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第弐話:ネガ

・伍・
 ~躑躅の章~

 突然、カナエが身を捩り、背もたれ後ろの小さな窓から、遙か後方を見遣った。

「ちょ。姉さん、狭いんだからあ」

 しのぶが身じろぎながら言う。

 運転していた縁壱(よりいち)は、

「どうかしましたか?」

 視線は前を向いたまま尋ねた。

「今の! 今のオープンカー(フェラーリ)。真っ赤っ赤の! 巌勝(みちかつ)さんじゃない!?」

「あら。私は見落としましたねえ、真紅の撃墜王。ピスタでしたか?」

「細かい車種なんてわからないわ。でも、フロントラインに縞が入ってたから」

「あ。兄上ですね」

 縁壱が苦笑う。しのぶが目を丸くして言った。

「巌勝さんて、普段物静かで理知的なのに、時々破壊力凄くない? 車の選び方も個性的というか…」

「正直に言っていいですよ。キチガイだって。車は由緒正しく伝統のあるスポーツカーですけど」

 縁壱の言い様に笑うに笑えなかった胡蝶(こちょう)姉妹は、それもまた肯定してしまったようだと顔を見合わせ、肩を竦めた。

「兄上が運転する時はほぼ、ストレス発散なので。首都高まで出向いて、猛スピードで周回している時がありますよ。話を聞く限り、最早都市伝説級です」

「まさか、『真紅の撃墜王』って…」

 しのぶの呟きに縁壱は頷きつつ、

「あの車種には走行モードに『レース』があるんですよ。多分兄上自身も、似たような走り屋が集まるとスイッチが入るんでしょうね…、兄上曰く、『相手を抜く一瞬、シフトダウンした時の腹にかかるGが堪らない。パワーがノった瞬間にぐっと加速するんだ』って」

「「ごめん、ちょっと何言ってるかわかんない」」

 姉妹の声が揃った。

 縁壱は「ふふ」と笑い、

「最近は去り際を弁(わきま)えているのか、何事もなく朝を迎えていますが…。過去何回か、留置所に迎えに行きましたね」

 遠くを見るように言った縁壱に、姉妹は言葉を失った。

『『この双子、ホント謎だわ』』

 とは、二人同時に思ったことだが、天津大橋(あまつおおはし)を渡りきって、縁壱が言った。

「とは言え…兄上だったとすると、天津川村(あまつかわむら)に用事があったんですかね?」

「天津川村と言えば、真希(まき)ちゃん、今年はちょっと違ったね」

「そう言えばそうね。いつも買う御守りじゃなかった」

 継国山(つぎくにさん)の裏手に続く国道に差し掛かる。いよいよ楽しかったひとときも終わり現実に戻ろうかというところで、

「真希ちゃん? 今年は?」

 縁壱が尋ねた。言葉の節々に、引っかかるものがあった。

「毎年来る女性よ。私たちより年上の」

「!」

「いつもはね、神社特製の川護りを買ってくの。でも今年は、大願成就の御守り買ってたわ。受験前の秋口から売れる品だし、年齢が年齢だから、妹弟でもいるのかな? って、姉さんと話してたの」

「毎年顔を見る度に仲良くなってね、天津川村の出身なんですって。夏の間だけ、こちらに戻ってくるって言ってたわ」

 縁壱の顔色が一気に明るくなった。

「ああ、やっぱり。貴女方二人は菩薩(ぼさつ)様のようですよ」

 二人も「きゃっ!」と黄色い声を上げて、

「「どうせなら、女神様がいいわあ」」

「ふふ! 女神様、その方のお名前。正確に分かりますか?」

「うん。辻北(つじきた)真希子さん。今は仕事の関係で、東京に住んでいるらしいわ」

「そうでしたか…ああ。もう! 兄上…!」

 縁壱のもどかしそうな口調に、しのぶが携帯を取り出す。

「巌勝さんに電話する? 必要なら私が代弁するけど」

「ええ、ええ…!」

 その時だった。

 カナエの携帯が鳴り響く。

 三人はぎょっとして、縁壱に至ってはあわやアクセルを踏み込みそうになって、「平常心、平常心…」と何度か呟いた。

「巌勝さんだわ」

 カナエがしのぶを見、ちょっと得意そうになる。

 しのぶは「む~」と頬を膨らませると、ぷいっとそっぽを向いた。

 縁壱は優しい眼差しになってちらりとしのぶを見、

「しのぶさん。お心遣い、ありがとうございます」

「縁壱さん…」

 彼女の顔に笑みが戻る。嬉しそうなそれに、縁壱もにこりと微笑んだ。

 その脇で、カナエが電話に出る。

『あ。胡蝶・姉か』

「ねえ。いい加減その呼び方やめない?」

『胡蝶だとどっちがどっちだか分からないだろうが』

「下の名前で呼べばいいじゃない。縁壱さんみたく」

『俺がプライベートで女性の名を呼ぶのは、ただの一人きりだ』

「……え?」

『縁壱はいるか?』

「え? あ、うん…じゃなかった、今、縁壱さん運転中」

『止められないか? ちょっと込み入った話なんだ』

 カナエは少し呆然とした様子で、縁壱に眼差しを向けた。

 会話途中で明らかに調子の変わった彼女に、残る二人は疑問符が浮かぶ。が、姉はそれについては何も言わず、

「巌勝さんが、車止められないかって…」

『カナエさん。何かありましたかね』

 縁壱は暫く車を無言で走らせた。継国山の麓まで行き着くと、登山口近くの観光センターの駐車場に停める。三人は、折角だからと気晴らしにトラックを降りた。

 無言で手渡されたスマートフォンを受け取りながら、縁壱は、カナエを一瞥する。だが、今待たせているのは兄だ。

 視線は逸らさず電話口に出ると、

「お待たせしました、兄上。すみません」

『いや。こちらこそすまないな、運転中。大丈夫だな?』

「はい。登山口まで来たので」

『そうか。…お前が気になっていた女性。伝えておこうと思ってな。名前だが、』

「辻北真希子さん…?」

『辻北真希子…、ああ。そうだ。なんだ、分かったのか』

 名前だけが電話口で重なり、その後は巌勝の言葉だけが響いた。

 縁壱は頷いて、

「今電話しようと思っていたところなんです。しのぶさん達が、知り合いで」

『! そうか。胡蝶・妹も見かけたのか? もし見かけたなら、何か変わったことは…』

「毎年同じ御守りを買っていたそうなんですが、今年は違うものを購入したそうです。大願成就の御守りだったそうで…」

『大願成就…!』

 巌勝の声色が俄に変わった。

 耳にした縁壱もいつもの真顔になって、

「あの、兄上」

『多分、一番の悲願は達成されなかったと思う。だが…』

 空気が変わった。当然、縁壱はその気配を逃さない。

「兄上?」

『おい、悲鳴嶼(ひめじま)!』

 電話の向こうで、切羽詰まった兄の声が一人の刑事を呼んだ。今は彼と一緒だったのかと思いつつ、次第に慌ただしくなっていくのを、まるで肌で感じるようだ。ここからではどうにもできない状態に、もどかしさを覚える。

 場所は聞き出せたのか、と巌勝の声が響き、何事か行冥(ぎょうめい)の返る声はあったようだが、言葉までは聞き取れなかった。

「兄上。…兄上!」

 心配になり、縁壱の声も、二度目は悲痛なものになった。

『ああ、すまん。話せて良かった、一番大事な部分を落とすところだった。これからすぐに行かなきゃならん場所がある』

「兄上、大丈夫ですか、何か大変なことに巻き込まれているのでは…」

『いや、俺は大丈夫だ。ただ、もう一人の命がかかってる。辻北真希子の命だ』

「!」

『継国に戻ったら、ちゃんと話す。とりあえず名前を伝えれば、お前のことだから何か調べるかと思ってな』

「兄上、依頼の答えに行き着いたんですね? きっと、きっと…解決するんですね?」

『ああ。心配するな。多分、解決すると思う。まだまだ、色々課題は残っているが…』

「兄上あと一つだけ!」

『なんだ』

「『依頼主』のお名前。教えて下さい。水死したという…」

『ああ、『南條(なんじょう)あかね』だ。十歳で、水難事故に遭った』

「十歳…!」

 縁壱も気付いた。

「分かりました。どうか、お気を付けて…!」

『ん!』

 巌勝の方から通話が切れた。

 ツー、ツー、という機械的な音を何度か聞いて、画面をじっと見る。

「縁壱さん…?」

 心配そうに覗き込んできたカナエの表情は、もう、いつもの様子だった。

 それには少し胸を撫で下ろして、携帯を返す。

 しのぶが話しかけてきた。

「大丈夫? なんか…大変そうだったけど」

 縁壱は胸の辺りで手に手を包んで、

「何とも…辻北真希子さんの命が、危ういそうで」

「え!」

「私も死相を見ているのです。何事もなければいいのですが…」

 ふと、しのぶが小首を傾げた。

「私…見落としたかしら?」

 縁壱とカナエがしのぶを見る。

 しのぶは口元に手を当てて数日前の記憶を掘り起こし、

「私、見てないの。今回。死相」

「え?」

 声を上げたのは縁壱だ。

「真希ちゃんよね?」

 確認を取ったしのぶに、縁壱は確かに首を縦に振る。

「二人とも。急いで戻って神楽舞(かぐらまい)の準備をしましょう!」

「どういうこと??」

 歩きながら、付いてくるしのぶに縁壱が言う。

「未来はまだ、確定してはいないと言うことです。…確定していても、これまでは兄上が覆してきましたが。今回は、その兄上ですら、間に合わないかも知れない…だから、追い込まれたんだと思います」

「?」

 電話口の内容を知らない二人は、縁壱に続き反対側からトラックに乗り込みつつ、真意を訊ねた。

「もし今真希子さんを見たなら、間違いなくしのぶさんも、死相を見るでしょう。そして、確定された未来を覆す兄上は間に合わない。となると?」

「! 本当に、命を落としてしまう…!」

「ええ。だけど…」

 トラックは急発進すると、観光センターを離れ林道へ向かう。もう、継国神社は目と鼻の先も同然だ。

「今回の『依頼主』、『南條あかね』さんの姿をその場に呼び出すことができれば…或いは。それが抑止力になるかも知れません…!」

『きっと、間に合わせてみせます。兄上に…悲しい思いはさせません!』

「縁壱さんも、答えが分かったの? 西田(にしだ)恵子(けいこ)さんのことで、ずっと、気に病んでいたんでしょう?」

 しのぶの問いかけに、縁壱は、今度は首を横に振った。

「私には残念ながら、全貌が全く分かりません…ですが、恵子さんの娘さん、西田晴子(はるこ)さん。貴女方のお知り合い、辻北真希子さん。そして兄上の『依頼主』、南條あかねさん。この三人は、何某(なにがし)かの繋がりがあるのだと思います。そして、兄上は、真希子さんの命を救おうとしている」

「だから、あかねさんを救うことが、結果的に、真希子さんを救うことに…!」

「そう言うことです。頼みましたよ、二人とも!」

「「任せて!!」」

 折しも日差しは西へ傾きかけ、蜩(ひぐらし)が鳴き始めていた。

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