第弐話:ネガ
・伍・
~継国さん。~
事件は片が付いた。連日テレビでは登山写真家、東雲(しののめ)かすみの罪が取り上げられ、世間を騒がしている。
『晴子(はるこ)が願った形とは異なるかも知れないが…制裁は受けたな、東雲かすみも』
社務所(しゃむしょ)の居間で何気なく昼のワイドショーを見ていた巌勝(みちかつ)は、ほうっと一息吐いた。
隣のキッチンでは、しのぶが鼻歌を歌いながら冷や麦をゆでている。カナエが隣で薬味の準備をしていた。
「で? 縁壱(よりいち)。お前は何を先程から…」
隣でなにやらほくほくと、時折笑みを零す縁壱に、巌勝はテレビ画面から目を外すと見向きながら言った。
手元にある沢山の写真に、
「………」
巌勝が仏頂面になる。
それは、先日のキャンプの、三人の写真だった。
主には胡蝶(こちょう)姉妹の私服やら浴衣(ゆかた)やら水着姿の写真ばかりだ。どれもとびきりの笑顔で、時も忘れるほどだったのだろうと察しが付く。おまけに、ちゃんとレンズを見ている限り、縁壱が隠し撮りなどせずとも、二人はいつも、彼にはこんな表情を見せるのだろうと思った。
「ま、楽しそうで何より」
ぼそ、と呟くと、縁壱が、
「美女二人ですよ。羨ましいでしょう」
「…お前は時々阿呆(アホ)になるな」
「そう言う兄上は、そうやってすぐひねくれるんですから」
縁壱の顔が一瞬「むす」となって、巌勝は目を見張った。
『二人の影響か…。ま、いいことだ』
立ち上がると、
「あ、兄上? もうお昼できますよ。二人が運んできますよ」
「分かってる、袂(たもと)が暑い。紐を取ってくる」
二人色違いの浴衣を召してはいるものの、巌勝は麓(ふもと)では洋服だ。着物は神社に戻らぬ限り着る機会がないのだろうと、縁壱も思う。背中を見送って、入れ違いにカナエがやってくると、
「縁壱さん。決まった~?」
茗荷(みょうが)や葱(ねぎ)など薬味が並べられたガラスの器を並べながら、両手を座卓について覗き込んできた。
「ええ! これにします。本当に頂いていいんですか?」
「もちろん! なんなら全部あげるわよ」
「いえ、それは流石に。飾っておくならとびきりの一枚にしたいので」
「どれどれ…」
カナエが縁壱の手元を覗き込む。
彼が選んだ写真は、浴衣姿の縁壱を真ん中に、水着姿の胡蝶姉妹が左右から、両手を彼の首に回して抱きつき満面の笑みを浮かべるそれだった。
「ふふ!」
写真の中の縁壱の表情に、カナエが口元に手を当てて笑う。
縁壱は、気恥ずかしそうに、だが、とても嬉しそうに笑った。
氷を入れて器に盛った冷や麦をしのぶも運んで来、
「縁壱さん! その笑顔。それそれ! それが良かったのに!」
ころころと笑う。
「ね~! この困り果てた顔ったら。あはは!」
カナエが写真を指さす。
「仕方がありません、こんな状況、生まれて初めてですから」
「女神二人に挟まれた感想は?」
「ふふ! 大変光栄です」
「「よろしい!」」
三人は声を揃えて笑った。
と、隣の部屋から巌勝の声が響く。
「縁壱! なんだこれは!」
その怒声に、三人は顔を見合わせて、同時に動く。相手の右に左にぶつかりながら、三人は、隣部屋の出入り口に雁首を並べた。
額に青筋を立てながら、巌勝が両手でびろん。と海水パンツを広げる。
姉妹が腹を抱えた。
「あ。それ、兄上のです」
「は!? 俺はこんなもの知らんぞ!」
「あ。正確には、しのぶさん達から頂きました。私が。で、兄上に差し上げようと思って」
「要らんわ!」
「そんなお互い遠慮しなくてもっ」
「双子で譲り合うとか流石ね~、ね! しのぶ!」
「ホントホント。何なら同じ物もう一枚買ってくるから。心配しなくても大丈夫よ!」
「そうね~!」
「お前ら…!」
姉妹はまた笑って、足早に退散した。
縁壱は何となくその場に正座になって、
「兄上。…もう、水場は怖くありませんか?」
その言に、巌勝が目を丸くする。
「それは俺の台詞(セリフ)だ。こんなもの箪笥にしまっておくなんて…。もう、平気なのか。水」
「私は何も、怖くありませんよ。今も昔も。兄上がいますから」
「……」
「それよりも、私が死んじゃうと思ったら、兄上の方が必死になるでしょうから? ね?」
「お前は! また一言! いつも言ってるだろう、言葉を選べ!」
「ふふ! 答えを頂きました! 幸せ者ですね、私は」
「縁壱…!」
ったく、と吐息を漏らし、兄が箪笥に寄りかかった。
何とも言えない顔付きの兄を見ては、自然と胸元に手がいって、仄かに首を傾ける。立ち上がって、側に寄ると、巌勝が手にしていた物を受け取った。ちらりと兄を見た。
「本気でもう一枚買ってくる気ですかね? あの二人」
「…洒落(シャレ)にならん」
「兄上とお揃いなら履いてもいいですかね?」
「俺は嫌だ」
「あ。即答。兄上も人のこと言えませんよ? だいぶ言葉選びがストレートです」
「……」
口を閉ざした巌勝に、縁壱はふと思い出したように、
「そんな調子で、カナエさん。傷つけてはいないですよね?」
「…は? 何のことだ」
思い当たる節はない。
そんな兄の様子に、縁壱は心の内で小首を傾げる。
『気のせいでしたかね…。カナエさんも別に、あの時のことを話したりはしませんし』
「いえ。なんでも。あ、ほら。兄上。邪魔です」
「あのなあ…」
脇に追いやられた巌勝は呟きながらどいて、縁壱がまた、箪笥にそれを仕舞うのを見守る。
『来年の夏までこのままにする気か…』
『来年の夏までこのままですかね…』
似たようなことを思って、顔を見合わせる。何となくお互い思ったことが伝わって、二人、肩を寄せて笑った。
「はい、兄上」
と、別の引き出しから紐を取り出して、
「あ。忘れてた」
「ふふ」
襷掛(たすきが)けにする巌勝を置いて、縁壱が一歩を踏み出しながら、
「二人が待ってます。お昼にしましょう」
「…そうだな」
巌勝も、後に続く。
継国神社は、概ね平和だ。
「あ。いたいた。姐(あね)さん!」
高下駄に白のストライプの入った茶色い着物を着崩した若者は、大仰に手を振った。掌が向く方に、鶏小屋がある。彼女らがけたたましく鳴き声を上げる傍らで、卵を拾っている女性に声を掛けたのだった。
「っけね。耳聞こえないんだっけ。つい忘れるんだよな」
若者は駆け足で小屋に寄った。
「何やってんだ…追いかけられてんじゃん」
腹を抱える。
臀部(でんぶ)まである髪が、振り袖の袂と一緒に踊るようだった。艶(あで)やかな着物は芙蓉(ふよう)の柄だ。大振りの花が胸元から裾まで広がり、裾から腰辺りまでは芒(すすき)も描かれ、繊細な様を添えていた。
巫女姿なら露出の高い派手な衣装を身に纏う彼女だが、普段は一般的な着物で過ごしている。躯(からだ)の凹凸などは一切隠れ、見目にも淑(しと)やかだった。
鞍馬(くらま)を降りれば遠巻きに人の輪ができて後を付いてこられたりもするが、喋れないがために――彼らがその真偽を知るかは別だが――交流は皆無だった。人々にすれば、その位からしても、近寄りがたいのだろう。
どうやら鶏たちは、彼女が跳ねる度に翻る着物の裾が、面白くて仕方がないらしい。
「姐さん」
フェンスを挟んで声を掛け、同時に指を動かす。手話だった。
漸く彼女がこちらに気付き、籠を抱えたまま、
『矢琶羽(やはば)』
にこりと微笑んだ。
足元では鶏たちの突き合いが始まり、声にならない声を上げて彼女がまた跳ねると、矢琶羽も弾む様に笑った。
「とりあえず、出たらどうだ?」
彼女は『そうね』と言うように首を縦に振ると、群がる鶏を避けては時折飛び越えて、小屋を出た。
戸を閉める脇に寄って、籠を覗き込む。
「大量だ」
嬉しそうに微笑んだ彼女は、
『うん。何が食べたい? お昼。オムライスでも作ろっか』
「あ、いや」
矢琶羽は申し訳なさそうに頭を掻く。
彼女が小首を傾げるのを見ながら、
「…やっぱ、継国に行ってくるよ」
『!』
「あいつから、鬼の気配がした。多分、接触があったんだ」
『巌勝様なら、秋になればまたいらっしゃるのに。その時の紹介ではダメなの?』
「早く朱紗丸(すさまる)を助けてあげたいんだ。あいつ…馬鹿だから。まだあっちでもたついてんだよ」
『そっか…』
「だから。行ってみる。もしかしたら、累(るい)にも逢えるかも知れないし」
『矢琶羽。何度も言うけど、』
彼女の顔から笑みが消えた。
『巌勝様も縁壱様も。万能じゃないのよ? 継国は幽世(かくりよ)との出入り口だけど、全てが全て二人の思い通りになるわけではないことは、忘れないでね?』
「分かってる。姐さんの好(い)い人に無理はさせないよ」
『矢琶羽…』
「義政(よしまさ)様によろしく言っといて! またきっと、貴船(きふね)に戻ってくるからさ。今度は朱紗丸連れて」
言いながら駆け出した矢琶羽に、彼女の目が丸くなった。
『もう行くの!?』
「ん! 姐さん、拾ってくれて…信じてくれて、ありがと! またな!」
仕方ないわね、と言うような表情になった彼女に、矢琶羽は再度、手を振った。高下駄の音が、カラン。と響く。
継国さん。第弐話:ネガ・完。