第弐話:ネガ
・伍・
~椿の章~
「縁壱(よりいち)…!」
巌勝は、思わず声を上げた。
何事かと、その場に居た誰もが一度こちらを見向く。目を丸く見張った己の表情に、疑問でも湧いたのだろう、皆、視線を追った。
だが、晴子(はるこ)と真希子(まきこ)は首を傾げるばかりだ。
『やはり…! 見えないのか。鬼になりかけているから…!』
きっと、爆音を立てて流れる継国川(つぎくにがわ)の昏(くら)い水面を、ただ見ているのだろうと思った。
『ああ…! ちくしょう…!』
両拳を握る。奥歯を強く噛んだ。
『俺がここで印を結んだら。悲鳴嶼(ひめじま)たちの記憶が。もしかしたら…!』
それだけは、なんとしても回避したかった。
新しい一歩を踏み出しているのだ、いずれ正体がばれるにしても、今この時ではないと願いたかった。
その時だ。
天から光が降ってきた。赫い、落日の欠片だった。
「!」
『縁壱…!』
二度目のそれは、涙に濡れそうになった。
『あいつ。状況も何も分からないだろうに。こっちの様子を察して…!』
継国山(つぎくにさん)の頂で、日暮れからこれよりずっと、舞い続けているのに違いない。次から次に、まるで雪のように、赫い欠片が降ってくる。
晴子と真希子もそれには気付いた。
手を翳し、見上げ、欠片に触れる。
指先が黄金色(こがねいろ)に染まり、二人は顔を見合わせた。きっと彼の優しい温もりに、触れているのに違いない。
『額の角が…!』
少しずつ、消えていく。
二人の身体が少しずつ、縁壱の祈りの舞に蕩けていくようだった。光に包まれ縁がぼやけ、足元から蛍のような光の粒が現れ始めると、
『晴子! 真希子!』
「「…あかね!?」」
二人にも、声が聞こえたようだった。
信じられないと言った顔付きで、覚束ない足取りで数歩進む。あかねの姿が見えたようで、真っ直ぐそちらに向かっていた。
行冥(ぎょうめい)や玄弥(げんや)は、そっと見守った。
『ごめんね…!!』
あかねの一言に、二人の足が止まった。
「なんであかねが謝るの!」
「悪いのは、私なのに!」
二人が口々に言う。
『だって。辛い思いをさせたから。私が死んじゃったせいで、二人を傷つけちゃったから』
「違う、違うよ…あかね…!」
「あかね…ごめんなさい! ごめんなさい…! あのとき! 私…!」
『お願い。二人は生きて? 私の分まで。お願い。二人には、生きてほしいの。幸せに、なってほしい』
「「あかね…!」」
彼女の姿は、生前のそれだった。
依頼に訪れた時の、水ぶくれた、性別も分からなかった溺死体ではない。それも、二人と同じ年の頃の姿だった。
『きっと、あかねのあの姿は、二人が想像した二十四歳のあかねだ…!』
思う間に、生きていたならきっと、三人で過ごしたであろう日々が、次々に光に描かれ弾ける。
二人はそれらを見上げながら、ただただ、声を上げて泣いた。十四年前。彼女らは、そんな未来を一緒に思い描いていたのに違いない。
きっと、ずっと。友達でいようね! と。
あかねが言った。
『約束よ? 私は、何も恨んでない。納得してる。あれは、事故だったの。…ね?』
「「あかね……!」」
二人は親友を見つめた。
『忘れないでいてくれて、ありがとう。ずっとずっと、思っていてくれて、ありがとう。それが何より、一番、嬉しい!』
あかねのとびきりの笑顔が、最後に弾けた。
じゃあね。
そう言って手を振ったあかねは、天へと昇る。最期に一度、こちらを見て、ぺこ。と頭を下げた。思い切り手を振られ、滲む視界で手を振り返した。
やがて姿は消え、赫い光の欠片も、少しずつ、それは時間を掛けて、止んでいったのだった。
『縁壱…ありがとう。お前という奴は…!』
巌勝は、あかねが姿を消した天を仰いだ。自然と継国山の方を身体が向いていて、理解した。
あかねもきっと、縁壱の元に礼を言いに行ったのだ、と。
二日後。
巌勝は、縁壱を伴い行冥が運転するままに連れられて、東雲(しののめ)かすみのアトリエに向かった。
道中行冥が、昨日の取り調べで晴子から聞いた話を、話してくれた。巌勝が知ることは、こちらも昨日の内に、縁壱に話していたのだった。
「西田(にしだ)恵子(けいこ)だが、自殺は自殺だった」
啖呵を切られたばかりだが、巌勝が口を挟んだ。
「それだけが、どうにも腑に落ちないんだ。なんで…」
「助かった真希子さんの母親なら、まだ…と言うことですよね?」
縁壱の言葉に、「ああ」と頷く。
行冥は少しの間を置いた。やるせないような表情になったのも束の間、怒りに震える。それを小声で「南無阿弥陀仏」と数度唱えて落ち着けてから、
「自殺は、罪の意識と…もう一つ。あの事故は、事故じゃなかった」
「…え?」
「事故のあった日は、前日の雨で川が増水し、人出はなかったそうだ。でも、バーベキューを楽しみにしていた三人は、各親御さんに頼んで、遊びに出たらしい」
行冥がハンドルを切る。
車体は右折し、天津川村(あまつかわむら)は更に奥の、比較的別荘の多い地帯に入っていった。
「貸しボートが仕舞われずに出しっぱなしだったそうだ。あかねと真希子が乗り込み、そんな二人を宥め降ろそうと、真希子の親が乗り込んだ」
二人は何となく、息を潜めた。行冥の言葉をじっと待つ。
「そして、晴子が、そのボートの紐を、解いたんだ」
「「!」」
「ボートはあっという間に川に流され、増水した激流に揉まれた…」
「それが、水難事故の、真相…!?」
「ああ」
三人は暫し、口を閉ざした。
やがて行冥が言う。
「東雲かすみは、それを写真に収めた」
「な…!」
喫驚して言葉を失った巌勝の代わりに、縁壱が口を開いた。
「まさか、東雲かすみさん…いえ、彼女は、それをネタに…!」
「そうだ。西田親子を脅した。彼女の人生が一変したのは、確かにあの激写が新聞で取り上げられ、その後もスクープを撮り続けたからだ。だが、その資金源は、西田家を脅して巻き上げた金だった」
「そんな…」
「トドメが、保険金だ」
「!?」
「免責期間は過ぎていた。西田恵子の保険金受け取りは、東雲かすみになっていてな…娘にせず、東雲にしたのが唯一の抵抗だったのかも知れない。誰でも『なんで?』と思うだろう。調査が入ればもしかしたらと」
「そんな…!」
「西田恵子は、疲れたと遺書に書いていた。本音だろう。それを晴子は、ここに来る前から見つけて読んでいて、覚悟が決まっていたそうだ。もうそれ以上、我慢できなかったに違いない」
「真希子は? 彼女は…知っていたのか。晴子が縄を解いたこと」
巌勝が、怒気を交えて言葉を紡ぐ。
「いや、当時は知らなかったはずだと言っていた。東雲かすみを殺そうと思い始めた後、真希子には生きてほしくて、懺悔したそうだ。だが、真希子は晴子を責めなかった。晴子の苦しみもよく分かったんだろう。当時…紐を解いた時、晴子はあかねに目配せをしたそうだ。『これ、解く?』って」
「!」
はっとした。即座に伝える。
「あかねはそれに、頷いた…!?」
「ああ。そうだ。言葉なく、二人だけのやり取りであったようだ。晴子もあかねも、そんな惨事になるとは思ってはいなかったんだろう。子供心に、悪戯感覚だったに違いない」
「……」
「真希子はただ、自分が生き残ったことを悔やんでた。中学で金を貯め、高校で家を出、助けてくれた母親とも疎遠になって、今は一人、東京で働きながら仕事をしている」
「夏場になると、継国神社へお参りに…。川護りを買っていたと話していました…」
「それも聞いた。毎年あの場所へ行って、あかねに捧げていたそうだ。泣きながら。謝りながら。どうにもならない思いをずっと、川縁で呟いていたそうだ」
「…そうして、兄上の元にあかねさんが、とうとう」
「ああ。今年は『大願成就』の御守りを買ってな。真希子が晴子にあの川縁でそれを渡し、言ったそうだ。『晴子が無念を晴らしたら、私たちも、そっち行くね』と」
三人は、それきり口を閉ざした。
やがて、車は東雲かすみのアトリエ前、駐車場に止まる。
動きの鈍い双子を尻目に、行冥は車を降りると、淡々とアトリエの扉を開けた。遅れて辿り着いた二人に、胸元から使い捨てのシューズカバーと手袋とを取り出す。
受け取った二人は、靴に被せ手に填めて、室内に上がった。行冥ももちろん、同じように準備を整える。一度玄関からアトリエを見渡すと、
「ネガがどこかにあるはずだ」
「それで十四年も、脅し続けていたのですか…!」
縁壱の瞋恚(しんい)に燃える声に、巌勝は言葉がなかった。
二人が黙々と捜している間、あかねのことを思う。
事故だと強く主張した、あかね。
二人の幸せを願い、二人がそれ以上の罪を犯さないように、あのままの姿で、自身の元まで来た、あかね。
『大した奴だ、君は。本当に、凄い人だ』
答えに行きつくかも分からない、あのままの姿で古書堂まで来るなんて、それすらも、賭けなのに。
『信じたのか、俺を。…いや、俺たちを、か』
二人を見、何とも言えない顔になる。
縁壱たちがキャンプに行かなければ。
玄弥が足止めし、行冥が話をしなければ。
縁壱が気に掛けて、自分に電話を掛けてこなければ。
声を掛けた行冥が、一緒に村へ来なければ。
玄弥が気を利かし、公民館に向かわなければ。
そして。
縁壱たちがあの神楽を、踊らなければ。
『何一つ、解決しなかった――――』
縁壱が舞う祈りの神楽のように、物事は、全て、縁(えにし)を巡り一つの輪になって、完結したのだ。
「あ。ありました! これでは…?」
縁壱が、一際大切そうに仕舞われた箱から、古びたファイルを見つけ、中のネガを手に取る。
巌勝も側に寄り、縁壱が光に翳したネガを三人で見上げた。
連写されたネガ。
そこには、確かに、あかね、真希子、その母親が船に乗り込み、晴子があかねと顔を見合わせ、微かにあかねが顎を引いた姿が映っていた。そして、晴子が縄を解く様が…コマ送りのように。反転して、映し出されていたのだった。