top of page

​第弐話:ネガ

・弐・
 ~椿の章~


 痛ましい事件が報道されるため脳裏に深く刻まれがちだが、実は、年間の子供の水難事故というのは、そう多くはない。県を絞れば尚更だ。ただそれは、数字だけを割り切ってみればの話といえる。

 大抵は夏場の事故で、楽しい思い出作りの最中に起こってしまう。それまでの生活が一変する事故だ、子供を失った親の気持ちは察するに余りある。

『そう言えば縁壱(よりいち)も、幼い頃、川で溺れたな…』

 ――――「縁壱!」

「あ に、上…っ!」

縁壱は、あの頃も、現世でも、ぽわっとしていた。

 今でこそ表情が豊かになったと思うが、物事に無頓着なところは余り変わらない。

 神社は裏手へ山を下ると、継国川(つぎくにがわ)という大河がある。幼い頃はそこでよく遊んだものだが、縁壱は、とにかく後を付いて来たがった。

 何となくめんどくさくて、振り切ろうと、大河はうねる水流を阻む様に連なる岩場を、跳ねて向こう岸へ渡った時だった。

『俺の姿を見失わない様に、こちらを気にするのが精一杯で、足元を見ていなかったんだ、あの時。…縁壱は』

 濡れた岩場に足を滑らせ、縁壱が川に落ちた。

 子供が大河に呑まれるのは、ほんの一瞬だ。縁壱の、自分を呼ぶ声はたった一度きりだった。すぐに頭部まで水が覆い被さり、五指が川面から顔を出すのみで、次の瞬間には激流に攫われた。

 泳げなかったのか、

 動転したからか、

 縁壱が何故、あの時、対処できなかったのかは分からない。

 あの時のことを、あの時以来、聞いたことはないからだ。

 ただ、自身は無我夢中だった。考えるより先に川に飛び込んで、必死で縁壱の後を追った。激流に息を取られ水を飲みながら、それでも縁壱の身体を捕まえた時はほっとしたものだ。身を上げさせて呼吸をさせて、それでも縋る縁壱の身体をしっかり抱いた時、

『決して離すものか!』

 強く、そう思った。

 川下はだいぶ緩やかな流れのところまで流されて、漸く二人、身体の自由が利くようになった。

 川縁に手を付いて乙女座りをした縁壱はぽかんとして、その、いつもと余り変わらぬ表情に、返って…胸を撫で下ろしたものだ。

「縁壱。…ごめん」

 これが、初めてだったと思う。

 前世よりずっと続く二人の間柄の中で、きちんと感情を言葉に表したのは。

 まるで「兄上」と呼び掛けるように、見上げてきた縁壱の瞳が、こちらも初めて、潤んだ。

「兄上っ!」

 しゃがんだ自分に抱きついてきた縁壱が、号泣した。

「兄上が。兄上が、また、いなくなっちゃうかと…!」

「……そっち?」

 きょと。と見上げてきた縁壱の顔が、可笑しかった。泣いた烏がもう笑って、「兄上!」と嬉しそうに胸元に顔を埋めた姿を、忘れられない。

 ――――ああ、兄弟って……。

 初めて知った、感情だった。

 ふと、頬を撫でる温かい光に我に返る。西日が、古書堂に差し込み始めていた。

「もうこんな時間か…」

 丸椅子(ハイスツール)を回転させて、室内を見遣る。橙色の光に照らされて、舞った埃が翻り、煌びやかに小さな光を散らしていた。

 何気なく見ている内に気が抜けた。眼鏡を取るとカウンターに置く。目を閉じて、人差し指と親指で眉間近く、目の窪みを押すと、じんわりと心地よい痛みが広がった。

『夕飯どうするか…。もうこの時間じゃ、山は登れないな』

 不意に、スマートフォンが鳴った。

 手に取り画面を眺めると、しのぶからの連絡だった。

「もしもし。なんだ」

『兄上。縁壱です』

「あ。縁壱か。…お前もいい加減、携帯を持ったらどうだ」

『不思議と、離れたところから兄上に電話を掛けたくなる時は、しのぶさんが傍にいるんですよ』

「そう言えば、そうだな…。て事はなんだ、まだ外か」

『ええ、まあ。兄上は? もう京(みやこ)からお戻りですか?』

「ああ。昼に着いた」

『そうでしたか! お疲れ様です。お二人は元気でしたか?』

 矢庭に声が明るくなった縁壱に、巌勝(みちかつ)は一つ、咳払いをした。知らず顔が綻ぶ。少し照れた様子が混ざるが、本人は気付いてはいないようだった。

 声色に現れる。

「ああ、元気だったよ。二人とも。あちらはあちらで大変そうだが」

『京近辺の各管轄は彼らが取り締まってますからね。兄上は自由にお二人と会えなくて残念ですね』

 小さな笑みが含まれて、揶揄された感に巌勝が少し紅潮した。恐らくそれをも弟は読み取ったであろうが、

「それはいいから」

 口を挟む。

「何か用があったんじゃないのか」

 問いかけると、申し訳なさそうな雰囲気が伝わってきた。

『あ、はい。それが…今夜は神社に帰れそうになくて。すみません、兄上…ゆっくりなさりたかったかと』

「気を遣うな。それより珍しいな? お前が社を留守にするなんて、そうそうないだろう」

『ええ…』

 縁壱はそこで少し心許なげになって、

『実は、少し前からちょっと心配なこともあって。戻りたかったんですが…どうもそういうわけにはいかなくて。一応、兄上に連絡をと』

「そうか。丁度良かった」

『?』

「俺も今夜は帰れそうにない。調べ物をしててな、それが片付かん」

『! あの…』

 縁壱が言い淀んだ。その様子に、巌勝が察する。嫌な予感がしたものの、静かに言を待った。案の定、

『まさかとは思いますが、…依頼を受けました?』

「…ああ」

『そうですか…』

 いい加減なことは口にしない縁壱だ。しかし、この間の取り方は、まだ、苦手だった。態とではないことも、もう、理解はしている。どうにも思わせ振りで落ち着かないのだ。

「なんだ、煮え切らないな」

 だが、それに対しても、きちんと尋ねればいいのだと知ったのは、彼女のお蔭だ。

『縁壱が余計なことを言うから! 気になり始めたじゃないか…ったく!』

「で?」

 思わず口調が荒くなる。流石に気散じだったと口元に手を当てて咳払いをした。

 電話口の相手はそれほど気にした様子もなく、

『それが…私の方はまだ、分からないんです』

 余程、不可解なことでもあるのだろうかと思った。

「まだ?」

『兄上は依頼を受けたのですよね? となると、やはり…事故ではないのかも知れません…』

 最後は独り言のようになった縁壱に、巌勝ははっとした。

 これまでも、一方だけが問題を抱えると言うことはなかった。どちらかに異変があれば、どちらかにも現象が発生している。

 だからこそ、縁壱も、起こったことにこれほど判断に迷うのだろう。

「縁壱」

『…はい』

「ちょっと詳しく話してくれないか。何があった」

『本当に、関係があるかは分かりませんよ?』

「ああ。念頭に置いておく」

『悲鳴嶼さんは、事故として片付けようとしてます…』

 縁壱は、今日一日を、ゆっくりと振り返った。

 暫く黙って、耳を傾ける。

・弐・~椿の章~: テキスト
bottom of page