第六話:累
・弐・
~椿の章~
硝子ケースに並んだ商品と、棚に陳列されている文具などに目を奪われて、矢琶羽(やはば)は、
「へえ…便利なんだな」
と、思わず声を上げた。
「矢琶羽くん」
少し離れたところから、委員長が声を掛けてくる。
物怖じしない彼女の態度は、彼には新鮮だった。
手招きする彼女の傍に寄りながら、
「あんた、名前は?」
「え? ああ、ごめんね。謝花(しゃばな)梅(うめ)、よ。みんなは姫って呼ぶわ」
「ふうん?」
笑顔の裏に潜む影が見える。髪色も少し変わっていて、銀髪に裾が翡翠(ひすい)色をしていた。
『俺の服装は駄目で、こいつの髪色はいいんだな』
苦笑した。
「少し大きめのにする? 足痛いって、話してたよね」
「あ? ああ…そっか。それなら痛くないかな?」
「試してみるといいよ?」
言われるままに、足を入れてみた。
ゴムで足の甲が絞められる感覚は変わらなかったが、確かに少し緩い方が楽な気はした。
どうなんだろうと何気なく首を傾げると、
「…足にぴったりのでもね、足袋(たび)を履いてると思えば気が楽かもよ?」
しゃがんで足元を確認してくれた梅の後頭部を見ながら、不思議な感覚になった。
「足袋なんて言葉、出てくると思わなかった」
「着物着てるじゃない」
「あ。そっか」
見上げて微笑んだ彼女に、二度目の違和感を感じる。どうにも、底が知れない気がした。
「あんたさあ…」
訝しげに呟くと、彼女の表情が変わった。
「さっきのは、スッキリしたよ? 矢琶羽くん」
「!」
目が吊り上がり、口角を上げて嗤った様に仰天した。
『やっぱり。こいつ』
思うが、次の瞬間にはまた優等生の面(ツラ)に戻って、
「どうする? ぴったりした物の方が、放課後困らなくていいかもしれないね? 制服はもう、どうしようもないけど」
「…確かに」
もう一つの顔が見えたところで、矢琶羽はすっかり納得した。肩から力が抜けて、
『案外面白いかも。学校。確かに、巌勝(みちかつ)さんの言ったとおりだな』
そう言うことではないのだが、矢琶羽はぽん。と、心の内で鼓を打った。
「ぴったりしたのにするよ。金は明日持ってくるからさ、立て替えてくれる?」
「仕方ないなあ。いいよ。貸しいち!」
「あはは。利子は購買のパンでいい?」
「やった! やっぱりあんた、話分かるね」
剥がれたメッキに矢琶羽が人差し指でちょいちょいと梅の口元を指さす。
彼女ははっとした様子でにっこりと微笑み、
「矢琶羽くん」
首を傾けて微笑んだ。
「あはは!」
矢琶羽が腹を抱えて笑う。
「ね、もう一つ頼まれて? 面倒くさいし、下駄渡すからさ。適当に話着けといてよ。どうせ梅ならうまいこと言って逃れるだろ?」
「矢琶羽くん、本当、面白いね」
梅は瞳の奥に鋭い光を滲ませて笑い、ちら。と、天井を見遣った。
「そうね…が、いいかな? 誰の目にも留まらないし」
「あんがと! じゃ、また明日ね!」
言外に今日一日どう過ごすのかを込めた意味合いは、彼女にちゃんと通じたようだ。
快活な笑みを零した梅の美しい顔(かんばせ)に、矢琶羽は下駄を突き出す。証拠品を受け取る彼女の目の前でぴったりとした上履きを履くと、
「足袋足袋足袋足袋…。あ~~きっちいなあ」
呟いた。
彼は手を振り駆け出すと、校舎の上を目指して走った。
折しも、一時限目が始まる頃だ。
教室に向かう教師と時折すれ違う。その度に「走るな!」と怒鳴られたが、梅の姿を見ていた矢琶羽は、
「はーい」
と軽快に応えると、その場は歩いてやり過ごした。しばらくしてまた駆け出す。屋上へは、あっという間に着いた。
階下がどんな様子になっているかなど、矢琶羽には知る由もなく。
一時限目が終わった後、控え目に言って風変わりな転入生が来たという噂は、『継国関係者』効果も相乗して、あっという間に広がった。
2-Aの教室の扉には人だかりができ、背伸びをしたり、飛び跳ねて中を確認する者までいる。
「きゃ…! 累(るい)くんよ」
そんな中、ひそひそと話す女生徒の黄色い声を背中に浴びながら、累は、噂の教室へとやってきた。
「ごめんなさい、ちょっと通して下さい」
一つ上の先輩達に頭を下げながら、時間を掛けて最前線まで行き着く。室内の面々はうんざりといった様子でこちらを見ていて、
「あ。累!」
「…梅ちゃん!」
委員長が気付いた。
笑顔で手を振り招いてくれる厚意に甘える。
累は臆することなく教室内を駆けていくと、梅に誘われてベランダへ出た。
「そっか、こっちから来ればよかった」
廊下と同じくベランダも端から端まで突き抜けていることに気付いて、累が苦い笑みを零した。
「帰りはこっちからだね」
「そだね。あんなに噂になってるなんて、知らなかった。何しでかしたの? 矢琶羽」
「え、何? 知り合い?」
「うん。とっても旧(ふる)い知り合い。友達なんだ」
「そうだったんだ! やるねえ、累」
「梅ちゃんには敵わないよ」
二人はまるで秘密を分け合うように、肩を寄せ合い笑った。
「あ! そうそう、この前ね、また、珍しい紐見つけたんだ」
梅はスカートのポケットから小さな袋を取り出した。近くのショッピングモールにある、有名な手芸店の名前が入っている。
「はい、あげる」
「わあ! 開けていい?」
「もちろん!」
累は瞳を輝かせながら紙袋のシールを剥がした。
中から紫闇(しあん)のラメが入った白銀の組紐が出てきて、感嘆の息を漏らした。
「これ…高かったんじゃない?」
一度は嬉しそうにはにかみながらも、申し訳なさそうに言うと、梅は手すりに両腕を置いて頭を乗せ、累ににやっと笑って見せた。
「いいんだよ、あそこのスケベ親父、すぐまけてくれるから」
「あはは!」
得意げに彼女の片足がベランダの床の上を弾んで、累は「ありがと!」と礼を言った。
「あやとりに使うのはもったいないなあ。大切にするね、何か違うの考えてみる」
「可愛いなあ、累」
髪を乱すほど頭を撫でられ、累はくすくすと笑みを零した。
彼女は思い出したように、
「矢琶羽に用があるんだよね?」
「あ、うん。居場所知ってる?」
「もちろん。あいつ、面白いね。あたしのこと、すぐに見抜いたよ? 抜け目ねえ」
「梅ちゃん、言葉言葉。油断すると元に戻っちゃうよ」
「累の前だと素に戻っちゃうんだよ、面倒くさいし見逃して?」
「仕方ないなあ」
梅はとびきりの笑顔を見せると、視線を一度、天へと投げた。
「そっか! ありがと、梅ちゃん!」
「二限目。サボるの~?」
にやにやと笑いながら言った梅に、累は背伸びをした。背の高い彼女は少し身を屈めてくれ、耳に片手を当てる。
こそりと、
「だって僕、いい子だもん」
途端、彼女は大きな笑みを零した。
「お主もワルよのう!」
「えへへ」
チャイムが鳴ると同時に、累は「じゃあね」と片手を振った。
振り返す彼女の笑顔に同じく微笑んで、教室に戻る生徒達の波に紛れる。彼らの視線が途切れたところで、するりと上への階段の影に身を滑らせると、足音は忍ばせながら一足飛びで、駆け上っていった。
山と違って、コンクリートの床は寝そべり具合が悪かった。それでも、戦(そよ)ぐ風は変わらず心地いい。短い前髪をそっと攫っていくのに任せ、薄い雲を眺めていると、離れたところで鉄扉が軋む音がした。
『さっきチャイムが鳴った気がしたけど。あれ、次の授業の合図じゃないのか』
眉間に皺が寄った。
『あ、違うか。誰かが呼びに来たのかも』
何を言われても動く気はない。とでも言うように、矢琶羽は瞼を伏せた。
薄い皮の向こうに感じていた黄金色の光が、暗くなる。真上から、誰かが顔を覗き込んだようだった。
誰だろう、と、くん。と意識を鼻に向けると、
「!」
懐かしい気配に飛び起きた。
「累!」
「おはよう。矢琶羽」
「うっそ! もう逢えた!」
にっこりと微笑んだ小柄な彼に、歓声を上げた。胡座(あぐら)をかいて見上げる傍らに、彼は腰を落として体育座りをした。
「逢えたね! よかった」
窪みに頭を填めて、こちらを向いて彼が言う。思わず手を伸ばして、かなり乱暴に頭を撫でると、
「ん?」
動きが止まった。
「お前、俺よりちっこい?」
「うん。ちっこいなあ」
「なんで? 先に転生したんじゃないの?」
「あ、僕、母さん達に改めて謝りたくて、罪を償った後、一度天に昇ったんだ」
「そうだったのか…」
「地獄に降りてすぐは母さん達も一緒にいてくれたんだけどね。僕がね、けじめだからって話してね」
「偉い!」
矢琶羽はまた、わしゃわしゃと髪をかき混ぜた。
累が擽ったそうに笑う。
「転生する順番も、別に、年齢順でもないみたいだよ?」
と、累は誰かを思い出すように口元に人差し指を当てながら、
「閻魔(えんま)様の気分次第なんじゃないかなあ」
「そっか。ま、そんなのどうでもいいや。逢えて嬉しい!」
「僕も。と言うより、矢琶羽がちゃんと僕のこと覚えててくれて、それがことさら嬉しい」
「運がよかったからな!」
親の事は分からなくても、と、矢琶羽は、その経緯を話した。小さな友は、初め、なんて声を掛けていいのか戸惑った様子だったが、それ以上に溢れた気持ちは伝わったようで、次第に笑顔になった。
「手鞠。累、持ってる?」
「うん。朱紗丸(すさまる)から預かった一つだし、実は、利用させて貰っちゃった」
「ん? 何に?」
「天国でね、母さんに渡したの。これを持ってたら、絶対僕が生まれてくるからって。必然的に父さんにも逢えるでしょ?」
「あはは! 頭いい。閻魔様は約束破れないもんな。お前真面目に死渡(しと)の役割果たしてたし」
「そうそれ」
「まあ…、あの閻魔様、結構人情深い気もするけど。手鞠がなくてもお前の気持ち、反映してくれたような気がするけどな」
「矢琶羽…」
累が目を丸くして、顔を上げた。
「丸くなったね?」
「は? 何それ」
二人はまた、声を揃えて笑った。
やがて、雲が流れるのに任せて、二人は遠く広がる空を眺める。少しずつ、累の頭がまた膝上に乗っていくのを見て、
「朱紗丸。探そうな」
「…うん。逢いたい」
「そうだな」
矢琶羽はそっと、累の背中を撫でた。
地獄で初めて逢った時、彼は、独り、ぽつねんと佇んでいた。
言葉がなかった。
同じ鬼だったとはすぐに気付いたが、少年を取り巻く感情と力とが複雑に絡み合って、誰も近寄れないのだろうと分かったからだ。
それを、
「うおりゃ!!」
「あっ、馬鹿!」
朱紗丸がいきなり手鞠を投げつけた。
眼光が鋭くなって、こちらを睨み、避けるかと思った彼の身は、その手鞠を受け止める動作に入った。手元の紐を――あれは、後に、手鞠を刻む動作だったのだと知り得たが――広げて網状にしたからだ。
それを見た朱紗丸が、
「あ~そ~ぼ~!!」
と、飛び跳ねた。
手鞠が二人の間を飛ぶ、一瞬のことだった。
目を丸くした彼は、瞬時に網を収めた。
一方通行になると思われた手鞠は、しっかりと彼の両手で受け止められた。彼は最初は驚いた様子で、次第にゆっくり、手元を見遣る。見る間に少年の瞳から涙が溢れ出た。
朱紗丸が慌てて、
「あ! 痛かったかのう? ごめんじゃ!」
駆け寄った。
「うん。凄く凄く、痛かった。…嬉しくて」
「あん? 訳わからんのじゃ」
傍に寄った朱紗丸は怪訝な顔をして首を傾けたが、累は、そっと微笑んで、手鞠を彼女に返したのだった。
…ふと、累が言った。
「ね、矢琶羽。なんで中学にいるの? 高校じゃない?」
『なんだよ。お前はそんな事考えてたのか』
矢琶羽の目が一瞬据わった。
「…頭が足りないんだよ。俺、産まれてからこの方、学校行ったことねーし」
投遣りな口調になると、累がくすりと笑った。
「じゃ、さ、僕が勉強教えてあげるよ。小学校の教科書も家にあるから、貸してあげる。家で少しずつ読むといいよ?」
「あ~~~~」
頭を抱えて俯く。
累はますますおかしそうになって、
「学校ではね、勉強ができると一番便利だよ」
聞いた言葉に少し疑問が湧いた。
「梅は? あいつ、あんまり頭良さそうに見えなかったけど。世渡りは上手みたいだけどさ」
「それ。世渡り上手も便利だね。でも何より、美人なのが効果的」
「聞きようによっちゃ偏見だなそりゃ」
「綺麗事言えるほど綺麗じゃないしね、僕。何も覚えてなければ、もっと素直にもなれたかも知れないけれど」
「お前…」
「鬼が転生するって、そう言うことじゃない? きっと、思い出したら思い出した分、消化しなくちゃいけない試練みたいなものってあると思うよ。地獄で罪を償うだけじゃなくてさ」
矢琶羽は思わず、累を抱き締めた。
「時々遠いところに行くな、お前。相変わらず」
「…そうかな」
「こんな時朱紗丸がいたらなあ」
「…言うね、朱紗丸なら」
「「訳わからんのじゃ」」
二人はまた、顔を見合わせて笑った。