第五話:山神様
・伍・
~椿の章~
受付は継国(つぎくに)の名がある巌勝(みちかつ)に任せ、共にお焼香を済ませる。式が始まる前だった。
『祐子(ゆうこ)さん…』
棺(ひつぎ)の向こうに、船を漕ぐ彼女がいた。宙に浮き、飾られた花輪に寄りかかって膝を抱えている。
老婆ではなかった。自分と同じくらいの歳の、麗しい乙女だ。
絹のように滑らかな髪が、船の揺らぎに合わせて嫋やかに流れている。薄水色のワンピースはお気に入りだったのだろうか。フレアになっていて、真下の花輪に裾が掛かっていた。
「祐子さん」
棺を挟んで、話しかけた。
周りに声が聞こえそうだったが、構わなかった。巌勝が傍にいてくれることが、とても心強かった。
彼女は少し身じろいで、ゆっくりと目を覚ました。
『…矢琶羽(やはば)くん』
こちらに気付いて、乙女が嬉しそうに微笑んだ。
『ああ、綺麗だ…』
笑顔に、つい、そんな事を思った。目頭が熱くなった。
『良かった。本当に。良かった…』
腕で目元を隠す。
彼女はふわりと身を浮かせて、己の棺に腰を掛けた。
まだ面を上げられない自分の頭には軽く手を乗せて後、
『豪快に斬ってくれちゃって。んもう』
「赦せ。仕方ないだろう、あの場合」
『ふふ! そうね。…ごめんなさいね、矢琶羽くん』
小さく身を震わせて、面を上げる。
『あの人の…龍仁(りゅうじ)さんの靴音がね、聞こえたの。継国の山を踏みしめる、頼もしい音…』
彼女は懐かしそうに瞼を伏せて、少し首を傾げた。
『出逢った時ね、この格好だったのよ』
「祐子さん…」
『たまたま、レストランで相席になって』
「小さなそれしか、なかったんですもんね」
『そう。相席なんて、当たり前。今じゃ考えられないかも知れないけどね』
矢琶羽は泣きそうになる思いをぐっと堪えて、小さく笑った。
『その時言われた第一声が、「そんな格好で登ってきたんですか?」って。普通、こんにちは。とかご機嫌よう。とか挨拶からじゃない?』
「あはは」
祐子も笑みを重ねた。
棺を降り、手に手を取って見つめてくる。
『矢琶羽くん、沢山の優しさをありがとう。貴方の言ったとおりよ。本当は、嬉しかったこと、楽しかったこと、沢山あったはずなのに。私…』
「祐子さん…」
『もう、醜い感情には負けないわ。大丈夫。ありがとう!』
矢琶羽は嗚咽混じりで深呼吸をすると、とびきりの笑顔を見せた。
「いえ! 今度はきっと、幸せに!」
『うん! ありがとう!』
彼女がそっと身を寄せて来、額に口付けた。
どきっとして、見上げる。無邪気な笑顔が最後まで、印象的だった。
「…あ!」
「未練がなくなったんだ。逝かせてやれ」
声を上げた自分に、巌勝が囁く。
手を振り天へと上がっていった彼女は、胸がすいたようだった。自身の葬式を見るつもりもなく、真っ直ぐ昇っていく。
「もっと色々、話したいことがあったのに」
「…」
「あの笑顔を見たら。全部。言葉…吹っ飛んじゃいました」
「そう言うものだ。死者との別れはな。いつだって」
さ、俺たちも。と声を掛けてきた巌勝に、頷いて後を追う。
「巌勝さん」
呼び掛けて、「ん?」と身を捩る彼に、
「ありがとうございました!」
告げると、彼は、笑顔を見せた。
二人、縁壱(よりいち)が待つトラックに向かう。
巌勝はネクタイを外しながら、矢琶羽をちらりと横目で見た。
「お前も一緒に行くだろう? 話聞きに」
「はい。構いませんか?」
真っ直ぐ見つめてきた彼に頷いて、
「もちろん。気になるだろうし、聞かれて後から説明するのも同じだしな」
スーツの内ポケットに、丸めたネクタイを仕舞う。
「確かに」
という、矢琶羽の苦笑いが聞こえ、巌勝は、辿り着いた運転席の窓を叩く。
「待たせたな」
声を掛けた。
俯いて何かを操作していた縁壱が、面を上げた。スマートフォンを弄っていたようだった。
「お帰りなさい」
呟きを聞いてから、トラックに乗り込む。矢琶羽を真ん中に、巌勝が窓際に腰を掛けると、縁壱が言った。
「悲鳴嶼(ひめじま)さんが神々廻(ししば)さん宅で合流するそうです」
スマートフォンを掲げる。
「どうやら先に話を通してくれたみたいで」
「さすが! 悲鳴嶼」
「ふふ!」
縁壱が笑顔を見せた。その様子に巌勝は、窓に肘をついて頭を乗せ、トラックを走らせ始めた弟を見る。
「溜飲は下がったか」
尋ねると、彼は、少し困ったような顔を見せはした。
「まだ…勇仁(ゆうじ)くんが来たらどうしようと、悩ましい思いは消えません。ですが、その時の為にも、ちゃんと、向き合っておこうとは思いまして」
「そうか」
巌勝は、安堵の吐息を漏らし、彼から視線を外した。
流れていく胡桃(くるみ)の高層ビル群を、何気なく目に収める。
「兄上は…いつも。こんな風に向き合っているのですね。死者と」
「生きていても死んでても。悩みは尽きないようだ」
「! ホントですね」
縁壱が、くすりと笑みを零した。
トラックが、少しスピードを上げた。軽快なディーゼル音が響いて来、巌勝の表情が少し和らぐ。
流れていく景色はやがて胡桃市の外れに移り、住宅が並ぶベッドタウンに差し掛かった。
そこをも外れて更に走ると、次第に長閑(のどか)な田園風景が見えてくる。
「新胡桃市の外れは、まだ田舎だったんだな」
「兄上もこの辺へ来るのは初めてで?」
「ああ。もう少し行ったら県を跨ぐだろう」
「どうもそのようです。町外れの書道教室だそうで」
「へえ…隠居生活か。いいな、羨ましい」
ぼそ、と本音が零れると、縁壱が、見上げてきた矢琶羽と顔を見合わせたのをちらりと見る。二人、似たような表情をしていた。
「ここです、神々廻邸」
漆喰(しっくい)の塀に囲まれた、相当な敷地を持つ豪邸だった。山門のような門戸の前に、トラックを止める。玄関脇には、既に到着していた行冥(ぎょうめい)が佇んでいた。
「悲鳴嶼」
助手席を降りるのが早いか、巌勝が明るい声で呼ぶ。
「いつもすまないな、頼りになる」
「乗りかかった船だからな、仕方ない。勇仁だが、今頃玄弥(げんや)が両親に引き渡しているよ」
縁壱、矢琶羽も合流し、挨拶を交わす。それを見届けてから、
「勇仁。石原邸には戻らなかったのか」
「今日はな。すぐまた家を出るにしても、ひとまず、俺たちは両親に引き渡すしかない」
「あ。そうだよな」
行冥がインターフォンを押した。
すぐに返答があり、アポイントメントを取っていることを彼が告げる。
間を置かず、屋敷の方から足早に駆けてくるサンダルの音が聞こえた。程なくして、門戸の閂(かんぬき)の外れる音が、向こう側から聞こえてきた。
「ようもここまで。いらっしゃい」
老齢の女性だった。
「初めまして、倫子(みちこ)さん。悲鳴嶼行冥です」
どうやら彼女は、双雲氏の奥方らしい。
巌勝達も挨拶をすると、門を潜り、手入れされた松の庭園を横切って、玄関に向かった。
濃紺(のうこん)の着物、山吹色(やまぶきいろ)の帯を締めた亭主、神々廻双雲(そううん)が出迎えてくれる。刑事を引退して何年か…その面構えはとても柔和で、歴戦の刑事だとは想像が付かなかった。
巌勝達はまた名乗り、
「よう来たな。おうおうお前か、悲鳴嶼行冥ってのは」
彼の相好が崩れた。
「儂(わし)のところまでお前の名は届いてるぞ。ま~あ手に余るようだな! 双子だし。二人分か」
導かれるままに軒を上がり、奥座敷へ案内されながら、
「継国神社(つぎくにさん)に関わる刑事はどの世代にも必ずいてな」
とうとう行冥の表情が、苦虫を噛み潰したようになった。
後ろで顔を見合わせた双子は、思わず肩を揺らす。
それは双雲もそうだったようで、
「ま、諦めろ」
豪快に笑った。
座敷に着くと、順に並んで双雲の前に正座をした。彼の一声で足を崩しはするが、背筋は伸びたままだった。
間を置かず、倫子が茶を運んでくる。切り揃えられた羊羹に添えられた楊枝が竹でできていて、尻に施された意匠に品の良さが感じられた。
「不思議な事件だったんだよ…」
双雲は、着物の下で腕を組みながら目を閉じた。順を追って思い出しているのだろう、しばらく置いて後、目を開ける。
「親父さんからは、何か聞いてるか」
双雲の瞳がこちらを向いて、巌勝は、
「いえ、特には…ただ、唯一解決できなかった事件だと。悔しそうな様が今でも浮かびます」
「! そうか…お前達にはそう話したのか」
思わず、巌勝は縁壱と顔を見合わせた。
双雲が言う。
「解決はしたんだ。だが、真相には辿り着けなかった」
「!」
「それが、正解だな。…弟の方は、何か思うところでもありそうだが?」
話を振られ、縁壱は何とも言えない顔になった。
「あ、いえ…同じ事を、実は…継国の山神様(やまがみさま)に言われまして」
「ほう」
「このままだと、勝家(かついえ)と同じだと」
「そうか…」
双雲は遠く視線を飛ばして、
「なら、儂の見解は取り敢えず置いておこう。当時のことを話す」
「はい」
四人は、真摯に耳を傾けた。
「まず、亡くなった龍仁くんだが、彼の荷物を調べると、幾つか細工してある様子が見られたんだ」
双雲は腕を解き、一つ一つ、数えるように言った。
「カラビナの噛み合わせの悪さ、ザイルに入った切れ目、ピッケルの螺子(ネジ)の緩み、アイゼンの棘の丸み。まあ、他にも細々とな」
「それって…」
「ああ。龍仁くんが気付かないはずはない」
双雲は、また、腕を組んだ。
「彼と、その時一緒に登攀していた祐子さんは、継国山域は何度も踏破しているベテランでね。警察の覚えも良かった」
「…」
「彼らは毎回、ちゃんと登山届けを出していたんだよ。何度も継国に登るから、チケットも回数券だったしな」
「回数券には、何か、意味が?」
「当時、回数券は警察でしか買えなかったんだ」
「え」
「ロープウェイのだぞ? そんな頻繁に利用する訳がなかろう。登山に関係することはわかりきっていたから、勝っちゃんの…あ、お前達の親父さん。勝家だな」
「「勝っちゃん…」」
双子の声が揃った。
双雲はさもおかしそうに肩を揺らして、
「奴の親父さん…お前達にとっては祖父か。がな、ルールを決めたんだ。ロープウェイの窓口で回数券購入の申し出があった場合、桜町(さくらまち)警察署か県警に行って購入するよう話すこと。って」
「そうだったんですか…」
「だから自然と、山に登る面子は覚える訳だよ」
「なるほど」
「中でも龍仁くんは、毎月継国に登るほど心酔していてね。一つ目の疑問は…」
「なぜ、そんな装備で山を登ったのか…」
巌勝の答えに、双雲が頷いた。
表情が引き締まり、
「二つ目。祐子さんの証言だ」
「それは、事故直後の?」
「そう。亡くなる直前に、祐子さんは、龍仁くんの手を取ってる。カラビナが傷んだ物と交換されてなければ、まあ、ザイルやピッケルもだが。恐らく、這い上がってこられたと思うんだよな。だが、祐子さんは、こう証言した」
『私が彼の、手を離したんです』
「…」
「しかしね、彼の手首には、しっかりと祐子さんの手の跡がついていたんだよ。死後硬直まで残るほどにね。離したなんて、考えられない」
「…ぶら下がって、時間が経っていたら…? しかも、冬の継国は氷点下ですから…」
呟いた縁壱に、双雲が視線を投げた。
「もしかして、それも山神か?」
双雲は、話が早い。やはり勝家(父)の相棒なのだと巌勝らは思った。
「そうだな…もしそうだとして、なら、なんで手を離した?」
一行は、口を噤む。
「そして、三つ目」
「まだ…あるんですか」
今度は行冥だ。後学のためだろう、彼は、メモを取りながら話に聞き入っていた。
双雲は首を縦に振って、
「実はね、二人は県警でも有名なカップルだったんだよ」
それには、縁壱以外が驚いた。
「ただの、登山のパートナーではなくて…?」
巌勝の問いに、双雲が首を横に振る。
「亡くなる一年以上も前に、龍仁くんは、婚約指輪を祐子さんに渡してる」
「一年以上も前って、ちょっと俺には理解が…」
巌勝が言うと、
「だろうな。勝っちゃんも同じようなことを言ってた。で、分かったんだ。彼には別の婚約者がいたこと」
「「!」」
「それが、旧、胡桃市長の石原権藏(ごんぞう)の娘、石原さな枝(え)さんだったんだよ」
「もしかして、三角関係の縺れ…」
「と、思うだろ。で、その辺も調べたし彼女らの証言も取ったんだがな。祐子さんもさな枝さんも、互いに互いを知らなかった。互いの立場を知っては泣き崩れて、まあ、見るも無惨でな…」
「…」
「二人とも胡桃市の生まれだが、祐子さんの方は育ちも仕事も名古屋でな。普段はここにはいなかったんだ。一方、さな枝さんは、プライベートには監視がつくほど難があるお嬢様だ」
「二人が出逢うはずもなければ、知るはずもない、と」
「そう。龍仁くんが、話さない限りは」
しん…と、辺りが静まり返った。
それまで気付かなかった、庭の鹿威(ししおど)しの音にはっとする。
双雲が続けた。
「結局北ルートの事故は、事故で片付いた。権藏氏は怒り狂ったが、まあ、当然だな、娘婿が死んだんだから」
「その後、北ルートは届け出がないと登れなくなったと聞きました…」
縁壱の言葉に、双雲は頷いた。
「権藏氏がそうさせたんだ。二度と同じ事故が起きてたまるかってな」
話は終わり。と言うような口調になった双雲に、一行は、厳しい顔付きになった。まるで納得のいかない彼らの表情に、双雲が、口の端を上げる。
「どうやら、話す価値はありそうだな」
双雲は長い息を吐きながら、呟いた。