第七話:沙羅双樹
・壱・
~椿の章~
さして標高があるわけでもないが、ここまで登ると地表よりは天の方が近い気がした。点在する岩場に飛び乗って眼下を望むと、瀬戸内海が目に入る。海を見つめていれば潮の香りまで届くようだ。
「やはり…誰かが立ち入ったようだ」
背後で友が言った。
黄金色の、獅子の鬣(たてがみ)のような髪の男だ。毛先は朱く、これで地毛だというのだから「お前何人だ」と問いかけたくもなる。頭頂部辺りの髪だけ軽く一つに束ねていて、後は流していた。
友の姿はスーツに日本刀という、奇妙な出で立ちだ。
対する自分も似たようなものだが、柔道着なだけマシだろうと思う。帯刀はしていない。素手が武器だからだ。大体、「山登りになるな」と言ってきたのは彼の方なのに、何故そんな格好で今朝、合流したのか。
『こいつは時々天然なんだよな』
岩場から彼を見下ろして、小さく肩を揺らした。
「煉獄(れんごく)」
飛び降りて、彼の側に行く。
彼は神域(しんいき)の出入りの岩扉の前で、腕を組み何やら考え込んでいた。
「…御館様には、この先の立ち入りの許可は頂いていない」
「ま、そうだろうな。確認が指令だったからな」
「だが、扉が開きかけてる」
嫌な予感がした。
正義感余って突っ走るのも、こいつの癖だ。
多分に、「行こうか」の一言を待っているのは分かった。じっ。と、ぎょろ目がこちらを向いたからだ。
『勘弁しろよ…』
思うが、彼はにかっ。と笑うと、
「行くか!」
「待てコラ!」
「止めるな狛治(はくじ)。このさ…」
「「!」」
取っ組み合いになって押し問答が続くかと思われた矢先。同時に八時の方向を見た。鋭い視線が山の稜線を舐める。
「! 禁域(きんいき)を出ようとしてるぞ!?」
叫びながら、煉獄が駆け出した。
同じく狛治も、弾が飛び出るように岩場を跳ねた。一息に距離を稼いで山を降りて行った。
急な斜面を駆け降りながら、煉獄が叫んだ。
「金比羅(こんぴら)の防人(さきもり)は何してるんだ! こんなことが毎度毎度続いたら、四国一帯はあっという間に憂世(うきよ)に支配されるぞ!」
「だから言ってるだろ。金比羅に防人は今不在なんだよ! お前が後を継いで腰を落ち着ければ良いだろ!」
「俺は傭兵(ようへい)だ。いずれは東国(とうごく)に帰る。産屋敷(うぶやしき)一族の剣なんだ!」
「今時傭兵とかよく言えたな! 頭おかしいだろ! 物見遊山で全国回ってるだけのくせに!」
「狛治!」
「分かってる!」
山は中腹まで降りて、互いに目配せをした。瞬時に左右に飛び散って、標的を囲うように挟み込む。
次第に辺りの草花が、萎れていく様が目に映り始めた。
「ちっ…!」
神域の岩棚の奥から溢れた禍(まが)い者が、この時ばかりと生気を吸っているのだ。
『このまま命を吸われ続けたら、禁域の山が枯れる…!』
岩戸も樹木も、この山ではお役目を果たしている。『封印』だ。力ある禍い者を閉じ込めたそこを『神域』と言い、この辺り一帯の山を『禁域』と呼ぶ。それは、ひとえに、贄(にえ)となった巫女を讃えて忘れないためだ。
もう数百年も昔。
その巫女は、死渡(しと)達が集めた禍い者を閉じ込めた岩戸の扉を、自らの身を贄として、内側から門を閉じたのである。
『岩戸の姫…!』
以後、金比羅に仕える歴代の死渡は、この伝承を学び、禁域を護ることこそが第一の使命となった。
死渡や舞姫達の幾重にも折り重なった祈りは、禁域全体を包む結界となっていった。だが、閉じ込められた方とて、長い年月、怨嗟と恨みを繰り返し呟きながら増長させてきたのだ。
突如、轟音が辺りに鳴り響いた。銅鑼を叩いたような、低く太く重みのある音だ。
「結界に体当たりしてやがる…!」
何度も打ち付けるでかい図体に、大地が揺れ始めた。規則正しくぶつかるために、天地が共振し始める。
「ヤ…バい…!」
言う間に、煉獄が一足早く辿り着いた。
「っはあ!」
刀を振り放ち、業火が迸る。空気が焼けて辺りに火の粉が舞った。
「森を焼くなよ!」
「御意!」
「御意って!」
思わず苦笑った。
連呼してしまうが、彼はいたって真面目だ。
低く踏み込み身の丈三倍はあろうかという禍い者の腿を裂く。
『ギャアアアアア!!』
絶叫が轟いた。激痛にもんどり打って跳ねた軀(からだ)が大地に降りたとき、こちらの身が軽く天を翔るほどの音と振動が襲う。
「この揺れ…! 海を渡ったぞ!?」
「どうせ関係者にしか感じられん! 気付いても出雲(いずも)や京(みやこ)辺りまでだ、大丈夫!」
煉獄の焦りに答えて、狛治も駆けて構えた。
「ぐぉお!」
拳から烈風が巻き起こる。金比羅の死渡、狩人(もりびと)である彼の風には、禁域の方が反応した。木々や草花が、身を捩り根を足にして、避けては狛治の為に場所を空けたのだ。
煉獄が目を見張った。
彼が二太刀目を袈裟に振り放ったとき、禍い者が避けようと身を捩る方へ回り込む。
「そっち行ったぞ!」
「任せろ!」
奴が気付いて目を皿のようにし、首を回してこちらを見たときには、拳は波動を産み相手の心の臓を貫いていた。二度目の断末魔が天地に轟く。
「ぬおおおおお!」
そのまま肩へ肉を裂くように拳を抜いて、返す手刀で頚を刎ねた。
途端、禍い者は塵と化す。
はらりはらりと灰色の塵が宙を舞って、二人は
「「ふう」」
と、吐息を合わせた。
「抜け出たのはあれだけか…?」
「どうやらそうみたいだが…」
互いに刃を収めながら、傍に寄る。
狛治は山頂を見上げて、
「早急に舞姫に再封印を願わんとならんな。うちの舞姫で事足りれば良いが」
「西日本は秋の会合がそろそろだろう。京(みやこ)の舞姫に頼んだらどうだ」
「それは最終手段だ、金比羅は自治を許されてる。長い年月をかけて諸国や幽世(かくりよ)と信頼関係を築いてきたんだ、一つの依頼が支配に繋がらんとも限らん」
「そうは言うが、何かあってからでは遅いだろう」
言いながら、二人は帰途に着いた。『御館様』と呼ぶ、金比羅の宮司に報告をするためだ。
煉獄が続けた。
「継国(つぎくに)は京の管轄に入ったと、産屋敷(こっち)では専らの噂だぞ? 何やら双子の宮司が、京の盾と矛だと聞いたが」
「ちょっと違うな。黒…いや、巌勝(みちかつ)だったかな。会合に来る方の死渡が、舞姫と恋仲なんだ」
「へえ!」
「継国は特別だ。あそこは双子がそれぞれに、天照(あまてらす)とも閻魔(えんま)とも直接話せる。神々が味方なんだ、京を…彼女を守る為に宣言したんだと思うよ」
「なんか…複雑なんだな? 西日本」
「東もだろう。射水(いみず)は産屋敷を裏切って継国に付いたんだ、一筋縄ではいかないぞ、お前の所も」
「あ~、そうだったな。ま、俺は、御館様の為に剣を振るうだけだ」
「明快なことで」
「単純なのが一番いい!」
「お前が『死渡』に拘らないのも、分かる気がするよ…」
『もっとも、お前が死渡だったなら、こうして話は出来ていなかったかも知れんがな…杏寿郎(きょうじゅろう)』
狛治は伏せ目がちに項垂れて、苦笑いを零した。
『あの頃も、今も、俺の誘いには乗らん…こいつは。一本気なんだ』
禁域の外れまで行き着き、石でできた大鳥居を潜ると、二人は振り返り辞儀をした。身を起こした狛治は印を組む。禍詞(いみことば)が謳うように風に乗って、辺り一帯の空気が一瞬、波のように揺らいだ。
「…結界か?」
印を組み終えると、すかさず煉獄が尋ねてきた。
「お前さ…」
「ん?」
「そこまで見えてんなら、大人しく死渡の跡継げよ。なかなかいないんだ、素質ある奴って」
「だから言ったろ? 俺は産屋敷の剣士。無理だ」
「…はあ。不思議だよ、お前があの地方の死渡でないなんてさ」
「もっと若いのが頑張ってるからな!」
「あ、そ」
なら尚更。と思うが、その先はもう、口にすることはやめた。彼が来てからずっと、この問答は続いている。何度言葉を交わそうと、食い下がろうと、ここから先発展することはないのだ。
『あの頃の鬼狩り共は、やっぱり…産屋敷地方近辺に転生しているのか…? 出逢うこともないしな。ま、ここは四国だし』
金比羅山神社の石階段の麓まで来て、狛治は遙か頂(いただき)を仰いだ。そこから奥の院までは軽く千段。一般参詣者達に混ざって、一足ずつ登らなければならない。
毎度の事ながら、いろいろなことが重なりのし掛かって、嘆息が漏れた。
「元気出せ!」
「お前が言うな!」
背中を思い切り叩かれ、つんのめりながら数歩行き睨み返すと、煉獄は、快活な笑みを零して先に登り始めた。
仕方なく、後を追う。
老若男女、分け隔てなく参詣者達を受け入れる金比羅神社は、先だって、国の統括を外れたばかりだ。裏稼業の「憂世の番」一本に絞ったことになるが、それは人々は知らない。信仰が薄れることはなかった。
見れば、汗を拭いながらの千段登りに、人々の笑顔が行き交う。
そんな顔を見ていると、狛治のそれも、綻んでいくのだった。
「お帰りなさい、狛治様」
「恋雪(こゆき)」
大鳥居を潜ったところで、舞姫の出迎えを受けた。小柄な彼女には少し大きめな、巫女姿。普段はこの姿だ。朱色の袴が鮮やかで、淑やかな彼女にはより印象が強く残った。
「杏寿郎様も。お帰りなさい。ご支援助かります」
「おう!」
『恋雪にだけは、苦労はさせない。今度こそ…絶対に!』
「御館様は奥の院かな? 恋雪殿」
恋雪の隣に並んだ杏寿郎が、笑顔で話しかけていた。それがなんだかとても、嬉しい。
だが、と、一方で思う。
『何の因果かは知らんが、閻魔の好きにはさせん…!』
己が地獄ばかりでなく、この現世(げんせ)でも、前世の罪と罰を昇華しなければならない理由は分かる。だが、恋雪が舞姫として選ばれるなど、狛治には、理解できかねたし許せなかった。
金比羅の舞姫は、『岩戸の姫』。つまりは有事の際には、現世(うつしよ)のために、憂世に命を投げ出す宿命を背負った『姫』だ。
『絶対に。それだけはさせない…! 自分のせいで、二度も身内を犠牲にしてたまるか!』
狛治は笑顔で談笑する二人の背中を見、強く拳を握った。