第六話:累
・弐・
~躑躅の章~
「あ…はい、はい。申し訳ありません。はい、分かりました、ちゃんと向かいますので。…はい、はい…」
アンティーク電話の前で正座をした縁壱(よりいち)は、始終、頭を下げ続けた。
背後で兄が訝しげに眼差しを送ってくるのを感じてはいたが、受話器のコードがあるため振り向くこともできない。
「はい、はい…分かりました、はい。申し訳ありません」
何度目かの謝罪に、その兄の、青筋がブチ切れる音が聞こえた気もする。耳に聞こえる怒りの声だけでも心身に負担なのだ、正直、兄の怒りはちょっと待ってほしかった。
受話器を置くと、
「はあ………」
げっそりとなって、長々と溜息を吐いた。項垂れたまま畳の上で身を滑らせ、正座した状態で兄に見向く。
「何があった」
兄の低い声に、心がささくれた。
「兄上」
柄にもなく眼差しに力を込めると、兄が、一瞬怯んだ様子が見えた。
「矢琶羽(やはば)。学校にちゃんと連れて行ったんですよね?」
「あ? ああ。転入手続きの時な」
「は? 今日は一緒に行かなかったのですか? 転入初日ですよね」
「十六歳だぞ。阿呆か」
「阿呆は兄上です!」
珍しく、縁壱は投げ返した。
予期していなかったのだろう、兄は目を丸くして、身を固まらせた。
「矢琶羽。制服は着てこないし、授業は一時限目からサボるし、挙句に午後は取り立て一派とか言う他の不良と一緒になって野球をやってたとかで」
「…ぷ。あはは!」
「笑い事じゃありません! 何のために学校へ行くか、ちゃんと伝えました? と言うより、さ、立って!」
縁壱は話し途中で時計を見ると、慌てて立ち上がった。
「迎えに行きますよ!」
「…じゃなくて、怒られに行くんだろう?」
巌勝(みちかつ)がいまだ笑いを収められず、掛け声一つ膝を立てて、重たそうな腰を上げた。
「分かっているならさっさとして下さい!」
「お前は母親か」
「私が母親なら兄上は父親なんです、矢琶羽の!」
「あ~、まあ。それはそうだが」
頭を掻きながらついてくる兄に、縁壱は、再度溜息を吐いた。
思えば、もし、電話を取ったのが兄なら、今の立場は逆転していた気がする。
『しきたりやら年功やら、しっかり守るのは、どちらかというと兄上の方なのに』
事務方に出掛けることを伝えると、トラックのキーを手にした。戸口で柱に寄りかかり一連の動作を見ていた様子の兄を一瞥する。彼は、腕を組んで飄々としていた。まるで他人事のようだった。
「ん?」と、視線に疑問を含めて返してくる。
『んもう!』
縁壱は首を横に振ると、大股で玄関に向かった。
『兄上は…きっと』
と、思うに至った。
『昔から忍耐強かったですし、優しかった…。何事にも理由があって、多分、矢琶羽のことも…。と言いますか。若い頃の不良兄上そっくりじゃないですか、矢琶羽ったら!!』
「縁壱? どうした」
「…いえ」
砂利道を行く。トラックが置いてある駐車場へ向かう途中で、兄が隣に並んだ。心持ち見上げて視線を合わせると、
「いつもなら、兄上の方が怒っているはずなのにと、思いまして」
巌勝が笑った。
「なんだ、もう沸点は降りたか」
「…私らしくありませんね」
「たまにはお前が怒る役でいいんだぞ? 俺は手間が省ける」
それにな、と、兄の眼差しが柔らかくなった。
「お前のいろんな表情が見られるのは、俺は、楽しい」
『兄上…』
「あ、ほら。着いたぞ。運転、俺がするか?」
「あ、いえ」
縁壱は運転席のキーを回した。
乗り込んで助手席も開けて、巌勝が腰を落ち着けるのを待つ。
複雑な感情をディーゼルの音に絡ませて、廃棄した。
軽快に山を降りて行った。
職員室に着くと、動きの止まっている教師の視線の先を見た。皆一様に同じ方向を見ていて、その先から、少年の声が聞こえた。
「先生、大丈夫だよ。矢琶羽は僕が、ちゃんと面倒見るから」
大人と、並ぶデスクの波で、声の主が見えない。どうやら余程、小柄なようだ。
ただ、その隣に、不機嫌そうな様子で佇む矢琶羽の姿は見えた。
『着物!? 事もあろうに…!』
面食らって、勢いよく兄を見る。
「兄上! 制服…!」
「ん~…」
学校生活に支障がないよう、一通りの物は揃えて兄に渡した。不備があってはと何度も確認したのに、当の彼があの姿では、それは、教師でなくとも心がざわつく。
しかし、巌勝は、なんの弁明をするでもなく、闊歩してあの輪の中へ入っていったのだった。
「先生、継国です。矢琶羽が…」
「継国さん! 貴方ね!」
「あ。継国さん? 初めまして。僕、累(るい)です」
「累! 私が話すとこだ」
全く足並みが整わない中に、縁壱は、慌てて入って行った。
『この子が、累くん…』
話にならんとでも思ったのだろうか。巌勝が、両手を腰に当てて矢琶羽の方を向く。
「矢琶羽。お前、なんで着替えたんだ? 家を出る時は制服だったろう」
『!』
「え? だって窮屈なんだもん。俺、洋服嫌い」
「嫌いって、お前な…」
「大人しくハイハイ言って、勉強しっかりやってりゃ問題ないんだろう? だから不良やいじめが出るんだよな、分かるよ。表向き赤べこみたいに先公に頭振ってりゃそれでいいんじゃん、学校なんて」
「それが初日の感想か?」
「うん」
頭を縦に振った矢琶羽に、巌勝は「くっ…」と笑い始めた。隣で累も、口元に手を当てて笑いを堪えている。
兄は矢琶羽の頭に軽く手を乗せると、
「まあ、分かっているならちゃんと制服を着ろ」
「貴方ね、」
と、とうとう教師が口を挟んだ。
「それはそれで問題発言なんですよ。分かってますよね!?」
「先公黙っとけよ。巌勝さんが話してるんだよ」
「は!?」
「だってそうだろ? 先公と巌勝さん。どっちが偉いの?」
「え? ああ…まあ、俺だな」
「だろ?」
巌勝が腹を抱えた。
「貴方ね…!!」
沸騰したケトルがけたたましく鳴るように、担任が両拳を握ったところで、縁壱は、一歩を踏み出した。
「もう…。兄上。あまりふざけないで下さい、神社の矜持が疑われます」
「あははは! 腹痛い」
「兄上っ! 本当に、申し訳ありません。兄上にも矢琶羽にも、ちゃんと言って聞かせますので。本当に、すみません」
何度も頭を下げる傍らで、兄が、矢琶羽の頭を撫でるのを横目に見る。
教師の怒りを一身に受けながら、耳は二人に欹(そばだ)てた。
「まあ、ちょっと、周りに合わせてみろ、矢琶羽。また違った物が見えてくるぞ?」
「…そうなの?」
巌勝が確かに首を縦に振り、
「少しずつ、他人と違う自分が見えてくる。まあ、この時点でお前はもう全然違うことを認識してはいるだろうが」
「うっ」
「はは! いいか? 合うこと、合わないこと、それを見つけて自分を探し出すのも勉強なんだ。だから、学校で集団生活を学ぶんだよ。何も、周りに迎合しろと言ってるわけじゃない」
「ふ~ん? まあ…巌勝さんが言うなら…てか、迎合って、何?」
「自分を曲げてまで、他人に気に入られようとすることだ」
「あ、無理」
「それならそれでいい。ただ、守らなくちゃならないルールはどこにでもある。京(みやこ)でもあったろう?」
「うん」
「それとおんなじ。決められたルールの中で、自分をどうやって活かしていくのか見つけるのも、集団生活で学ぶべき事の一つだ」
「…分かった」
「よし」
巌勝がもう一度矢琶羽の頭を軽く叩いて、それから教師の方に見向いた。
深々と腰を折り、「すみませんでした」と、丁寧に言葉を紡ぐ。
「ほら。矢琶羽」
少しだけ首を回して彼を見た兄に倣い、矢琶羽もきっちりと腰を折る。
「すみませんでした!」
担任が言葉を失ったようだった。
複雑な感情の落としどころが見つからないようで、しどろもどろに許容している。相手はもう一度こちらを向くと、「頼みましたよ」と念を押してきた。
「あ、」
縁壱も頭を下げた。
「はい。本当に…、申し訳ありませんでした」
『んもう…』
やっと、一息ついた気がした。
職員室を出てトラックに向かう途中で、累と話す兄を見てから、縁壱は、矢琶羽に見向いた。
「で? 矢琶羽?」
「あ…、ん?」
「制服。どこにあるんですかね?」
静かな炎を身に纏う。
それははっきりと彼にも見えたようで、たじろぎながら言った。
「あ。え。ええと。うん、どこだったかな? 来る途中の公園のゴミ箱」
「ゴっ…! 高いんですよ!? 制服!」
「え? あ? そっち?」
「縁壱さん? も、ちょっとずれてるよね?」
と、累が笑みを零しながら巌勝を見上げている。
「最近慣れてきた自分がいて怖いがな」
「あは!」
二人に鋭い視線を送りつつ、矢琶羽の首根っこを掴む。
「案内しなさい!」
「え~? どうせもう、回収されてるよ」
「分かってて捨てたんですか! 二度は言いません。言うこと聞けませんかね?」
「あ、あ、はい…ごめんなさい…」
と、離れた廊下の先から、
「矢琶羽~!」
明るい女性の声がする。振り上げた片手の動きに合わせて、高下駄が揺れた。
「あ。梅(うめ)!」
「梅ちゃん!」
いいところに、と言った矢琶羽の声と、嬉しそうな累の声の向こうに、驚いた兄の顔を見た。
『兄上?』
彼女を凝視したまま、歩みが止まっていた。
「兄上? どうされました?」
己が束縛から逃れて、矢琶羽が向こうに駆けていく。高下駄を受け取りに行った後ろ姿を見ながら傍に寄ると、兄は、なんとも言えない顔で笑った。
「ここは…ったく。鬼の学園(巣窟)か」
「…は?」
「いや。何でもない。きっと分かるとすれば、累だけだろうしな」
「???」
「あ、そうだ」
巌勝が視線をこちらに戻し、歩き出す。
縁壱も後に続いて、騒ぐ三人の元へ寄った。
「帰りに累ん家(ち)に寄ってくれるか?」
「それは構いませんが…」
何が? と表情(かお)に含むと、兄は三人を見守るような眼差しを送って、
「手鞠。見せてくれるってさ、累が」
「! そうですか…」
「それと。矢琶羽の勉強の面倒も見てくれるらしいし、小学校の時の教科書。貸してくれるらしい」
「それはそれは!」
少し、胸を撫で下ろした。彼のことだ、一度やるとなれば、ちゃんと身につけるような気はしていた。後押ししてくれる友がいることも、心強かった。
『勉強で追いつけないとなると、それもまた彼には…心の負担になるでしょうしね』
「いきなり大きな子供ができて大変ですが。しばらく頑張りますかね? 兄上?」
呟くと、兄は頭の後ろに両手を回して長い息を吐いた。
「そうだな…!」
「…幽世(かくりよ)。開くしかないですかね…」
「それは少し待ってくれ。ちょっと今、確認していることがある」
「そうなんですか?」
「ああ。構わないだろう?」
「ええ。それはまあ」
応えながら、三人に囲まれる兄を見た。
談笑する巌勝の横顔を目に収め、縁壱の足が止まった。
『鬼としての、兄上の…重く、長い…罪の歴史……』
独り立ち竦んで、次第に離れていく四人の姿を見つめる。何となく、あの頃の、四人の姿が見えるようだった。
突如、
「縁壱? どうした?」
兄が振り返った。
「何してんだ? 早く帰ろうよ!」
矢琶羽も目を瞬かせながら言った。
「…ええ!」
ほっとしたような、息が漏れた。
じんわりと胸の奥が痛みで熱を帯び、微かに視界が滲む。
『もう、独りじゃないですよね? 兄上。私…私もそこにいて…傍にいて、いいんですよね?』
急いで駆け寄った。
「何ぼうっとしてるんだ、ったく。相変わらずだな!」
兄が笑う。
縁壱はくすりと返して見せて、
「矢琶羽? 帰る前に公園です」
「はあ!? まだ諦めてないのかよ!」
「反省が足りないようですね…!」
「み、巌勝さんん…!」
咄嗟に兄の後ろに隠れた矢琶羽に、累と梅が明るい笑声を立てた。
つい、縁壱の相好も崩れた。兄の楽しそうな笑声が、耳にとても心地よかった。
思わず、兄の片腕を取って脇に飛びつくと、
「うわっ!」
兄は仰け反り、新しい小さな仲間達は、笑いながら「何やってんだよ」と口々に声を上げた。
継国神社(つぎくにさん)は、今日も平和だ。
第六話:累・完。
第七話へ続く。