桃市の警察署の駐車場で、別れを告げる。
縁壱は、駆けて行く玄弥を見送って後、何気なく、刀の入った袋をまた背負った。
『抜くこともなく、良かった』
護身刀のように光を放っていてくれたであろうそれに、感謝した。ふと、社で待つ二人を思い描いて、
「あ」
スマートフォンを懐から取り出した。
『きっと心配していますね』
二人の明るい笑顔を思い出すと、こちらまで笑みが零れるようだ。
『もしもし! 縁壱さんっ?』
ここからではバスを何度か乗り継ぎ、山を登らなければならない。きっと帰りは遅くなるであろうと、天高く登った陽(ひ)を見上げて伝えた。
電話口に出たしのぶは何度も頷いて、
『分かったわ。じゃ、帰り待ってるね! どうせ明日は日曜だし。今夜も泊まってくから』
「あらあら」
『ふふ! 気を付けて帰ってきてね。良かった。あっ、姉さん!?』
『縁壱さ~ん! お昼一緒に食べられないのお?』
『そう言う問題じゃないでしょ!』
『ええっ!? だってぇ、お腹すいたじゃない』
「ふふ!」
『『!』』
「どうぞ先に食べて下さいね。あ。ちょこっとでも残しておいて下さると嬉しいですよ。せっかく作ってくれたのでしょうから」
『もちろん! 夕飯は手を付けずに待ってるわ~』
『姉さんたら!』
『しのぶぅ~膨れないの!』
『だからあ、そういう問題じゃあ』
姉妹の賑やかな会話に、縁壱は何度も笑みを零した。
『ありがとうございます、二人とも』
通話の終わったスマートフォンを胸元で握りしめて、一息つく。
仕舞うと、ゆっくりと大通りのバス停へ歩いて行った。
何気なく空を眺めては、今日出逢った、『彼女』と『白い人影』に、思いを馳せた。