第五話:山神様
・肆・
~椿の章~
「勇仁(ゆうじ)さん。真実を知ることが、全てではないのですよ」
それは、ついこの間も、感じたことだった。
鬼灯旅館――――。
縁壱(よりいち)は、一度、兄を見上げる。
巌勝は、優しい眼差しで一つ頷いてくれた。まるで、「お前の思うようにすればいい」そう、言ってくれているようだった。
『兄上は、奏愛(かなえ)さんには伝えなかったと教えてくれました。鬼灯入りの、ホットミルク…』
彼女が最も信頼していた義母(はは)は、彼女にそれを飲ませたのだ。
その昔。鬼灯は毒薬でもあった。堕胎剤だ。
そうして、奏愛の腹の赤子にとどめを刺した――――。
「それが原因かも知れないし、違うかも知れない。
本当は、井戸に落ちた時には既に、失っていたかも知れない。
だが、お義母さんは念を押したんだ。それを俺が、傷ついている彼女にわざわざ、あれ以上伝える必要があるか?」
『兄上…』
瞼を伏せて兄を思う。耳に、勇仁の声が届いた。
「知りたいと、思っても?」
「ええ」
縁壱は瞼を押し上げて、
「そうですね…昔話をしてもいいですか?」
彼が、そっと頷くのを見る。
縁壱はゆっくりと、話し始めた。
「私がまだ、十一の頃でした。母が病で亡くなりましてね」
「…」
「でもその頃、兄は、私を病室に連れて行ってはくれなかったんです」
「えっ?」
彼の表情に、縁壱は小さく笑う。
「母が亡くなった後、だいぶ恨みましたよ。『母上に逢いたい、逢わせてって言ったのに、どうして逢わせてくれなかったの』と。まああの頃は…恨めしそうに兄を見つめるしか、できなかった私ですが」
「けどそれは、そうなるんじゃ? 看病している時も、会わせてもらえなかったって事でしょう?」
「はい」
縁壱は、穏やかな眼差しで彼を見つめた。
「ですが、何年も経って、ある時…分かったんです」
目を閉じて、胸に手を当て、微かに首を傾ける。
「私の中にある母の記憶は、今でも、優しくて、笑顔で、温かい手で私を包んでくれている…」
そうして視界を得ると、勇仁に満面の笑みを見せた。
「その、面影だけなのですよ」
「どういうこと、ですか…」
「棺桶に入れられて戻ってきた母は、深く皺の刻まれた、年老いた顔でしてね…最初は誰なのかと分かりませんでした。後は花に包まれて見えないように美しく彩られ、安らかな寝顔で横たわっていたんです」
「…」
「兄は何も言いませんが…母の死の間際、看病していたのは、兄上でした。兄は、見知っていたんです。病で憔悴していく母、薬でぼろぼろになっていく身体、記憶が混在し暴れる様。癌でしたからね。四年…病床にいました。末期に差し掛かっていた投薬治療は、相当、辛かったはずです。家族、みんな」
「あ…」
得心したような彼の顔に、縁壱は首を縦に振った。
「父は私をなんやかやと社に留め置き側にいました。兄は、母を私には見せたくなかったのでしょう。母が大好きだった私に、兄は、母の優しい記憶だけを、取っておいてくれたんです」
「けど、お兄さんは…」
「そうですね。兄に残った母の最後の記憶は、衝撃的で、辛いものばかりだと思われます。ただ、そのことについては何一つ、言わなかった。今でも、何も語りません。あの時も、『これが母上?』と、信じられずにただ呆然と立ち尽くした私を抱き締めて、『ごめんな』と」
「…」
「いいですか?」
縁壱は、真っ直ぐ勇仁を見つめた。
声色の変わった己に、彼も、真摯に見つめ返してくる。
「私にも、未だに答えは分からないのです。何が正しかったのか。あの時…、死に直面した母を瞼に焼き付けてでも逢った方が良かったのか、それとも、兄の取った行動こそが正しかったのか」
「縁壱さん…」
「ですが、確実に言えることがあります。兄は私を心底大切に思い、傷つけずにいてくれ、そして、私の母の記憶は、美しいままだと言うこと」
「俺が爺ちゃん達の秘密を暴くことは、もしかしたら…」
「ええ」
縁壱はまた、いつもの柔和な面に戻った。
「貴方が私と同じ、知らぬ美しい道を辿るか。それとも、兄上と同じ、辛い真実の道を辿るか。それは…貴方が決めることです。今、貴方を止める人は、いませんからね」
「縁壱さんも、止めないんですか…?」
「お伝えしたとおりなのですよ。私には、未だに答えが分からない。ただ、兄が、より良い道を選んでくれたのだとは分かります。私はね、そんな兄が…とても。大好きなのですよ」
「…」
「もう一度、よく考えていらっしゃい。その上で出した答えなら、私も。覚悟を決めましょう」
「…はい…」
やがて勇仁は、行冥(ぎょうめい)に連れられて先に山を降り、一緒に桜町(さくらまち)の旅館に泊まることになった。彼が話した通り、両親は県外におり、迎えに来るにも日付の変わる頃になるからだ。
警察関係者が去った後も、立ち上がろうとしない縁壱に、巌勝が歩を進める。
「縁壱」
静かに呼び掛けると、弟は、今にも泣きそうな顔で「兄上」と呼んできた。
「…」
『見えない理由。見たくない理由』
巌勝は、鬼灯旅館の、あの執事との会話を思い出した。
『お前の原点も、ここだったのか…』
生まれ変わった縁壱は、あの頃とは違った。
もし見えていれば、医療の発達した現代だ、母は今度は、もっと早くに救えていたかも知れない。
だが、見ると言う特別な行為は、あの頃の意味をなさないまま転生した。神の悪戯なのか、閻魔の同情なのか――そうして縁壱は、見ることを確かに拒んでいるように思える。
それはきっと、その後の、自分たちの顛末が――――。
「縁壱…」
見えれば見えたで。
見えねば見えぬで。
弟は、まだ、苦悩の中を彷徨い続けている…。
巌勝は、そっと、縁壱を懐に包み抱き締めた。
声を押し殺して泣き始めた弟に、巌勝は、ぽんと頭に手を乗せる。ゆっくり撫でた後、背中を丸めると、自身の手の甲を通して、額を彼の頭頂に当てた。
『ごめんな』
――俺も、何も、分かってなかった。
あの頃の、お前の、苦しみ――
『今度はちゃんと、傍にいる。二度と離れたりしないから。だから…』
一層、縁壱の肩が、震えた気がした。
姉妹がいるため社務所(しゃむしょ)に戻ると言い張った縁壱をその場に残し、巌勝は、矢琶羽を古書堂に誘った。彼もまた、失意の底にいたからだ。
今回の事に関わった者達全てを見送って、巌勝は、矢琶羽を伴い最後に、残ってくれたスタッフ達と共にゴンドラに乗った。
遠ざかる継国の景色を眺め、矢琶羽が、
「俺…選択を間違えたんです」
「選択?」
「きっと、あの時…引き返していれば」
それは彼のみぞ知る事ではあった。だが、巌勝は察して、少し明るめの声で返す。
「お前は何か、勘違いをしているな」
「…え?」
「俺が斬ったのは、雪女だぞ」
「あ? え? ええ、そうですね、そうです…?」
呟きに、巌勝が笑声を立てる。腕を上げて手首の時計を見るとほっとした様子で、
「山を降りたらタクシーで、新胡桃のモールに行こう」
「…は?」
「その格好では、葬式には出られんだろうが」
矢琶羽はますます怪訝な顔付きになった。
全く答えの分からない彼の様子に、巌勝はいよいよおかしそうに笑って、
「祐子(ゆうこ)さん」
「…祐子?」
「ああ。お前が助けたいと願った御婦人。『宇梶(うかじ)祐子』さんと言うそうだ」
「え? はい? いつの間に?」
「お前達が勇仁と話している間にな。俺の方は刑事の悲鳴嶼(ひめじま)と話してたんだ。彼が過去のデータを洗ってくれた。石原龍仁(りゅうじ)の死の間際に立ち合った女性。『宇梶祐子』さんだそうだ」
「…あ、なる…」
「明日葬式じゃないか?」
「! あ、はい、そうです。え、なんで」
「だから、悲鳴嶼に…」
「あ…」
矢琶羽がやっと、苦い笑みを零した。
硬い表情が解けて、巌勝も胸を撫で下ろす。
「最初の話に戻るぞ? 俺が斬ったのは、雪女だ」
この若者もまた、これから幽世(かくりよ)に関わっていくのだろう。まだ京(みやこ)の『死渡(しと)』ではないが、彼女の側にいる限り、無縁ではいられない。
そう思えばこそ、答えを直接教えるのは控えた。自分で考え、自分で選択し続けていかなければ、幽世の死を渡り歩いていくのは、無理だからだ。
果たして彼は、
「はい…あ。そっか、祐子さんは、まだ、ちゃんと…」
「そう言うことだ。明日は連れて行くから、最後の別れをしてこい」
「巌勝さん…! ありがとうございます!」
巌勝は、笑顔で一つ、頷いた。
翌朝。
まだ準備をしている時分に、巌勝の自宅のインターフォンが鳴った。
「…誰だ?」
既に喪服に着替え終わった巌勝は、ネクタイを締めながら、ドアに出る。
「兄上。おはようございます」
「縁壱…」
いつもの格好で現れた弟は、もう、いつもの真顔だった。
ほっとしたような気もするが、ここまで来る辺り、嫌な予感もする。問いかけると縁壱も、問いを投げ返してきた。
「…葬式ですか?」
「ああ。祐子さんのな」
「そうでしたか…! 送ります。その後で、少し私に付き合ってくれませんか?」
話が長くなりそうだ、と、巌勝は、縁壱を招き入れた。
「お邪魔します」
と草履(ぞうり)を脱いで、奥へ上がった縁壱は、改めて、矢琶羽と挨拶を交わす。話が途切れるのを待って、
「で? 先に聞いてもいいか。なんで」
縁壱はソファに腰掛けながら、
「気になったんです。どうしても。四十三年前の事故」
「あの件、四十三年も前のことだったのか」
「ええ。昨夜神社に戻ってから、父上の連絡帳を確認してみたんです。ほら、父上…唯一解決できなかったって。話されてたでしょう?」
「ああ」
「当時あの事故の解明に携わった刑事。父上の相棒だったみたいなんです。『神々廻(ししば)双雲(そううん)』さん」
「神々廻…!」
「ええ」
巌勝が心底驚いて声を上げたのに、縁壱も微笑む。
その様が疑問に移ったのだろう、矢琶羽が尋ねてくるが、二人は顔を見合わせると、なんとも言えずに首を振った。
「いや。俺たちの悲鳴嶼みたいなもん、だな」
「ですね。その悲鳴嶼さんにお願いして、神々廻さんの事を調べて貰ったら、今は新胡桃市で書道教室を開いているそうで」
「名前に違わん職業だ」
巌勝が笑顔になると、縁壱も相好を崩した。
ふと、矢琶羽が準備を終えて、告げてくる。
巌勝は頷いて、
「分かった」
縁壱にも答えを返した。
「神々廻さんに、当時のことを聞きに行くんだな?」
「ええ、ええ…!」
縁壱も立ち上がる。
三人、玄関へ向かった。そこからは、縁壱が運転するトラックで、新胡桃市の葬儀会場へ赴いた。