第七話:沙羅双樹
・弐・
~椿の章~
湿気を払うために、朝早く、古書堂の窓を開け放していた巌勝(みちかつ)は、昼を過ぎて店に戻ってきた。出入りの扉を先に開け放つと、室内へと戻る。
扉に近い窓から順に閉めていった。
『今朝の胡蝶(こちょう)のメール。気にはなるが…』
事の次第を聞いて心配にはなったが、弟のことだ。そう簡単に命を奪われはしないと思う。念のため『午後にはそちらに向かう』とその時は返して、矢琶羽(やはば)の帰りを待つことにしたのだった。
『やはりというか、当然と言うべきか』
彼の中間試験の結果は頑張りほどについては来ず、矢琶羽は、土曜日も登校せざるを得ない状況だった。
それもそうだ、通い始めたのは最近である。
「ま。あいつは素直だし努力してるからな。しばらくは仕方ない」
どれだけここにいるかは分かりかねたが、いる間だけでも、温かく見守ってやろうと思った。
「次の会合で戻ると言い出したら、…淋しくなるな。まあまだ、朱紗丸(すさまる)の件が残っているが」
三カ所目の窓を閉めるところで、庭の濡れた地面が目に入った。
意識がそこへと戻ってきて、
『夕べは凄い雨だったな…』
動きが止まった。
道路なら、今はすっかり乾いている。傾いた日差しを仰いで、スッキリした青空を目に収めると、ふう。と嘆息をついた。
日の陰りと共に冷たくなっていく空気の出入りを全て阻んで、最初に開け放った扉へと歩を進めた。
外の様子にしばし佇む。ゆっくり身が傾いて、左肩が出入口の縁に当たると腕を組み足を交差させた。道行く人を眺めた。
雨上がりの空気は、心持ちも陽気にするようだ。
普段この辺りは――桜町(さくらまち)の外れということもあって――閑散としている。週末だからだろうか。今日は割と波を目にする気がした。
締めようと何気なく扉に手をかけて、
『室内にいるなら、たまには開け放っていても大丈夫か…?』
開けっ放しにしていても、人には見えない結界が張られたままだ。結界を張る時に、縁壱(よりいち)が、
「空気を入れ換えたい時もあるでしょうから」
と、気を利かせてくれたのだった。
見えない壁はそのまま私邸の方まで続き、庭をも含めてぐるりと囲うように張られている。
『やめとくか。縁壱のことも気になるし、万が一と言うこともあり得る』
既に懸念材料が胸にあるのだ。平時ならいざ知らず、試したこともない危険なことに、自ら進んで飛び込む必要はない。
再び締めようと扉を引きかけた時。
「あの」
女子大生だろうか。
張りのある艶やかな声色に、視線を落とした。発言したのは見上げてくる眼鏡の子の方だろう。くっきり縁取る赤い口紅の色が、性格を物語る感じがした。
一歩控えた彼女の方は、少しそわそわとしている。
気の強そうな方に軽く微笑みながら「何か」と問うと、
「軽食が食べられる古書堂って、こちらですか?」
『えっ』
それは確かにそうなのだが、今までに尋ねられたことなどない。
瞬時に隣の子が頬を染めて、俯き加減になった。
『…』
「いえ。違います。もてなしも出来ず申し訳ありませんが」
ずり落ちそうになる眼鏡を軽く押し上げながらにっこり微笑むと、きっぱり断った。が、ずい。と、一人が中を覗き込もうとする。驚いた拍子に身を仰け反らせると、もう一人が慌てて、
「いいって! ね?」
先程とは比にもならないほど真っ赤になりながら、積極的な友人の上着を強く引っ張った。
「あの。えと。ごめんなさい…!」
ますます茹で蛸のようになっていった彼女の脇を、ふと、
「ただいま~! 父さん!」
矢琶羽が駆けて中に入る。
「こんにちは! おじさん。お邪魔します~」
続けて、累(るい)だ。
呆気に取られた顔が目はこれでもかと見開いたまま固まって、彼らの走り去る方を見ると、
「うそ…子持ち?」
「それも、かなりおっきい…」
背後から耳を疑うようなセリフが聞こえた。
『ちょちょちょ』
硬直した身が解ける前に、気が動転する。
だが、矢琶羽がひらひらとキッチン奥から手を振るのを目に収めると、
『ああ。ああ、あああ…なるほど』
得心した。
とは言え、丸々納得は出来かねた。
若干額に青筋を立てながら振り返った時には、女子大生の方が固まっていて、心底、
『あいつら…!』
なんとも言えぬ感情が湧いた。
「すみません。子供達も帰宅してしまったので。店を閉めたいんですが」
苦い笑みのまま声色低くなった。
怒りの矛先は彼らにだったが、目の前の二人は自分らのことと感じたようで、
「す。すみません…」
赤べこのように何度も頭を振ると、立ち去って行った。
一人が泣き出し、一人が「元気出して」と言うのを苦虫を噛み潰して聞く。無理矢理扉を閉ざして鍵をかけると、
「お前ら…!」
振り返るが、腹を抱えて大笑いしていた。全く悪びれる様子などない。
『ああ…っ…まあ、助かったと言えば助かったんだが…なんかこう…』
釈然とせん。
と。思った。
しっかり扉が閉まったところを確認して、矢琶羽がひょこっと出てくる。
「ね! 累。家、通していい?」
明るい声色に溜息が漏れた。「仕方ないな」といった表情に、矢琶羽がにかっと笑う。
巌勝は両手を腰に当てると長い息を吐いて、
「なんだ、今日はこっちで勉強か?」
「うん!」
「そうか。ま、ゆっくりしていくといい」
「やった!」
『縁壱の様子を見に行くのは、累が帰ってからだな』
行こう、と累を誘う矢琶羽の声が響いて、巌勝も後を追った。
不意に、スマートフォンが鳴る。
着信音に笑みが零れた。この音源はメールではあったが、一人だ。スラックスから取り出すと画面を眺めて、
「…空明(くうめい)」
優しい面持ちになった。
内容を一読して、一旦閉じる。既に姿のない二人を追ってキッチンを足早に抜けると、勝手口もしっかりと戸締まりをした。
「ん?」
空を見上げて疑問が湧く。
『先程まで、あんなに晴れていたのに』
今ではもう、一雨来そうだ。
この季節は降り出すと、長丁場になる。昨夜だってそうだ。
『昨日は雷まで鳴ってたからな。今日もあんなにひどくならないといいが』
累の帰り道が心配になった。
「まあ、あんまり降るようなら車で送るか。そのままお社へ行けばいいんだし」
よし。と吐息を漏らすと私邸の玄関を開けて、革靴を脱ぐついでに下を何気なく見る。
「…ははっ」
思わず笑みが零れた。鼻下に人差し指がいき、笑い収める。
きっと後から上がった累が、直したに違いない。
矢琶羽の靴も彼の隣に、つま先を玄関へ向けてちょこんと揃えられていたからだ。
『良かったな…矢琶羽。累も。どこで何の縁が繋がるか、わからんものだ』
ダイニングに戻ると、二人、談笑しながら卓上に教科書やノートを鞄から取り出している最中だった。
「紅茶。淹れようか。ジュースとか。冷たい方がいいか?」
「あ! ううん、巌勝さんの紅茶がいい!」
矢琶羽が満面の笑みで両手を挙げた。
累もこちらを見て、こくんと頷く。
シンクの下の棚からケトルを取り出すと、矢琶羽が駆け寄ってきた。ソファに飛び乗って、カウンターに両手をついてこちらに顔を出す。
「今日さ、隣の高校にパトカーが沢山来てたよ?」
矢琶羽が話し出すと、累も傍に寄って隣に並んだ。身を乗り出して雁首を揃える。
その様が親鳥の餌を待つ雛のようだ。巌勝は内心でくすりと笑みを零すと、
「あの有名な進学校か?」
豪快に水を注ぎながら返答し、ケトルを火に掛けた。茶葉を取り出しに背中を向けて棚を眺めると、矢琶羽の声がする。
「うん。梅(うめ)ちゃん情報によると、なんかさ、その学校のOBが事件起こしたらしくて」
「そうか」
二人にはあまり苦みのない、矢車菊(やぐるまぎく)のアールグレイを選んだ。
古書堂に違和感はなかった。戸締まりをした時まで、一応、平穏無事だ。
『なんの気配もしなかったんだ、今日は依頼主は現れないだろう…いや、待てよ。胡蝶のあのメール…まさか。縁壱の方か? 依頼主が現れたのは』
何より二人には、そこが幽世(かくりよ)に関わる重要な場所だとは、まだ教えていない。
『累は案内人(あないにん)だ。いずれ話さねばならんだろうが…』
二人の明るい顔を見ては、若干気が引けた。同じ鬼だったとは言え、二人はまだ幼い。あまりあの世の理(ことわり)に巻き込みたくはなかった。
『今更だが…』
考える振りをして、ポットも選ぶ。
椚(くぬぎ)の形をした透明なポットを取り出すと、元の位置に戻った。
「面白い形だね。それ…柿?」
累が目を輝かせながら手元のポットを見ていた。
「どんぐりだよ」
「え? どんぐり? どんぐりって先が尖った細長い形じゃないの?」
矢琶羽も首を傾げる。
「そう言うのもあるが、平柿(ひらがき)みたいなずんぐりとしたどんぐりもあるんだ。先が尖っていたらポットにならんだろう」
「あ。確かに」
矢琶羽と累の笑声が重なる。
茶葉を入れて用意する間に、累がしれっと言った。
「…ね。巌勝さん。僕の方にもまだ、『依頼主』の気配はないよ?」
「!」
正直驚いた。
『聡い子かも知れん』
これまで彼が送ってきた『依頼主』を思えば、きちんと選別もしているのかも知れないと思った。確認し、念を押す必要はあると思うが。
巌勝は大人びた彼の方を向いて、
「お前はどうやって、依頼主を俺の所まで案内するんだ」
「うん…手鞠がね、音を出して教えてくれるの。頭の中に直接。しゃんって手鞠の音が聞こえるんだ」
「へえ…」
感心したのは矢琶羽だ。どうやら彼も、詳細は知らなかったらしい。
「授業中でも鳴るからどきっとするけど、意識を飛ばすとね、呼んでる人の所に行けるんだ。幽体(ゆうたい)が。鬼の姿だけど」
「…便利だな」
「閻魔(えんま)様がそういう風にしてくれたんじゃないかな?」
「なるほど」
言いながら、湯気を噴き始めたケトルを宥める。沸騰する前に火を止めて、茶葉に直接当たらないように、椚を少し傾けてお湯をゆっくり注いだ。
適当な量を淹れると、傾きを元に戻す。
茶葉が踊り広がって、ポットが色づいていった。より、どんぐりらしい輝きを放つ。
「わあ…綺麗だね」
累が魅せられて声を上げた。
「巌勝さんの紅茶、美味いんだ。料理も上手なんだぞ」
「なんでお前が偉そうなんだ」
「えへへ」
「あはは!」
「ほら。戻る戻る」
「「は~い!」」
わいわい言いながらローテーブルに戻る彼らに笑みがこぼれて、巌勝は、ティーカップを棚から出した。
クッキー缶をも取り出して、トレーに乗せると運びつつ、
「まあ、依頼がないなら何よりだ。あまり現世(うつしよ)で彷徨ってほしくはない」
「それもそうだよね」
「そうだ、累」
「はいっ」
巌勝は声を上げた。ワントーン上がったのに、累が返事をしながら少し飛び跳ねた。
「お前、これからも、手当たり次第こっちに送ってくるなよ? 俺はな、便利屋じゃないんだからな」
「え。今更?」
答えたのは矢琶羽だ。
累は若干きょと。と目を丸くしている。
「いや、一度釘を刺しておこうと思ってたんだ。あの唄が閻魔の仕業じゃもうそれは止めようがないが、生き霊とかな、やめてくれ。心臓に悪い」
「巌勝さん、累だからまだそれで済んでるんだと思うよ?」
「何…?」
「朱紗丸になったら多分、休む間もなくなると思うな。それこそ相談に来る人みんな、送ってくるんじゃね?」
「勘弁してくれ…」
「あはは」
矢琶羽はクッキーを一つ手に取った。
彼の口元から軽やかな音が響いて、バターの香りが広がる。次いで、巌勝の手元から芳しい紅茶の香りが燻り、三人を包んでいった。
ティータイムの間だけ賑やかな笑声をダイニングに響かせた矢琶羽達は、その後はしっかりペンを握っていた。
時折累に話しかけてはヒントを貰い、丁寧に問題を解いていく。真剣な眼差しに半ば感心して、巌勝は、邪魔にならないよう、そっとテーブルの方へ戻った。
一つ、二つ、と課題が終わる頃。
突如、遠雷が響いた。
あまりに突然の音に、巌勝すらも一瞬身が縮んだ。三人共に同じ方を向いて、遠く響く雷に耳を澄ます。
「今日も降るのかな」
「昨日もこんな時間からじゃなかった?」
「そう言えば…そうかも。俺、丁度下校時間だったし」
矢琶羽が壁際の時計を見上げた。
時刻はそろそろ十七時(酉の刻)。魔の刻(こく)だ。
『……縁壱…』
「あとこれだけやっちゃおうよ、矢琶羽。そしたら明日のお休みが楽だよ」
「そうだね!」
二人同時に机に向かって、また、何やら相談しながら勉強を始める。
巌勝は窓辺に寄って、ぽつり。ぽつりと降り始めた空を見上げた。
『…雲が重い』
次第に雷の音も、近付くようだ。
何となく嫌な予感がして、だが、二人に気取られないように、
「電気を点けるな」
言いながら先にカーテンを引いた。
「うん!」という矢琶羽の返事を聞いては壁に戻り、スイッチに手を伸ばす。
が、小気味良い音が響いたにも関わらず、ルームライトは、二三度チカ…と瞬いた後、点かなかった。
「…ん?」
巌勝の心の臓は、早鐘を打つようだった。二人が不思議そうに、ライトを見上げていた。