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第五話:山神様

・伍・
 ~躑躅の章~


「どうやら、話す価値はありそうだな」

 双雲(そううん)が長い息を吐きながら、呟いた。

「勝ちゃんも、お前達と同じだった。納得していなかったんだよ、その結末に」

「どう考えたってそうですよね? 謎が残ったままだ」

 兄の言葉に、双雲も頷く。

 ふと、巌勝(みちかつ)の隣にいた行冥(ぎょうめい)が、何度か手帳をペンの先で突いた。巌勝がその様子にしばし口を噤んだのを見て、縁壱(よりいち)も、纏めた文字の羅列を何度も読み込む彼の眼差しを追う。

「聞いてもいいでしょうか」

 行冥が顔を上げた。

「無論」

「俺たちのことだから察するだろうと…諸々話を端折(はしょ)られたなら、確認になるのですが」

 双雲の口角が上がった。まるで教官のような顔付きになった彼に、行冥が一層真面目な面持ちで言う。

「冬の継国(つぎくに)は、他に登山客がいなければ密室と同じです。明らかな事故じゃなければ、祐子(ゆうこ)さんが殺したと思うのが我々にとっては無難ですよね」

「そうだな」

「でも、当時の警察は、馴染みのある二人のことは、疑わなかった…?」

 双雲は何度か軽く首を縦に振りつつも、最後は、

「そんな訳なかろう。儂(わし)たちばかりじゃない、当時はあの権藏(ごんぞう)氏も、祐子さんを追求したよ。政治的立場を利用して世間から抹殺しようとするのを、止めるのに散々苦労してな」

「…」

「だが先程も言ったが、祐子さんは龍仁(りゅうじ)くんの手を取ってる。彼女が『私が手を離した』そう言っても、繋いだままでは彼女も転落死は免れなかった。装備が壊れていたからな」

「だから、その一言は、やむを得ずと受け取られた」

「そうなるな」

「とすると、壊れていた装備に目が向きますよね…?」

「うむ。ここもやっぱりさっきの話に戻る。祐子さんは普段名古屋だ。龍仁くんと合流したのは継国のロープウェイ山頂駅。桜町(さくらまち)で前泊し、その時の宿帳、そこまでの交通機関のレシート、駅の防犯カメラ、引いては名古屋を出た時のカメラまで調べて、証言と時系列に偽りのないことを証明している」

「つまり…龍仁さんの装備に手を出す暇など、なかった」

「そう。そこで、だ」

 双雲は腕を解いた。

「装備が欠陥品だったのは、元々の古さ故ではなく、あくまでも、細工したと仮定するならば。したのはむしろ、さな枝(え)さんではないかと疑いが向き始める」

「妥当な流れですよね?」

「そう。そうして権藏氏は、手を引いた。あっさりとな。まさか娘に嫌疑が向けられるなど思いもよらなかったんだろう。だが、何か思う所でもあったのかも知れん。その後一転して、権藏氏は、この件を事故として片付けようとした」

「それに、警察も同意した…?」

「そうだ。装備からは、一切、さな枝さんの指紋は出なかったからだ。あったのは、龍仁くんのそれだけでな。ザイルに至っては、祐子さんが龍仁くんを助けようとした事実が証明された」

「転落した彼を引っ張り上げるために、咄嗟(とっさ)にザイルを掴んだから…?」

「その通り。祐子さんの手袋の繊維が絡まっていたんだ。その向きが間違いなく、落ちていく龍仁くんから自身に向かって引き摺られていたもので、祐子さんの手袋の損傷とも一致が見られた」

「…」

 二人のやり取りを聞いていた兄が、深々と溜息を吐いた。

「結局、事故…ですか」

「そうなる。実際、そうなった。登山時の装備の確認不足は本人の問題だ。それを怠った、龍仁くんの責任と結末。と。言うことだな」

 一行は、また沈黙を招いた。長い溜息が誰彼となく漏れて、上体が揺れた。

 だが、縁壱は、

『でもここまでは、解決したという、一連の流れだけ。真相に迫る部分が、まだ…』

 眉根を寄せる。

 双雲が茶を啜る音が響く。視線を感じて、面を上げた。

「さて、それでだ。勝ちゃんは、まだ、納得はしていなかった」

「! 続きが…」

 兄の言葉に、双雲が頷いた。

「言ったろう? 解決はしたが、真相には行き着けなかったと」

 指を三本立てて、

「謎は三つ。これはもう、いいな?」

 問いかけられて、巌勝が答えた。

「龍仁は本当に、壊れた装備に気付かなかったのか。祐子さんは何故『手を離した』と言い張ったのか。さな枝さんが装備を細工したのは確かなのか」

「そうだ」

 そこまで聞いて、縁壱には、何となく、真相が分かったような気がした。

 兄が言った疑問の答えを、自分は知っているからだ。だが、彼らはまだ、もう一つ、辿り着いていないことがある。

 果たしてそれは、

「どれに絡むのも、結局装備だ」

 兄が言った。双雲との問答が始まる。縁壱はじっと、ことの成り行きを見守った。

「そう。それで儂らはもう一度、鑑識に出向いて調べてもらったんだよ、装備を一から。そうして気付いた。無数にあるカラビナの一つにな、指紋を拭き取った跡があった。磨き残しという奴だな」

「!」

「だが…拭き取った跡なんだ。誰が拭き取ったのか、何故それをしたのか、理由が分からない。そうして勝ちゃんは更に、装備の一つ一つの購入時期を調べ始めた」

「執念ですね…」

「本当になあ」

 双雲はそこで、眼差しを和らげた。話半ばではあったが、その表情に、父を大切に…、信頼してくれていた様が伝わってくる。

「勝ちゃんはさ、龍仁くんのことも、祐子さんの事も、よく知っていたんだよ。山に登った帰りには、よく、神社に足を運んでいたらしくてな。二人とも」

 長い溜息を吐いて、瞼を伏せる。また、両腕が組まれた。

「さな枝さんとのことを知って、相当ショックだったみたいでなあ…そうして継国で死んだろう? 裏切られた気がすると」

「!」

 縁壱は息を飲んだ。

 兄が気付いてこちらを向くが、縁壱は何とも言えない表情で首を横に振った。まだ瞼を伏せたままの双雲の続きが、気になった。

「納得いくまで、調べたかったんだろうなあ…」

「それで…それで、何か出たんですか」

 兄が先を促してくれる。

 双雲は、確かに首を、縦に一つ振った。

「ああ。龍仁くんが残した荷物の中で、一つだけ、新しい物があった」

「新しい物…」

「もう、答えは出ているぞ? 今までの会話の中にな」

 しばし、時が流れた。

「あ!」

 と、巌勝が呻く。

「ザイルだ…!」

「ザイル…?」

 行冥が言うと、

「ザイルは縄だ。指紋や下手すると手垢…綺麗に拭き取ることは、不可能だからだ。ほら、拭き取った跡があったんだろう? カラビナに。金属製の装備は全て、拭き取ったとしたなら」

「あ…」

「その通り」

『全部…繋がりましたね…』

 縁壱は、胸の奥がひどく傷むのを感じた。

 双雲が言う。

「龍仁くんは、ザイルだけ新しい物に換えたんだ。そして、そのザイルに、自分で切れ目を入れたことになる」

「え? あ…確かに。んんん? ちょっと待っ…」

 巌勝が頭を抱えた。

 縁壱がとうとう、口を開いた。

「そして、古いザイルは…見つかりましたか」

 語尾を微かに問うように上げて言うと、双雲は、肩を落として首を横に振った。

「そのザイルにこそ、真実が隠されていただろうになあ…。そこで儂らも、諦めざるをえなんだ。結局真相は、藪の中って訳だ」

 縁壱も悲痛な表情で、一度俯いた。目を伏せ、拳を胸に当てると、深呼吸をして言う。

「全て…繋がりました。どうしてあんなに継国様が怒っていらしたのか…やっと。やっと、分かりました…」

「お前は答えが分かったのか」

 双雲の言葉に、縁壱は瞼を押し上げた。

 こくんと一つ頷いて後、

「古いザイルは、龍仁さんが、さな枝さんに渡しました。そして、言ったんです。


『後は全部、磨いた。縄はね、磨きようがなかったから。

 後はもう、チェックしたから。大丈夫だよ』」


「待て。それなら、龍仁はやっぱり全装備を確認して、それで、不十分なまま登ったことになる。死にに行くようなものだぞ」

 兄の言葉に、縁壱は頷く。

「だから、継国様が怒ったんです。自分の人生なのに、山に答えを委ねたから。誰より継国を愛してくれていたのに、責任を転嫁したから…!」

「そういうことか…!」

「ええ。龍仁さんを殺したのは、さな枝さんでも祐子さんでもない。山神様…継国様(神の吐息)ですよ」



「勝ちゃん」

 双雲は、一行を見送った後で庭の松の手入れを始めた。

 盆栽と言うには大きな松が、少し、風で揺れる。

「お前さんの二人の息子は、立派に継国を支えているよ」

 余計な枝を落とす鋏の音が、凜と響く。

「儂らが辿り着いた答えの先を行っとった。あの縁壱とか言う弟は、神主として申し分がないようだな」

 風に揺れた松の葉が、涼しげな音を紡いだ。

 双雲は天を見上げ、

「四十三年も経って、真実に辿り着くとはなあ…。まさかなあ」

 何とも言えず吐息が漏れた彼の耳に、

「先生~!」

「こんにちは~!」

 子供達の声が届いた。

「お。もうそんな時間か。昼飯が後になったな」

 刑事の顔から好々爺のそれになって、慌てて室内に戻る。

 縁側で見守っていた倫子(みちこ)が立ち上がり、

「お疲れ様でした。あなた」

「…本当に。すっきりしたよ!」

「ふふ!」

 二人で子供達を迎えに行く。

 あっという間に神々廻(ししば)邸は、子供達の明るい笑声が響き渡る、教室と化した。



 幌(ほろ)に包まり、荷台に寝転がった巌勝は、頭の後ろで腕を組み、しばらくは、流れていく空を何気なく見上げていた。

 もう、天が高い。あっという間に、継国には冬がやってくるだろう。そうして冠雪すると、今はもう、殆ど誰も登らない、静かな刻がやってくる。

『自分の人生、か…』

 縁壱の言葉を反芻し、何とも言えない気になる。

 こんな風に、ただ流されるのをたまには選んでは駄目なのだろうか?

 時にはルーレットを回して、遊びたくもなる。そんな選択肢があってはならないのだろうか?

『少なくとも継国の山の神は、己(おの)が聖域では赦さなかった、か…』

 なかなかに手厳しい。

 巌勝は瞼を伏せた。運転席から聞こえてくる、縁壱達の会話に耳を傾け、幌を被る。


「すみません、俺…まだよく分からないんです。うまく、全部、繋がらなくて」

 矢琶羽(やはば)の言葉に、行冥が「無理もない」と呟き、縁壱も頷く。

「女心はね。なかなか怖いものですよ」

「…はい?」

 ますます疑問の深まった様に、縁壱が悪戯っぽく笑い、

「まあ…時には、見て見ぬ振りも必要だったりしますがね」

「妻帯者は違うな」

「え!? 縁壱さん、結婚してるんですか?」

「子供もいますよ。これがまた、可愛くて」

「話がずれてるぞ~!」

 外から巌勝の声が響いて、三人は笑った。

「そうですね…勇仁(ゆうじ)くんとは違いますから。正直に話しましょうね」

「…ありがとうございます?」

 語尾の上がった矢琶羽に、また、残る大人が笑った。

 縁壱は行冥を送るべく、桜町署への道をのんびり辿りつつ、

「龍仁さんが二股をかけていたのは、もう、分かっていますね?」

「あ、はい…」

「多分彼は、祐子さんの事を心から愛していたのだと思います。ですが…、石原家の肩書や財産に目が眩んで、その後、さな枝さんとも婚約をして、結局…山からも二人からも見捨てられた、と言うことになりますかね」

「ちょっと、それ…」

 縁壱も、何とも言えない笑みを浮かべはし、

「山神様は、龍仁さんの足元に息を吹きかけました。きっと…祐子さんにも、最期の選択肢を与えたのでしょう。もしかしたらそれは、復讐の機会であったかも知れない。祐子さんは彼にさな枝さんの影を、もちろんさな枝さんも、彼に祐子さんの影を見ていたでしょうから…」

「え? でも、当時の事情聴取では」

「そうですね」

 縁壱は真顔になって、

「多分二人は、…女の勘ですかね? 絡み合った偶然を知って、お互いに刑事の目を自分に引きつけておいて、結果、お互いを隠匿(いんとく)したんですよ」

「あ…」

「何の接点もなかったのです。二人がそれぞれ抱いた想いを閉ざせば、繋がりようがない。さな枝さんは、龍仁さんの心がいつまでも祐子さんの元にあるのが許せなくて装備に細工をし、祐子さんは、助ければさな枝さんの元に行く龍仁さんを許せなかったから、」

「手を、離した…」

「ええ」

 縁壱は、新胡桃市の大通りを、桜町の大通りへと続く道を辿り始めた。

「きっと、神々廻さん達に事情聴取されるうちに、彼女らは、互いに互いがしでかしたことを理解したんだと思います。でも、証拠は何もない。口を閉ざせば、全部悪いのは、結局、龍仁さんと言うことになります」

「…でも。ちょっと待って下さい」

 矢琶羽は縁壱を見た。

「それならなんで、祐子さんは亡くなってからあの山に? それに、自分が手を離した、って…」

 縁壱も行冥も、口を閉ざす。矢琶羽は更に言った。

「未練があったから、山に登った(戻ってきた)んですよね? 祐子さん、お話しされてました。龍仁さんに会うんだって。約束だって」

 縁壱は、信号に捕まったところで、矢琶羽の方を向いた。

「それはね。君が見つけなければならない答えですよ」

 また、前を向く。

 緩やかに走り出したトラックに、しばし、無言の時が流れた。

 やがて、桜町署まで後数十メートルというところで、

「…あ」

 矢琶羽が、気付いたようだった。込み上げてくるものを堪え、俯き、じっと、息を整える。

 桜町署の前でトラックが止まり、行冥が開けようとした時、矢琶羽は口を開いた。

「きっと、後悔してたんですね。祐子さん。手を離したこと」

 縁壱と行冥が、彼の頭上を越えて視線を交わした。それから同時に、矢琶羽を見る。

「きっと、本当は…助けたかったんだ。赦して欲しかったんだ、龍仁さんに。だから、勇仁を巻き込んで…あの日をもう一度…」

 行冥が矢琶羽の腿をぽんと叩き、トラックの戸を開けた。

『そう受け止められるのは、貴方が優しいからですよ、矢琶羽』

 縁壱は、彼の頭に軽く手を乗せて後、行冥に手を振った。

『もしかしたら、今度は、一緒に死のうとしたのかも知れない。そういう選択肢だって、あったのですから』

 荷台から物音がする。

 幌に隠れていた兄が身を起こしたのだろう。

『全く。悲鳴嶼さんも兄上には甘いんですから。刑事でしょう、貴方!!』

 面倒臭そうに後ろ手に振った行冥を見ては、縁壱は思う。が、兄は何食わぬ顔で助手席の扉を開けると、

「さ。継国へ帰ろう」

 乗り込んできた。

『もう…しようのない方々ですね』

「…はい」

 縁壱はほろ苦い笑みを零すと、エンジンを掛けた。

 隣で矢琶羽が答え合わせをするように巌勝を見上げ、そんな彼を兄が笑顔で受け止めたのを、縁壱は、とても嬉しく思う。

 トラックの奏でるディーゼル音が、一際明るくなった気がした。

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