第弐話:ネガ
・壱・
~椿の章~
一週間かけて、西での用事を済ませて帰宅した巌勝(みちかつ)の足が、古書堂に行き着く前の通りで止まった。
引いていたスーツケースの音も止む。前に回すとキャリーハンドルに体重を乗せて深々と息を吐いた。眉間に皺が寄った。眼鏡を一旦利き手で取るとそのまま瞼の上から目を擦り、眼鏡を掛け、もう一度、古書堂の方を見る。
『見間違えじゃないな…』
訪れたモノに、なんでこう、出先から帰るといるのか。頭を抱えた。
『それも、今回はかなり厄介そうだぞ…』
見た目は子供のようだが、その形が酷い。お世辞の重ねようもなかった。通ってきた道には水が川のように溢れ、佇んでいるその場には水溜まりができていた。なおも、千切れた服からも全身からも、水が滴り、時には腐った肉が一緒に落ちた。全身がふやけてやや膨れ、所々骨が見えるほどに腐食している。
「!」
こちらを向いた。
瞳はもうなかった。溶けてしまったか、魚に食べられてしまったのだろう。とてもじゃないが、話ができるような状態ではなさそうだ。ここまで来られる意識のあったことが、不思議なくらいだ。
溶けた口元がにぃっと上がったような気がした。背筋が凍るが、悪意は感じない。
『まさかとは思うが、また、手鞠唄の子供の仕業か? そいつは何処にでも現れるのか?』
「ったく。何処で噂を聞きつけてくるんだ。俺はしがない古本屋の店主だぞ。静かに過ごしたいんだ。なんでこう…」
水音を響かせて、それはもうゆっくりと、相手が動いた。
「待て! 動くな、今店を開ける」
身体が崩れてしまいそうな気がした。できれば余計な動きをさせない方が良いのではないかと、頭を過ぎった。
『よくここまで辿り着いたな。それだけ必死なのか…』
水死体というのは、それはとても厄介なものだ。
人の身体は溺死をすると、沈む。だが、体内の残飯や排泄物などが発酵するとガスが溜まり、一度は浮上するのだ。人体の大きさなどにもよるが、その間約一週間はある。水辺で亡くなった者はこの間に引き上げられないと、実は、二度と見つからない場合が多い。
ガスが抜けて再び沈み始めると、もう二度と、浮上しないからだ。静かに、時間を掛けて、人は文字通り、母なる海に還ってしまう。
『この子も、親元へ帰りたいのか…?』
そんな思いが頭を擡げた。性別も分からないこの子の脇をとにかくすり抜ける。鍵を取り出しながら真鍮のドアノブを回す間は、顔も、目や耳など柔らかなところから既に溶けて骸骨が見えているその形のまま…漆黒の深い闇の窪みから、こちらを凝視している眼差しを感じた。
『参ったなあ…』
巌勝は頭を掻いた。
「とにかく、店に入れ。そこでは俺が困る。人が通る度に独り言を聞かれても面倒だろう?」
納得したのか、そろり。そろり。と、水を引き摺り肉を時折散らせながら、何とかこちらまでやってくる。扉を潜ったところで閉めると、巌勝は、スーツケースを少し離れたところに置いて、片膝を付いた。
「さて…。話はできるか?」
待つが、無言だった。やはり、そうか。と納得してしまう。
「じゃ、幾つか質問するから、何か反応してくれ。いいな?」
確認するように最後で問を投げると、その子は、なんと頷いた。正直、『おお』と感嘆する。何とかなりそうだ、と思ったとき、
『ああ。これじゃもう、依頼を受けるのは確定したも同然だな』
苦笑った。
「親御さんのところへ、帰りたいのか?」
…無反応だ。
内心驚く。てっきりそうだとばかり思っていたため、咄嗟に次の質問が出てこない。少し考えて後、
「助けてはほしいんだよな?」
頷いた。
「それは、お前が?」
…無反応だ。
「じゃ、もしかして…一緒に死んだ友達とか親とか、か?」
これも、無反応だ。
「んんん? 生きた人間を助けてほしいのか?」
頷いた。
「…変なことを聞くが、頷くことはできるんだな?」
こっくり、再び頷いた。
『首は縦には動くのに、横には動かないな…。これは、何か制約があるのかも知れん…』
と、
ふ、ク… しゅ…… シ、ぬ……
脳に声が直接響いて、心底驚いた。腰が抜けて尻餅をつく。眼鏡が鼻からずり落ちそうになって、それを元に戻しながら、
「復讐? 誰かの命が危険に晒されているんだな?」
二度、頷いた。強い意思表示だった。
「それを、助けるのか? それとも、復讐を…止めてほしいのか?」
二つの質問を並べてしまって、しまった、と思った。が、
「あ!」
もう、その身を保ってはいられなかったのだろう。
その子は、反応を見せることはできなかった。その場で、水となり泡と消えた。
『さて、困った…』
巌勝は瞼を伏せ、呻いた。こめかみ辺りを人差し指で強く押しながら回す。その間に、
「結局何も分からないままじゃないか…!」
巌勝は、大きく肩を落として胡座をかいた。大きく長い、息を吐く。
どうしたものかと暫くその場で苦慮していた巌勝が、立ち上がった。スーツケースを引っ張ってカウンターの奥へ向かう。小さなキッチンを抜けると、中庭を通って自宅の玄関前に着いた。
「悲鳴嶼(ひめじま)に聞くと言っても、今分かってる限りではな…」
どうにもならん。と呟きながら、玄関を開ける。室内に上がることはせずに下駄箱前にケースを置くと、すぐに古書堂の方へ取って返した。
「さて…」
店は右手奥へ歩を進める。カウンターを横切る時に、上着を無造作に置いた。ネクタイも外して襟首を引っ張って緩やかにする。
『ひとまず、手鞠唄の子供の誘導だと仮定する。これまでの経験上、俺の元へ来る幽体(ゆうたい)は継国(つぎくに)の管轄内だけだ。とすると…』
「まあ、住んでる場所(この県)から調べるのが妥当だよな」
巌勝は、過去数年分の新聞記事を纏めた県の編纂誌を手に取った。カウンターへ運び、丁寧に捲っていく。
『現時点でのキーは、水難事故。それと子供。…人数は複数のはずだ、恐らく…あの子は死んで、助かった子がいる。そして、復讐をしようとしている子。助かった子が復讐をしようとしても、やっぱりその相手がいる。と言うことは…少なくとも、あの子の他に二人以上はいないと話は成立しない。三人とも子供なら親御さんも併せると三家族分…親が復讐者ならそれよりは少なめ…』
長丁場になりそうだ、と、巌勝は一度目を閉じて肩を回し、解した。立ち上がると、珈琲を淹れる準備をし始める。
『状況は? 団体で水難事故に遭って、あの子の周りの一部の人間が今回のことに関わってるのか。それとも、そもそもその関係者だけでの水難事故で話は完結しているのか…』
ミルの音に、巌勝の溜息が重なった。
「それはダメだな、分からん。そこからは辿り着けん…人数は三人以上で記事は探そう。とすると…因果関係か…」
棚に寄り、マグカップを手にする。縁が欠けているのを見て「いつの間に?」と思ったのと、所々骨が見え隠れしていたあの子の姿が重なった。
『暫くはあの姿に毎夜うなされそうだ…』
別の感想が頭を過ぎった。懸命にそれを振り切って、
『あの子の姿が二つ目のキーだ。あれはかなり水没していた状態…。でも、俺のところまで来ることができた。と言うことは、助けてほしいという願いはあっても、あの子自身は恐らく…死に対して納得はしてる』
「うーん…。助けてほしいとあの子に願われた相手の方が、納得していないのか。やっぱり根深そうだな、この件。まさか…殺人じゃないだろうな…。やっぱり因果関係(こっち)から調べた方が良さそうだ」
マグカップに珈琲を注ぎ、鼻を近づける。存分に香りを嗅ぐと「ほうっ」と息が零れて、表情が和らいだ。
カウンターの向こうへ戻る。ゆっくりと、編纂誌の捲れていく音だけが時を紡いでいった。