第弐話:ネガ
・弐・
~躑躅の章~
朝はまだ早い内に、縁壱(よりいち)は、胡蝶(こちょう)姉妹を神社の軽トラックに乗せて継国山(つぎくにさん)の裏道路を降りた。元々は、関係者のみが知る林道だが、昨今のカーナビゲーション・システムは優秀である。一頃、継国神社は境内の裏まで、乗り付ける輩も増えてきていた。
元よりこの道路は、神社の関係者達が生活のために利用しているものだ。観光用ではない。縁壱は、懇意にしている地元の建設業者、桜建設に頼んで、林道はだいぶ麓の方に、バリケードを付けて貰ったのだった。
そこまで辿り着くと、縁壱は、トラックを止めた。鍵束を持って降りる。高さもある鉄門の南京錠などを、手際よく外していった。最後に、降りていたバーこと閂(かんぬき)を上げる為の暗証番号を入力すると、バリケードとは簡単に言い表した立派な山門は、閂が上がり、重たい音を立てて扉を開いた。
「何回見ても頑丈よね」
カナエが窓から顔を出して言った。
「暗証番号で上がる閂って、ちょっと風情なくない?」
しのぶも身を乗り出して言う。
「そうねえ…でも、手動だと結局開けられちゃうじゃない」
「それもそうなんだけど。縁壱さんって時々容赦ないよね?」
「真顔でね~」
言いたいことを言うと、姉妹はくすくすと笑みを零した。
「二人とも。聞こえてますよ?」
えへへ、と肩を竦める姉妹に、「全く…」と呟きながらトラックに乗り込む。眼差しは、まるで妹二人を見守るような、優しいものだった。
「まあ。お蔭でとんと、上まで来る方はいなくなりましたよ」
「それはそうでしょう、開けられないもの」
「補助が必要な方は山門の添え書き見て連絡をくれるようになりましたしね。いいことずくめです」
ほくほくとした表情で言いながらエンジンを掛ける。余程幸せそうな顔をしていたのか、隣でしのぶが「ふふ」と顔を綻ばせた。
山門を潜り、縁壱は道の脇へトラックを止めると、また降りる。先程とは順番を逆に作業を進めると、門はきっちり元のように閉じ、来訪者の行く手を阻む壁と化した。
「さて! 行きましょうか!」
「「やった~!」」
ディーゼルの軽快な音を響かせて、再びトラックが走り出す。この乗り物に浴衣姿の縁壱がどことなく不釣り合いで姉妹の笑いを誘うが、何分、着物以外を持ち合わせてはいない彼である。
出掛け前には、姉妹が準備した洋服に、身を包んでも見た。が、その姿は、彼女らの抱腹絶倒を招き、早朝の境内(けいだい)に軽やかな笑い声が鳴り渡ったものだ。スーツなら、まだ、良かったのかも知れない。しかし、普段着とあっては、着慣れないと言うことがどれほど恐ろしいものか…姉妹は、目の当たりにしたのだった。
『『海パン履きたくないって言うのも分かるわね!』』
とは、姉妹の揃った感想だったが、二人は、口に出すのは控えた。ここまで来ると最早無言も失礼でしかないのだが、真顔の縁壱が、どことなく哀しそうだったからである。
継国山から尾根を一つ辿り、深山の連なる龍谷(りゅうこく)山系に入る。山道は複雑なカーブが続くが、麓の町まで買い出しになど降りることの多い彼には、全く苦ではないようだった。
やがて継国山は裏手に回り、風光明媚な幽谷に差し掛かる。山肌は下方に、豪快に流れる継国川の、滔々とした水面が見えるようになった。岩に当たって砕ける水飛沫まで耳に近く、大河の流れる雄渾な音が暑さが和らぐようだった。
縁壱はトラックのエアコンを止めると窓を開けた。
「わあ!」
「涼し~い!」
車内を吹き抜ける風に髪を靡かせ、気持ちよさそうに外を眺める二人の歓声が合わさった。思わず縁壱も笑顔になって、
「気持ちいいですね!」
「うん!」
「いつ見てもおっきいわね、継国川!」
会話が次から次に弾む。
「昔は船で行き来したんでしょう? 山間(やまあい)の村から村へ」
「そんな話を伝え聞いていますね。大小様々な支流がこの河に繋がっていますし、上流の村では林業が盛んでしたしね」
「どうやって木を運ぶの? 河?」
尋ねたしのぶに縁壱は首を一つ縦に振って、
「筏(いかだ)のように木を組んで、流してしまうんです。河に委ねるんですよ」
「凄いね…!」
カナエが得意そうに続いた。
「今は昔の停留所が、筏下りやウォータージェットの観光名所になってるのよ。乗ると歴史を話してくれるの」
「そうでしたか。時代は変わっていくものですね」
縁壱が感心したように頷いた。
「あ、縁壱さん、キャンプ場は右! 右!」
「あ、はいはい」
しのぶが指さした交差点を、縁壱はウィンカーを出して右に寄る。折しも信号が黄色になった。長閑(のどか)にドライブしていたトラックは、無理に曲がることなく交差点の手前で止まった。
「…なんだろう?」
豪快な川音に混ざって、ウィンカーの音、そうしてもう一つ、人工的な音が重なって聞こえて来る。しのぶの疑問に、カナエが耳元に手を軽く添えて、
「サイレン…? パトカーの」
「うん…。何かあったのかしら」
姉妹の言葉に、縁壱は、
「この先は確か、天津川村(あまつかわむら)への吊り橋がありましたよね?」
つい、確認を取った。
「ええ」
「大きな朱色の吊り橋。この辺りでは、対岸同士を繋ぐ唯一の橋よ?」
信号が変わるのに合わせて、トラックが緩やかに走り出した。対向車はなく滑らかに右折する。
通称『天津大橋』は、朱色染の塔と斜材が天に向かって聳えるように掛けられた、二連の斜張橋だ。天津川村からすると、継国山を裏側から望むことになり、橋が一の鳥居、二の鳥居の役目を果たしているのだった。
「検問?」
「こんなところで?」
二人の言葉を耳に聞きながら、縁壱はハザードランプを付けると前の車に続いて緩やかに止まった。前を見る。
「あれは…玄弥(げんや)さん」
言うが早いか、あちらも気付いたようで、駆け寄ってきた。
「縁壱さん! お疲れ様です」
「…それはこちらの台詞(セリフ)かと。何事ですか?」
「それが…、今朝、この下で遺体があがりまして」
「え」
縁壱には珍しく、一言が漏れた。
『まさか、『彼女』では…!』
ほんの数日前だ。今年も変わらず参詣に来てくれた『彼女』に、死相を見たのは。話しかけられもせず、話しかけもせず。心にささくれを残していった、『彼女』。
玄弥が言った。
「どうやら自殺らしいんですが。念のため、天津川村と桜町(さくらまち)を行き来する車を確認しているんです」
「そうでしたか…。あの。申し訳ないですが、その、お亡くなりになった方って…」
彼にも守秘義務がある。分かっているからこその小声だったのだが、果たして玄弥は身を屈めると、ずい。とトラックに頭を突っ込む程間近に迫って言った。左右をそり上げて真ん中だけがふさふさな髪が、縁壱の鼻先を撫でる。
縁壱は何度か目を瞬かせ、彼の言葉を聞いた。
「五十代の女性です。親子でこの先の旅館に泊まっていたらしいんですが、娘さんが確認しました」
「五十代…」
「気になることがおありですか? 悲鳴嶼(ひめじま)さん呼んできます!」
「あ。いえ!」
ちょっと待って、と声を掛ける間もなく、玄弥は走り出してしまった。
後ろから、恨めしそうな眼差しを感じる。
ぎこちなく首を回して姉妹を見ると、不満たらたらな二人の表情に、縁壱は肩を竦めた。
「すみません…」
「んもう! なんで自分から首を突っ込んじゃうかなあ!」
「折角遊びに来たのに~!」
さしもの縁壱も、二人には弱い。
『この状況でまだ、キャンプに向かおうとする二人の根性にも脱帽しますが…』
苦い笑みを浮かべつつ、決して口には出して言えない感想を、心の中で、呟いた。