第五話:山神様
・伍・
~継国さん。~
「あれ? 今の…」
社務所(しゃむしょ)へ向かって歩く姉妹の足が、止まった。
「しのぶ?」と、カナエは声を掛けながら数歩先で振り返る。
「どうしたの?」
首を傾げると、しのぶは、
「今の…そっか。よかった」
穏やかな笑みを浮かべた。
「もしかして、この前の騒ぎの?」
「うん。勇仁(ゆうじ)くん」
あの日。
縁壱(よりいち)の無事と帰りを社務所で待つ間、カナエは、しのぶから話を聞いていた。
きっと、人混みの向こうに妹は見かけたのだろう。あまりに人が多すぎて、見渡しても、自分はすぐには見つけられなかった。
程なくして、癖のある長い黒髪が一つに束ねられている、青年の後ろ姿を見つける。どういう訳か、「彼だ」と確信した。
ただ、しのぶが言うような懐かしさは、それほど湧いては来なかった。
彼女が言った。
「死相(しそう)、消えてた」
「そっか…! 良かったね、しのぶ」
「ん…! また。また…逢えるかな」
「…え?」
囁いた妹に、思わず彼女の横顔を見た。
こちらを向いて、にっこりと艶やかに笑ったしのぶは、もう、答える気はなさそうだ。
案の定、笑みを零しながら彼女は駆け出し、
「行こ! 姉さん」
「…ええ」
慌てて後を追う。
社務所に着くと、扉を開けたカナエ、そしてしのぶの動きが止まった。
「ですから!」
響いてきた縁壱の声に、二人の上体がなぎ倒されるように傾いた。驚いて顔を見合わせ、何度か瞬きする。
外にまで届く彼の声など、今までに聞いたことがない。
二人は靴を脱ぎ捨てるようにして、社務所に上がった。足音を響かせながら廊下を行って、居間の引き戸を引く。
室内に入る前から、
「何度言ったら分かるんですか、いい加減産屋敷(うぶやしき)地方へ向かうことを検討して下さい!」
「こっちも何度も言ってるだろう! 絶対に産屋敷一族(奴ら)に頭は下げん!」
座卓を挟んで、縁壱と巌勝(みちかつ)が、角を突き合わせていた。
その真ん中で、矢琶羽(やはば)が正座をして、茶を啜っている。二人が口を開く度に、交互に見遣っていた。
姉妹はまた視線を交わしてから、こっそり、彼の後ろに座った。
「あ。お帰り。カナエ、しのぶ」
「…ただいま。また、ケンカ?」
「みたいだ。飽きないな、この二人」
三人はひそひそと会話を進め、肩を揺らした。
「勇仁くん。話、聞きに来たの?」
しのぶが気になったことを告げると、矢琶羽は首を横に振って、
「それ」
と、卓上の洋菓子を小さく指さす。
「礼を言いに来ただけだったよ。逢えたんだ?」
「ううん、見かけたの。すっきりした顔してたから、良かったと思って」
「そうだね、ん。良かった。親御さんと話ができたのかも知れないよ」
「そっかあ!」
しのぶの明るい声に、矢琶羽も同じような表情になる。
姉妹が少し腰を浮かせて、「紅茶でも淹れる?」と、お菓子を見ては笑顔になった時だった。
縁壱が言う。
「大体、兄上がちゃんと日輪刀を腰に差しておかないからあんなことになるんです! 彼がいなかったら」
と、矢琶羽を指さし、視線は巌勝に投げたままで、
「勇仁くんも兄上も、一緒に崖下だったでしょう!」
「それは結果論だ! こいつがいなくても、」
と、巌勝も矢琶羽を指さし視線は縁壱に投げたまま、
「お前が祐子(ゆうこ)さんの幽体(ゆうたい)を視ることができていれば、お前が祓っていられただろうが! 悪いのは俺じゃない、いつまでも見えないお前が悪い、縁壱!」
「それも結果論です! 大体退魔(たいま)は兄上の仕事でしょう。鬼が斬れなくて何が退魔ですか!」
「お前がしっかり浄化(じょうか)すれば良いだけの話だ! 神が降臨している間に入ってきた幽体だぞ。禍(まが)い者とは違う! 斬らなくても浄化できればOKだろうが」
「そもそも、いつまで経っても『あの頃』に拘る兄上が悪い! たかだか日輪刀でしょう!」
「たかだかとはなんだ、たかだかとは! それっぽっちの価値ならわざわざ探しに行く必要もないな! そもそも、そんな風に扱ってるから旅館にも忘れてくるんだろうが。もっと自覚を持て!」
「私の日輪刀は本来振るうものじゃなくて舞うものなんです! 兄上のために持って行ってあげているのに、何ですかその態度!」
「いつ俺が持って行ってくれと頼んだ!? 気を回すならもっと別のところに気を遣え! だからお前は昔から思慮が足りないんだ!」
「兄上は昔からただの頭でっかちでしょう! 悶々と悩んだ挙句周りに迷惑掛け通したくせに!」
「! 何だと…!?」
「どれだけ私が思い悩んだか…!」
「結局さ」
と、矢琶羽が湯飲みを静かに置く。
ことり。と小さな音が響いて、一同の視線は矢琶羽に向いた。
「どっちもどっちなら、二人いればそれでいいんじゃないの?」
「「どっちもどっちとは」」
双子の声が揃った。
「なんだ!」
「なんですか!」
矛先が矢琶羽に向いて、
「ほらね?」
と、彼は姉妹に向く。
カナエもしのぶも、腹を抱えた。
継国神社(つぎくにさん)は、概ね? 今日も平和だ。
標高のある鞍馬(くらま)の山は、そろそろ色づき始めていた。
風が戦(そよ)ぐと山全体が揺れる様に木々がさざめいて、まるで炎を生み出すようだ。
『この季節は、あの日を思い出すわ…』
激しい動悸に見舞われ、彼女は胸に両手を当てた。ひび割れていく心を手で押さえるようだった。
「桜海(おうみ)」
何者かが、背後から声を掛けた。
だが彼女には、それは聞こえない。肩に置かれた手に反応するのが先か、気配に気付いた彼女は振り返った。
『兄様』
微かに首を傾けて、桜海こと、空明(くうめい)は微笑んだ。次いで険しい表情の兄・義政(よしまさ)に、怪訝そうにもう一度名を呼ぶ。語尾が上がった。
兄は折りたたまれた文(ふみ)を己の目線まであげた。
『もしかして、それ』
空明の顔色も、穏やかならぬものに変わっていった。
真顔になると、兄は頷いて、
「ああ。素戔嗚尊(スサノオ)からの文だ」
ゆっくりと喋り出す。
一緒に育った兄妹だ。彼の言葉は、ゆっくり紡がれれば口読(こうどく)できた。
「もう何度も、断りの文やら使いの者は送っているんだが」
と。その時だった。
ドン!
大地が突き上げるように一度撓(しな)ったかと思うと、大きな揺れが身を襲った。一斉に四方の山から鳥たちが飛び立って、騒然となる。
『きゃああ!』
「地震!?」
彼女の声にならない声に、義政の驚きが重なった。
突然の事に足元がふらついた空明は、踏ん張った義政の胸元に抱き留められた。
『兄様…』
ありがとう、と咄嗟に眼差しに込めて、兄が頷くのを見る。
大地の鳴動はそれきり止んで、ほんの一瞬の縦揺れだったことに二人は顔を見合わせたままだった。
「今の…なんだったんだ、地震じゃないのか」
『兄様、嫌な予感がしますわ。その、文は』
互いに身を離した二人は、自然と義政の手に強く握られ皺を刻んだ文に目が行った。
「いや、いつもの内容だった。今回も断っていいだろう? 桜海」
憂いた表情に、空明は念を押した。『手紙を』と指で紡いで、それを受け取る。
先程の衝撃で見るも無惨な姿になった文を、空明は丁寧に広げると、読み進めていった。
前半の鬱陶しいほどの恋文はさらりと流しつつ、
『一度、出雲(いずも)に起こし願えぬか? 厳島(いつくしま)や宍道湖(しんじこ)の美しい夕日を、貴女に見せたい。
京(みやこ)と出雲が手を組めば、要らぬ争いを招くこともなくなると思うのだ』
空明は何度か、そこだけを読み返した。
やがて最後まで読み通し、丹念に皺を伸ばしながら畳むと兄に渡す。
受け取った義政は、
「桜海…」
不安げに呟くのを感じた。
『兄様。秋の会合は、巌勝様…また、いらっしゃるのよね?』
「あ? ああ」
『その時に、縁壱様や継国の巫女様方に逢うことは、可能かしら』
「それはまあ、出来ないこともないが」
兄は一旦、言葉を切った。
考え込むと俯いて、眉根を寄せる。やがて、言った。
「お前が言う巫女は、特定の誰かを指しているのかも知れんが…継国には、まだちゃんとした巫女はいないと巌勝から聞いてる。縁壱に選んで連れてきて貰う形になるが、それはそれでいいんだな?」
『はい』
「それともう一つ」
義政は、長い溜息を吐いた。
空明は兄の思考に考えは至らず、ほんの少し首を傾げる。
「西日本の会合だ。継国だけ特別というわけにもいかない。他の地域にも同じような触れを出すことになるが…」
『はい、それならどうか、そのように手配をお願いします』
深々と頭を下げると、義政の何とも言えない雰囲気を察した。
恐らく、死渡(しと)以外の者達が互いに顔を合わせることに、あまり乗り気ではないのだろう。
返答はしばらくは降っては来ず、空明はそのまま声を待った。長い髪が肩からゆっくり落ちて、影を落とす。
「…分かったよ」
やがて折れたのか、両手を添えて頭を上げさせてくると、何度か小さく頷くのを見た。
「そのように使いを送る」
『ありがとうございます』
仄かに微笑む。
「桜海、余震が来ても心配だ、あまり俺から離れるなよ」
『はい、兄様』
あと少しだけ、と言葉を添えて、彼女はまた、鞍馬の山々に視線を投げた。
本殿へ戻る義政の気配を背中に感じながら、ゆっくりと瞼を伏せる。
『巌勝様…』
継国までは、遠い。
少なくとも、彼女には、すぐに縮められる距離ではなかった。
継国さん。第五話:山神様・完
第六話へ続く。