第弐話:ネガ
・参・
~躑躅の章~
検問の列を外れ、少し先の展望デッキの駐車場に止める。観念した姉妹を連れて橋の歩道を歩き始めると、目に映った絶景に、姉妹の機嫌は直ったようだった。
「悲鳴嶼(ひめじま)さんと少し話してきますね」
「「は~い!」」
自撮り棒を駆使して写真を撮り始めた彼女らを尻目に、歩を進める。
「縁壱(よりいち)!」
検問を玄弥(げんや)や同僚達に任せて、行冥(ぎょうめい)が駆け寄ってきた。車の列から距離を置き、橋は中程を少し過ぎた辺りの、人通りのない警察車両の近くで止まる。
眼下に継国川(つぎくにがわ)を望み、深山幽谷に目をやりながら、二人は静かに話し始めた。
「玄弥から、何やら気に掛かることがあるようだと聞いたが」
橋に両腕を放り前のめりになりながら、彼はこちらに首を回した。
「まさか知り合いだとかでも言うんじゃないだろうな」
『そうでないことを、私も祈りたいのですよ…。五十代とは聞きましたが』
思ったことは口には出せず、
「もう、身元は確認できているのですか?」
「ああ。西田(にしだ)恵子(けいこ)。五十三歳。娘が晴子(はるこ)。二十四歳。二人で旅行に来ていたようだな」
「二十四…」
「なんだ、引っかかるのはそっちか」
「写真はありませんか? 顔が確認できると嬉しいのですが」
行冥は、「仕方ないな」と呟きながらも、スマートフォンを取り出した。写真を幾つかスワイプすると、
「あ。これこれ。今朝の写真だ。旅館だな」
「…」
二人で覗き込むようにして見る。
縁壱は、何とも言えない顔になった。
「違う方です…、私が思った方とは」
『でも…何でしょう。胸騒ぎが…』
思ったことがそのまま顔に出たのかも知れない。
「その割には、芳しくないな」
言ってこちらを向いた行冥が、心配そうに言葉を投げてくる。
「大丈夫か? 顔色が悪いぞ」
「ええ、ありがとうございます、大丈夫です」
「なんだ、良ければ聞くぞ。いつも世話になってるしな」
行冥の厚意に、縁壱は考えを巡らした。
『話しておくことで、もしかしたら…何かの抑制にはなるかも知れませんね』
「そうですね…聞いてくれますか」
「ああ。もちろん」
静かに耳を傾けてくれる相手に、縁壱は、『彼女』の話をした。と言っても、何を知るわけでもない。
ただ、もう十年以上も、夏になると継国神社へお参りに来ること。
今年は少し様子が違っていたこと。
そして、その姿を話したのみだった。
『彼女』の容姿についても、際立った特徴があるわけでもない。毎年来訪する時の服装を覚えているわけでもないし、身長も一般的だ。髪型も、肩まで流した黒髪、それ以外、際立った特徴は何もない。
『これでは…どうにもなりませんね…』
話している内に、縁壱は、ますます申し訳ない気持ちになった。
「すみません、漠然とした不安なんです。『彼女』が無事なら、それでいいんです…」
「名前が分からないんじゃ、俺も捜しようがないな…役に立てず、済まない」
「いえ。話を聞いてくれただけで。本当に。ありがとうございます、悲鳴嶼さん」
「いや…」
暫く二人は無言になった。思い巡らす胸中を互いに察することはできず、行冥が、手元の腕時計に視線を落とす。
「まあ…」
と、呟きながら振り返り、検問の列に視線を投げた。
「遺書もあるし、娘さんも気丈に受け答えしてるしな。俺はこれからもう一度村へ出向いて、色々関係者を当たらなければならんが…まず。自殺で片付くだろう」
「そうですか」
「何かあったら連絡をくれるか?」
行冥の言葉に、縁壱は少し驚いた。お互い顔を見ると、
「いや。お前のそんな表情を見ると、こちらも不安にはなる。何度も力を借りてるんだ、気にしない方が無理というものだろう」
「それは、何とも…」
「俺は仕事に戻るから。…この先に用があるんだろう?」
「ええ、まあ」
川縁でまだ涼しい場所とは言え、汗だくになって働いている彼にはすまない気持ちが先に立った。曖昧な返事をすると、行冥の視線が己の肩を越えていき、縁壱も振り返る。
見れば、胡蝶(こちょう)姉妹が満面の笑顔でこちらに手を振っているのだった。
「いつも元気だな。あの二人」
手を振り返す行冥がぼそりと言う。
それには縁壱も全く同感で、
「あの二人がお社(やしろ)にいてくれるお蔭で、変なものが寄りつかないのですよ。どちらかというと、浄化の力はカナエさんの方が強いみたいですけどね?」
「まるで魔除けだな」
「確かに」
二人声を合わせて笑うと、縁壱は一礼をして、
「お話、ありがとうございました。…何か分かったら、すぐに連絡します」
「お前がじゃなくて、きっと姉妹からだろうけどな?」
「あはは…」
彼にはもちろん、兄にも言われている事柄が頭を過ぎって、縁壱は柄にもなく乾いた笑みを零した。
『やっぱり…携帯は持つべきですかね』
漸く重い腰が、上がりそうである。
『で、なんだ』
巌勝(みちかつ)の声色が不機嫌そうなそれになった。
『結局長々と話して重要なのは、自殺した女性とその娘と、お前が社で見かけた女性、その三人だけか』
「まあ、そうですね」
『社に帰れない理由に至ってはキャンプじゃないか。心配した俺がバカだった』
「兄上も一緒に行きたかったです?」
『違うわ!』
兄の深々と吐いた溜息が耳に残る。
『とりあえず、お前の言いたいことは分かった。確かに今回は…違うかも知れないな…』
「不思議ですよね? 今まで一度も、そんなことはなかったのですが」
『ん…』
「兄上は? 何を依頼されたのです?」
思考回路が遠く飛ぶ前に、縁壱が問を投げた。兄は一度考え込むと、自身が納得できるまで突き詰める傾向があるのだ。その結果、あの頃は、思い詰めた兄に全てを背負わせてしまったと思ってもいる。
『それを止めるのも、現世では、私が気を付けることの一つのはず…』
電話口の兄ははっとしたようで、
『ああ、』
意識をまたこちらに向けた。
『結構エグい水死体を見た…』
「っ…」
『その者自身は生に対して執着はないようだが…、頼まれたことが、生きた人間に対する願いでな』
「珍しいですね。普通、遺体を引き上げてほしいとか、身内に会いたいとか…」
『だろう? 亡くなった場所から俺のところまで来られたことを考えても、その土地に捕縛されてるわけじゃない。ただひたすらに、残された者を心配している感じでな』
「とても優しい方だったんですね…。兄上、どうやら何も力になれず…すみません」
『いや。構わない、ええと。何だったか、名前。もう一度…』
耳に、何やら筆記用具を準備する音が響いて来、縁壱はしばし待った。
落ち着いて構えたのが伝わって来たところで、
「自殺と見られる方が、『西田恵子』さん。五十三歳です。その娘さんが、『西田晴子』さん。二十四歳。私が気にしていた『彼女』は、残念ながら名前が分かりません…」
口に何かを咥えているのか、もごもごと呟きながらメモを取る兄の様を察していると、…恐らく万年筆だったのだろう、キャップを閉める小さな音が届いて、
『分かった。俺はもう少し、依頼主の記事を探してみる。お前は何も気にせず胡蝶姉妹の相手をしてやれ』
「兄上…」
『二人にはいつも世話になってるんだろう? 可愛いじゃないか』
「それは…そうですが」
『何かあれば連絡する。明日以降にな』
「はい」
日付まで念を押されて、縁壱は頷くしかなかった。
こういうところは、本当、巌勝らしいと思う。スマートフォンの受話器を押して振り返った時には、姉妹は、川遊びのままの水着姿で、弾む様に談笑しながら、火を起こし鉄板を用意して、夕飯の準備をしていた。
「焼きそばですか。美味しそうですね!」
が、隅で焼かれる果物を見て、
「バナナ…。バナナって…焼く物ですか…?」
「騙されたと思って食べてみて! 美味しいから」
『本当に騙されてしまうのでは…』
この姉妹ならあり得るかもと一瞬頭を過ぎって、縁壱は口元に手を当てた。そんな考えを姉妹は察したのだろう、声を立てて笑う。
その無邪気な様子に、縁壱も、笑顔になった。次第に夜の闇が、深くなっていく。
その夜。
縁壱は、
『ええと…?』
状況に暫く頭を抱えた。
『既婚者だから舐められたのでしょうか…そもそも、うたのことを二人に話したことありましたかね? …いやいやそう言う問題ではなくて』
建てたテントはそれなりに広さのあるものではあったが、姉妹に挟まれ川の字になっているのである。寝袋に包まれてしばし天井を見上げて固まっていた縁壱は、この状況をどう理解したものかと何度も呻いた。
見れば、遊び疲れて静かな寝息を立てている両脇の姉妹は、双方こちらを向いていて、穏やかな顔付きだ。
「私の存在って…一体……」
男としての威厳やら価値やらが、いろんな意味で瓦解しかけた。
が。
やはり、縁壱は縁壱だった。
それほど深く考えを巡らすこともなく、
『ま。とりあえず寝ましょう』
あっさり眠りに落ちると、三人。穏やかな寝息を立てて、緩やかな宵闇を朝まで辿ったのだった。