第七話:沙羅双樹
・参・
~椿の章~
「わ! すっかり遅くなったな。累(るい)、ありがと!」
「ううん。じゃ、今日のとこちゃんと復習するんだよ、矢琶羽(やはば)。飲み込み早いんだから、頑張ればすぐ追いつくよ」
「はいは~い」
巌勝(みちかつ)はくすりと微笑んだ。
『どちらが兄貴か分からんな』
見ていた新聞をテーブルに畳んで置き、組んでいた足を解く。二人はカーペットにぺたんと腰を落ち着けて、ローテーブルで勉強していた。一瞥して、窓辺に寄る。
『…雲が重い』
嫌な予感がしたが、二人には気取られないように、
「電気を点けるな」
声を掛け、スイッチを押した。が、それは小気味良い音を響かせたにもかかわらず、チカ…と二三度瞬いたきり、黙ってしまった。
「ん?」
心臓が早鐘を打つようだった。
宿題も終わったのだろう、片付けを始めていた二人が不思議そうに、最初はルームライトを、そして今度はこちらを見上げてくる。
矢琶羽が言った。
「停電?」
室内を見渡した。冷蔵庫も開けてみる。
「いや…電球が切れたかな?」
努めて冷静に応えると、話題を変えようと模索した。
「累。車で送ろう、」
一雨来そうだ。
そう言いかけて、時計が、魔の刻を過ぎた辺りを何気に目にした。その時、
「っつう…!」
「累!?」
「依頼主…!」
二人の会話にどきりとした。
累は呟くのが精一杯の様子で、呼吸が乱れている。
矢琶羽がそっと包むように肩を抱いて、
「そんなにひどいのか、頭に響く音って」
投げかけた言葉には、累は頭を微かに横に振った。涙目になって、こちらを見てきた顔は、
『どうしよう? どうしたらいい?』
と言うようなそれだ。
「歩けるか、累」
「え。どこへ? 巌勝さん…!」
不安そうな声色と眼差しは矢琶羽のそれだ。ただ、累はか細い声で「うん」と頷くとローテーブルに手を付いた。
「累」
咄嗟に矢琶羽が手を添えて、ふらつくその身を支える。
「こんなに強い力…初めて…! ごめんね、矢琶羽…」
「いいんだ、気にするなよ」
「ん…!」
「もう古書堂まで来ているのかも知れん。行くぞ」
「古書堂? 古書堂に何かあるの?」
ゆっくりと歩き出した二人に、先を行きながら説明をする。
できれば継国のごたごたには巻き込みたくはなかったが、累の友となればそれも無理なのかも知れない。半ば諦めて全てを話すと、
「そうだったんだ…」
矢琶羽は言葉少なに納得したようだった。
降り出した雨の中、なるべく早く前庭を通過する。時折、耳を劈くような轟雷が鳴り渡った。
『昨夜といい、今日といい、どうしたんだ、天気…継国様が離れているとは言え、怒り狂ってるようだぞ』
古書堂の勝手口を開けて、濡れた服を軽く叩いて中へ入る。キッチンを抜けてカウンターまで行き着くと、
「!」
巌勝の身は波に押されたように、大きく後ろに薙いだ。産毛が逆立ち背筋が凍った。
「み、巌勝さん…!」
矢琶羽が情けない声を上げた。見れば、尻餅をついている。累は辛うじて踏みとどまったようだが、様子を見る限り、固まったという方が正しそうだ。二人とも同じ一点を凝視して、大きく震え始めた。
「累、累!」
「は、は…はい…!」
「矢琶羽を頼む」
懇願するように言うと、累が手に手を包んで何度も頭を縦に振った。
軽く頷き、鋭い視線を出入りの扉に投げるよう振り返ると、
『何奴!?』
カウンターの向こうへと回り込んだ。
気配はこちらを圧倒するほど強いが、禍(まが)い者ではない。
『現世(げんせ)においてここを尋ねてくる者に、これほどの力を持った人物が現れるなど、これまでに一度も…なかった』
断定したのと、扉まで行き着いたのとが同時だった。
刹那、怖気が走り身体が強張った。
二つの…いや、額にも縦に目がある。三ツ目だ。人間ではない。
『開けて…いいのか。刀は、ない…!』
彼…いや、彼女だろうか。分からない。三ツ目と言えど、面立ちは整っている。凄絶なほど美しい。
雨に濡れた前髪が愁眉にかかり、色白な面が夜の帳に映えるようだった。
「!」
中を覗き込むように見開いた目と、かち合った。
足先から脳天まで恐怖が突き抜けて、息を飲む。扉を挟んで見つめ合ったまま、速くなる動悸を聞いた。
『縁壱(よりいち)の結界がなかったら、今頃』
床に横たわる己の姿が脳裏を過ぎって、目の前の主の瞳が恍惚に揺らいだ。悦んでいるように見えた。
『化け物め!』
「巌勝さん…!」
累の声が聞こえた。
我に返る。
醜悪な性格ほどに禍々しい気配は感じない。しかし、巧妙に己を隠す輩はどこの世にも普通にいる。
『気配を信じていいのか。だが、この力…!』
心の内は言葉にはしなかった。不確かな返答ほど、後々悔やむことになる。
『落ち着け。よく考えろ、俺…』
目を伏せた。途端、纏わり付いていた冷気がすぅっと引くのを感じた。
「……」
ゆっくりと呼吸をし、宵闇を傍に描く。三日月の晩が広がっていくのを見ると、心が落ち着いた。いつでも闇は、己の味方だった。
瞼を押し上げると、二度は、彼(か)の者の視線に捕まらなかった。相手を上から下までじっくり見定めて、今度は驚嘆した。
『神…! いや、精霊か…!?』
神ならば、縁壱の方に依頼が行くはずだ。とすれば、閻魔方(えんまがた)か、どちらにも属さぬ精霊の類いとなる。
降りそぼる雨の中でも、纏った羽衣(はごろも)がゆったりと波打っていた。仄白い光が輪郭を滲ませ、暴風雨をぼんやりと背後に照らし出す。着物は白と若草、濃い柳色の襲(かさね)で、袖はない。相撲取りの注連縄(しめなわ)のような太い帯が腰回りを彩り、それも、花萌葱(はなもえぎ)と白い色だ。草履も、草色をしている。明らかに、何かの樹木か、草花の精だ。
『だが、あの瞳。邪眼(じゃがん)じゃないのか』
だとすれば、人で言うところの禍(まが)い者として、邪の道に落ちた可能性がある。
『それとも。怒りに身が染まり始めているのか。人が鬼になるように、精霊が邪霊になろうとしている…?』
こちらを圧倒する威は、厳かな雰囲気を損なってはいない。気配はまだ、神々しかった。
「累。矢琶羽」
巌勝は、一度、彼らを振り返った。動けるほどに冷静さを取り戻した自分に、内心ほっとした。
「はい」
「は…はい!」
矢琶羽も既に立ち上がっていた。二人、手に手を取ってカウンターの向こうにいる。決意めいた表情が見て取れ、少し安堵した。
『信じるしかない』
ここを訊ねてくる以上、放っておけば現世(うつしよ)で悪さをする可能性は大きくなるのだ。
『累が案内(あない)するより早く現れたのが、懸念されるが…』
精霊として意識を保っていられるうちに、『依頼』を聞き出すのが先だと思えた。
矢琶羽達にしても、圧倒的に、経験値が足りない。
いずれそれぞれが己の役目や土地に戻ることになっても、この日の依頼は、無駄にはならないはずだ。
「扉を開ける。恐らく…精霊だ」
「「精霊!?」」
「邪霊になれば取り返しが付かなくなる。問答無用で依頼を受けねばならんかも知れんが、…いいな?」
知らず、口調が厳しいものになった。
二人は何度も頷いて、カウンターを回ってこちら側にやってくる。いい心がけだと思った。
「…」
扉に手を掛け、ゆっくりとノブを回す。鍵が外れて音が響くと、目の前の精霊の口角が、次第にゆっくりと上がっていった。目が見開いて、狂喜が垣間見える。気付いてすぐに、
「! くっ…!」
巌勝は扉を閉めた。はずだった。が、身体が引き波に攫われるように、扉ごと外に吸い出されそうになった。
『なんて…力!』
扉の縁に手をかけ踏ん張ろうとして、掴んでいたノブは自由になった。瞬きする間もなく扉が開け放たれ、眼前で、縁壱の張った結界が大きく波打つのを見る。
刹那、今度は暴風が傾れ込んできた。まるで津波だ。両腕を交差させて打ち付ける雨に耐えると、揺らいだ結界に鋭い音が走るのを聞いた。
『マズい…!』
扉はもう手に届かない。相手がぬらりと目の前に迫った。一層暴風雨は激しくなり、彼の者から放たれ店内に襲いかかる。古書が散乱し、荒れ狂う風に薄いペーパーは幾重にも舞い上がった。
「巌勝さん!」
平台を打ち付ける雨音が、まるで紙太鼓のようだ。矢琶羽だったか累だったか…叫んだだろうに、声がほとんどかき消された。
わずかな間の出来事だった。
『この天気、やはり奴のものか!』
印を組む。瞬時に闇色の覇気が昇って、全身を包んだ。が、
「天地開闢(かいびゃく)、闇の…っ!?」
『ガアアアアァァア!』
精霊の雄叫びで大気が振動し、吹き消された。反動で、部屋の隅まで吹っ飛ぶ。
「巌勝さあん!」
矢琶羽の叫びに、精霊の高らかな嗤い声が重なった。
「っ…!」
『刀さえ、あれば…!』
自分という壁がなくなって、店内に滑り込んできた精霊は、天井をゆっくりと這い回り始めた。髪からも着物からも肌からも雨がしたたり落ちて、樹の匂いがする。見上げた壁に、蛞蝓(なめくじ)のような、這いずり回る痕(あと)が付いた。
「何が目的だ…!」
崩れた壁の瓦礫から這い出ると、巌勝は言いながら立ち上がった。強かに打ち付けた右肩を押さえ、更に呼吸を紡ぐ。
ギロ。とこちらを向いた相手は、
『おとうと… おとうと…』
何度も同じ言葉を口走った。
『おとうと…! おとうと……』
次第に歯が小刻みに上下に噛み合って、カチカチと音が鳴る。
巌勝は、こちらに来いとばかりに、
「弟!?」
声高に叫んだ。
一歩、二歩、ゆっくりと、石竜子(とかげ)のような動きで近付いてくる。
『おとうと…………!』
刹那、今朝のしのぶのメールが頭を過ぎった。
『巌勝さん、昨日、縁壱さんの面に死相を見たの。
本人は至って元気だし、とても…危険が迫っているようには。
一度、様子を見に来てくれますか? お願いします』
「縁壱か…!」
『赦さぬ……! 決して。ゆ る さぬ ぞ……!』
「!?」
それだけ言うと、ふ…と、消えた。
奥の累と矢琶羽が、抱き合ったままへなへなと腰を落とす。泣き濡れた表情が、「巌勝さん」と訴えていた。
『縁壱…! あいつ。何をしでかした…!』
二人を見てはそんな言葉が浮かんで、つい、舌打ちした。
『間違いない。胡蝶(こちょう)が診た死相と、明らかに何か関連がある!』
山を登り糾さないことには、この依頼は、死を招くと肌で感じた。
「累。今夜は傍にいろ。一人離れたところに戻すわけにはいかん」
「でも…母さんが」
「分かってる。お前にも事情があるだろう事は。分かってる」
埃まみれで同じ言葉を繰り返したことに、事の重要性は届いたようだった。言葉を失った少年に、
「累。頼む」
『俺の知らないところで、死なせるわけにはいかん…!』
もう一度、深々と頭を下げた。
驚いた様子が伝わって来、矢琶羽が「累」と涙声になったのを聞いた。
「頼むよ、巌勝さんが言ってるんだ。傍にいて」
「矢琶羽…」
二人の会話を聞きながら、巌勝は、面を上げた。
「俺がお前の傍にいられたら一番いいんだろうけど、今の見たろ。俺が敵うわけない。お前が心配なんだ」
「…分かった、分かったから…!」
累が何度も頷いて、矢琶羽の涙目を拭う。胸に手を当てて何度か深呼吸を繰り返し、落ち着きを取り戻すと、累は、しっかりとした眼差しでこちらを見た。
「巌勝さん、お世話になります。一旦戻って、電話を掛けてもいいですか」
「ああ。もちろん。一緒に戻ろう。しばらく店は閉める。ここの片付けも後だ。一息ついたらすぐに山を登るぞ」
「…継国神社(さん)?」
「そうだ」
『縁壱…!』
ふと、思った。
――赦さない――
彼の者は、確かにそう言った。
『何か禁忌(きんき)を犯したんだ。あの、縁壱が…! 信じられん! 一体何をしでかした!?』
思い巡らすが、何も分からない。当然だ、何もなければ累を送って、その後、確認しに登るつもりだったのだから。
「……」
まるで潮が引くようだった。怒りが形(なり)を潜め、次に打ち寄せたのは不安だった。
『縁壱に、何かあったら…! もしも奴の言うとおり、何か手を出されたら…!』
「とにかく、戻ろう。…立てるか」
足早に二人に寄って、順に手を添えた。
「はい…!」
二人とも、まだ小刻みに身を震わせていたが、そっと片手ずつに手を乗せると立ち上がった。
「巌勝さん…」
両脇から見上げられ、
「何があっても守る。必ず」
揺らぐ眼差しをしっかりと見つめ直した。
二人が微かな笑みを浮かべて頷いた。
震えが少しずつ収まっていくのが、何よりだと思った。