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​第七話:沙羅双樹

・弐・
 ~躑躅の章~

 座敷に置いたままの白いスマートフォンが、今日何度目かの悲鳴を上げた。

「はいは~い!」

 慌てた声で返事をしたのはしのぶだ。

 アルバイトにやってきた足が、社務所(しゃむしょ)に向かわせタイムカードを押し、着替えようと廊下に出たところだった。遠く鳴る音に気付いて、割と全力に近い足音を響かせる。

 どれだけのコールが響いたか、恐らく、切れる寸前ではないかと思った。

「もしもし!」

 知らず大きな声で、通話を繋げた。

「継国(つぎくに)神社巫女見習い、胡蝶(こちょう)しのぶが承ります」

『お。胡蝶か』

「あれ? 悲鳴嶼(ひめじま)さん?」

 苦笑いが零れた。

 取るのに必死で、ディスプレイはよく見なかったのだ。

『縁壱(よりいち)は? いないのか』

「あ。いますけど、今日は夕方まで本堂から出られませんよ。お受験合格の祈祷の予約が入っていて、それに対応なさってます」

『そうだったのか…通りで』

「急ぎです? 折り返すようにお伝えしますか」

 電話の向こうで逡巡する様子が感じられた。

 こちらの都合も分かればこそ、無理を言えない感が伝わってくる。縁壱の神主(かんぬし)の業務については、都合を付けられるのは本人だけだ。

 やがて、

『今日中にもらえれば大丈夫だ。出来れば明日以降の予定を確認してから連絡をくれるか。空いている日があれば、…出来れば一日。時間が欲しい』

「珍しいですね、縁壱さんに予約なんて」

『それがな…お祓いの依頼なんだ』

「え!」

『そのつもりで折り返してもらえるよう、伝えてくれ。詳細は縁壱に直接話すから』

「分かりました。必ず伝えます。確実なのは十七時以降の折り返しですけど、本堂の様子は見てきますね」

『助かる。頼んだ』

「はい」

 返事と同時に相手から通話が切れた。

 耳に入る「ツー、ツー」という機械音に、動きがしばらく止まる。

『悲鳴嶼さんがお祓いなんて。余程の事じゃ…』

 胸騒ぎがして、ゆっくりとスマートフォンを卓上に置いた。

 画面を見つめては履歴に二十数回の着信を告げる数字が赤く残っており、生唾を押しやる。

『どうしよう、』

 刹那時計を見上げた。着替えの時間も残り僅かで交代の時間がすぐそこまで迫っているのを知って、

「しのぶ! お帰り~のただいま~」

「姉さんっ」

 遅れて登ってきた姉に、安堵の吐息が漏れた。

 ただならぬ気配を察したのだろう、カナエが真顔になって「どうしたの?」と問いかけてくる。

「縁壱さんに緊急なんだけど、ええと…アルバイトももう始まっちゃう」

「! 分かったわ」

 姉はにこりと艶やかな笑みを零すと、

「授与所(じゅよじょ)は気にしないで。取り敢えず本堂に行ってらっしゃい。事務方(じむかた)には私が話しておくから。一度見てくれば安心するでしょう?」

「姉さん…! ありがとう」

「いいのよ~。ほらほら早く!」

「はあい!」

 両手で背中を押され、しのぶは鞄を壁に寄せて置くと本堂へと向かった。急ぐ仕草に制服の裾が跳ねて、時折美腿が顕わになった。

 彼女がそれを気にする様子はなく、

『鬼灯(ほおずき)旅館のこともあったし、またひどいのじゃないといいんだけど…』

 思うと、喉が渇くようだった。何か、どこか、嫌な気配のする放課後だった。


 本堂の柱の影に両手を突いて、そ…と顔を出してみる。

 祈祷を願う家族達の背後をしっかり取ったようだ。ゆっくり中を見回すと、正装した縁壱の後ろ姿が見え、丁度、一息ついたところのようだった。

 彼がゆっくりと家族の方を向き、同時にこちらに気付いた。

「っ!?」

 すんでで声は飲み込んだ。だが、口元に手を当てずにはいられなかった。

『縁壱さんに、死相(しそう)!? 嘘よ! 継国の神主よ? 誰より祝福されてるはずだわ神様に!』

 一瞬、目が合ったように感じられた。しかし、縁壱の顔が変わることはない。真摯な面持ちで家族に向き合った姿に、

『落ち着いて…。大丈夫、気取られてない。でも。どうしよう…! 話した方がいいの!? 縁壱さんなのに!? 継国の、神主なのに…!?』

 あり得ない。と思った時、縁壱の優しい声が聞こえた。

「それでは一旦、休憩にしましょう。長らくお手間をかけますね」

 恐縮しきって、家族が言葉を返している。

 それにもゆっくり頭を下げた彼を見て、しのぶは身じろいだ。正面脇の廊下へ移動しようとした足が、震えているのが分かる。

 縁壱がこちらの移動を察してくれ、廊下に出たところで、しのぶは瞼を伏せ呼吸を整えた。

『落ち着いて。話すなら…相談するなら、巌勝(みちかつ)さんにだわ』

瞬時に、顔に笑顔を戻した。

「お帰りなさい、しのぶさん。どうしました?」

 烏帽子(えぼし)を被り、空気を沢山孕んだ装束に身を包むと、縁壱の穏やかな風体が殊更際立つ。親身な面立ちに平常心がしっかり戻って、しのぶは、別の緊張を面(おもて)に湛えた。

「はい、お忙しいところすみません。悲鳴嶼さんから縁壱さんのスマホに何十回も連絡があって」

「おや。それは…何かありましたかね」

「どうやらお祓いをして欲しいそうなんです」

「え? 悲鳴嶼さんが?」

 縁壱の表情も微かに変わった。

「詳細は直接話すって仰ってました。夕方以降の連絡で構わないそうです、一日時間の取れる日を教えて欲しいって」

「それは…どうやら余程大変なようですね。一日って言うほどですから、神社に来るのではなく、私がどこか、赴かなければならなさそうです」

「そう言えば。確かに」

『もしかして。死相。そのお祓いに関係するんじゃ…!』

「分かりました、」

 縁壱がそこで一旦言葉を切った。

 若干の間を置いた後、

「こちらも後少しで終わりますから、もしまた連絡が入るようでしたらその旨伝えて理解頂いて下さい。手間をかけてしまいますが、スマホはしのぶさん。持っていてくれますか? こちらが終わる頃には授与所も閉じる頃でしょう」

「はい」

「言伝(ことづて)ありがとうございます、頼みますね」

「はい!」

 縁壱の淡い微笑みに、しのぶは多少狼狽した様子で吐息を漏らした。それは、彼は、単に緊張と取ったようだ。

 一礼する間に縁壱も会釈をし、本堂に戻って行った。

『縁壱さん…』

「さ。続けましょう。あと一息ですよ」

 家族に声を掛けて中央に佇んだ、縁壱の麗しい声が聞こえ始めて、

『これまでだって、死相が出ててもすぐに死が訪れてきていたわけではないわ。第一、いつから出てたの? 縁壱さんが鏡を見た時気付かないなんて事がある? 或いは、死の気配にだって』

 脳裏に、『南條あかね』の事件のことが過ぎった。夏場、キャンプに行った時のことだ。

『そう言えば、あの時の真希(まき)ちゃんの死相。縁壱さんは一週間前には気付いてたけど、私には見えなかった。だから、未来はまだ確定してはいなかったって、あの時縁壱さん。話してた』

「大丈夫、縁壱さんが気付かないほどなら、まだ時間はあるはずだわ。とにかく今日のバイト! 姉さんに心配かけちゃう」

 しのぶは『よし!』と、心の中で気合いを入れた。

『でも、なんで…』

 荷物を置いた座敷に戻る。

『真希ちゃんの時は、縁壱さんには見えて私には見えなかった。なんで今回は、縁壱さんに見えなくて私に見えるの? あの子。勇仁(ゆうじ)くん。ああでもあの時は、縁壱さんが勇仁くんと会ったのは、巌勝さんが助けてからだった』

「分からない…」

『大体、見える見えないに理由なんてあるの? 死の未来が確定してるか否かだけ?』

 一人問答を続けていたしのぶは、時計の「カチ」という小さな音に我に返った。

「いけないっ。とにかく、授与所に行かなきゃ!」

 しのぶは一旦諸々を頭の隅へやった。

 急いで着替えて、授与所に向かう。

 その後は、縁壱が言ったとおり、しっかりと職務を全うしたのだった。



 その夜、新胡桃市(しんくるみし)は、…いや、継国地方一帯は、少し早い冬の稲妻の到来に気温が一気に下がった。

 激しい雷雨が一晩中続き、縁壱は、

「……嫌な予感がしますね…」

 本堂から麓を見下げ、遠く新胡桃市の方角に、雲間を走る無数の稲光を見た。

『悲鳴嶼さんのお祓いとこの気象。なんの関わりもなければ良いのですが』

 折しも、継国の山神様(やまがみさま)は出雲(いずも)へと出張中だ。あと数日で戻るはずだが、今なら、禍(まが)い者が暴れようと、或いは残された他の神々が羽目を外そうと、咎める者はいない。

 それは何も継国に限ったことではなく、出雲以外のどの地域にも当てはまることではあった。が、少し前の金比羅(こんぴら)での憂世(うきよ)騒動を今の縁壱は知る由もなく。

 夕刻行冥(ぎょうめい)から聞いた話をずっと、反芻していた。

「縁壱さん。そろそろ寝た方が。日付変わるよ?」

 背後に甘美な声が聞こえて、縁壱は振り返った。

 パジャマ姿の姉妹が燈台(とうだい)を持って、心配そうにこちらを見ている。

 社(やしろ)の業務が終わる頃には麓(ふもと)は嵐になってしまった。明日は週末と言うこともあって、二人は泊まることにしたのだ。ちょうど、自分は行冥に会いに沙羅双樹の丘へ向かわなければならないし、社は二人に任せようと思い立った。

 姉妹はそっと隣に並ぶと、

「明日は止んでるといいわね、あの嵐」

 新胡桃市の方を見て、カナエが言った。

 しのぶも頷いて、

「珍しいよね? 継国はあまり激しい天候に見舞われること無いもの。やっぱり神無月(かんなづき)なのが影響してるのかな」

「けどそうだとしたなら、悪い神様もいるものね~」

「ホントね。継国様ご不在の時にちょっと狡(ズル)いよね」

 何気ない会話に、縁壱はくすりと笑みを零した。

 きょとん。と姉妹が見上げて来、

「当たらずとも遠からず…かも知れませんよ。明日行くのは、沙羅双樹の丘ですから」

「沙羅双樹の丘…あの、大楠(おおくす)の樹があるところ?」

「ええ」

「縁壱さん。お祓いの依頼って、あの樹なの?」

「それがどうも…釈然としない内容で。一度確認を取った方がよさそうなので、明日の都合を付けました。早い方がいいでしょうしね」

「そっか…」

「気を付けてね? 縁壱さん。なんだか嫌な予感がするわ…」

 カナエが身を震わせて言った。

「ええ。ありがとうございます。大丈夫ですよ」

 縁壱は微かに首を傾けると、続けて、

「さ。寝ましょうか。呼びに来て下さったのですよね」

笑顔を見せた。

 カナエがにっこりと笑みを浮かべ、しのぶの手を引く。戻ろう、と駆けて行く姉妹の仕草に、縁壱は、

『本当に。二人いてくれるだけで、このお社は明るくなりますね』

 辺りが浄化されていることなど、きっと彼女らは気付くこともないのだろうと、小さな吐息を漏らした。

 廊下を行く途中で、何気なくもう一度、新胡桃市の方を見に立ち止まる。

「……」

 縁壱は、奥の寝室へと向かった。



 翌朝は陽が昇った。

 どこまでも広がる蒼穹に暁光(ぎょうこう)が差して、縁壱は、思わず掃き掃除の手を止めた。新胡桃市の方を見る。変わらぬ空の様相に、胸を撫で下ろした。

「おはようございます!」

 社務所の裏の方から声がした。

 はっとして振り返り、現れた、独特な髪型の青年に笑顔が零れる。

「おはようございます、玄弥(げんや)さん。お待ちしていましたよ」

「無理を言ってすみません、お迎えに上がりました」

「いえいえ。こちらこそ助かります、軽トラでは乗り入れは出来ないでしょうし」

「そうなんですよ。あの辺り一帯は、一般車両は今日もまだ入れないので」

 縁壱は頷きながら、社務所へと戻っていった。

 途中、蔵の方へ寄り、竹箒(たけぼうき)を逆さに立て掛ける。襷掛(たすきが)けの紐を解きつつ社務所の勝手口を開けると、

「あ! おはよう、縁壱さん!」

「縁壱さ~ん! おはようございます!」

 花が綻ぶような微笑みと踊るような二つの声が聞こえて、既に巫女姿の胡蝶姉妹を見つけた。

「朝早くからすみませんね、二人とも」

「ううん。大丈夫! 縁壱さんこそよく眠れた? 今日は気を付けてね」

「帰りはお昼頃? 作って待ってるから何かあったら連絡してね」

「まっすぐ帰ってくるのよ~?」

 玄弥の姿を見ては時間もないと踏んだのだろう、矢継ぎ早に声を掛けられ、返答の間がない。

 嬉しくなって微笑むと、纏めて返事されたと分かったのだろうか。姉妹が肩を寄せ、首を傾けてこつんと側頭を合わせる。これも了承なのだろうと思った。

『二人が行儀見習いに来るようになってから、もう随分と経ちました。あの頃はまだ、幼子でしたのに。これも以心伝心ですかね』

「さて。それでは行きましょうか、玄弥さん」

「はい!」

 居間に寄ってスマートフォンを取ると、それを懐深くに仕舞う。

『そう言えば。兄上からは何も連絡がありません。今回は、悲鳴嶼さんが『依頼主』でしょうか…』

 勝手口まで戻ると、しのぶが、

「縁壱さん」

 呼び掛けに振り返る。と、その隣、カナエに抱えられている物を見て当惑した。

 しのぶが続ける。

「持って行かなくて大丈夫?」

「しのぶと相談したの。昨日の悪天候も嫌な予感がしたし、念のためって」

 継国様も認める姉妹の気遣いだ。

『言われてみればそうですね』

「ありがとうございます、しのぶさん。カナエさん。抜かなくていいことを祈りつつ、念のため持って行きましょう」

「ん…」

 カナエの温もりの宿ったそれを受け取って、縁壱は紐を肩から腰へと回してかけた。柄が肩から顔を出して、袈裟(けさ)に背負うとほんの少し違和感を覚える。

『腰に差せないことが辛いですね…馴れとは怖いものです』

 心の内で苦い笑みを零して、縁壱は、カナエとしのぶを順に見た。二人とも多少不安の色が濃かったが、

「大丈夫」

 やんわりと微笑む。

「様子を見てくるだけですよ。お社の方、宜しくお願いしますね」

「「はい!」」

 二人共に気合いの籠もった返事で、縁壱の表情が綻んだ。

「お待たせしました」

 玄弥に見向き、軽く頷き合う。

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